隣人

阪上 清羅

1

男は複数人の声と物音とで目が覚めた。首だけ起こして時計を見ると、午前八時四十分であった。今日は仕事がないから、別に時間を気にする必要はない。時計を見たのは、自分が何時に起こされたのかを知るためだ。男は、場合によっては文句を言ってやろうと考えていた。考えるだけで実行には移さない。とにかく、目覚まし時計すら嫌う男にとって、他人に起こされたというのは非常に気に入らないことだった。それに、男が布団に入ったのは午前六時である。いくらもう若くないとはいえ、疲労した体にたったニ三時間の睡眠では満たされない。男は再度眠ることを試みた。しかし物音も声もまだ聞こえる。うるさいので眠る気になれない。いらいらしながら男は起き上がる。眉間にしわを寄せて、ただでさえ小さな目を更に小さくした。そして耳を澄まして物音の正体を探った。しばらくじっと聞いていると、部屋をつなぐ廊下の床がミシミシ鳴っているのが聞こえる。何者かに踏まれている。一人ではない。二人か、あるいはそれ以上にも聞こえた。さかさか歩くので何人だかわからない。男は、一体誰が来たのかと考えて、体半分を布団に入れたまま身構えた。ところが、足音は男の部屋までは来ないまま、隣の部屋の戸を開ける音がした。男はこれで正体に見当がついた。隣の部屋から、何か物を置く音と、話し声とが聞こえてきた。この会話の内容をよくよく聞いてみると、やはり男の予想通り。隣の空き部屋に新しい住民がやってくるようだ。


どのくらいか経って、トラックの走り去る音が聞こえた。やっと終わったかと男がほっとしたのもつかの間、不意に部屋の戸が叩かれる。男の眉間の皺はまだ暇をもらえないらしい。男は戸をじろりと見たが、動こうとしない。もう一度、コンコンという音がした。やっと重い腰を上げた。

戸を開けると、そこには知らない青年が立っていた。幼い顔についた大きな瞳が、男をとらえる。それが男にはたまらなく不快だった。短い茶髪の毛先が多方向にはねているのも、目についた。

「ども。隣に引っ越してきました。鈴木芳(よし)です」

そう告げながら、鈴木芳は軽く足踏みをしてみたり、髪の毛を触ってみたりと、落ち着きがない。顔だけは人懐こそうな笑みを浮かべたままであった。男は軽く会釈をして、

「ああ、どうも。増田です」

とだけ言った。眉間の皺は消えて、代わりにほうれい線がくっきりと表れた。

「おれ、実家から大学通ってたんですけど、なんか、親が何かとうるさくて。それで、バイト代貯めて一人暮らしすることにしたんです」

鈴木芳は、へへへ、と笑って、増田が相槌を打つより先に続ける。

「えっと、これ……あの、つまらないものですが。」

そう言って四角い箱を差し出す。増田は愛想笑いをして、一言礼を言った。

「じゃ……」

失礼しました、と言って短く頭だけ下げて、鈴木芳は帰って行った。


残された男は静かに玄関のドアを閉めた。と同時に愛想笑いをやめた。

――随分若いやつが越してきたな。しかもおれの隣か。

鍵をかけながら、男はふん、と鼻を鳴らした。それから部屋へ二歩ほど戻って、しばらくの間そこに立ったまま、若者から渡されたものを見つめる。包みの中は大方洗濯用洗剤か何かだろう。包みは開けずに机へ放り投げて、自分は畳の上にどかっと座り込む。数年前から出てきた腹が重なった。男はそんなことには頓着せず、近くに落ちていた新聞を拾い上げた。ガサガサと広げて見ると、「電撃結婚!」という巨大な文字が見えた。

――くだらない記事だ。

ふん、と鼻で息をついて、新聞を部屋の端に投げやった。

この男の一挙一動はガサツだが、部屋の中は意外にも片付いていた。というより、物が少ないので散らかりようがなかった。服は仕事用にスーツがあるのと、近所の弁当屋だとかコンビニに行くための最低限の私服があるだけだ。仕事柄、書類などが積み重なることもない。本やCD類も持っていない。ゴルフバッグや釣り道具も見当たらない。これといった趣味がないのだろう。

窓側にある机には、灰皿と煙草の箱、ライターが置かれていた。灰皿の中には、三センチくらいの吸い殻がぼろぼろとつまっている。どうやら煙草だけは嗜んでいるようだ。ほかにあるものといえば、冷蔵庫とテレビくらいである。しかし、冷蔵庫はあまり使われていなかった。料理をしないのでほとんど何も入っていないのだ。同じ理由で台所も使われておらず、プラスチックで出来たコップがひとつ置かれているだけだった。それに対して、テレビのほうはよく使っている。家にいる時は付けっ放しにしているほどであった。特別見たい番組があるわけではないが、退屈しのぎに、とりあえず付けておくのだ。消すのはよっぽど腹の立つ番組がやっていたときくらいである。

ほっと一息ついてからしばらく経って、少し肌寒くなってきたので、男は布団の中に避難した。自分の寝ていた跡が暖かくて安堵する。外も静かだ。男はやっと自分の家に帰ってきたような心持がした。と同時にまぶたが重くなり、ついに眠ってしまった。


目が覚めたのは昼過ぎだった。今度は自然に目が覚めたので、不愉快な思いはしなくて済んだ。かと言って気分が良いということでもない。男は特に何も感じていなかった。無心のままのそっと起き上がり、顔を洗いに流しへ向かおうとする。その短い間に、ぼうっとしていた意識がだんだんはっきりしてきて、どこからか話し声が聞こえるのに気が付いた。

――隣か。

男の部屋は建物の一番端にある。だから隣といえばあの青年の部屋しかない。どうやら青年は電話をしているようだ。特に聞き耳を立てていなくともそれが聞こえる。これには青年の話し声がやや大きいという理由もあるが、決してそれだけではない。この家の壁は非常に薄いのだ。しかも周辺は車も人もほとんど通らない、静かな住宅街である。声が聞こえてしまうのは仕方がないだろう。

「そ。一人暮らしだぜ。いいだろ。今から来る?」

青年の声は若く、弾んでいた。

「おう分かった。うん。そうそう俺の好きなやつ、買ってきてよ。え?違う違う。オレンジじゃなくて、グレープフルーツのやつだから。うん、じゃあまた後で…あ、あと何か食料も頼んだ!んじゃ」

青年は急ぎ足にそう告げて、通話を切った。

途端に部屋が静まり返った。それから夕方まで、物音ひとつ聞こえなくなったので、男は苛立つこともなく、平穏に過ごせた。もっとも、男にとってはこの環境が当たり前なので、ありがたみなど微塵も感じなかった。

ところが夕方になって、アパートの部屋と部屋をつなぐ狭い通路から二人分の若い男の声が聞こえてきたのである。

「おーい。ヨシー?…おかしいな、あいつ、家にいるって言ってたのに」

声の主は、青年の部屋の戸を叩きながら呟いた。低く落ち着いた声である。

「寝てるんじゃねえの?」

もう一人がその呟きに答えるようにして言った。こちらはやや高めの、よく通る声をしていた。

「それはありそうだ。とりあえず、ちょっと電話してみるか」

「おーう。……うわ。なんだこれ」

低い声が電話するのを待つべく相槌を打ってから、突然不審そうな声を出した。急に声が近く聞こえるようになった。

「どした?」

低い声は電話を掛ける手を止めたようだ。

「ちょっと、見てこれ」

何故だか急にささやき声になっている。

「えっ。『戸を叩くな』……?」

つられて低い声もひそひそし始めた。さすがに小声では、部屋の中の男が、会話の内容を把握することは出来なかった。特に低い声はぼそぼそして、しかも滑舌があまりよくないので、共に会話している者ですら、聞き取るのに骨が折れることだろう。

「なんでこんなもん貼ってんだよ?」

と高い声が問う。貼った本人でないのに聞かれても困るだろう。

「さあ……」

「字赤いし、きたねえし……なんか、怖くねえ?」

言葉ではそう言って、事実そう思うところもあるのだろうが、声色はむしろ楽しそうに聞こえる。

「字汚いのはお前もだろ」

そう言って先に音量を戻したのは低い声だった。

「うるせえ。あっ、そんなこといいから早くヨシに電話しろよ!」

高い声は今ようやく目的を思い出したようで、反論できないことをごまかすように声を荒げた。言われたほうはといえば「はいはい」と返事しながら、既に電話をかけ始めているようだ。

――なんだ、あいつらは。

これまでじっと聞いていた男の内では、怒りがふつふつと湧いてきていた。外の二人が話していたのは、この男が部屋の戸に貼りつけた注意書きのことであったのだが、男の怒りはその話に対するものではなかった。ただ単純に、見知らぬ他人が自分のいる家に上り込んで、喋っているのが気に食わないのだ。そもそも貼り紙について話していたとは知らないのだが、何の話であっても、男にとってはすべて不快なのだから関係ない。

「おお、ごめんごめん。今起きたよ」

数時間ぶりに青年の声を聞いた。友人の電話でようやく起きてきたようだ。

「やっぱり寝てたのか」

「あっ、リューセイも連れてきたの?いやあ、なんか疲れちゃってさ。トモキに電話してすぐ力尽きた」

「なあ、中で話そうぜ。ここでずっと待ってたら寒くなってきた」

「はいはいどうぞ。座るとこ適当に探して。ついでに片付けも手伝って」

三人の声が廊下から消えていき、隣の部屋へと移った。部屋の中に入ると、彼らの声の大きさには遠慮がなくなった。廊下から聞こえる声も大きかったが、あれでも多少は遠慮をしていたのだろう。しかし本人たちにその自覚はなさそうだ。

「はあ?もしかして俺たち、そのために呼ばれたの?」

「まあ、半分は」

「サイアク」

楽しそうに話す若者たちの声にいら立ちながら、男はなるべくそちらを気にしないように、テレビの画面に集中した。結局、日付が変わりそうになるまで声は聞こえた。

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