嘘の町を出ていく

柊らし

 ペテンブルクの町に、ペトレという名の若者が住んでいた。彼は時計技師の見習いとして、年老いた親方の工房に住みこみで働いていた。

 ペトレはこの町の出身ではなかった。ある日の朝、どこからともなくふらりと姿をあらわすと、まだ鍵の開いていない工房の戸をトントンとたたいたのだ。

「なんだ、おまえは」

 戸口の隙間から顔をだした親方は、見知らぬ若者の姿を見て、眉間に深いしわをつくった。ペトレはぺこりと頭をさげて、こういった。

「どうかぼくを雇ってください」

 親方は、ペトレの顔を穴のあくほどにらんだあとで、ぶっきらぼうにいった。

「おまえ、時計がわかるのか?」

「わかりません」

「手先の技に自信があるのか?」

「ありません」

「じゃあ、どうしてうちで働きたいんだ」

 ペトレはこたえた。

「ここに来る前、わけあって、ぼくは一生ぶんの嘘をつきました。だから、もう、ひとつもつきたくないんです。時計にかかわる仕事なら、正直者でいられると思って」

 親方は、ふたたび穴のあくほどペトレの顔を眺めると、彼を山積みの洗濯物の前に案内して、いった。

「やっておけ」



   *



 ペテンブルクでいちばん背の高い建物は、中央広場のそばに立つ、レンガ造りの時計塔だ。

 町のどこからでも見える文字盤の下には、青銅の扉がついていた。扉は一日に一度だけ、正午の鐘の音にあわせてひらく。四角い舞台がせりだしてきたら、からくり人形たちが演じる、五分間のショーのはじまりはじまり。

 太鼓をもったごきげんなクマと、フルートを吹くウサギ。そして主役は、舞台のまんなかに立つ、青いチュチュを着た踊り子だ。彼女は楽隊の奏でるメロディーにあわせて、歯車のついたトウシューズで、くる・くる・くるりとダンスした。

 ある日、最初のターンを決めた直後に、踊り子はとつぜん自分が生きていることに気がついた。

(あら! わたしったら、生きているわ!)

 やわらかい風が頬をなで、まばゆい陽射しがまぶたをあらった。

(わたしの名前はシアーシャ……そう、きっとシアーシャよ!)

 くるり。右に回ると劇場が見えた。

(ああ! あそこではどんな劇が演じられているのかしら)

 くるり。左に回ると工場が見えた。

(ああ! あそこではいったいなにが作られているのかしら)

 足もとの広場には、思い思いの時間を過ごす、たくさんの人びとがいた。

(ああ! あの人たちはどんな暮らしをしているのかしら)

 シアーシャは、もっとたくさんのことを知りたいと願ったが、舞台にしっかりと固定された右足は、彼女に規則正しい踊りだけをもとめた。

 やがて楽隊は演奏をやめ、舞台はするすると後戻りをはじめた。

(待って! わたし、もっと、この世界が見たいの!)

 声にならないさけびもむなしく、機械じかけのドアは閉じ、シアーシャは暗がりに連れ戻された。

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