いつか、あの城へ

髙橋螢参郎

第1話

 僕は一体、どこまで行けるのだろうか。

 幼心にふと抱いた素朴な疑問が、いつもの冒険ごっこを変えてしまった。

 小学校でもどんくさい事で知られていた幼馴染の燈子ことトン子がようやく自転車を乗りこなせるようになってきたのをいい事に、僕は子どもだけで遠出する事を思い立った。せいぜい学区内の野山や公園を駆け巡っているのが関の山だった小学生にとって、これは間違いなく一大決心だった。幼心の奥に眠る男の本能が目覚めていくのを、強く感じていた。

 そんな男子の事情など知る由もないトン子を半ば無理矢理に説得して、僕らは自転車へと跨った。最初こそ渋っていたが、いざ学区の境を越えてしまった辺りからは腹が据わったのか彼女も満更でもなさそうだったので、僕はすっかり気分を良くして先陣を切った。

 トン子は覚束ない足取りでペダルを漕いで、どこまでも付いて来てくれた。どんくさいのはどんくさいのだが、それ以上に彼女の自転車には問題があった。大人用のママチャリなのだ。サドルにも届かず、まるでアメリカン・バイクのように曲がったハンドルを操り自転車に乗る彼女の不格好な姿を級友たちはからかっていたが、もう一人前に大人用のものを使っているトン子を、当時の僕は密かに羨ましく思っていた。

「おせーよトン子!」

「ま、待ってよう」

 通った事のない道、見た事のない景色。大好きだったTVゲームのような高揚感が、僕らをこの上なく酔わせていた。いつものごっこ遊びなんかじゃなくて本当の冒険だ。いくつもの横断歩道を越え、橋を渡り、くたくたに疲れ果てても尚、僕らは自転車を降りて押してでも前へ前へと、ひたすらに進み続けた。

 トン子は泣き言ひとつ言わずによく付き合ってくれたが、一方で僕は進めば進むほど、内心ではどうすればいいのか判らなくなっていた。これがゲームならデータを記録するためのポイントだとか所謂引き際が絶対どこかにあるのだが、当然現実にそんなものはなかったし、それを自分で作れるほど小学生の僕は賢くなかった。

 遥か彼方を流れる川下の水面へ、夕陽が今まさに墜ちようとしていた。鉄橋を渡る僕の心中には、もう不安しか残されていなかった。こんな大きな橋の上にも、ボスは待ち構えていない。どこまで行っても、冷たい風がただ吹き付けてくるだけだった。

「りゅうくん……」

 風と車の行き交う音の中でトン子の今にも消え入りそうな声を聞いてしまい、僕はいよいよ冒険の失敗を覚悟した。

 涙が溢れ出てしまう寸前の、その時だった。

「トン子、あれ」

 橋の遠く向こう側に、僕は街から一際浮いた建物を見出した。この現代社会において明らかに不釣り合いな、それこそゲームに出てくるような城がぽつんと、対岸の川沿いに建っていた。

「あそこに魔王がいるの?」

 僕の指差した先をじっと見つめながら、トン子は訊ねた。

 そうだ、やっと見つけたのだと僕はそれまでの弱気もどこ吹く風と、腕を組んで頷いた。城が何であるかはもはや関係がなかった。僕たちの無謀な冒険も、これでひとまずは成果を上げた事になったのだ。

 あれほど胸を満たしていた不安は達成感へとあっさり挿げ換わったが、一方で夜の闇は容赦なく僕らの影を飲み込み始めていた。こうなってしまっては、潮時というものを否応なしに悟らざるを得なかった。

「……今日はここまでだな」

 子ども特有のどこか芝居がかった、大仰な口調で僕は冒険の終わりを宣言した。彼女もどこかほっとした様子でうん、と了承してくれた。この時心の底から安堵したのを、今でもはっきりと覚えている。

「また今度、ちゃんと準備してから攻略しに来よう。一度ここまで来たから次はもう大丈夫なはずだ。装備を整えて、あの城へ行こう」

「うん。その時は、一緒に連れてってくれる?」

 逡巡した後で、僕は「仕方ないな」とわざわざそっけない態度をして答えた。人一倍純粋だったトン子は僕の心の機微も知らず、えへへとどこか足りていないいつもの感じで笑った。

「今度はわたし、お母さんに言っておにぎり作ってもらう! あのね、ずっと言わなかったけど、おなかすいちゃった」

 今にして思えば、何もかもが幸せな時代だった。その後帰り道を忘れて結局警察の世話になり、トン子を連れ回した事で両親に叱られたのを差し引いた上でも尚、いい思い出だと胸を張って言える。

 あの頃、人生の主役は間違いなく僕だった。世界にはまだ魔王が、倒すべき敵がいて、あの城でずっと待っていてくれている。それだけで毎日は希望に満ち溢れ、何があっても乗り越えていけるような気がしていた。


 あの城がただのラブホテルだと知った頃には、僕はもうとっくに僕自身の人生の玉座から引き摺り下ろされていた。

 具体的にいつ、何がきっかけだったのかはもう思い出せないが、高学年になり、トン子とあまり遊ばなくなった辺りからだろうか。それまでクラスの中心とはいかずともその周辺にはずっといたつもりだったのに、気が付けばあれよあれよと、僕は軽いいじめの対象にまでなっていた。卒業の時にリセットできるから、と我慢していたが、それでも結局中学の半分は同じ小学校出身のやつらなのだ。上に上がっても小学校のノリがそのまま引き継がれ、相変わらず同じ状況が続いていた。

 つい数年前までトン子や他の友達を引き連れて勇者の真似事をしていたのが、今では丸っきりゲーム最弱の存在であるスライムへと変わり果ててしまった。惨めな日々に、誰にも見せはしなかったが校舎裏や通学路で泣いた事すらあった。

 僕が訳もなく落ちぶれた一方で、よくわからないうちに持ち上げられていた人間もいた。トン子だ。松橋燈子はたったの数年間で見違えるほど美しくなり、僕が知っていたあのトン子ではなくなってしまった。彼女の事をトン子と呼ぶ人間はもういなかった。それこそ僕のような人間がトン子などと気安く呼びかけた瞬間、騎士を気取る馬鹿な男子どもが黙っちゃいないだろう。

 その松橋とあの城へ一緒に行く約束をしたと聞けば、尚更だ。

 あれだけ遠くに感じていたあの城も、いざ蓋を開けてみれば僕らの中学のほぼ真裏だった。誰と誰が行っただのとそういった話を耳にする度、あの日僕らが抱いた憧憬が踏み荒らされているようで心底嫌だった。

 その憧憬を唯一共有したトン子、いや松橋燈子ともクラスが同じになる事もなく、僕は学校でただ貝のように自分の殻にこもり、ひたすら押し黙っているくらいしかできなかった。

 学校ですれ違う事があっても、僕は松橋とは視線を合わせなかった。彼女の傍らには男女問わず常に誰かがいた。まるで太陽のようなトン子があまりに眩し過ぎて、直視できなかった。

 住む世界がもう違うのだと、僕は自分に言い聞かせた。もしトン子の頭の中がトン子のままで変わっていなければ、高校はおそらく別になる。このままもう二度と言葉を交わす事もないだろう。

 しかしある日、そんな予感はいともあっけなく覆った。松橋燈子から僕に話しかけてきたのだ。しかもこの世で一番最低のタイミング、校舎裏で独り泣いていた時に限って、だ。

「りゅうくん……」

 昔と変わらぬ調子で呼びかける彼女の瞳に、雨の後のぬかるみを転がされて泥だらけにされた僕はどう映っていただろうか。想像しただけで耐えられなくなって、僕は何も言わずその場から逃げ出そうとした。

「ま、まって!」

 汚れた僕の手を、松浦燈子がぎゅっと掴んだ。振り解こうにも、力を込めたままこちらを見つめながらただ首を振ってみせるだけで、一向に離してくれそうにない。

 その様子を見てこいつはやっぱりトン子なんだと、僕は改めて確認した。流されやすいようでいて、これ、と決めた事についてだけは意外と強情なところが確かにあった。

 そして一度こうなったらてこでも動かない。僕は観念して、周りの目に触れぬようこっそりと校舎の死角へとトン子を連れて行った。


 何年ぶりかに二人きりになったのはいいものの、しばらくの間お互い特に言葉は出て来なかった。

「……どうしたの?」と遠慮がちに訊かれても、僕に何か答えられるはずもなかった。ましてや今日クラスメイトに喧嘩を売ったのは僕の方からだったし、その理由も『松橋燈子があの城から出て来たところを見た』などと噂していたからだなんて、口が裂けても言えなかった。

 いくら綺麗になったからといって……

 ……いや、どうだろうか。

 今の松橋燈子をいざ目前にして、僕は考え直す羽目になった。周りの有象無象がざわめくのも解るほどに、彼女は随分と変化していた。女性らしくどこか丸みを帯びた身体。生地の擦り減ったスカートから白く伸びた足。さっきからこうして隣に並んでいるだけでも、乳臭い匂いに僕はむせ返りそうになった。

 何より変わったのは髪型だった。野暮ったい制服姿の印象を全て帳消しにする、黒髪のセミロング。それがあまりに垢抜け過ぎていて、却って違和感を拭えなかった。

 一緒に半ズボンで野山を駆け回っていたあのトン子とはもう細胞レベルで別人なのではないか。こんなに近くにいるはずの彼女が、どこか遠くに感じた。

「?」

 まじまじと見つめていたのがバレたのか、気付けばトン子はきょとんとした表情でこちらを見ていた。

「……あ、いや、何でもないんだけど。……久しぶりに話すから、何言っていいのか自分でもわかんなくってさ」

「……うん。そうだね。おかしいよね。えへへ。あれだけいっぱいしゃべって、いっぱい色んなところ行ったのにね」

 ……そうだな、と僕は頷いた。

「りゅうくん、学校で会ってもすぐ逃げちゃうもん。私、どうしても話さなきゃいけない事があったのに……」

「話さなきゃいけない事?」

 僕は一瞬ここからあの城の方角を意識してしまった。まさかな、と頭では解っていても、早まる鼓動は言う事を聞くつもりはなさそうだった。

「東京」

 トン子はそうとだけ告げた。

「……東京?」

「うん。中学出たらね、東京でアイドルにならないかって。誘われたの」

「は?」

 思わず、それ以上の言葉を僕は喪ってしまった。

「……が、学校は」

「もちろん行くよ。向こうでそういう子ばかり通ってる学校があるから、そこに。でね、レッスン中でも、出るんだって!」

「な、何が?」

「お金!」

 目を輝かせながら彼女がそう言ったのを聞いて、僕はすべてを察した。

 流石に年を経るにつれて、その辺りの事情はいやでも判るようになっていた。トン子の家は兄弟も多く、あまり金銭的に恵まれているとは言えなかった。てらてらと光るセーラー服も一体彼女で何代目なのだろうか。沈黙の魔法をかけられてしまったように、それ以上何も言ってやれなかった。

 トン子もふと我に返ると、顔を赤らめて続けた。

「私、勉強あまりできないし……普通に学校行くよりもそっちの方がいいのかな、って思って。……でも東京って怖いところだってよく聞くよね、りゅうくん、どう思う?」

「どう、って……」

 どう、なのだろうか。僕が言えば、何かが変わるのだろうか。

 あの頃のトン子が蛹だとしたら、今の松橋燈子は大きな翅を持った蝶だ。芋虫毛虫のように地べたを這う僕から、何か言っていいものか。

「……」

 最後にもう一度、僕はあの城の方角を見た。トン子はまだ覚えてくれているのだろうか。気にしてくれているからこそ、こうしてわざわざ訊きに来てくれたのか。

「……応援するよ」

 しばらく考えた後、僕は答えを出した。

「単純に凄い話じゃん。まさかこんな田舎の町からアイドルが出るなんて、俺想像もしてなかったよ! ……他の人には?」

「ううん、まだ学校の誰にも言ってない」

「じ、じゃあ、俺がファン第1号だな! CDが出たら何枚も買うから、偉くなったら東京にも招待してくれよ。地元のイベントがあったりしたら、絶対会いに行くから。えーと……その……と、とにかく、応援してるから……」

 このやり取りだけで何年分の言葉を吐き出しただろう。でも本当に言いたい事はあまり伝えられなくて、それを隠す為に僕はまた空々しい会話をどんどん重ねた。

 果たして形のない言葉の中から僕の本当の気持ちがどれほど伝わっているのか。トン子はあの頃の笑顔を最後まで見せてはくれなかった。いや、もうそんなものは本人でさえ忘れてしまったのかも知れない。

 それでも中学卒業までの間、僕らは楽しかった子供時代を少しでも取り戻そうと折を見ては二人きりで話した。結局、城の話はしなかった。翼を持たない者なりの、せめてもの矜持だった。


 東京でデビューして一年経つか経たないかといった頃、トン子は下宿先で自らの命を絶った。様々な憶測が飛び交ったものの、そのどれもこれもが田舎の高校生である僕にはとても理解の及ぶものではなかった。

 週刊誌にも取り上げられたが、そこにはトン子とも松橋燈子とも似ても似つかない名前が代わりに載っていて、僕はしばらくの間何もかもを信じられなかった。彼女の家の前へ連日纏わり付いていた記者に何度も襲いかかったりしてみたが、それでも実感は湧かなかった。誰が本当の敵なのだろうか。それすらも判らなかった。

 そもそも何故彼女を行かせたのだと、今度は家の壁に何度も頭を打ち付けた。僕ごときに何かができただろうか。いや、それ以前に何もしなかっただろうと、額から流れる血と情けなく溢れてくる涙とをぐちゃぐちゃに混ぜて壁に擦り付けながら、僕は悔やんだ。もしかしたら引き留めるには至らなくとも、何かが少しでも変わっていたかも知れない。でもそれを確かめる術はもうないのだ。

 余計な血を出し切ってやっとほとぼりが冷めた頃、僕は真夜中に家を抜け出して自転車に跨った。あの日の道をもう一度独りでなぞっていると、驚くほど何もなかった事に改めて気付かされた。

 単純に年月が経ったからなのか、目線が上がったからなのか。そうでない事は誰よりも僕が一番知っていた。ペダルを漕ぐ度、心の真ん中に開いた穴を冷たい夜風が昔一緒に食べたフエラムネのようにすう、と通っていくのが解った。いやになるほど、静かな夜だった。

 とっくの昔にクリアしてしまったゲームのように、道中の何を見ても虚しさだけが募った。独りではもう、何も起こらないのだ。

 そうと知りつつも僕は、前へと進み続けた。二度と近付くまいと決めていた中学校の脇を抜けて、僕は遂にあの城の前へと辿り着いた。少し目を離したたった一年の間で、城は打ち捨てられ廃墟と化していた。いっそ最初からなければ、こんな思いをせずに済んだいうのに。

 さて、城の主はどこへ消えてしまったんだろうな。

 固く閉ざされた城門の前に呆然と立ち尽くし、僕はかつての仲間に訊ねた。

 君さえいれば、今ここから新しい冒険が始まったんだろう。何も解っていなかった。僕の人生の主役はずっと前からトン子、君だったんだ。

 魔王は去り、勇者は死んだ。伝説と呼ぶには、何もなさ過ぎた。星空の外何も残されていないフィールド・マップを、残された僕はぐるぐると回り続けるしかなかった。

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