第22話
12月最後の日曜日、つまり今年最後の日曜日に私は
「すまないねえ。気を使わせちゃって」
正岡は陽気な笑いを浮かべた。今日はいつもの用務員を思わせるスタイルではなく、ラルフ・ローレンの緑のポロシャツとカーキ色のショートパンツを
「もう大丈夫だって言ってるのに、みんな
先週から近所の散歩も始めたという。回復の途中にあるのは確かだったが、逆にここで気を付けないとまたどこかを痛めかねない、そんな大事な時期にあるようだった。周囲が心配するのは無理からぬことのように思えたが、正岡には
「ほら。これを買うために本屋まで行ったんだよ。求めよ、さらば与えられん、というわけさ」
老人の手には真っ赤な字でロゴが
「やってくれたよねえ、ソリガチくん。君は本当によくやってくれたよ」
いつもの皮肉な調子が戻ってきたあたり、
言うまでもなく、これは私がジュンローにやらせたことだ。直接命令したわけではなかったが、何度も秘密だと念押しされたうえで噂話をされれば、あのおしゃべりが我慢できるはずがないのはしっかり分かっていた。そして、彼は私の意図の通り動いてくれた。カヨちんはインターネットで阿久津の評判を調べて回っていると言っていたから、おそらくあの掲示板も見ているはずだった。仮に見ていないとしても、最近では掲示板の書き込みをまとめたサイトが
だが、事態は私の
夜になると、さらなる
「種無しスイカ」さんによると、阿久津は以前からそのSNSの参加者に会っては写真を撮っていたようで、彼女がそこで知り合った女友達も裸を撮られて、「なんか変な人だったよ」とぼやいていたので、その後阿久津に誘われた時も少し
「そしたらドアがガチャッって開いて。中から帽子とサングラスとマスクで顔を隠したもうあきらかにヘンな人が出てきたからヒエ~~~~~ってなっちゃった。そこでもう帰りたかったんだけどお金もくれるっていうからガマンすることにしたんだけどやっぱりすっごくキモかった。わたしは貧乳でガリガリでそれでガッカリされることもあったけどそのヘンな人はそっちがいいその方がいいってずっと言いながら写真をパシャパシャ撮ってた。撮影しているうちに誰がどう見てもその人はコーフンしてきてたからもしよければ触ったりします? って聞いたのよ。なんかかわいそうになっちゃったからそのくらいいいかと思っちゃって。前にも触られたことあったしね。そしたらヘンな人はいやいやいいよいいよボクはそんなつもりじゃないんだってすっげえ早口でしゃべりだして。でもどう見てもわたしの裸を見てコーフンしてるのになんでか知らないけど必死でガマンしてるから逆にキモくなっちゃって。それでお金をもらってさっさと帰っちゃった。今思い出してもキモいわ」
全くもって
「種無しスイカ」さんのきわめて
「面白いねえ。
事態が現在進行形で動いていたため、報告書が最終的に完成したのは結局
「いや、読み終えるのが残念なくらいだよ。どう? 続きはないの?」
「続きなんてありませんが、そこに書いてないことはいくつかあります」
それを説明する必要はなかったが、怪我を負った老人に少しサービスをしたい気持ちがあったのも事実だった。
「へえ。ぜひ聞きたいな」
そう言って座り直すと姿勢を改めた。そんなに真剣になられるほどの話でもないのに、とひそかに困惑する。
「実はあの後、阿久津から電話があったんです」
老人の口が大きく開く。
「ちょっと。それって凄く大事なことじゃない。どうして報告書に書かなかったんだ」
書かなかった理由は単純で、気が進まなかったからである。その日はあの夜からちょうど1週間が経っていた。ワークショップを辞めさせられたことで気楽に水曜を過ごせるようになった私は、午後に
「はい、もしもし」
「どうも。阿久津です」
死病に
「どうしました? 退会の手続きをしなきゃいけませんでしたっけ?」
だが、それを自分から口にするつもりはなかった。阿久津が何のために電話してきたのかは察しがついている。
「うん。それは別にいいんだけどさ」
しばしの沈黙。だが、向こうで言おうか言うまいか迷っているのは伝わってくる。
「僕が今大変なのは知ってるよね?」
「そのようですね」
あまり
「誰かがサークルのことを洩らしちゃったみたいでさ。写真を出す奴までいる始末だ。一体何を考えているんだか」
「
「君さ。先週のこと、誰かに言わなかった? あれからなんだよ。こんな騒ぎになったのは」
明らかに我慢が
「すみません。実は知り合いに話してしまいました。僕一人の胸にしまい込むにはあまりに重大な話でしたから。でも、その知り合いが僕の話を言い
私はもはや勝負も駆け引きもするつもりはなかった。弱った相手をいたぶる趣味もなかった。ただ
「ああ、でも、万が一彼が秘密を洩らしていたとしたら、それはやっぱり僕の責任です。それで阿久津さんに迷惑をかけてしまったとしたらなんとお詫びしていいものか。すぐに彼から話を聞いて」
「いや、それには及ばないよ」
私の出まかせを聞き飽きたかのように阿久津がうんざりした口調で言った。秘密を洩らしたのが私だと分かっていても、それを追及できないように守備を
「まあいいさ。洩れない秘密はないと思って諦めるしかないんだろうね。今回の件はいい勉強をさせてもらったと思うことにするよ」
自分に向かってそう言い聞かせているようだった。そして、そもそも私に電話を掛けたのが間違いだったとも思っているようだった。
「変な電話をかけて悪かったね。もう君に迷惑を掛けたりしないから安心して欲しい」
「いえ、そんなことは」
「それじゃ」
返事も
「そんなに自分を責めなくてもいいんじゃないのかね。この場合、保険を掛けるのは
正岡は私を
「いえ、実はまだ他にも用意はあったんです。阿久津が
「何それ。なんだか凄そうだ」
興味
「実は、阿久津から“サークル”に勧誘された次の日の朝一番で、
え、と正岡が驚きの声を洩らす。
「ちょっと待って。三河安城って確か阿久津の地元じゃなかった?」
よく覚えていた、と素直に感心したが、彼の記憶力がいいおかげで私はしばしばからかわれているので、あまり喜べる話でもなかった。
「その通りです。普段の僕のやり方だと、必要のない限り、調査対象の実家まで調べはしないのですが」
「今回はその必要が
老人はすっかりノリノリだ。フォーエヴァー・ヤング、と言いたくなる。
「あ、でもさ。実家を調べるとしたら日帰りじゃ間に合わなくないかな? 結構大変なんじゃないの」
「僕が気になっていたことだけ調べればよかったので、そんなに時間はかかりませんでした」
「何が気になったんだい?」
「阿久津のお父さんですよ」
阿久津の父親の
「実家の住所は分かっていたので行ってみると既に
そこから先は話しづらかった。
「なんだい。気を持たせないでよ」
だが、正岡は待ってはくれないし、そこで話を打ち切るわけにもいかなかった。
「そのおばさんが言うには、13年前に事業に行き詰まった阿久津のお父さんは
目の前の老人は自分から話をせがんでおきながら、聞くんじゃなかった、と言いたげな顔をしていた。おばさんから話を聞いた時の私もそんな顔をしていたのだろう。それにしても、何故
「でも、有名人の父親がいなくなったのって、もうちょっとニュースにならない? そんな話聞いたこともないよ」
「後で地元の図書館で確認しましたが、ローカル紙では小さく報じられてました。全国のニュースにはならなかったようですけどね。それに実は世間では意外とたくさんの人が知らないうちに突然いなくなっているんですよ」
私もそういった行方不明者を探す依頼を何度か受けたことがある。見つかったこともあれば、分からずじまいのこともあったが、見つかったとしても彼や彼女が不在だった間に生じた空白を埋めるのは並大抵の努力では追い付かなさそうで、気が重い仕事であるのは間違いなかった。
「それから、阿久津が有名人としてネームヴァリューがそれほどないから、過去をほじくりかえされなかった、ということもあると思いますよ。誰もが知る俳優や作家なら抛ってはおかれないでしょう」
「なかなか手厳しいね」
テーブルの上に置かれた白い陶器のポットからカップに紅茶のお代わりを注ぎながら正岡は苦笑いを浮かべた。私としては事実を述べたまでだ。
「どうしてそんな嘘をつくんだろうね?」
「さあ。そこまでは」
知る必要はないだろうと思った。知りたくもない。
「つまり、僕の切り札というのはそれだったんです。もし阿久津がなりふり構わず僕を攻撃しようとするのであれば、父親に関する事実を公表しようと思ってたんです」
「また小泉くんを使うつもりだった?」
そこまでは考えていなかったが、そうなっていたかもしれない。架空の話には答えられない、と私の中に住む報道官が記者のしつこい質問をシャットアウトしようとしていた。そこまで聞くと、正岡はソファーの上に横ざまに身を投げ出した。強がりを言っていても足が痛むのかもしれない。
「いやあ、面白かった。何より最高なのはこの裏話を知るのが君と僕の2人だけだということだよ」
それから、私の方を見て何の
「ありがとう。最高のプレゼントだよ」
「お誕生日でしたか?」
慌て気味の私の問いかけに、老人の笑顔はあっという間にいつもの意地の悪いものに変わっていた。こっちの方が何故か安心する。
「何を言ってるんだ。今日はクリスマスじゃないか。君は女の子をデートに誘ったりしないのかい」
うっかりしていたが、ここ最近はその手のイベントには全く関心が無くなってしまっていた。先月の私の誕生日も、
「プレゼントをもらえない、サンタに会えないかわいそうな子供もいるのだろうね」
正岡が
「でも、世界中から子供がいなくなって、プレゼントを渡せなくなったサンタクロースはもっとかわいそうなのかもしれないね」
どういう状況を老人が考えているのかは分からなかったが、今の彼の
「
無理に話題を切り替えた。
「こないだ君と電話で話した後で、あの子がどうして会社を辞めて阿久津のところに行ったのか、それだけは説明しておいたよ。そうしたらまあ、
ひどい言い
「今回の騒ぎはまだ知らないんじゃないかな。インターネットはおろかテレビも見ない人だしね。お花畑で暮らしてるんだよ。もし知ったら卒倒するんじゃないの」
「あの坊やは阿久津が女の子のヌードを撮っていたのを知ってたかね?」
と訊いてきた。
「知らないと思いますよ。結局、阿久津は一番大事な部分では徳見くんを信用していなかったようですし、もし徳見くんがあれを知ったら、決して許さないと思いますよ。誰よりも阿久津を評価していたから
「どうだろうなあ。逆に“今こそ支えなければいけない!”とか余計なことを考えて居座るかもよ。坊やならやりかねない」
実は私もその可能性はあると思っていた。会社を辞めてしまえば、阿久津を信じた自分の判断ミスを認めることになってしまうからだ。だが、それは彼を悪く解釈しすぎているのかもしれない。いずれにしても、徳見くんが何をどう選択しようとそれは私の関知するところではなかった。どちらの道を選んでも厳しい道のりであることに変わりはない。
「ああ、眠くなってきた」
正岡が身体を横たえたまま目を閉じて満足そうに微笑む。立ち去るべき時が来たようだ。
「それでは、今日はこの辺で」
「いろいろ無理を言って悪かったね。また何かあったら頼むよ。少し早いけど
「ちゃんとベッドで寝た方がいいですよ」
「うるさいな。君は僕のお母さんか」
そうは言いながらも気分を悪くしたようには見えない。ドアを閉めながらもう一度室内の様子を
重く垂れこめた曇り空の下で、今出てきたばかりの正岡の屋敷を見ていた。しばらくは見ることもないだろうし、あるいはこれが
それも阿久津から電話があったのと同じ日に、掲示板に書き込みがあってからちょうど1週間目にあった出来事だ。深夜になって掲示板のスレッドに「こんなブログを見つけた」とアドレスが貼られていた。チェックしてみると、そのブログはデザインが初期設定から何も変更されていないうえに、タイトルも管理人の名前も何もなかった。ただ、ある女性が阿久津のワークショップに参加するまでの経緯、参加してからの様々な経験、そして阿久津に
いかにも彼女が書いたらしい明快で論理的な文章だった。だが、それだけに、そのような
「阿久津が悪いわけじゃない。自分が馬鹿なだけなんだ」
そう言いたいのが伝わってきて、私には彼女の苦悩を思いやることしか出来なかったのだが、巨大掲示板でのこのブログの評判は散々なものだった。一番多かったのは「被害者ぶるな」という批判で、「そもそも阿久津のワークショップに参加する時点で終わっている」「欲求不満だったんだろう」「これだから女はだめなんだ」などと言われ放題だった。
夕闇迫る帰り道を歩いて自宅に着くまではなんとか自分自身を
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