19 カスミ

「あっ、柳一さん! お帰りなさい!」


 その日の夕方。

 桜子と菜々子が学校から帰宅すると、家の門の前で、ちょうど同じタイミングで帰って来た柳一とはちあわせした。


「柳一さん! 今日の晩ご飯は、何が食べたいですか? はりきってごちそうを作っちゃいますから、何でも言ってください‼」


 柊子の言葉にはげまされて、柳一と仲良くなれるようにもっと努力しようと思った桜子は、家の中でうたた寝していたスミレがビックリして飛び起きるほどの大声でそう聞いた。


「……うぐっ。み、耳が痛い……。相変わらず、声のバカでかいやつだな。オレは何を食べてもおいしいと思えないと言っただろ? どうでもいいよ、晩ご飯の献立こんだてなんて」


 柳一はいつものように不機嫌そうにまゆをしかめ、顔をそむけた。


 柳一の顔をちゃんと見てお話がしたい桜子は、小さな体でピョンピョンと何度も飛びはね、


「本当に!」(ピョン!)


「何も!」(ピョン!)


「食べたい、ものは!」(ピョン! ピョン!)


「ない、のです、か!」(ピョン! ピョン! ピョン!)


 と、しつこくたずねた。


 柳一は、子ウサギみたいに飛びはねながらまとわりつく桜子を邪魔くさそうに見下ろし、大きな手で彼女の小さな頭をガシッとおさえつけた。


「う、うひゃ~! 頭をおさえつけないでくださ~い! せ、背が縮みますぅ~!」


「うるさいヤツだなぁ……。食事の献立なんて、どうでもいいと言っているだろ」


「ちょっと、お兄様! 桜子お姉様が心をこめて作ってくださるお料理をどうでもいいだなんて言わないでください! たくあんを鼻の穴につっこみますよ⁉」


 桜子が邪険じゃけんにあつかわれているのを見て怒った菜々子が、柳一にそう怒鳴った。

 いつもなら桜子の背中に隠れて他人の悪口を言うけれど、相手が身内なので、堂々とののしっている。菜々子は内弁慶うちべんけいなのだ。


「……菜々子は菜々子で、声がキンキンとうるさいぞ。いつの間にちんちくりんと仲良くなったんだ?」


「ふふん、知りたいですか? わたしとお姉様の心温まる誕生日パーティーのエピソードを!」


「まあ、どうでもいいけれどさ」


「どうでもいいですって⁉ ムキーーーっ‼」


 菜々子はおサルみたいに顔を真っ赤にして怒ったけれど、柳一は妹を無視して家の中に入って行った。


「柳一さん、何だか元気がないみたいやったけれど、だいじょうぶやろか?」


「お兄様が無気力なのは、いつものことですよ。ああ、もう。腹が立つぅ~!」


「でも、いつもより顔が青白かったし、具合が悪そうやったような気が……」


「そうですかぁ? 桜子お姉様ったら、お兄様にあれだけ意地悪されているのに体の心配をしてあげるなんて、天使みたいに優しいですね。義理の姉が天使だなんて、わたし、幸せ~♪」


 菜々子はそう言うと桜子に抱きつき、ほおずりをした。


(義理の姉としてしたわれとるのか、飼いネコか飼いイヌみたいに思われとるのか、よくわからんなぁ……)


 桜子は、ほっぺたをスリスリされながら、「アハハ……」と苦笑した。






(やっぱり、柳一さん、体調悪いんかな?)


 柳一は、晩ご飯にほとんど手をつけず、自分の部屋にひきこもってしまった。


 無愛想で意地悪だけれど、作ってもらった料理を残したら悪いとはいちおう思っているのか、柳一は食べても味がわからないのに、食卓に出された料理をいつも残さず食べてくれていた。

 それなのに、今日にかぎっては一口、二口で食べるのをやめてしまったのだ。


 でも、「具合が悪いのですか?」と聞いても、「別に……」と言葉短く答えるだけである。


 兄との仲があまりよくない菜々子も、さすがに心配している様子だった。


仙造せんぞう叔父様おじさま。柳一さんの元気がないみたいなのです」


 菜々子やスミレもご飯を食べ終えて食堂からいなくなった後、桜子は、食後のお茶を飲んでいる仙造に相談してみた。


「……たしかに、具合が悪そうでしたね。ただの風邪だったら、いいのですが……」


 仙造が深刻そうな顔をして言うと、桜子は「ただの風邪……じゃなかったとしたら……」とつぶやいた。若干じゃっかん、体が震えている。


「スペインかぜ、ですか?」


 桜子のその一言に、湯のみを持つ仙造の手がピクリと動く。


「いや、まさか。あれの流行はかなり前におさまったはずです。そんなはずはない。きっと、ただの風邪でしょう。……変なことを言ってしまい、すみません。妻が、スペインかぜで亡くなったものですから……」


「……カスミ叔母様おばさまも、だったのですか?」


「ええ。桜子さんのご家族も……でしたよね。三年前に大流行したスペインかぜは、多くの悲劇を生みました……」


 桜子の過去を朧月夜おぼろづくよ家の両親から聞いている仙造は、悲しげに顔をゆがめた。


 桜子は、「はい。本当にたくさんの人が亡くなって……」と言い、うつむく。


 しばらくの時間、二人の間に沈黙ちんもくが流れた。


 スペインかぜとは、一九一八年から一九一九年にかけて、人類の歴史においても最大級と言われるほど全世界的に大流行した恐ろしいインフルエンザ(当時の人たちはインフルエンザのことを流行性感冒りゅうこうせいかんぼうと呼んだ)のことである。


 世界中でおよそ五億人が感染して、いろいろな説があるが、死者の数はおよそ五千万人にまでおよんだ。


 スペインかぜの猛威は日本にもやって来て、四十万人前後の人々が犠牲となった。感染して死んだ人の中には、西郷隆盛さいごうたかもりの息子や野口英世のぐちひでよのお母さんなどもいた。


 そして、仙造の奥さんで、柳一と菜々子のお母さんであるカスミも、スペインかぜによって命を落としたのだった。それから、桜子も……。


「スペインかぜは、たくさんの命をうばっただけでなく、生き残った家族に深い傷を残しました。柳一が他人に心を開かなくなったのも、菜々子がさびしがり屋の甘えん坊になったのも、母親をスペインかぜで失ったせいです。わたしも立ち直るのに時間がかかりました……」


 仙造は、遠い目をしながら言った。その目は悲しみの色に深く染まっていて、立ち直ったといっても、その傷はいまだに完治していないようだ。


「カスミ叔母様のこと、深く愛していらっしゃったのですね」


「はい。心の底から愛していました。カスミは、朧月夜家の両親にわたしとの結婚を反対されていました。でも、彼女は両親に勘当かんどうされてまで、わたしの妻となる道を選んでくれたのです」


「え? 勘当……? 親子の縁を切られたのですか? だから、つい最近まで、朧月夜家と花守はなもり家は親戚しんせきなのに疎遠そえんだったのですね」


 桜子は、父の梅太郎や母の藤子から、過去に朧月夜家と花守家の間に何があったのかくわしく聞いていなかったのである。


「ええ。カスミと梅太郎さんの父親である、朧月夜家の先代当主が三年前にスペインかぜで亡くなるまではね……」


 仙造は、カスミと結婚した当時の思い出を桜子に語ってくれた。






 カスミは、少女だったころ、桜子と同じように故郷の三重県を出て、東京の女学校に入学した。


 ある日、カスミは、道ばたに落としたハンケチを背の高い男子学生にひろってもらった。その学生というのが仙造のことで、それが二人の運命的な出会いだったのである。


 仙造とカスミはすぐに恋に落ち、将来をちかい合う仲になった。


 しかし、前にも書いたように、自由な恋愛が許される時代ではない。

 貿易会社・朧月夜おぼろづくよ商会しょうかいの社長であるカスミの父(桜子には祖父にあたる人物)は、ある大会社の社長の息子にカスミを嫁がせようとしていたのだ。朧月夜商会の利益のためだった。


 そんな時に、学者をめざしている仙造との結婚を許してほしいという手紙を東京にいるカスミが送って来たものだから、カスミの父は大激怒した。


 カスミの兄の梅太郎は父親をなだめようとしたけれど、その怒りはおさまらず、


「父親が決めた相手と結婚できないと言うのならば、親子の縁を切る!」


 と、カスミに絶縁状ぜつえんじょうを送りつけたのである。


 おどろいた仙造は、このままカスミと結婚していいのだろうかと迷った。自分のせいで、カスミが親に勘当されてしまうからだ。


 しかし、カスミは、


「わたしのあなたへの愛は、春の花々がいっせいに咲くように、力強く花やいでいるのです。わたしの花やぐ愛をだれも止めることはできません。たとえ、お父様であっても」


 まっすぐに仙造を見つめながら、そう言ってくれた。そして、この言葉に心動かされた仙造は、カスミとの結婚を決心したのだ。


 二人の結婚生活は、とても幸せで、柳一と菜々子が産まれてからは家がにぎやかになった。母親が生きているころの柳一は素直で優しくて、外で元気よく遊ぶ男の子だった。


 でも、幸せな日々は長くは続かず、スペインかぜにかかってしまったカスミは幼い兄妹を残してこの世を去ったのである。


 カスミは、亡くなるまで、父親からの勘当を取り消されることはなかった。


 そして、どういう運命のいたずらか、カスミが死んで間もなく、カスミの父も同じスペインかぜによって病死した。


 朧月夜商会の新しい社長となった梅太郎は、亡くなった妹の夫である仙造に手紙を送り、


「これからは親戚として仲良く付き合っていこう。そのほうが亡くなったカスミもきっと喜ぶ」


 と、伝えた。


 梅太郎は、カスミを失った仙造や子供たちはきっと悲しい思いをしているだろうと考えて、死んだ妹のかわりに花守家の人々をできるだけ支えていこうと考えたのだ。


 一年前の春休みに、柳一が三重県四日市に滞在たいざいしていて桜子と出会ったのも、四日市港から見渡す伊勢湾の美しい景色や自然によって、母親を失って以来ずっとふさぎこんでいる柳一の心が少しでもえるようにと梅太郎が考えて招いたのである。


 ただ、柳一が青々とした海を見ても、「悲しい涙の色」にしか見えなかったわけだが……。


 仙造は子供たちのために、妻を失った悲しみから何とか立ち直った。


 菜々子も、桜子や女学校のクラスメイトたちと仲良くなって、元気を取り戻しつつある。


 でも、柳一だけは、いまだにだれにも心を開こうとはしない。それが、仙造の悩みの種だった。






 仙造からカスミの思い出話を聞いた桜子は、一度も会ったことがないカスミという女性がどんな人だったのか、ちょっとわかったような気がした。


「とても愛情深い人だったんやなぁ……。故郷に帰れなくなっても、仙造叔父様との愛をつらぬいたんやもん。きっと、柳一さんや菜々子さんのことも愛情深く育てたんやと思う……」


 仙造と話した後、桜子は、柳一のために用意した風邪薬とお水が入った湯のみを盆にのせて、廊下を歩きながらそうつぶやいていた。


 ――恋は乙女の一大事だもの。


 柊子の言葉が、よみがえる。カスミも、そんな思いで仙造に愛を告げたのだろう。


「わたしは、柳一さんに嫌われとるかも知れへん。ちんちくりんやから、子供あつかいされるかも知れへん。でも、この想いを伝えやんと、きっと後悔する」


 柳一は、どうせ許嫁なのだから嫌でも結婚するしかないと思っているのかも知れない。けれど、そんな愛のない関係なんて幸せになれるはずがない。デイジー先生の言葉を借りると、


 ――No man is an island.


 人は、一人で生きているわけではない。大切な人たちと支え合って生きているのだ。


 桜子は、柳一と手と手を取って助け合える関係になりたい。柊子と柚希、カスミと仙造のような、愛が花やぐ素敵な恋人同士になりたい。


「柳一さんに言おう。わたしは、あなたのおそばにいたくて東京に来たんですって」


 柳一の部屋の前で決心してそうつぶやいた桜子は、「柳一さん、失礼します!」と言いながら、柳一の部屋に入った。心臓が、ドキドキと激しく高鳴っている。


「り……柳一さん。あの…………あれ?」


 あかりがついていない真っ暗な部屋の中、桜子が目をこらすと、柳一はベッドの下でうつぶせになって、たおれていた。ベッドにたどり着けず、途中で力つきたのだろう。


「き、きゃぁぁぁ‼ 柳一さん、しっかりしてぇーーーっ‼」


 桜子は、手に持っていた盆を落とし、苦しそうにあえいでいる柳一にかけよった。







※作者より:「スペインかぜ」の表記について

この当時、インフルエンザは「流行性感冒(または省略して流感)」という言葉が一般的でした。しかし、一部のマスコミでは「西班牙スペイン感冒かぜ」とも報じており、現代でも「スペインかぜ」という呼称が一般的で現代人にもわかりやすいため、この物語では「スペインかぜ」としました。

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