ペトレは、とある町の宝石商の家に生まれた。

 神さまの気まぐれか、はたまた悪魔のいたずらか、彼には生まれつき、おどろくべき魔法の力がそなわっていた。

 それは声の魔力だった。どんなにでたらめな嘘でも、彼がひとたび言葉にすれば、人びとはかならずそれを信じた。

 幼いころから、ペトレは数々のうつくしい嘘をついて、まわりの人びとを魅了した。

「明日、荷台に虹をいっぱい積んだ黄金色の馬車がとおるよ」「みてみて、月に恋人ができた! ふたりでダンスを踊っているよ」

 それは、使い道をあやまればどんな悪事も思いのままになるほどのおそろしい力だったが、やさしい母と賢い父に守られて、ペトレは道を踏みはずすことなく、純粋なまま育った。とくに母は、あまりに大きすぎる才能を持って生まれた息子のことを、いつでも気にかけていた。

「いい、ペトレ? 嘘は物語とおんなじよ。だまされているあいだ楽しくて、醒めても《よかった》と思える嘘だけ、あなたはつくようにしなさいね」


 ところが、ペトレが十四歳になってまもなく、母は病に伏せてしまった。町医者は、こんな病気は見たことがないとさじを投げた。

 日に日に弱っていく妻を見かねて、ペトレの父は、息子にひとつの提案をもちかけた。父はペトレに、ガラス玉を宝石といつわって売ってほしい、とたのんだ。国いちばんの医者を呼ぶには、それに見合った金額が必要だったから。

 罪の意識にふたをして、ペトレは父のたくらみにのった。彼が販売員の制服を着て店先に立つと、ガラス玉は羽が生えたように売れていった。宝石店は繁盛し、母は貴族だけが入ることのできる病院にうつって、最高の治療を受けることができた。


 だが、ペトレが十六歳になった年、母はこの世を去ってしまった。治療のかいなく、糸の切れた凧のように、天のかなたへ旅立った。


 母が亡くなったあとも、父が詐欺をやめる様子はなかった。気がつけば、彼の店は世界中に名を知られるほど大きな会社になっていた。

「ここまできてやめる道なんて、もうないよ」

 と父はいった。

「うちの会社には、いまや数百人の社員がいるんだ。おまえも知っているだろう。かれらにだって、妻子もいれば年老いた親もいる。いまおれたちが事業をやめたら、みんな路頭に迷ってしまうよ」

 社長室の椅子に身をしずめた父は、ぎゅっと目を閉じて、乾いた声音でこういった。

「なあペトレ。かあさんが安らかに眠れるように、広い広い、すてきな墓地をつくってやろう。おれたちに買えない土地はないんだから」

 その晩、ペトレはだれにも告げずに旅に出た。宝石店の制服は、きれいにたたんで店先に置いた。

 彼が向かったのは、人里離れた砂漠の奥地だ。嘘つきの天才は、たどりついた砂の海のまんなかで、灼熱の太陽に身を焼かれ、凍てつく月に貫かれながら、とりつかれたように嘘をつきつづけた。

 六日六晩、ペトレは一睡もしなかった。七日目、彼がようやく言葉を切ったとき、そこには架空の都市が出現していた。

 建ちならぶ家の一軒一軒、道路に敷かれた石のひとつひとつ、住民ひとりひとりの人生……。そういうすべてがほんとうにあると、自分に嘘をつくことで、ペトレは巨大な嘘の町を完成させた。

 彼はすべてを想像した。

 そして信じた。

 本当のことがひとつもない、嘘だけで築かれたユートピア〈ペテンブルク〉は、こうして生まれた。


 母がまだ生きていたころ、ペトレの父は、よく彼女に「愛している」とささやいていた。

 父を見て、ペトレは、愛とは嘘の一種なのだと学んだ。この世には、いろんな嘘があるように、いろんな種類の愛がある。その中には、みにくいものや、信用できないものも、山のようにあるのだと。

 それなら、とペトレは思った。

 こんな世界にはさよならしよう。

 ふたしかな真実に囲まれているよりは、最初からぜんぶ正体がわかっている、つくりものの町に閉じこもるほうがずっといい。


 こうして稀代の嘘つきは、現実世界に背中を向けて、ペテンブルクの門をくぐった。

 この世を去る足どりに迷いはなかった。彼の心の中には、ほんのすこしの未練もなかった。



   *



 週に一度、ペトレが時計塔にやってくるたび、シアーシャは青い瞳をかがやかせて、町の話を聞かせてほしいとせがんだ。

「教えてちょうだい! 今週はどんなおもしろいことがあったの? けんかはあった? おまつりは? だれかがだれかを食事にさそったり、だれかがだれかにふられたりした?」

 そこで、ペトレは彼が見聞きしたかぎりのことを、シアーシャに話して聞かせた。それにくわえて、ストリートや建物の名前、どこにどんな人たちが住んでいるかということも、すこしずつ教えてやった。

 ほどなくシアーシャは、ペテンブルクの事情通になっていた。時計塔から一歩も外へ出たことがないのにもかかわらず。

「あなたって物知りね。一日じゅう機械いじりばかりしてそうなのに、ふしぎ!」

 とシアーシャは笑った。

「ああ! わたしも好きなところへ、好きなだけ歩いて行けたらいいのに!」

 ふたりは、しだいにうちとけていった。

 長いあいだ、物言わぬクマとウサギだけが友人だったシアーシャは、話し相手があらわれたことを心の底からよろこんだ。

 ペトレはというと、内心ひどく戸惑っていた。シアーシャの存在は、ペトレにとって、空をとぶ魚、水槽をおよぐ鳥だった。彼がつくった寸分の狂いもない世界に、シアーシャはふたしかな魔法をもちこんだ。ペトレは、シアーシャによって、彼のおだやかな日々がおびやかされてしまうのではないかとおそれた。

 だが一方で、彼女の天真爛漫なふるまいは、ペトレをつよく惹きつけもした。シアーシャの声や、いたずらっぽい微笑みは、ペトレの心に隠されていた泉にとびこんで、次から次へと、見たことのないかたちの波紋をえがいた。その感覚は、不愉快なのに、同時にとても心地よかった。

 ペトレは、親方の道具を借りて新しい歯車をつくり、シアーシャのダンスにゆるやかな動きをつけくわえた。シアーシャは、手をたたいてペトレをほめた。踊りながら、町の景色を心ゆくまで見られるからだ。

 シアーシャは踊った。古い装置につながれた不自由な体で、だれにも真似できないほどうつくしく。

 時計の長針と短針は、ふだんは違うはやさで回っているが、正午になる瞬間には、まるで一本の針のようにぴったりと寄りそう。

 時計塔で出会ったふたりの気持ちも、文字盤を走る二本の針と同じように、刻一刻と、交差し重なる瞬間へと向かいはじめていた。



   *



 シアーシャに恋して以来、ペトレの暮らしは一変した。彼が物思いにふける時間は、日を追うごとに長くなっていった。とくに、時計塔に登る日が近づくと、彼の注意は散漫になり、以前なら絶対にしなかったような、つまらない失敗を何度もおかした。

 ある日ペトレは、止めようとした時計のねじを三度つづけて跳ねとばし、親方にこっぴどくどやされた。

「すみません。ぼくの時計は、狂ってしまったみたいです」

 と、ペトレはうなだれてこたえた。

「ばかやろう! おまえはおれの工房で、いったいなにを学んできたんだ」

 と、親方はどなった。それから、しょげかえる弟子を仕事場から追いだすと、彼に三日間の休みをあたえた。

「狂うまえに整えるのが、おれたちの仕事だろう! わかったらしっかり休め、若造め」


 部屋のベッドに寝そべっても、ペトレの頭に浮かぶのは、やはりシアーシャのことばかり。ペトレは、もとの世界に帰りたいと考えたことは一度もなかった。ペテンブルクは彼の心がつくった町だ。ペトレがこの町を離れれば、町は砂漠の蜃気楼のように、たちまち消え去ってしまうだろう。ペトレは、精巧に組み立てた架空の町の歯車のひとつになって、予定調和の毎日を送りつづけていられれば幸せなのだと信じていた。それが彼の願いだった。

 なのに、彼はいま、シアーシャというとびきりふたしかな女の子に、すっかり心をうばわれている。

 なぜだろう?

 どうしてこんなに心がふるえるんだろう?

 いくら自問自答をくり返しても答えはみつからなかったが、窓からペテンブルクの町並みを眺めているうち、ペトレはふと、こう思った。

(そうだ……。この町に来たとき、ぼくはもう、二度と嘘をつかないと決めたんだった。それなら、自分の気持ちにも、正直に従うべきなんじゃないだろうか?)

 その夜、親方が寝床についたあとで、ペトレはひとり作業場に立った。作業台にかじりつき、夜が白むまで一心に工具をふるった。

 設計図はどこにもなかった。けれど、つくりたいもののかたちは、はっきりと思い浮かべることができた。

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