家路

叶依シン

家路

 畦道に紅い華が咲いていた。

 ジャージのポケットに手を突っ込みながら、蝉の声をBGMに田んぼの中を歩く。

 障害物なんか見当たらないから、少し離れた所からも手持無沙汰な彼女の姿がよく見えた。

 子供のように腰掛けて、足をぶらぶらさせていた彼女は、俺に気付いたのか振り返る。

「……拓哉」

「よぉ、おかえり」

「……迎えにこなくても、ひとりで帰れるのに」

 毎年言ってるじゃない、と彼女は言う。

 その声を聞くのは随分と久し振りで、自分でも頬が緩むのが分かった。

「それでも、俺が迎えに来てぇの」

 白いTシャツと、飾り気のないジーンズ。

 短く切った黒髪は、記憶にあるのと変わらない。

 手を伸ばして、その頬の辺りを撫でる。

 くすぐったそうに笑う、その顔を見るは半年振りで、胸に暖かい何かが広がる。

「帰るか」

「うん」

 軽い動作でそれまで腰掛けていた石から飛び降りて、彼女は俺の隣に並ぶ。

 髪伸びたね、だなんて笑う顔は、眩しい。

「切らないの? 暑いでしょ」

「仕事に追われてたら切るの忘れてた」

「……もう。また無茶してない?」

「してない……祐介のおばさんとかにも釘指されてるし、飯も貰ってるから」

「そっか……おばさん、元気?」

「元気。祐介もすげぇ元気」

 他愛ない会話をしながら、その手を握ろうと指を伸ばす。

 困ったように寄せられた眉と、見上げる視線に首を傾げれば、杏子は視線を外して。

「どうするのよ、人に見られたら」

「構わねぇよ。てか、こんな田舎じゃ誰も知らねぇだろ、ひきこもりの小説家なんて」

「わかんないわよ、祐介の時は地元の有名人だってお祭り騒ぎになったし」

「いやでも祐介はあれだろ、バスケ選手だろ」

「同じだし、今はアンタだって地元の有名人よ」

「……そういうもんか」

「そうよ」

 言いながらも、杏子は俺の手を握り返す。

 少し冷たい指先に名前を呼べば、久し振りに返事が返る。

 それだけで、十分だと思った。

 蝉が、五月蝿いくらいに鳴いている。

 今年も暑くなりそうね、だなんて空を見上げる杏子。

 その視線の先には高く青い天蓋が広がっている。

「……ていうか、アンタ暑いの苦手なんだから。わざわざ迎えにこなくたっていいのに」

「平気」

「あんだけ真夏に外に出たくない、出たくないって言ってたのに」

「俺様大人になったの」

「はいはい」

 少しだけ歩調を落として、二人で田んぼの中を歩く。

 ゆらゆらと揺れる陽炎と、稲の緑。時たま飛んでいく鳥の声。

 東京から新幹線で約三時間。移住して数年、馴染んだ『家の周り』の風景。

 畦道から出てきた猫が俺達を見て、にゃあと鳴いた。

 それに二人で顔を見合わせて、笑いながら家路を辿る。

 暑さを孕んだ、それでも東京とは比べ物にならないくらい涼しい風が、稲穂と紅を揺らす。線香交じりのその風に、猫はもう一度小さく鳴いた。

「そういや、先月新作出したよ。俺」

「そうなんだ」

「結構評判だから、後で読んで」

「うん」

 行きは長かった道が、帰りはあっという間だった。

 それは間違いなく、隣に杏子がいるからだろう。

 数年前に買った平屋の玄関を、二人で開ける。

 鍵を掛けていないことを杏子は無用心だと言ったけど、この辺りなんてそんなもんだろう。

 地元民のお前が一番知ってんだろ、と返そうとして――三和土の男物のスニーカーにぎょっとする。

「ちょっと、だから言ったでしょ」

「拓哉さん、おかえんなさい」

 杏子の声に被さる様に、近付いてくる足音。

 奥からやってきたのは、杏子の幼馴染兼俺の友人で、ほっと胸を撫で下ろす。

 プロのバスケ選手の祐介は俺よりもがっちりしていて、だから上がり框に立つと圧迫感が凄い。

「祐介、お前不法侵入って知ってる?」

「鍵閉めていかない拓哉さんが悪いんですよ。扉開いてたからてっきりいるんだと思った」

 苦笑しながら言って、祐介はスニーカーに足を通す。

「何、お前もう帰るの」

「拓哉さんの代わりに留守番してたんスよ」

 それに、と少し沈んだ声が鼓膜を叩く。

 三和土に立ち尽くす杏子を無視して、俺だけを見て。

「――線香、あげに来ただけですから」

「……ん」

「親戚来てるんで、帰りますね。明日辺り、また来ます」

「……ん。杏子も、喜ぶ」

 少しだけ心配そうな顔をして、祐介はまた、と言って扉の外に向かう。

 ――立ち尽くす、杏子を通り抜けて。

 その背中を見送って、彼女は苦笑を浮かべた。

「祐介も、格好良くなったわねぇ」

「ん……でも、俺のがまだ格好良い」

「何言ってるのよ」

 脱いだ靴を揃えないまま、上り框から杏子に手を伸ばす。

 少し迷った後に、杏子は俺の手を取った。

 ぺたり、と、裸足が板の間に音を立てる。

 その音も、彼女の声も、どうやら俺にしか聞こえないらしかった。

「おかえり、杏子」

「……ただいま、拓哉」

 そうやって手を繋いだまま、居間へと向かう。

 さっきまで祐介が居たからか、テーブルの上には汗をかいたコップが出ていた。

 りん、と軒先に下げた風鈴が音を立てる。

 それに乗って、祐介が上げていったらしい線香の匂いが鼻をくすぐった。

 線香の匂いは、好きで、嫌い。

「祐介も、律儀だね」

 苦笑気味に、仏壇を覗きこみながら杏子は言う。

 彼女の遺影と、銀の指輪、それから胡瓜の馬がある其処には、おはぎが二つ、乗っていた。多分、祐介が持ってきたんだろう。

 杏子は、祐介のおばさんが作るおはぎが好きだったから。

 食べる? と首を傾げる彼女に、小さく首を横に振る。

「それ、お前のだろ」

 投げた言葉に逡巡するように視線を巡らして、それから杏子は小さく息を吐いた。

 上がった顔は、どこか悲しそうだ。

「……拓哉、あのね」

「嫌だ」

「まだ、何も言ってないじゃない」

「忘れもしないし、別の女を作る気もねぇよ……去年も言っただろ」

「でも」

 杏子の顔が、泣き出しそうに歪む。手を伸ばして、頬の辺りに触れる。

 そこには、ひんやりとした感覚だけがある。

 その冷たさが、彼女が其処にいると告げていた。

 線香の匂いは好き。

 ――この時期だけ、俺の前に杏子を返してくれるから。

 線香の匂いは嫌い。

 ――杏子が死んでしまったと、嫌でも思い知らされるから。

 伸ばした左手の薬指を見て、享はまた顔を歪ませる。

 そこには、二人で買ったシルバーリングが今も鎮座している。

「……だって、そしたらアンタずっと一人じゃない」

「一人じゃない。祐介だって休みの度に帰ってくるし、お前も夏に帰ってくるし」

「でもっ」

「杏子」

 反駁を遮って、杏子を抱きしめる。

 冷たい感覚と、線香の匂い。そこに、昔あった甘い匂いは残って居ない。

「――俺は、お前だけがいい」

 仏壇に飾った、出せずに終わった婚姻届と結婚指輪。

 こいつと過ごすためだけに買った、彼女の田舎――彼女の生家だった平屋。

 そんなものが杏子を苦しめていると、俺は知っている。

 ――けれども、それでも俺は。

「限られた期間だけでも――お前と、いたい」

 細い腕が伸ばされて、俺の背中をかき抱いた。

 ぽんぽんと背中を叩いて、俺は唇を重ねる。

 重ねた唇は冷たくて、でも、そこに杏子がいると感じさせて。

「愛してる――お前、だけを、一生」

 だから向こうで式を挙げようと言えば、小さく、本当に小さく帰ってくる肯定。

 遠くから聞こえる蜩の声は、少し寂しい。

 でもそれ以上に、泣き声混じりに紡がれる「ごめん」は、悲しい。

 だからそれをかき消すように、もう一度、「愛してる」と囁いた。

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