第23話

 年が明けて1か月がとうとしていた。

 上映が終わり、場内が明るくなった。冬晴れの日曜日に私は銀座ぎんざの映画館でゴダールの新作をていた。別に彼のファンというわけでもなく、蓮實重彦はすみしげひこを経由してゴダールの信者になった同じ大学院の一歳ひとつ年上の友人にゼミのき時間にジガ・ヴェルトフ集団の話を振ったらなんだかおかしな空気になったこともあって、むしろ苦手と言っても良かったが、80歳を過ぎた監督が3Dスリーディー映画を撮るのが物珍しくてつい観に来てしまったのだ。ただ、私は劇場で映画を観る時と自動車くるまを運転する時だけは眼鏡をかけるのだが、普通の眼鏡の上にさらに3D専用の眼鏡をかけるのは屋上おくすような感じがして、いつまで経っても慣れなかった。

 朝から習志野ならしのの農家まで出かけていろいろと話を聞いてきた後で、映画を観に来ていた。春から各地のインゲンマメの生育状況を調べることになって、今年はあちこちに遠出とおでする必要が出てきそうだったが、人間より野菜を相手にする方が今の私には心安い。

 劇場の中はスクリーンに向かってなだらかに下っていて、前方に座っていた観客の様子が良く見えた。その中に1組の老夫婦が居て、歩行がおぼつかずに足を出すたびに上半身をがくがく揺らしている夫の手を取った奥さんが足元と夫の顔を代わるがわる見ながら2人で私の横をゆっくりと通り過ぎて行く。正岡まさおかはどうしているのか、とふと思った。クリスマスから連絡を取っていないうえに、所長も何も話をしないので様子を知ることはなかった。便たよりがないのは無事の知らせ、と思った方が良いのかもしれない。あの皮肉屋がそう簡単に弱るとも思えなかった。しかし、正岡のことを思った頭は、流れの必然で昨年末の苦い思い出を呼び起こしていた。私としては出来れば忘れたままでいたかったのだが。


※                 


 クリスマスの夜に目を覚ました私は完全な無気力状態におちいっていた。まっさらなシーツのおかげで死を考えるほど落ち込みはしなかったが、それでも健康な魂を取り戻すことはできなかった。もう何もしたくはなかった。ユニバーサル貿易の仕事おさめを体調不良を理由にすっぽかし、年内に予定されていた調査もすべてキャンセルしてしまった。来月の収入を考えるとふるえが来るが、その時の私はとても仕事のできる状態ではなかった。朝から晩までずっと寝床の中で胎児たいじのように体を丸めて食事もろくらないようになり、水だけをやたらに飲んだ。あまりに空腹で、内臓も何もかもが消え失せて、腹を押すとゴム人形のように愉快な音を立てるのではないか、そう思えるほどだった。

 こんな私を見たら阿久津あくつはどう思うだろう、とあまりに寝すぎて冴えてしまった頭で何度も思った。彼は私を感情的にさせようとして、そのたくらみは中野なかののバーでは上手く行かなかったが、時間差で私を駄目にすることには成功していた。あんたの狙いは当たったよ、と報告してあげたかった。阿久津との会話の中で思わず口走ったことが、今になって私の中でブラックホールのように重くなって、私自身を壊そうとしていた。

「僕は彼女を愛しているんです」

 どうしてそんなことを言ったのか、時間が経ってもよく分からなかったが、急場しのぎのための出まかせにしては、心に深く刺さりすぎていた。ただ、「言葉にすれば嘘になる」という流行はやり唄によくあるフレーズは必ずしもそうではないこと、それだけはよく分かっていた。だが、それが分かったからといって、何か行動に移すつもりはなかったし、移すことはできなかった。そんな意気地いくじは私にはない。

 ベッドの上からも彼女の存在を感じることができた。何が私を駄目にしたのだろう。調査が終わって燃え尽きたせいか、過去の恋人への後悔の念か、それとも現在を生きる彼女への未練なのか、あるいはその全て。そんな問いかけにも彼女は答えてはくれない。いつしか私は彼女を見て見ぬふりするようになっていた。


 いつの間にか大晦日おおみそかの昼になっていた。カーテン越しに窓から見える今年最後の空が何処どこまでも青い。そのあざやかさが目にみたからでもないが、知らず知らずのうちに涙を流していた。仰向あおむけになってみぞおちに右のこぶしを強く当てて声を出さずに、しかし我慢することなく思い切り泣いた。そのうちに泣き疲れて眠ってしまう。まるで子供のように。そう、私は子供なのだ。


 わずかな時間しか経っていないはずなのに、次に目を開くと部屋の中は真っ暗になっていた。枕元のスマホで確認すると午前2時30分。年が明けていた。その瞬間、私はこのままではいけない、と唐突とうとつに気が付いた。このままでいいはずがなかった。よろめきながら立ち上がってシャワーを浴びる。1週間近く栄養もあまり摂っていないのに、ひげ律義りちぎに伸びていたのを笑った後で剃り落とす。剃刀かみそりを洗うと蛇口じゃぐちから出た水が一瞬だけピンクになった後ですぐにまた透明に戻った。3組だけ着替えを詰めたデイバッグを背負ってから、玄関でスニーカーをきながら家の中を見渡すと、またあの部屋に戻っていた。窓のへりに腰かけて彼女が私の方を見ていた。いつものような笑顔ではなく、無心で私を見詰めている。はしばみ色の瞳は私を拒絶も否定もしていない。どうして今までそれに気付けなかったのだろうか。私が何よりも好きだった美しい瞳に向かって、ごめん、と何故か謝罪の言葉を口にしてから明かりを消すと、彼女の姿も闇に溶けて見えなくなった。

 夜明け前の一番暗い道を歩く足取りは妙に軽かった。所沢ところざわ駅前のコンビニで買った缶入りのコーンポタージュスープを飲むとやっと人間に戻れた気がした。始発電車で羽田はねだまで向かうと、黄色いカラーリングのせいでバナナ以外の何物にも見えないLCCエルシーシーの飛行機で故郷ふるさとへと戻った。


 正月の沖縄は思いのほか寒く、軽装で来たのを多少後悔する羽目になった。いきなり帰ってきた息子を実家の両親はあまり歓迎せず、かといって迷惑がってもいなかった。帰ってくるなら前もって連絡くらいしなさい、と母は毎日私の顔を見るたびに愚痴ぐちをこぼした。かつての私の自室は今では家中の不要なものが集まった雑然ざつぜんとしたほこり臭い楽しい部屋になっていたが、一向に気にすることなく何処か湿しめった感じのするベッドに横たわって、積まれた段ボール箱の陰に隠れた本棚に刺さっていた本を読めるだけ読む日々を過ごした。家族以外の誰とも会いはしない。帰ってちょうど一週間目に父と一緒に明け方から泊港とまりこうへ行って二人並んで釣りをしてきた。特に会話をするわけでもなく、二人とも釣果ちょうかはさっぱりだったが、帰り際に防波堤ぼうはていの向こうで粟国島あぐにじま行きのフェリーが沖へ向かうのを見ているうちに、もう十分だ、という気持ちが突然いてきて、家に帰るとすぐに荷物をまとめて最終便さいしゅうびんで東京へ戻ることにした。どうしてあんたはいつもいきなり、と叱ってくる母に頭を下げられるだけ下げてから、実家を後にする。そして、東京に着いて、午前0時を過ぎた冷え切った部屋に戻ってきた時、彼女の姿はそこにはもうなく、それからもあの部屋に戻ることはもうなかった。


 私は通常営業に戻った。実家から帰った次の月曜に事務所に赴いて所長に年末の非礼をびると、

「そういえば君、いなかったな」

 で済まされたので、いささか拍子抜ひょうしぬけした。白石しらいしさんは白石さんで、

「分かってるって。ふられてやけ酒を飲んでたんでしょ。男の子だからしょうがないよ」

 と当たらずとも遠くないことを言って来たので、やはりこの2人にはかなわない、と思わざるを得なかった。早く森永もりながさんに戻ってきて欲しかったが、春先までは無理なようだった。


 ジュンローとは成人の日に高田馬場たかだのばばで一緒にラーメンを食べに行った。成人の日だからといって特別な意味合いは何もないわけだが。

「俺、大丈夫なんスかね。あんなに騒ぎになっちゃって」

 会うなりこんなことを言ってきて、何を心配しているのかと思えば、阿久津の件だった。そう言われるまで忘れかけていた自分に少し驚く。書き込みの危険性にはできればもっと早く気づいて欲しかったが、これにりてなんでもかんでもネットに情報を流すのはやめるのであれば、阿久津もひとつくらいはいいことをしたと言えるのかもしれなかった。それから、あなんが怒っているとようやく伝えられたのだが、

「うわ。見られてたスか。それはマズった」

 と話を聞くなりジュンローは頭をかかえてしまった。自業自得じごうじとくもいいところなのであまり同情できない。

「よく分かんないんだけどさ、どうして彼女と一緒にいるのにそういうことをするわけ?」

「あなんとするのは好きなんスけど、一人でするのも楽しいスよ」

 同列どうれつのように語ると、あなんがまた怒るに決まっていたが、面倒なので注意しない。もちろんあなんにも言ったりはしない。

「やめられない?」

「無理スね」

 即答そくとうだった。これではあなんの謎のプロジェクトが発動するのもそう遠いことではなさそうだ。私も何か手伝わされるみたいだが、一体何をさせられるのやら。とりあえず、あなんが泊まりに来た時だけは絶対にやめろ、と厳命げんめいしておいた。できなければ腹を切れ、介錯かいしゃくは俺がやってやる、と言うと、ジュンローはおびえて首を何度も縦に振っていた。それを見て妙なテンションではしゃいでしまったのに気付いて自分が嫌になった。介錯って首切り浅右衛門あさえもんじゃあるまいし。

 それから話は阿久津の騒動に移った。驚いたことにジュンローは今度「種無しスイカ」さんと一緒に仕事をするという。

「コラムを書いてもらうスよ。彼女の文章はきらきらしてるじゃないスか」

 独特の表現だったが、うなずける意見ではあった。何処に人生の転機があるのか分からないものだ。ジュンローは既に一度彼女と会っていて、阿久津についてもいくらか詳しい話を聞いていたらしい。

「彼女が言うには、その時の阿久津さんはあまり楽しそうじゃなかったみたいスね」

「写真を撮りながら興奮してた、って掲示板に書いてなかった?」

「興奮してても楽しくはない、ってことスかね。なんかちょっと違う、というか」

 もしかすると、阿久津は自分から脱いでくれる女の子よりも、最初は嫌がっている女の子を脱がせる方が好きなのかもしれない、となんとなく思った。その点で言えば、ワークショップの女性参加者を脱がせる時の彼は「楽しかった」のだろう。自らのせいに振り回された阿久津にわずかながら同情しつつ、替え玉を注文した。年末に絶食したおかげで落ちていた体重は、またすぐに戻ってしまうのだろう。


 今年に入って一番嬉しかったのは、ヨコタニから電話がかかってきたことだ。別にトンボそっくりのおじさんと話せたのが嬉しかったわけではなく、彼から聞いた話がとても喜ばしいものだったのだ。

「女房と娘に叱られましてね。“パパもあんな写真を撮ってるの?”って。誤解を解くのに苦労しましたよ」

 ニュースになって以来、ヨコタニはワークショップに出ておらず、このまま辞めるつもりだという。

「私に人を見る目がなかったんでしょうけど、まさか阿久津さんがあんな人だったとはねえ。本当にびっくりしました」

「他の参加者の方がどうされているか分かります?」

「私と同じでほとんどやめちゃったと思いますよ。とりあえず、テッペイとカヨちんからはやめるって連絡がありました」

 これを聞いた時にはアニメの『フランダースの犬』のラストのように天使が舞い降りてきたかのような気分になった。もちろん、私はまだ天国へは行きたくなかったし、そばに忠実な老犬がいるわけでもなかったが、とにかく私のやろうとしたことが全くの無駄ではなかったと分かっただけで、それだけでもう十分だった。この世の物事はオールOKオッケーだ。

赤根あかねさんにも連絡したんだけど、いまひとつ煮え切らない感じでした。まあ、彼は阿久津さんと一緒に仕事もしているから、縁を切れないのも分かりますけどね」

 赤根が阿久津と一緒に女性のヌードを撮っていたのをヨコタニは知らないようだったし、知らせない方がいい気がした。

「プロキオンさんはどうなのか分かります?」

「ああ。彼のことはちょっと分かりません。こう言ったら悪いけど、どうも取っつきにくい人でしたから。でも、確かに気になりますね」

 徳見とくみくんの行方ゆくえまでは分からなかった。それから、ヨコタニは自分がACT2アクトツーに参加したいきさつを語り出した。辞めるにあたって、心の整理をつけたかったのかもしれない。

「画家になりたくて予備校まで行ったんですけど、親の反対とかいろいろあって諦めたんです。就職して結婚して子供も生まれて、さあ、これからどうしよう、と思った時に癌になって死にかけて。それで、本当にやりたいことをやらないと後悔する、と思ってもう一度絵を描き始めたんですけど、自分にはインスピレーションが欠けているのは学生の頃からよく分かっていて、何を描いてもありふれた絵にしかならないのをつまらなく思っていたんです。それで悩んでいる時に阿久津さんの本を読んで、この人の美的感覚は凄い、と感動して、教えをおうとワークショップに参加したんですけど、結局あまりためにはならなかったかな」

 どんな人にも物語があるのだ、と実感させられる。ヨコタニだけでなく他の参加者にもそれぞれのストーリーがあるはずだった。阿久津はそれを理解していたのだろうか、と責めるつもりもなかったが、なんとなく考える。

「でも、せっかくの経験を無駄にするのは嫌だから、あそこで知り合ったみなさんとたまに会おうと声をかけているんです。テッペイ、カヨちん、もう10名ちょっとは集まってくれそうなんです」

「へえ。それは凄いですね」

「あ、そうそう。あの人、カシオペアさんにも声をかけたんですよ」

 思わず背筋が伸びる。

「カシオペアさんにも連絡を取ったんですか?」

「電話番号だけは聞いてましたから。それで話をしてみたんですけど、阿久津さんの件はショックであまり思い出したくない、と凄く落ち込んでいて本当に気の毒でした」

 ヨコタニは彼女がモデルになったことも、そして彼女のブログのことも知らないようだった。写真を撮られたのに加えてブログでの告白がネット上で揶揄やゆされたのも、彼女を深く傷つけたことに疑いはなかった。

「でも、今すぐでなくてもいいから、落ち着いたらまた連絡してください、と伝えたら、一応“はい”と言ってくれたので、僕はそれまで待つことにします」

「そうですか。連絡してくれるといいですね」

 自分を助けられるのは自分しかいないから、他の人間は信じて待ち続けることしか出来ないのかもしれなかった。

「それでですね、僕はソリガチさんにもぜひ集まりに参加して欲しいんです」

 どうしてヨコタニは私を気に入っているのか、つくづく不思議だ。本当に大したことをしていないから、前世ぜんせからの宿縁しゅくえんとでも思うしかない。それはさておき、ヨコタニの誘いは有難ありがたいものだったが、私はあまりに阿久津の内幕うちまくについて知りすぎていた。そもそも本気で何かをやろうとしていたわけではなく、調査のためにワークショップに参加していたのだ。そんな人間がかつての参加者たちと一緒にいるのはあまり適当とは思えなかった。結局、私は銀行員らしい執拗しつような勧誘を適当にはぐらかして電話を切ってしまった。彼からの電話に出ることはもうないだろう。人との付き合い方が分からない私には、人との別れ方も分かるはずがなかった。


 そして、阿久津世紀あくつせいきは今どうしているのか。東京のテレビ番組で見かけることはなくなり、彼がたびたび自慢していた自らプロデュースしたパフュームは発売延期になり、徳見くんが言っていた客員教授の件もキャンセルされたと聞く。しかし、別に社会的に抹殺まっさつされたわけでもなく、地方でのテレビのレギュラーは継続していたし、新聞での週1回のコラムの連載も続いていた。大阪ローカルのお笑い番組では、落とし穴にひっかかって全身粉まみれになっていたらしい。かの超大型匿名掲示板に集う人々の中には、あんな騒動を起こしておきながら手ぬるい、と今でも怒っている者もいたが、そんな人はどうしたところで満足するはずもないのだろう。見たくないものを見ないようにするのも生きる知恵の一つだ、とおばあちゃんは教えてくれなかったのか。毎週日曜のインターネットの生配信は今でも続いていて、その中でだけは騒動前と変わることなく、元気に振舞っていた。私はもうチェックしていなかったが、前回の放送で阿久津が突然右の手の甲に真っ赤な薔薇ばらのタトゥーを入れたのを発表した、というのをあるニュースサイトで見かけた時にはさすがに驚いた。「タトゥーを不良や犯罪者がするものというのは偏見でしかなくて、古来こらいから伝わる立派な文化の一つ」などとまた理屈をこねていたようだが、ニュースサイトに載っていた画像で見る限り、薔薇というよりはきれいに盛りつけられたしゃぶしゃぶの牛肉にしか見えなくて、笑わせようとしているのか、と不審にられたほどだった。ただ、右の甲といえば、あの夜私が触れた場所である。それを考えると何故か息苦しい。ともあれ、いろいろあったにせよ、彼は今でもなんとか生きている、それだけは確かだった。

 結局、阿久津とは何者だったのか、調べを尽くしても私には分からなかった。ただ、有りもしない才能を有るかのように見せかけて世の中を泳ぎ回っている連中はごまんといるが、そのような人種とも違っているように見える。かつてのマグニの仲間たちが、彼を「凄い」とめるのは身贔屓みびいきだとばかりは言えない、というのはわずかな期間接しただけの私にも分かった。阿久津は確かに「凄い」男なのだ。ただ、何処が凄いのかは分からない。彼自身も自分の「凄さ」に気付いていながら、それをどう生かせばいいのか分からずにのたうちまわっている、そんな感じだった。そして、自分が「凄い」ことだけは分かっているから平凡に生きることもできなかったのだろう。彼をうらやむべきでも憎むべきでもないように思った。何処にでもよくいるやつさ、とうなずいてそのまま通り過ぎる、それが阿久津にとっても一番いい対応のような気がしていた。考えが甘すぎるのかもしれないが、私はどうしてもそういう物の見方しかできないのだろう。ドーナツの穴からのぞいたように歪んだ見方しかできないのだろう。


※                 


 私の座っていた席の列を、係員が片付け始めていた。ジュースの紙パックをほうき箱状はこじょう塵取ちりとりの中に押し込もうとしていたが、はしに引っかかって上手く入れられない。それくらい大きなゴミなら手で取った方が早いのに、と思いながら立ち上がる。気が付くと私以外の客はみんな既に劇場から出て行ってしまっていた。

 ロビーで公開予定の映画のチラシをながめているうちに、胸の中に言葉がまたよみがえってきた。

「僕は彼女を愛してるんです」

 この言葉から逃げられはしないようだった。日常の何処かで不意に顔を出しては私を振り出しへと引き戻す。意地の悪いすごろくで遊んでいるような気分だ。決してあがれもせず、やめることもできない。どうしたものだろうか。自動販売機でペットボトル入りのホットのカフェオレを買いながら思い悩む。そうは言ってもあまりに慣れっこになったせいでさほど深刻しんこくにもなれない。

「やらない理由を探してどうするの」

 白石さんに怒られたのもたまに思い出す。会いに行くべきなのだろうか。しかし、生憎あいにくと私はやらない理由をいくらでも見つけ出す名人だった。天気が悪い。頭が痛い。腹に肉が付いた。犬がかれていた。年齢としが離れている。彼女のためにならない。断られるのが怖い。とにかく怖い。やらない理由は本当にいくらでもあった。しかし、それでも、ただひとつだけあるやりたい理由が、無数にある否定的な意見と拮抗きっこうし、そして時には勝利を収めそうになることもあった。それが何なのかは言いたくないし、言ってしまえばその時点で行動に移さねばならないのも分かっていた。そういえば、白石さんはあれから彼女について何も言ってこなくなった。ただ一度だけ、「私が何も言わなくても、どうせソリガチさんはやることをやっちゃう人だもんね」と妙に優しく言われたのは覚えている。同僚の頼りになるおばさんの言うことはいつにも増して意味不明すぎた。

「まあ、いいさ」

 自らをあわれむように溜息ためいきをついて、ゆるやかな螺旋らせんを描く階段を降りていき、その途中でキャップをひねって、甘く熱い液体を咽喉のどへと流し込み始めた。時が経てば、栄光も恥辱ちじょくも全ては過去のものとなる。長い間うだうだと思い悩んでいることもいずれはそうなるのだろう。今はそうでなくても。

 もう暮れているだろう、と思っていた空はまだ青かったが、寒さだけは夕方のものになりつつあった。映画館の前の狭い路地を抜けて晴海はるみ通りに出たその時、私の目の前にフランス人形が立っていた。人形は何故か私の顔を見て固まっている。もちろん、人形が自分だけで街中まちなかを出歩けるはずもないから、これはフランス人形の格好かっこうをした若い女性だとすぐに分かった。そして、私は彼女のことをとてもよく覚えていた。護島ごとうさんだった。

 彼女は黒く長いドレスを身にまとっていた。ゴスロリ、というファッションがあることくらいは知っていたが、ロリータっぽい感じはないから、これは純粋にゴシックと呼ぶべきなのだろう。大きくふくらんだそでと段が付いたすそが目をいた。黒だけで統一されていたが、おそろしく微細びさいな模様が服の表面にほどこされているのも分かる。頭には同じく黒いフリルのヘッドトレスをかぶり、私の記憶の中でひたすら白かったその顔はしっかりメイクをしたせいでさらに白く見え、やはり私の記憶の中で大きかった目もメイクのせいでより大きく見えた。ただ、瞳はいつものはしばみ色だったので何故か安心した。しかし、白かった彼女の顔は今や赤く染まり出していた。風変わりな格好を知り合いに見られて、しかも決して良くは思っていないはずの私に見られたのだから、無理もないことだった。

「えーと、護島さん?」

「違うんです」

 このハスキーな声を聞くのも久しぶりだった。

「うん?」

「これは違うんです。たまたま友達に誘われて、イベントに出て、その帰りで。私は嫌だったのに、一度出てみようって言われて。でも、だから嫌だって言ったのに、こんなことになって、ああ、もう!」

 ただでさえ目を惹いていた彼女が取り乱し出したので、通行人は遠慮することなく凝視ぎょうしするようになっていた。それが恥ずかしいからではなく、そんな彼女を見るのがつらくて、私はなだめようと一歩だけ近づいた。

「いいから。大丈夫だから。落ち着こう。ね?」

 阿久津のおかげで奇抜きばつなファッションには免疫めんえきができていたが、すぐに、あいつと一緒にしちゃだめだな、と思い直した。阿久津は明らかに本人の資質に逆らった無理な格好をしていたが、今日の護島さんはとても良く似合っていたのだ。

「嫌です。そんなの無理です。こんなところを見られて落ち着いてなんか。ああ、もう。しかも、よりによって、あなたなんかに」

「ごめん。本当にごめん。僕がここにいたのが悪かったんだ」

 自分でも何故あやまっているのか分からなかったが、そうせずにはいられなかった。

「もう。ほんとにもう。もう、あなたなんか死んじゃえばよかったのに」

 思わず固まってしまった。これか、と思っていた。白石さんやあなんが言っていたやつだ。話に聞いた時には、そんなに私のことを嫌いなのか、とショックを受けたものだが、しかし、今こうやって実際に耳にしてみた感想は違っていた。私だけでなく護島さんも取り乱すのをやめて固まっている。自分がひどいことを言ってしまったと思っているのだろう。

「あの、すみません。私、なんてことを」

「嫌じゃない」

 彼女がうるんだ眼を見開いて私を見つめた。泣いたらメイクが崩れてしまうから、なんとか落ち着かせてあげなければ。

「え?」

「いや、そりゃショックなんだけど、それだけじゃない。君にそう言われるのは嫌じゃないな、全然。むしろ、ちょっと嬉しいくらいだ」

 フランス人形が「うわ何こいつキモい」という人形にあるまじき表情で私を見ていた。こちらとしては若干じゃっかんの本気も込めつつ精一杯のフォローをしたつもりなのだが。

「こんな休みの日に外で堂々と何を言ってるんですか。変態だったんですか、あなた」

 ぼそぼそと憎まれ口を叩かれて思わず反撥はんぱつする気持ちが芽生える。

「休みの日にそんな格好で外を堂々と歩いてる人に言われたくない」

 また目が潤み出した。せっかく落ち着こうとしていた彼女をまた動揺させてしまったので、私も一緒になって動揺してしまう。

「ごめん。そんなつもりじゃないんだ。その。本当に大丈夫だからさ。確かにちょっと変わった、目立つ格好だけどさ。よく似合ってるから大丈夫だよ。だから、泣かないで」

「泣いてなんかいません」

 その言葉に反して鼻の頭が赤くなり始めていた。暗色あんしょくのルージュが引かれた口元をタオル地のハンカチで押さえようとしたのを見て思わず噴き出してしまう。

「何がおかしいんです?」

 明らかにむっとしている。

「いや、だって、服はみんな黒いのにハンカチが白いから、つい」

 私の言葉に彼女はあわてて、

「いいじゃないですか、それくらい。ケチをつけないでください」

 と言いつのってきた。そうは言いながらも自分でもまずいと思っていたのが伝わってくる。「キャラクター設定」に合わない、と阿久津なら言いそうだ。

「でも、黒いハンカチくらいありそうなものじゃないかな」

「ありますよ。ありましたけど、手触りが好きじゃなかったんです」

「ああ、そういうことか。なら、白でも構わないかもね」

 私が一人で納得すると、

「はい、そういうことです」

 と彼女も頷いて、もう一度口元をハンカチでおおった。もう涙は引っ込んだようだった。

 どうにか落ち着いてくれたようでよかったが、私は心の中で護島さんの今日のファッションを正当化する努力を続けていた。ゴスロリの女の子を街で見かけるのは今では決して珍しくはないし、休日の銀座でフランス人形みたいな女の子が歩いていたっていいじゃないか、それに少し足を延ばせば宝塚たからづかの劇場だってあるんだし、そこまで場所柄ばしょがらをわきまえない服装でもないんだ、うん、そうに決まっている。そんな風に納得しかけたところで、

「ソリガチさん、はろはろー」

 あなんが現れた。このとも吉祥寺きちじょうじで会って以来になるが、彼女を見た瞬間に、護島さんの服など可愛いものだったのだ、と痛感させられた。駱駝らくだ色のカウボーイハットをかぶり、フリンジがたくさんついたやはり駱駝色のウエスタンジャケットを着ていて、そこまではいいのだが、どういうわけかその下には花柄はながらのビキニをつけてデニムのショートパンツを履いている。太腿ふともももおなかも完全に露出していて、形のいいへそも丸見えで目のやり場に困る。そして一番気になるのは左の腰からぶら下がった日本刀だ。世界観が全くもって理解できない。真っ赤なさやに収まっているとはいえ、よく今まで職務質問されずに歩けたものだ。近付いてきた彼女に言いたいことは山のようにあったが、最初に口から出たのは、

「寒くない?」

 心配の言葉だった。1月の東京では自殺行為に等しい服装で、現にあなんの唇は紫色になっていた。

「やりたいことをやるからにはそれなりの犠牲が必要なんだよ。ノーペイン・ノーゲイン!」

 言っていることは格好いいが、そこまでして着たいコスチュームなのだろうか。左目の下には赤いしずくのようなシールが貼られていて、どうやら返り血を意味しているらしいが、だから一体それはどんな世界観なのか。それより問題なのは、ぎりぎりセーフの範囲になんとか収まっていた護島さんのファッションがどう見てもアウトなあなんのおかげでつられてアウトになってしまったことだ。ダブルプレイ成立。私も一緒になってスリーアウトチェンジか。

「君たち2人が友達だというのは聞いてたけど、一緒にいるのを見るのは初めてだ」

「うん。さっきまでそこのホコテンでやっていたコスプレのイベントに2人で一緒に参加してた。エポちゃんが凄く評判良くて、嬉しかったあ」

 今日は日曜日だから、中央通りでは歩行者天国を実施しているはずだった。ここからなら歩いてすぐだ。それにしても、あなんも「エポ」と呼んでいるのか。

「僕も詳しくはないんだけど、こういう衣装って会場にある更衣室こういしつとかで着替えたりしない?」

「そうなんだけど、用意された場所が凄く混んでて。この辺なら他に着替えるとこありそうだから出てきちゃった」

 みんなコスプレのまま出てきたら銀座が百鬼夜行ひゃっきやこうの様相を呈してしまわないか心配になる。

「護島さんも着替えられなかったのか?」

「ううん。エポちゃんは家からあのまま来たから」

 凄いな。ご両親は何も言わなかったのか。呆気あっけに取られている私をよそに、あなんは護島さんに話しかけていた。

「エポちゃん、やっと見つけた。もう何処に行っちゃったかと思ったよ」

「あなんさんこそ勝手にいなくならないでください。凄く心配しました」

「そう? ごめんね」

 それまでは、年齢こそ同じだがそれ以外はまるで違う2人としか思っていなかったが、こうして見るととても仲の良い友達以外の何物でもなかった。そして、私の中でずっと気になりすぎてマグリットの岩のように大きく硬くそれでいて宙に浮いていた疑問がようやく砕け散ろうとしていた。

「そうか。君たちはコスプレ仲間だったのか」

 思わぬ発見に興奮する私に2人の女の子はつれなかった。

「あれ? 言ってなかった?」

「今頃気付いたんですか?」

 2人とも説明してくれないのだから分かるわけないだろう、と文句をつけたかったが、謎が解けて満足しているので大目に見ることにした。その後2人が語ってくれたことによると以下のような事情らしく、護島さんの簡潔すぎる説明とあなんの散漫さんまんな説明を私なりにまとめてみる。あなんはイベントでコスプレするだけでなく、自宅でコスプレをして撮った写真を会員制のSNSエスエヌエスで公開していたのだが、そこに護島さんも参加してきて、自分とは傾向けいこうの全く異なる同い年の女の子にあなんはすぐに好感をいだき、引っ込み思案の護島さんに無理矢理迫る形で友達になったのだという。それまで護島さんは自室の中でこっそりと自分で作った華やかな衣装を身に纏うだけで満足していたようなのだが、あなんがたくさんの人に見てもらったらいいとすすめてきて、結局押し切られる形で今日銀座までコスプレでやってきて、そこで偶然私に出くわしたのだという。すると今日の黒いドレスも自分で作ったのか。なんてだ。

「もう、なんというか、とんでもない不運ですね」

 護島さんが黒いレースの手袋を付けた右手で顔を覆う。やはり私と会ったのがそんなに嫌だったのか。

「そんなことないよ。私はソリガチさんと会えて嬉しいし、エポちゃんだってそうでしょ?」

「ちょっと、変な事を言わないで」

「でも、だってこの前」

 さっきまで自分の顔を覆っていた手袋で、今度は何か言いかけたあなんの口を押さえようとする。実に多様な使用法だ。会社を辞めた護島さんがどうしているか心配だったが、これなら大丈夫そうだと安心する。所長と白石さんに伝えた方がいいのかもしれないが、服装のことまで伝えるべきだろうか。フランス人形とビキニの剣士がみ合う不可解極まる光景をしばらく見守っているうちに、へくちん、とあなんが可愛かわいらしいくしゃみをした。

「鼻。出てますよ」

「ありがと」

 護島さんがあの白いハンカチであなんの顔をじかぬぐう。それを見ているうちにふとひらめいた。

「あのさ」

 2人が「あれ? いたんだ」という表情で私の方を見たので口ごもってしまう。月下げっか黒薔薇くろばら真夏まなつ向日葵ひまわり。まるで違う花のような2人の女の子に間近まぢかで見詰められて平気でいられる男がいるなら連れてきて欲しいものだが。

「ご飯でも食べようか。僕がおごるから」

「やった!」

 あなんは飛び上がって喜んでいたが、護島さんは眉をひそめて私に文句を言ってきた。

「そんなの困ります。だって私こんな格好ですよ?」

「でも、あなんを見なよ。ひとまずあの娘を何処か温かいところに連れて行って着替えさせないと、あのままだと風邪をひいてしまう」

 護島さんもあなんを心配していたようで反論できない。

「それにさっきも言ったけど、今日の君の格好はとてもよく似合っているから、何処の店でも大丈夫だって」

 褒めたつもりだったが、彼女は全く嬉しそうにせずに、

「ならしょうがないですね」

 と仕方なさそうな態度で頷いた。褒め甲斐のないだ。

「ねえ、お店は私が選んでいい?」

 あなんが跳ねるようにして前を歩いていく。だめだ、と言ってもどうせ彼女が選ぶに決まっていた。この娘たちと一緒に牛丼屋にでも入ったら他の客にどんな目で見られるのだろう。

「せっかくだから高いところにしようっと」

 さらりと怖いことを言ってくれているが、吐いたつばは飲めないから仕方がない。

「いいんですか? お金は大丈夫なんですか?」

 護島さんは私の横にぴたりとくっついていた。まるでそこが自分の定位置でもあるかのように。

「余計な心配はしなくていいから」

「聞きましたよ。年末にさぼってみんなに迷惑をかけたって」

 白石さんだな。彼女たちの情報網を破壊しなければ私の未来は危うい。

「ちゃんと休みの連絡はしたよ」

「社会人としての自覚が足りないんじゃないですか。だいたいあなたは前から」

 彼女はすっかりユニバーサル貿易に勤めていた頃に戻っていた。人形みたいなに説教されるのも妙な具合だったが、そのうちに言葉が口かられていた。

「そうだなあ」

 叱られている人間にしてはのんびりしすぎた口調だったので、護島さんの表情が引きって、また何かを言いかけたところで、

「僕は君がいないとだめなのかもしれない」

 そう言っていた。護島さんの顔色がより白くなり、うつむいたままいきなりとか馬鹿とか聞き取れないほどの小さい声でつぶやき続けている。彼女を前にすると、自分が何を言っているのかよく分からなくなる。あの「死んじゃえばいいのに」をもう一度聞きたい気もしたが、それを頼むと完全に変態になってしまうな、と思ってから、何考えてんだか、と自分にあきれて思わず天をあおいだ。飛行機雲が右下から左上へと駆け抜け、東京の空を二等分している。ずいぶんと大胆な切り取り方だ、と思ったその時、「これもまた巡り合わせなのかもしれない」と不意に閃いた。もう会わないと思っていた、会いたくても勇気がなくて会いに行けなかった彼女と今こうして会えたことにも何か意味があるのかもしれない。閃きがただの錯覚だったとしても、上手く行かなかったとしても、それならそれでもいい。家に帰って3日くらい寝ればいい。昨年の末よりは時間もかかるまい。

 そう思ったせいなのか、私は足を止めて彼女をしっかりと見ていた。それに気付いた護島さんも足を止めて私を見ている。この1か月余り、私を引き戻していた言葉は胸の中にすっかりみ渡ったのか、もう聞こえなかった。

「久しぶり。元気そうで安心した」

 それだけが言いたかった。それから始めるしかないと思った。私の声を聞いた護島さんが瞳を揺らせた後で、その目を眩しそうに細めた。

「こちらこそ。お久しぶりです」

 神保町じんぼうちょうで別れた時と違って、まだ日はかたむいてはいない。私に向かって微笑みかけてくれている、そんな確信があった。あったものの、思いがけない好意的な反応に戸惑い、全身が固まって頭に血が上ってきてしまった。

「あ、あの、その、これからもどうぞよろしく」

「え」

 言葉の中身に驚いたのか、それとも私のひっくり返りそうになった声に驚いたのか、護島さんの動きが急におかしくなる。外見が外見だけにゼンマイ仕掛けで動いているようだ。

「あ、はい。それはどうも、ご丁寧ていねいに。ありがとうございます」 

 私たちはぎこちなく挨拶あいさつわしった。

「ほら、2人とも遅いよ。早く行こう」

 戻ってきたあなんが私の右腕を抱え込んで前方へと向かって引っ張っていく。いきおい彼女と私の身体が密着するかたちになる。有明ありあけでも吉祥寺でもくっつかれて大して慌てなかったはずだが、それらの時とは今日のあなんの露出度がかなり高いことだけが違っていて、それは実に大きな違いだった。彼女の素肌の感触がジャケット越しに伝わってきてとても平静を保てない。腕は何とか振りほどけたがそれでも右掌みぎてを放してくれない。手をつないだだけなのに、頭は白熱したままだ。さっきは護島さんに挨拶して熱くなり、今度はあなんに触れられて熱くなる。冬なのに熱中症になってしまいそうだ。

「あなん。お願いだから放してくれないか?」

「だめだめ。このままだと日が暮れちゃう。それにやっぱり寒すぎて死にそう」

 私の気も知らないであなんはとても楽しそうだ。鼻唄まで歌っている。

「ちょっと、ソリガチさん。あなんさんから離れてください」

 追いかけてきた護島さんが何故か私を怒る。

「ええっ。だって、ソリガチさん暖かいもん。離れるのやだなあ」

「人をカイロみたいに言わないで。いいから離れて」

 もっと言ってやれ、と人任せにしてしまったが、あなんはにっこり笑うと空いている左手で護島さんの右手首を取った。ゴシックファッションの女の子が慌てる。

「あなんさん、何をするの」

「どうせなら3人でくっついちゃおうよ」

 解決策どころか、話を余計にややこしくするアイディアを捻り出したあなんは、そのまま私と護島さんを引き連れて小走りになった。もつれ合ったおかげで転びはしないか心配になったが、あなんは全く体勢を崩すことなく駆けていく。コスプレの時に身体を美しく見せるためにきたえているようだった。まさしくノーペイン・ノーゲインだ。あなんのおかげで護島さんともかなり距離が近くなってしまっていた。困り果てた表情の彼女と視線が合うと、いきなり噴き出された。何が可笑おかしいのかいぶかっていると、

「一体何なんですか、さっきの挨拶。本当に変な人」

「それを言うなら君だって」

「あなたに合わせてあげたんです」

 口が減らない。やはり会わない方が良かったのだろうか。だが、今の彼女は楽しそうだから、そんなこともないのか。それに私も楽しくないこともない。

 あはははは、と何故か高笑いをするあなんに引っ張られたまま私たち3人は、和光わこう本店の前を通り過ぎて歩行者天国で賑わう銀座四丁目の交差点を渡っていく。当然、多くの人の目がそそがれているのを感じたが、そういうのはもうどうだっていいんじゃないかな、とやけっぱちのような、それでいて何処か晴れ晴れとした気分になっていた。


(終)


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ある調査員の日常-Researcher’s Tragicomedy- ケンジ @kenjicm

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