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翌朝、男は自分の職場であるタクシーの中にいた。ついさっき出庫して、今は空車である。今日はどこを走るか、もしくはどこで待つかを考えていた。大抵は同じ通りを流すのだが、今日はなぜだかいつもと違う場所へ行きたかった。しかしどこへ行っても、この車の中で男が感じるのは憂鬱しかない。今日は特にそれが強かった。けれどもそんな男の気分など知るはずもない客は、にこにこしながら手を挙げる。もちろん乗せないというわけにはいかない。男は思わず舌打ちをして、それからふんと鼻を鳴らした。客は黒いスーツを着た壮年の男で、車に乗り込むなり、「新宿三丁目まで」と言ってそれきり黙った。こういう静かな客は、幾分か気が楽であった。


夕方になった。すでに何人かの客を乗せて走り、大分疲れたのでここで休憩をすることに決める。いつもの位置に車を停め、ラーメン屋で腹ごしらえをして、仮眠をとった。この時間ばかりは憂鬱な気分も少しはましになるのであった。そうして目が覚めた時には、辺りはすっかり暗くなっていて、また陰鬱な気持ちに戻る。稼ぎ時はこれからだ。しかし頑張ろうなどと意気込むような男ではなかった。稼ぎも増えるが、その分酔っ払いなどの性質の悪い客やおしゃべりな客も増えるのだ。男はそれが何より嫌だった。


この日、夜になって一番最初の客は西麻布で乗せた若い女性だった。「渋谷駅までお願いします」と言うので、なんだワンメーターかと心の中で悪態をついた。その次は男の最も嫌う性質の――快活によく喋る客であったので、男はここで気力を失い、都心から少し離れた場所に車を停めて客を待つことに決めた。

午前4時過ぎ、最後の客が降りた。あとは帰庫するだけだが、営収を確認すると、あと少しのところで足切りを越えていない。このままでは苦労して稼いだ分が会社にとられてしまう。軽く舌を打った。仕方がないので、客が乗ったことにして少し走ってから車庫へ向かった。自腹を切ることになるが、大した額ではない。収入がなくなるよりは遥かにマシだ。

帰庫したら急いで洗車を済ませて、乗務記録をつけに生暖かい室内へ入った。この時間もまた、男にとって苦痛であった。同僚たちの自慢話を聞かされ、また自分の営収を覗き込まれてあれこれ言われるからだ。それに、早く帰って眠りたいという気持ちもあって、余計に苛々する。

「もうすぐ寒くなるねえ、嫌だ嫌だ」

「そう?でも冬は夜の景色がいいじゃない。キラキラしてて」

「いや、流石ベテランは言うことが違うな」

男のすぐ傍にいた長身の男と中年の女が話し始めた。耳障りだと思いながら、男は話しかけられまいと作業に集中した。しかしそんなことはお構いなしに、男と同じくやや小太りな男が許可なく覗き込んで、

「ありゃあ、増田君、今日はサボってたのかい?」などと失礼なことを言う。

「ええまあ……」と増田は適当な相槌を打って逃れた。

――なんだって他人の稼ぎなんか知りたがるんだ!


早朝、男が家に帰ってきて部屋の鍵を開けているとき、丁度鈴木芳が部屋から出てきた。まだそれほど寒い時期でもないのに、マフラーに顔をうずめている。

「あ、増田さん」

やっと家に着いて眠れると思った矢先に声をかけられ、増田は眠気が吹き飛ぶほど苛立った。けれども長年客を相手にしていると、心より先に笑顔と言葉が出てくるもので、

「ああ、どうも、おはようございます」

「……朝帰り?」鈴木芳はにやっとした。

「仕事柄、この時間なんですよ」増田は平然と答えた。

「なんの仕事っすか」

「タクシードライバーです」

「へえ、タクシー……」

ピンと来ないという顔をした。増田は早く部屋に入りたかったので、ぺこっと頭を下げ、「失礼します」と言いながら部屋に入った。青年の足音が遠ざかって行くのが聞こえた。


青年が越してきてから一年が経った。男はこの青年の存在に大分堪えていた。今もまた、隣で会話しているのが聞こえる。

「芳、いくらなんでも汚いよ、これは。せめてこのゴミは捨てな」

青年のほかに聞こえるのは、中年の女の声であった。

「ゴミじゃねえし」

「ゴミでしょうこんなもの」

「やめろ、勝手に捨てんな。大体俺の家なんだからどうしようと俺の勝手じゃん」

「ああそう、じゃあもう学費払わないけどいいのね」

「はあ?なにそれ。なんでそういう話になるわけ?」

会話の内容から察するに、青年の母親が様子を見に来ているのだろう。

――やかましい奴らだ。

いくら薄い壁の向こう側であっても、会話のすべてが聞こえるわけではない。しかし、断片的に耳に入ってくるだけでも、男は耐えられなかった。怒りで手が震えた。男の頭の中をいろいろな悪口が巡っている間に、親子の会話は収束に向かっていた。

「―ああもう、分かったから。片付けはするよ。ただあれは……サークルで使うからさ」

「そうなの、じゃあ仕方ないねえ」

「あとは俺がやっとくから。ほらもう遅いから帰れよ、駅まで送るから」

遅いと言っても午後八時である。青年は明らかに母親を帰したいようであった。

「そう?じゃあ帰るけど……ちゃんとしなさいよ」

母親は珍しく気が利く息子に喜びつつ、名残り惜しそうに言った。

――大学生にもなって、みっともない。

男は悪態をついた。そして自分があいつくらいの年の頃は……と思いを馳せるのである。このごろ、男は青年の声が聞こえてくる度、さまざまなことに考えを巡らすようになった。けれどもこの男は、晴れていることには気付きもせず、雨が降ると途端に憂鬱になり、それでもなお、晴れた日の暖かさに目を向けられない人間である。だからいくら思案しようと余計に腹立たしさが増すだけであった。のみならず、胸にこぶし大の穴が開いたようなむなしささえ感じた。



さらに一年が経った。相変わらず青年の家には、友人や恋人がしょっちゅう出入りしていた。稀に家族の誰かが来ることもあった。このアパートには、独身の中年と、ひっそりと年金で暮らす者、また部屋からほとんど出てこない者しか他に住まないので、このように人を呼ぶのは青年ただ一人である。故に、男以外にも青年に対して嫉妬の情を抱く者はいた。しかしいざ対峙すると、誰もがその人当たりの良さと、楽天的で頭が空っぽそうなのに毒気を抜かれてしまうのである。そもそも、この家ではにこやかに挨拶を交わすこと自体が珍しいので、住民にとって青年の存在は眩しく、自らはその恩恵を受けている気分になるのだろう。―ただし、あの男のみは日陰から出ようとしなかった。そうしてついに行動に出るのである。


十ニ月に入って二度目の水曜日、青年は3限目の授業をサボって帰ってきた。ここ最近、ほぼ毎週この調子だ。他の曜日もしばしばこういうことがある。それでも一応、カードリーダーに学生証をかざしてはいるので、出席していることになっているはずだ。だから、単位を落とすことはないと青年は確信している。

青年はアパートの入口にある郵便受けを開けた。中にはよれた茶封筒が入っていた。古くさい字で宛名書きされており、差出人の氏名は書かれていない。青年は首をかしげた。寒中見舞いか何かだろうかと考えたが、直感的に、そういうものではないと感じた。嫌な予感がする。すぐに中身を確かめたい気もしたが、何が書いてあるかも分からないので、部屋に入って落ち着いて見ることにした。そしていざ封筒を開けようとして、封が糊付けされておらず、ホッチキスで留められているだけなのに気が付いた。こんな手紙を送られたのは、青年にとって初めてのことである。驚いたと同時に、やや嫌悪を感じた。字には見覚えがある気がするのだが、どうも自分の知り合いではなさそうに思えた。

手紙には「毎日、人が来てうるさく、眠れない。このまま続くようならば、家主に、然るべき処置を、してもらいます」という短い文章のみが書かれ、ここにも送り主の名前は書かれていなかった。

「……はあ?」

読み終わってから、思わず声が出る。それから、誰がこんな手紙を送ってきたのかを考えた。文面から、このアパートの住民だということは想像できたが、そのうちの誰かは分からない。部屋の声がうるさいと言っているので、とりあえず隣の住民のどちらかだと結論付けておくことにした。

翌日、青年は増田の部屋の扉を見て、早くも手紙の送り主があの男であることに気付いた。ほぼ毎日、目の端に映りこんでいる文字なのに、すぐに分からなかったのが不思議でならない。ほかの住民と比べて増田は愛想が良いので、考え付かなかったのだろうか。何はともあれ、送り主が分かったので青年は満足した。相手が比較的善良そうな増田であったので、少しは忠告に従う気も出てきた。今日も友達が来る予定なので、あまり騒がないようにしておこうと決めた。


ところがその二日後、青年の元にまた手紙が届いた。今度は便箋が二枚入っており、一枚は大家から、家族や友人を出入りさせるのを控えるようにという内容のものであった。それも、三人の住民全員から許可をとってあるのだと書いてある。

「なんだよそれ……昨日はうるさくないようにしてたのに……」

突然のことで訳が分からなかった。すぐに重なっていたもう一枚の便箋を見る。そこには「家主から禁止命令でました。人を出入りさせないようにしてください。」と、あの見慣れた字体で、淡々と書き付けてあった。体中から一気に熱が溢れてくる。頭に血が上ってきている。便箋は思いっきり握られた。汗も混じって、余計にぐしゃぐしゃになった。


――ざまあみろ!忠告したのに呼ぶからこうなるんだ!

青年が怒りで打ち震えているこの時、男はこの上ない優越感と満足感を手に入れていた。しかし時間が経つにつれ、また手紙を出したい気分になった。男は、もう二度と使わないと思っていた手紙道具一式を、引き出しの中から取り出す。さて、何を書いてやろうかと考える。そういえば、こうやって手紙を書くのは何年ぶりだろうか。そもそも、最近は手紙どころか文字すらまともに書いていない。書く必要もなかったし、書きたいとも思わなかったのだ。だから手紙も好きではなかった。それが今、どうしてこんなにも手紙を出したいと思うのか。

男は「部屋に人を出入りさせないでください。もし、出入りしているのを見つけたら、大声を出して、つまみ出す」とボールペンで一気に書きあげた。少し脅かしてやるつもりで、また本当にやってやろうという気概もこの時はあった。だが実際にそうなったとき、言葉通りにする勇気はないだろう。

男はそれだけ書いたら、便箋をきっちり三つ折りにして封筒に入れた。それから、封にはまたホッチキスを使い、隣だというのに、わざわざ切手を貼りつけた。なぜか直接郵便受けに入れようとは思わなかった。


さて、二日後にこの手紙を見た青年は、いよいよあの男の人間性を疑い出した。今まで気にしていなかったが、男の部屋の戸に貼ってある注意書きも、考えてみれば変であるし、そういえばあの男、性格の悪そうな顔をしていたようにも思う。本当なら今にも抗議しに行きたいところだが、ここで騒ぎを起こしたら本当に追い出される気がしたので、やめておいた。住民はあの男だけではないのだ。とにかく、認めてもらおう。そこで機嫌をとるため、謝罪の手紙を書いた。

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