第5話

「ん……」

 506号室のベッドで、加奈子はゆっくりと目を覚ました。そして目の前にいる私に言った。

「ああ、朝霧さん……やっぱり助けてくれたんですね」

「助けた訳じゃないわ。それよりも、やっぱり私が記者なんかじゃないの、分かってたのね?」

「おいおい、一応病人なんだから……」

 言って、波留が私のシャツの袖を引く。そしてそれを遮ったのは、以外にも加奈子だった。

「いや、いいですよ。自分でやった事ですから……。やっぱり二見先輩は優しいですね」

「朝霧さんが嘘をついているのはすぐ分かりましたよ。記者というには服装がすごく地味でしたから」

 加奈子の言葉に多少のショックを受けながらも、私は黙って聞く。この服は地味なのか……。

「それで、事件の話でしたね」

「ええ。というより、あなたを連れ去った彼女の事が聞きたいわ」

「……私は、幼い頃から"吸血鬼"という存在に羨望のようなものを抱いていました。きっかけは母に連れられて行った美術館で見た絵画です。ムンクの『吸血鬼』……」

「彼女と初めて会ったのは、つい二、三ヶ月前です。彼女は私の理想そのものでした。妖艶な瞳、鮮やかな金髪、紅い唇から覗く小さな八重歯……彼女からはどこか人ならざる雰囲気を感じました。もっとも、それもそう仕向けられていたのかも知れませんが」

「それで、私は彼女に頼みました。私の吸血鬼になってくれないか?、と。かねてより考えていた計画でした。私が吸血鬼に襲われて、それを否定しようとする人間の前にその吸血鬼が現れる……」

「彼女ならその役ができる、そう思いました。そして彼女は……私に口づけをしました。これは隷属の証、彼女はそう言いました。私はその通り、計画を滞りなく正確に進められるよう働き続けました。吸血鬼の噂、鍵を隠す塗料缶の工夫、屋上の仕掛け。そして、私は……」

「……それを実行しました。それが、3日前の事です」

 加奈子は、目を閉じ顔を上に向ける。彼女にとって、ここからの事を語るのは辛いのだろう。私はそれを予想しながらも、黙って彼女の続きを促す。

「ええ、知っての通り私は計画を実行しました。密室の中で血液を抜いて、鍵を隠し、倒れている。うまく行くはずでした。朝霧さんのような方が私を訪ねて来て、メモを見つけて屋上にたどり着く」

「病室で目を覚ました私は、着ていた服のポケットにメモが入っているのに気付きました。一目みて彼女だと分かりました」

「『キミの吸血鬼になるのは辞めだ』……メモにはそれだけが書いてあったんです。比喩じゃなく、目の前が真っ暗になりました。……でも同時に考えました。なぜこのタイミングだったのか?」

「そして見舞いに来た友人の話を聞いて、一つの結論を出しました。彼女もまた私の、そして彼女の計画に気付く人間を求めている、と。そう、朝霧さんのような……」

 私はそう言う加奈子の視線を受け止める。その精悍な表情からは、覚悟のようなものが感じられた。

「あなたが彼女に脅されてた、っていうのは間違いだった訳ね」

「いえ、ある意味では脅されてたのかも知れません。私は彼女の計画に手を貸したのですから」

「そこからは大方予想されている通りです。私は鍵を回収しないし、彼女の事も喋らない。そうして、屋上で待つ彼女に導いた。朝霧さん、あなたを……」

「私の吸血鬼は居なくなってしまいましたけど、私は満足しています。彼女の役に立てたんですから。私がお話できるのはそれだけです、朝霧さん」

 私は彼女がベッドに体を預けたのを見て、息を漏らした。

「……そう。波留、行くわよ」

「もういいのか?」

「いいの。それじゃあね、加奈子さん。また会いましょう」

 そう言うと私は立ち上がり、扉に向かって歩き始める。

「じゃあな、加奈子。退院したら会いに来てくれよ。何か奢ってやるから」

 波留も私に続いて立ち上がる。

「……ああ、一つ間違いを指摘するのを忘れていたわ」

「間違い……ですか?」

 加奈子が言う。

「あなたの吸血鬼は居なくなってなんかいない」

「…………」

「明日になれば分かるわ」


 * * *


 その翌日、構内中がとある噂話で持ちきりになっていた。―――人呼んで"屋上の吸血鬼"。

 目撃証言が学生教師問わず多数出ており、実際に吸血鬼に血を吸われた奴がいるだの、屋上から飛び降りた吸血鬼が宵闇に消えただの、物々しいヘリコプターが飛んでいくのを見ただの、様々な情報が飛び交うこととなった。厄介なのは、その全てが真実であることなのだが。

 そしてその噂には、誰が言い出したか私の名前まで尾ひれとしてくっついてきた。いや、関与したこともまた事実ではあるのだが。そんなことで私の前には連日、

「このクイズを解いてみてくれ!」

 だとか、

「ちょうど一ヶ月前の22時、俺が自室にいたというアリバイを立証したい」

 だとか、

「ぜひ一緒にツチノコを探しにいきましょう!」

 だとか、なぜか色々な連中が押しかけることになっていた。

「ああ、本当に面倒くさいわ」

 私はツチノコ探しを提案してきたUMA研究会の連中を追い返すと、ひとりため息をついた。時計を見る。11時。そろそろ時間だ。私は身支度をして家を出る。


「あ、冬子先輩!」

 病院の前。私服姿の加奈子が駆け寄ってくる。そして私の目の前で止まる、かと思いきやそのまま私に勢いよく飛びついてきた。私は運悪く体幹を鍛えていなかったので、そのまま病院の芝生に倒れこんでしまった。

「……その調子だと、体調はすこぶる万全みたいね」

「はい! おかげさまで」

 えへへ、と上目遣いで笑う加奈子。

 あれから、私と加奈子の間には交流が出来ていた。あの後に見舞いに行った時、塞ぎ込んでいたのが嘘のように明るくなっていた。恐らく"屋上の吸血鬼"の噂を聞いて、彼女が吸血鬼をちゃんと演じてくれたのを知って嬉しかったのだろう。そして話すうちに、私達は打ち解けていった。私達は所謂似たもの同士、というやつだった。

 今日は彼女の退院日である。それで私は彼女を迎えに行くことにしていたのだ。

「とりあえず、どいてくれるかしら」

「あ、はい、すみません」

 加奈子はまた、えへへ、と少し笑う。彼女と話すのは、なんだか妹が出来たようで好きだった。

「構内中、あなたと彼女の噂で持ちきりよ」

「……そう仕組んだこととはいえ、なんだか恥ずかしいですね」

 立ち上がって歩き出しながら、私達は話す。彼女は私よりもかなり背が低い。だからか知らないが彼女は花壇の縁石に足を乗せ、バランスを取りながら歩いている。身長も相まって子供らしくみえる。

「先輩は、彼女のことどう思ってますか?」

 こちらを見つめながら、加奈子は尋ねる。

「今のところは何も。ただ、きっと彼女は私の敵になる……。加奈子こそ、どう思ってるの?」

「えぇー、私に返さないでくださいよう。でもそうだなぁ……」

 そう言って彼女は少し考える仕種をした。

「あの人は私が子供の頃から思い浮かべていた理想の吸血鬼だったんです。それは今も変わりません。でもきっと私、満足しちゃったんです。あれだけ噂になって、みんなが吸血鬼を信じて、満足できたんですよ、たぶん」

「それにほら、言うじゃないですか。人のうわさもなんとやらってやつです。いくら私が演出して吸血鬼の噂話を作っても、いつかは忘れられちゃいますから」

「私、噂を耳にした時、あの人が吸血鬼をちゃんとしてくれたんだーって思うとすごく嬉しかったんです。それはきっと、私の吸血鬼、いや、あの人への思い、憧れがちょっとでも通じたからだと思うんです。私は今でもそう信じてます」

 私はしばらく、黙って歩いた。加奈子も黙ってついてくる。

「……彼女、きっとあなたの事気に入っていたと思うわ」

「なんでですか?」

「……ええ、なんでかしらね」

 私は言いかけた言葉を、寸前で思いとどまって飲み込んだ。

 もう、もったいぶらないでくださいよう、なんて言いながら加奈子は私の後についてくる。

 彼女の純粋で無垢な思い、それこそが吸血鬼に通じる銀の弾丸だったのかもしれない。


 * * *


「で、あんた何してんの?」

 数日後、私は自室を我が物顔で段ボール箱と共に占拠している波留に向かって尋ねた。あくまで紳士的に。これくらいの事で怒っていては彼女の相手はつとまらない。

「いや、ちょっと住ませてもらいたくてな」

「はぁ?」

 おっと、つい語気が強くなってしまったようだ。怒ってはいけない。彼女が勝手に入ってきたのも、その行動を予測して戸締まりをきちんとしなかった私のミスだ。彼女を責めるのは筋違いだ。そうだろう。

「それがちょっとボヤ騒ぎ起こしてアパートを追い出されちゃってさ。いやー、参ったよ」

「聞いてないわ」

「うんそれで、しばらくここに寝泊まりさせてくれ。10年ぐらい」

「だから聞いてないわ。客人が来るの。部屋片付けてちょうだい」

「お! 泊まっていいのか? やったぁー!」

「いいわけないでしょう! とにかくこの段ボール片付けて!」

 我慢できず私の声のボリュームが跳ね上がるのと同時に、チャイムの音が鳴った。

「……来た。とにかくあんたみたいのが居るとお客さんも不愉快でしょうから、その段ボールの中にでも隠れてなさい」

 私はそう言い放つと、客人を迎えに急ぎ足で玄関へと向かう。

「メタルギアか何かか……?」

 小さく波留が呟くのが聞こえた。


 私が客人を連れて自室に戻ると、波留がキッチンに居るのが見えた。隠れてはいないが、こちらに干渉してこなさそうなのは好都合だ。

「わぁ、段ボールがたくさん」

「ああ、気にしないで下さいね。どうぞ、掛けて下さい」

「はぁい」

 鼻につく声で、きらびやかなアクセサリーを沢山身につけている客人は言う。私は最大限の笑顔で話しかけることにした。

「ええ、それで……相談があるんです」

「はい。それはお聞きしました」

「はい、ええ。相談というのはですね……」

「探して欲しいんです……ええ、私の大事な家族……」

「行方不明、なんですか?」

「はい、もうずっと一緒に暮らして……私、ああ、すみません……」

 客人は涙ぐみ始める。

「ええ、お辛いですよね……」

「はい、私の……大事な、ミケちゃん」

「ミケちゃん」

 ことこの瞬間においては、私はオウムと同程度の知性しか持ち合わせなかった。

「昨日から姿が見えないんです……。お願いします、私のミケちゃんを探してくれませんか!?」

「あぁー、それは……実に……、下らない」

 つい思った事が口から出てしまった。

「はい!?」

 客人が俯けていた顔を勢い良く私に向ける。言ってしまったものは仕方ないので、私は取り繕わずに続ける。

「大方あなたが庭で日光浴をして寝てる間にでも逃げ出したんでしょう。町内に張り紙でもしておきなさい」

「なによその態度! しかも私が日光浴してるってなんで知ってるのよ! さてはあなたストーカーね! 訴えてやるわ!」

「まあまあ、お茶でも飲んで落ち着けよ。お二方」

 急に波留が間に割り込んできた。いつの間に作ったのか、手に持った盆には紅茶が乗っている。

「あなたも、ミケちゃんが居なくなって不安なのは分かりますがね。こいつを怒ったって帰ってくるわけじゃありませんから」

 波留には珍しく理知的な言い方だ。私は驚いて波留の方に振り向く。

「え、ええ、そうね……。私、少し気が動転してしまったみたい」

「まずは彼女の言った通り張り紙と、保健所に連絡をした方がいいですよ」

「ええ……、今日のところは帰らせてもらうわ」

 そう言うと、居づらそうに客人は玄関から出ていった。しばし、私達の間に沈黙が流れる。

「……肩の日焼け跡よ」

「なんだって?」

「片方の肩には日焼け跡が無かった。それは寝返りをうったから。蚊に刺された跡があったのはサロンではなく庭かベランダで焼いたから。サンダルには毛がついてなかったから庭で遊ばせてたわけじゃない。……ドアを開けっ放しで庭で寝ていて、猫が逃げるだけで済んだ事が幸運ね」

「別に聞いてないぞ。というかさっきの誰だ?」

「でも聞きたそうだったわ。さっきのは私を訪ねてきた相談者よ。私もちょっとは有名人になったらしいの」

 はあそうか、と波留は軽く流して自分で淹れた紅茶に口をつける。波留の淹れる紅茶はなかなかに美味しい。もっとも、この場合は私が用意した茶葉なので美味しいのは当たり前なのだが。

「さっきの調子じゃ、そのうち誰も来なくなるだろうなぁ」

「ええ、あなたは自分の有用性を示してくれたわ」

「条件は3つよ。洗濯を担当すること、文句を言わないこと。それと」

「それと?」

「私の話し相手になること」

「そんなことでいいのか? もちろん守るぜ」

「……じゃあもうこれはいらないわね」

 私は引き出しから一対のマラカスを取り出すと、名残惜しむように放り投げる。そしてそれはそのまま、波留の持ってきた『不要』と書かれた段ボール箱の中に吸い込まれていった。

「なんだそりゃ」

「この地球上で、私が"友達"と呼べる2つ目の物体……だったものよ。でももう必要ない」

「歓迎するわ、波留。……きっとこれからは、もっと楽しいものが見られるわよ」

「そいつは、楽しみだな」

 波留はそう言うと、楽しそうに目を細める。部屋の隅には、いつか買った観葉植物が枯れ跡から芽を出していた。

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吸血の教示者 kinakonn @kinakonn

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