「今日は、きみに渡したいものがあるんだ」

 いつものようにシアーシャが正午のダンスを終え、ひと息ついた頃合いを見はからって、ペトレはそう切りだした。

「これなんだけど」

 隠していた包みの中から彼が取りだしたのは、シアーシャのためにあつらえた、からくり人形の新しい右脚だった。

「嘘みたい!」

 と、シアーシャはさけんだ。ペトレがつくった新しい脚は、彼女の体にぴったりとはまった。そのうえ、かかとはどこにもつながれていなかったので、シアーシャは、生まれてはじめて自分の意志で歩くことができた。

「それから、これも」

 ペトレは、親方からあずかった塔の鍵を、シアーシャの手のひらにのせた。

「これできみは自由だ。どこでも好きな場所に出かけて、いつでも好きなときに帰ってこれる。でも、できればお昼は今までどおり、この塔で踊ってくれると嬉しいな。きみのダンスが見られなくなったら、みんなさみしがると思うから」

「もちろんよ。ああ、信じられない!」

 シアーシャはよろこびのあまり、今にも踊りだしそうだった。ペトレは彼女の手をとって、舞台から降りるのを手伝った。それから、勇気をふりしぼって、はじめてのデートを申しこんだ。

「よかったら、ぼくにペテンブルクを案内させてくれないかな? うぬぼれるわけじゃないけど、ぼくよりもこの町にくわしいやつは、世界じゅう探してもいないと思うよ」

 にっこりとうなずいたシアーシャの顔は、ペトレの胸のたいまつに、あかあかと燃える火をともした。

 ふたりは町へとくりだした。シアーシャの着ている踊り子の服は体とひとつになっていて、着替えられそうになかったので、彼女はブティックで夜空の色のコートを買って羽織った。そうしてふたりは、目抜き通りに並ぶ店々をひやかしながら、町で人気の劇場をめざした。

 受付に立つもぎりのおじさんを見て、シアーシャはペトレに耳打ちをした。

「あの人が、奥さんに三回も逃げられたダニーさん?」

 ペトレはあわてて彼女の口をふさいだ。

 この日のバレエの演目は、〈くるみ割り人形〉だった。人形はねずみの軍団とたたかったり、王子になって少女とともに夢の世界を旅したりした。シアーシャは劇を大いに楽しんだが、ダンスについては辛口の評論家ぶりを発揮した。

「人間って、たいして脚があがらないものなのね! それに、あの回転! あれじゃ、せっかくの物語が色あせてみえちゃうわ」

 夕食は、シアーシャの希望で、広場のそばのカフェに決まった。彼女は毎日、時計塔の上からその店を眺めては、テラス席でくつろぐ客にあこがれていたのだ。

 夕食といっても、食事をしたのはペトレだけだ。けれど、シアーシャは、お昼に見かけるビジネスウーマンの真似がしたくて、自分もコーヒーを注文するといってきかなかった。彼女は実際に口をつけて飲むふりまでためしたが、口元についたしみをふきとるために大変な苦労をしたので、苦い顔で「もうコーヒーはこりごり」といった。

 幸福な時間は流れ星のように過ぎてゆく。帰り道、ペトレがおそるおそるシアーシャの指にふれると、彼女は手をにぎりかえしてくれた。彼女の手は石膏のように固く、子猫のようにあたたかだった。時計塔の下でしばらく名残を惜しんだあと、ふたりは別れの言葉をかわした。

「それじゃ、また来週」

「ええ、またね。おやすみなさい」

 さよならと手をふったシアーシャの頬は、上気して、リンゴの色にそまってみえた。

「今日はありがとう。ほんとうに楽しかったわ。これが現実だなんて、まだ信じられないくらい」

 新しい脚を見おろして、シアーシャはくすくすと笑った。

「生きてるって、やっぱりすてきね!」


 次の週も、その次の週も、ふたりはいっしょに町へと出かけた。シアーシャは、なにか素晴らしいものを目にするたびに、ペトレの腕をつかんでさけんだ。

「嘘みたい!」

「信じられない!」

 シアーシャのはしゃぐ姿を見るたびに、ペトレの胸はしあわせな気持ちで満たされた。

 現実に嫌気がさして逃げこんだ、いつわりだけのはずの町で、彼はほんとうの恋を見つけてしまった。

 それが果たして正しいことなのかどうか、ペトレにはわからなかった。今はただ、重なったふたりの時間が、いつまでもつづけばいいと願った。



   *



 ある夕方、ペトレは、ありったけの貯金をふところに抱いて、繁華街を急いでいた。彼は、シアーシャに贈り物を買うために、宝石店へ向かう途中だった。シアーシャの瞳と同じ色の、青い石をあしらった指輪。ショーウインドウで偶然それを目にして以来、ペトレはひそかに給料をためていたのだ。親方にも、もちろんシアーシャにも内緒で。

 大通りへとつながる曲がり角にさしかかったペトレは、ふと、風が奇妙にざらついているのに気がついた。

(砂?)

 不吉な胸さわぎを覚えながら、ペトレは角を折れた。その瞬間、彼の目に、繁華街に立つ大きなビルが、黄色い砂の粒になり、崩れ去ってゆく光景がとびこんだ。

 石造りの壁が、窓ガラスが、中にいる人びとが、さらさら、ほころびて消えてゆく。

 どこからともなくつよい風が吹いてきて、砂けむりを空の彼方へふきとばした。あらあらしい風のうなりに混じって、聞き覚えのある声がこだましているのを、ペトレは聞き逃さなかった。


 ――嘘みたい!――

 ――信じられない!――


 ガラス細工の鈴のように、透きとおった音色。

 それはたしかに、シアーシャの声だった。

 ペトレは、おそろしい事実をさとった。シアーシャがペトレに放った言葉で、ペテンブルクの嘘はあばかれ、町は滅びへと向かっていたのだ。

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