四章 愛は花やいで

20 柳一、たおれる

 柳一は、ひどい高熱だった。


 桜子から柳一がたおれたと知らされておどろいた仙造は、「急いで医者を呼ばなくては!」と言い、隣町に住んでいる医者を家に連れてくるために車に乗りこんだ。


「わ、わたしも行きます!」


 仙造叔父様ののろのろ安全運転では隣町に行くのにもかなり時間がかかりそうだと不安に思った桜子が、そう言った。ちょっとでも人並みのスピードを出してもらうために、うしろの席で「もっと急いでください!」とせかすつもりだった。


 別に、事故を起こしそうなほどの猛スピードを出させようというのではない。せめて自転車や人力車に追いぬかされないていどのスピードを出さないと、車で行く意味がないからだ。


「お父様にはわたしが同行しますから、桜子お姉様はお兄様のそばにいてあげてください。わたしが車の中でぎゃあぎゃあ言ってせかすと、お父様の運転スピードが一・二倍速くなりますから!」


 仙造について行こうとする桜子を止めて、菜々子がそう言い、車に乗りこんだ。


(さわがしい菜々子さんに耳元でぎゃあぎゃあ言われても、一・二倍ていどしか速くならへんのか……)


 桜子はちょっとあきれながら、「二人とも、お気をつけて!」と言って、のろのろと花守はなもり家を出て行った仙造の車を見送るのであった。


 桜子は、なかなか遠ざからない車のうしろ姿を見て、


「だいじょうぶやろか……。わたしが走ってお医者様を呼びに行ったほうがよかったかも……」


 と、激しい不安におそわれながら、つぶやくのだった。






 ブロロ……ブロロ……。


 点々と道路に設置されているガス灯のほのかな光の下、仙造の愛車フォード・モデルTが夜の道を行く。ものすごい低スピードで。


「あ、安全運転……安全運転……。でも、急がないと……。安全運転しつつも、急がないと……」


「お父様! 安全運転はたしかに大事ですが、野良犬に追いぬかされましたよ! もっとスピードを出してください! あと三倍は飛ばしても、警察に怒られませんから!」


「で、でも、夜は視界が悪いから、スピードを出しすぎて事故を起こしたら大変です。安全第一、安全第一……」


「ああ、もう~! 今度は野良猫に追いぬかされたにゃーん‼ お父様、お兄様が苦しんでいるからもっと急ぐにゃーん‼」


「わ、わかっていますにゃん! けれど、わたしは急ぐのが苦手ですにゃん‼」


「車を追いぬかした猫がこっちを見て笑っているにゃん‼ 悔しいにゃん‼ ムキーーーッ‼」


 なかばパニックにおちいっている父と娘は、車の中でにゃんにゃん言いあい、それからかな~りの時間がたって、医者の家に到着するのだった……。






 眠っていたところを起こされて往診おうしんに来てくれた医者は、


「ただの風邪だから、心配はいらないでしょう」


 と、言っていた。


 でも、柳一を診察しんさつする手がプルプルとふるえているような七十代のお年寄りだったので、桜子たちは不安で仕方がなかった。


 しかも、困ったことに、桜子が看病のために部屋の中に入ろうとすると、柳一は、


「部屋に入って来るな!」


 と、声をあらげて桜子を部屋から追い出すのである。菜々子やスミレがかわりに行っても、


「オレは平気だ! だれもオレにかまうな! 入って来るんじゃない!」


 ますます語気荒く怒り、だれであろうとそばに近寄らせまいとするのだった。


「こ、困りました……。これでは、看病どころか、食事すら部屋に運ぶことができません。あのまま柳一様が部屋の中でやせおとろえて死んでしまったら、どうしましょう~!」


 心配性のスミレが縁起でもないことを言い、涙ぐんだ。


「無理に部屋に入ろうとして、気難しいお兄様を興奮させてしまったら、よけいに体に悪いわ。食事は、お兄様が眠っているすきをみはからって、こっそりベッドの横に置いておくしかなさそうね……」


 兄の性格をよく知っている菜々子が、難しい顔をしながら言った。


「せめて、栄養のある物を食べさせてあげたいけれど…………そうや!」


 ピーン! とひらめいた桜子は、花守家の電話を借りて、三重県の朧月夜おぼろづくよ家に電話をした。


 ちなみに、この時代の電話は、話したい相手の家に直接電話をするのではなく、まずは電話の通信回線をつないでくれる交換局こうかんきょくに電話がつながり、交換局の交換手こうかんしゅが話したい相手の家の電話に回線をつないでくれたのである。だから、桜子も、


「三重県四日市市の貿易会社・朧月夜商会につないでください」


 と、交換手の女性にお願いしてつないでもらった。


「おう、どうしたんや、桜子。こんな夜ふけに」


 電話に出たのは、兄の杏平きょうへいだった。


「お兄様。実は、お願いしたいことがあるの。柳一さんが高熱を出してたおれて、弱っとるん。栄養物を食べさせてあげたいから……松阪の牛肉を送ってもらえへんかな? 三重県から東京まで運んどる間に肉が傷むようやったら、あきらめるけど……」


「なんや、そんなことか。それぐらい、お安いご用や。可愛い妹のためやったら、何とか傷まんようにして、オレが東京まで運んだる」


 現代では全国的に有名な高級牛肉・松阪牛は、この時代は伊勢牛と呼ばれていて、各地の牛肉品評会ひんぴょうかい(どの牛肉がよいかというコンテスト)で優秀な成績をおさめながらだんだん有名になってきている時期だった。


「ええの? お兄様、ありがとう!」


「気にすんな。オレは、桜子が家族を頼ってくれて、うれしいんや。……お前が初めてうちの家に来た時、お前は人間不信におちいって、自分のからに閉じこもっとったからな……」


「……うん。そうやったね。でも、今はちがうよ。わたしは、そばにいてくれる人たちを大切にしたい。そして、困った時は、みんなに助けてもらおうと思っとる。人間は孤島やないもん。『No man is an island.』やでね」


「それは、たしかイギリスの詩人ジョン・ダンの詩の一節やな。ちゃんと勉強しとるやんか。えらいぞ、桜子。……よし、まかせとけ。すぐに伊勢牛を届けたるでな!」


 桜子は、兄の頼もしい言葉を聞き、柳一がたおれて不安な気持ちが少し和らぐのであった。






 翌朝、桜子と菜々子は、学校に行かないといけないので、柳一のことをスミレにまかせて登校した。仙造も、


「今日は、大学の講義こうぎが午前中で終わりますから、なるべく早く帰るようにします」


 と、言ってくれていた。本当に医者の言うとおりにただの風邪なのか、何かたちの悪い病気なのか、まだわからないから心配なのだ。


 桜子も、看病を拒否きょひしている柳一のことが気がかりで、授業にぜんぜん集中できなかった。


「看病されるのを嫌がる病人のお世話をするには、どうしたらええかなぁ……?」


 お昼休みの中庭。

 葉桜になりつつある桜の木の下で、菜々子、桔梗、蓮華とお弁当を食べながら、桜子はため息まじりにそう言った。


「お兄様は、一度言い出したら聞かない頑固がんこな人ですからね。……まったく! 桜子お姉様の看病を拒否するなんて、罰当たりにもほどがあるわ!」


 自分もそうとう頑固な性格である菜々子が、プンスカ怒りながら卵焼きをほおばる。


「暴れないようにベッドに縄でしばりつけて、さわいだら布で口をふさぐとかは?」


 蓮華が、学校の購買部で買ったあんドーナツを両手に持ってパクパク食べながら、言った。


「蓮華さん。それはさすがに乱暴すぎるわぁ……」


 あきれた桜子がまゆをひそめてそう言うと、蓮華は「そうかなぁ~」と小首をかしげた。蓮華はたまに突拍子とっぴょうしもない発言をする。


「桜子さんの許嫁……柳一さんとおっしゃいましたか。柳一さんは、何か理由があって、桜子さんを自分のそばに近づけたくないのではありませんか?」


 四人の中でいちばん冷静で思慮しりょ深い桔梗が、お茶をズズズッと飲み、そう言った。


「わたしをそばに近づけたくない理由? やっぱり、わたしのことが嫌いやからかなぁ……?」


「そうとはかぎりません。人の心というのは、本人にちゃんと聞いてたしかめないと、わからないものです。決めつけはよくありませんわ。ただ、わたしが想像するには……桜子さんたちに自分の病気をうつしたくないのかも知れません」


「うちのお兄様、そんなに優しいかなぁ~?」


 菜々子が、腕組みをしながらブツブツと言う。


 桔梗は、「あくまでも、わたしの想像ですから」とつけ足して、さらにこう続けた。


「わたしがそう思ったのは、病弱なわたしはよく風邪を引いてしまって、そのたびに家族に看病してもらっているからです。わたしの病気がお父様やお母様にうつったら申しわけないと、心配になってしまって……。でも、やはり、桜子さんが、柳一さんに直接聞いてみるのが一番ですね。言葉というのは、人間がおたがいに話し合ってわかりあうために存在するのですから」


「そうやな……。桔梗さんの言うとおりや。ありがとう、桔梗さん!」


 桜子は、アドバイスしてくれた桔梗に感謝をして、抱きついた。


「い、いえ、お礼を言われるほどのことでは……げほっ! げほっ!」


「桔梗さん、だいじょうぶ⁉」


 桜子に感謝されて照れた桔梗は、照れくささをまぎらわすためにお茶をあわてて飲もうとして、せきこんでしまった。桜子は、桔梗の背中を一生懸命さする。


「むぅ~……」


 桜子と桔梗のスキンシップを見てやきもちを焼いた菜々子は、ほっぺたをぷくぅ~とふくらませるのであった。






 桜子と菜々子が帰宅すると、柳一の風邪は治るどころか、ますます悪化していた。


「わ、わたしが作ったお昼ご飯のせいでしょうか⁉ 栄養のある食事を作らなきゃと思ってあせってしまい、塩と砂糖を間違えたり、温めすぎて真っ黒に焦がしたり、うっかりレシピにない唐辛子とうがらしを大量に入れてしまったり……。

 あと、眠っている柳一様のベッドの横にこっそりおかゆを置いておこうと思ったら盛大せいだいに転んで、柳一様にあつあつのお粥をかけちゃうし……。他にもたくさん失敗してしまったんですぅ~!」


 超がつくほどあわてんぼうなスミレが、泣きながらそう言った。

 桜子にいろいろと教わったおかげで、慎重にやったらあるていどの家事はできるようになったけれど、あわてると信じられないような失敗をしてしまうのだ。これがスミレではなかったら、「絶対にわざとやってるだろ!」とツッコミを入れたくなるひどい失敗ばかりを……。


「だ、大惨事だいさんじやな……。でも、熱が上がったのは、スミレさんのせいやないと思うから、泣かんでええよ?」


 桜子は、ぐいーっと精いっぱい背伸びをしながら、スミレの頭をなでてなぐさめた。


 菜々子は、


(いや、それは、スミレがお粥をお兄様にぶっかけたせいなんじゃ……?)


 と、こっそり思ったけれど、スミレがさらに泣き出すといけないからだまっておいた。


「晩ご飯は、わたしにまかせて! 栄養たっぷりのお粥を作るから!」


「桜子お嬢様、わたしにも手伝わせてください! め、名誉挽回の機会を!」


「スミレ、ずるい! わたしも桜子お姉様のお手伝いする!」


 桜子たちはワイワイ言いながら、台所に向かった。そんな三人を廊下から見守っていた仙造は、


(桜子さんが来てから、この家はカスミが生きていたころの明るさを取り戻しつつある。桜子さんは、まるで太陽のような子だ。桜子さんがわが家に来てくれてよかった……)


 と、心からそう思い、桜子に感謝するのであった。

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