十月十日
おめでたです。
誰かが言ったような気がした。
しかし、誰もいない。
どうするべきか、悩む。
「どっちでもいい」
集合住宅の一室。二十代の男性は言った。
いつもと同じ態度。ソファでくつろいでいる。
外は暗い。
たくさんの部屋が並ぶ、四角い建物。
ドアが開き、二十代の女が出ていった。
仕事を続けたい。
産むべきか、それとも。
後ろを振り返っても、誰もいない。
照らしているのは、人口の光。
「どこの子?」
前を向いた女は、少女を見た。歳は十代半ばだろうか。
近くの部屋に、同年代の子供はいない。
闇は深まっている。
一人で、自室と別の階をうろつくことは考えにくい。
後ろでドアの開く音がした。振り返ると、男がいる。
女が視線を戻したとき、そこには人口の光しかなかった。
仕事で疲れている。二人とも。
余裕がないから幻を見る。
そう結論づけた。
部屋に戻ろう。そして、寄り添おう。
「自分で決めてくれ」
男は相変わらずだった。お風呂から出て、柔軟体操をしている。
女は悩んでいた。
そのあいだに、寝室へ向かう男。
女も寝支度をする。寝室に向かおうとして、気付いた。
驚いて声も出せなかった。
居間に、少女が立っている。
本当に目の前にいるような。
はっきりと見える。手を伸ばせば届きそうな幻。
笑えば可愛らしいかもしれない。
無表情な少女。
「寒い」
仕事場で呟いた女。
冷房で温度調節されている。痩せ気味の人には肌寒い。ひざ掛けで身体を温めていた。
外は暑い。しかし、朝晩は寒い。寒暖差の大きい季節。
暖房を使うようになるのは、すこし先。
たくさんの席に、たくさんの人がいる仕事場。
女も仕事を続けた。
終業時間になる。
十月十一日も残り数時間。
列車の中で姿を探していた。
いるはずのない姿を。
集合住宅へ入り、エレベーターで上に向かう。
部屋の前に姿を見た。
「……」
少女は何も言わなかった。
喜びも、怒りも、哀しみも、楽しさすら感じられない。じっと女を見つめていた。
建物の外で、子供の声が聞こえる。楽しそうな声。
女は目を逸らさなかった。じっと少女を見ている。
子供の声が増えた。いまから遊びにいくのではない。帰っている。家に。
すでに辺りは薄暗い。
うしろから声を掛けられ、振り向く女。
男に微笑みを返す。二人は部屋に入った。
自分にだけ見える、謎の少女。
なにかを伝えたいのか。
なにかを、して欲しいのか。
何度も目の前に現れた。
「産んでほしいの?」
女は聞いた。
目の前の人物は答えない。部屋の中。他人が入れないはずの場所。
少女の表情は変わらなかった。じっと見ているだけ。
女の表情は変わった。
すこし悲しそうな顔をしたあとで、微笑んだ。
何かを決意した目をしている。
表情の変わらない少女に、心からの笑顔を見せた。
意思を伝える。
笑っていた。
少し照れたような顔だった。
ソファに座って、手を繋いで。
「暑い」
季節が一巡する前。
冬が過ぎ、春が過ぎ、夏になっていた。
男は仕事場から直行した。病院の中で涼む暇もなく、一目散に歩き出す。
旦那様は、奥様のもとへ急いだ。
間に合った。
声を掛ける。
二人は、新しい命の誕生を喜んだ。
あっという間なんかじゃない。
我が子の成長を見守るのは。
近所の子の成長は、あんなに早いのに。
母親と一緒に、父親も子どもを見つめている。
「味がないぞ」
おかゆを食べた父親が言った。
離乳食は、最初は食材一種類だけ。しかも量はすこし。二日ほど与えて、食品に対する反応を確認する。
色々と食べられるようになるのは、まだ先。
母親が説明していた。
父親は、勉強不足を反省した。やけどしないか、熱さを確認していたことを思い出す。
手で、大丈夫だという合図を送った。
過ぎるのは早くない。
過ぎた時間を振り返ると、早かったと思う。
不思議な感覚。
娘はすっかり大きくなった。
「料理、教えてよ」
十代半ばの少女が、母親に言った。
好きな子ができたかと聞かれる。少女は否定した。
「お母さんのごはんが、おいしいから」
恥ずかしそうだった。
母親は、なんでも話して欲しいと頼んだ。
眉を下げながらも、口角を上げる少女。
二人で笑った。
父親が帰ってくる前に、料理が完成した。
記憶の中にある幻。
謎の少女。
三人で食事をしながら、思い出していた。
同い年くらいになった娘と比べる。
「……」
少女が、家族を見ていた。
三人は椅子に座り、食事をしている。
皆、笑顔だった。
すこしだけ、表情を変える少女。
少女を、誰も見ていなかった。
ショートショート 多田七究 @tada79
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