第22話

 12月最後の日曜日、つまり今年最後の日曜日に私は正岡まさおかの家まで来ていた。テーブルの上には所長に持たされた果物がぎっしり詰められたかごが置かれている。

「すまないねえ。気を使わせちゃって」

 正岡は陽気な笑いを浮かべた。今日はいつもの用務員を思わせるスタイルではなく、ラルフ・ローレンの緑のポロシャツとカーキ色のショートパンツをいていて、冬の世田谷せたがやではなくハワイのゴルフ場にいるのがふさわしく思える格好だった。もっとも、パンツから伸びる枯木のように細い右足はバンドでぐるぐる巻きになっていて、ソファーの右側には階段の手すりと見間違えそうになる金属製のつえが置かれ、老人がまぎれもない怪我人けがにんであることを私に知らせていた。

「もう大丈夫だって言ってるのに、みんな大袈裟おおげさなんだよ」

 先週から近所の散歩も始めたという。回復の途中にあるのは確かだったが、逆にここで気を付けないとまたどこかを痛めかねない、そんな大事な時期にあるようだった。周囲が心配するのは無理からぬことのように思えたが、正岡には有難迷惑ありがためいわくでしかないようだった。

「ほら。これを買うために本屋まで行ったんだよ。求めよ、さらば与えられん、というわけさ」

 老人の手には真っ赤な字でロゴが大書たいしょされた中高年男性向けの週刊誌がにぎられていた。その雑誌にった「“美しすぎる評論家”のハレンチすぎる秘密の趣味!」なる見開みひらきの記事は私も目にしていた。いい年齢としをした怪我人が下世話げせわなニュース見たさにわざわざ出かけるかね、とあきれる思いしかなかったが、ささやかな希望があれば人はそれだけで生きていけるのかもしれなかった。いや、そんな大層たいそうな話では全くないわけだが。

「やってくれたよねえ、ソリガチくん。君は本当によくやってくれたよ」

 いつもの皮肉な調子が戻ってきたあたり、銀髪ぎんぱつの男は確実に健康になりつつあるようで、私にはあまり嬉しくない事態だった。それに、正岡は阿久津あくつの件が騒ぎになって本気で喜んでいるようだが、私は全然喜べなかった。自分の調査がきっかけで誰かに影響が出るのは避けたかったのに、結局小栗栖おぐるすの件と同じように、いやそれ以上に多くの人に迷惑をかけてしまった。どうしてこうなってしまったのか。


 中野なかのまで行ってワークショップに最後に参加した、阿久津から勧誘されてそれを断った、暗い路上でジュンローから電話がかかってきた、そんな長い夜が明けて、浅い眠りから目覚めた私はすぐにデスクトップPCパソコンの電源を入れ、悪名高い超大型匿名掲示板の「阿久津世紀あくつせいきを語るスレッド」を確認した。すると、阿久津がひそかにワークショップの女性参加者をヌードにしてからその写真をりためて、何人かの仲間とネット上で鑑賞しているという、いかにも真実味しんじつみのある噂が長文ちょうぶんで書き込まれていた。それに対する反応は「いかにもありそうなことだ」と「いくらなんでもそれはない」という2つに分かれていたが、それだけで私には十分だった。後はカヨちんがこれを確認してくれるのを祈るばかりだ、と私はPCパソコンの電源を落としてそのまま家を出た。

 言うまでもなく、これは私がジュンローにやらせたことだ。直接命令したわけではなかったが、何度も秘密だと念押しされたうえで噂話をされれば、あのおしゃべりが我慢できるはずがないのはしっかり分かっていた。そして、彼は私の意図の通り動いてくれた。カヨちんはインターネットで阿久津の評判を調べて回っていると言っていたから、おそらくあの掲示板も見ているはずだった。仮に見ていないとしても、最近では掲示板の書き込みをまとめたサイトが猖獗しょうけつきわめていたから、ネットサーフィンをしていればどこかでその噂にぶつかるものと思われた。彼女ならきっと、それだけで事情を察してくれるだろうと信じていた。信じるよりほかなかった。私がやりたかったことは本当にただそれだけだったのだ。

 だが、事態は私の思惑おもわくえて動き出そうとしていた。その日の夕方にジュンローが書き込んだスレッドに何枚かの画像が「投下」されたのだ。それはある会員制SNSエスエヌエスのスクリーンショットで、女性のヌード写真が多数表示されている中で会員たちがそれらを品定めするかのようなコメントをつけているというものだった。事情を知らない人間が見ても、そこでは品性を疑われる行為がなされていると一発で理解できる破壊力抜群ばつぐんの画像だ。そして、そのコメントをつけている会員の中に「阿久津世紀」の名前もあった。まさか本名でやっていたのか、と後で知った私も驚いたが、さくろうする者が自分だけは引っかからないと信じ込むのは、それほど珍しくもないのかも知れなかった。それに誰が画像を「投下」したのかだが、犯人は会員の誰かに決まっていた。阿久津の話を聞いた時に私が危惧きぐしていたのはまさにそれで、阿久津が一人で写真を見ているのならまだマシだったが、仲間も一緒に見ているのであれば、情報がれる危険性が格段に跳ね上がるのは子供でも分かる理屈だ。誰が洩らしたのかは知らないが、阿久津とつるんでいるような人間なら、仲間を平気で裏切るだろうし、愉快犯ゆかいはんのような振る舞いをしてネットで騒ぎを起こして暗い愉悦ゆえつを覚えても何も不思議ではなかった。今回は正体を知られなかったとしても、いずれ何らかの形でさばかれるはずで、あるいは別の場所で既に裁かれているのかもしれなかった。だから私は犯人探しに一切興味はなかった。ただ、犯人にも最低限の良識はあったようで、女性たちの身元が分からないようにスクリーンショットに加工がほどこされていたことだけは、唯一評価してもいいのかもしれない。

 夜になると、さらなる告発者こくはつしゃが現れた。なんとそれは少し前に阿久津に誘われてヌード写真を撮られたという女性だった。彼女の話を読んで、私は「そういうことだったのか」と、口の中でずっとぐらぐらしていた歯がやっと抜けたかのような気分になった。気にかかっていたのは、阿久津がワークショップ以外の何処どこでヌードになる女性を見つけているのか、ということだ。女性を口説くどき落とす要員よういんとして私をスカウトしようとしていたくらいだから、見つけるのに困っているのではないか、とは思っていた。その、種無しスイカ―彼女のハンドルネームである―さんの話によると、彼女は誰かに自分の裸を見てもらいたい、という願望を常々胸に秘めていて、それをどうすることもできずに持て余していたのだが、ある日自分と同じような性癖せいへきの人たちがSNSで集っているのを見つけて、そこに参加することにしたという。どんな場所にでも需要じゅよう供給きょうきゅうは成立するのか、裸を見たい人と裸を見られたい人が一緒に会うことで互いの不満を解消しあうこともあったらしい。どうやら私にはうかがい知ることのできない深い世界のようだったが、阿久津はそれに目を付けたのだという。

「種無しスイカ」さんによると、阿久津は以前からそのSNSの参加者に会っては写真を撮っていたようで、彼女がそこで知り合った女友達も裸を撮られて、「なんか変な人だったよ」とぼやいていたので、その後阿久津に誘われた時も少し躊躇ためらったそうだが、実際に人と会うのもあまりないことなので、結局出かけてしまったのだという。彼女が阿久津と会ったのは落合おちあいにあるワンルームマンションの一室だったそうだ。以下、掲示板に書き込まれた「種無しスイカ」さんの文章をそのまま引用することにする。

「そしたらドアがガチャッって開いて。中から帽子とサングラスとマスクで顔を隠したもうあきらかにヘンな人が出てきたからヒエ~~~~~ってなっちゃった。そこでもう帰りたかったんだけどお金もくれるっていうからガマンすることにしたんだけどやっぱりすっごくキモかった。わたしは貧乳でガリガリでそれでガッカリされることもあったけどそのヘンな人はそっちがいいその方がいいってずっと言いながら写真をパシャパシャ撮ってた。撮影しているうちに誰がどう見てもその人はコーフンしてきてたからもしよければ触ったりします? って聞いたのよ。なんかかわいそうになっちゃったからそのくらいいいかと思っちゃって。前にも触られたことあったしね。そしたらヘンな人はいやいやいいよいいよボクはそんなつもりじゃないんだってすっげえ早口でしゃべりだして。でもどう見てもわたしの裸を見てコーフンしてるのになんでか知らないけど必死でガマンしてるから逆にキモくなっちゃって。それでお金をもらってさっさと帰っちゃった。今思い出してもキモいわ」

 全くもって容赦ようしゃのない書きぶりだった。彼女の文章に比べれば、私の報告書などまるで甘いと言わざるを得ない。顔を見ていないはずの彼女が何故なぜその「ヘンな人」が阿久津だと気付いたかというと、撮影からしばらく経ってお昼時に職場の社内食堂のテレビを見ていると画面の中でたまたま阿久津が話をしていて、その声を聞いて「あのヘンな人だ」と分かったのだという。何処から正体がばれるものか分かったものではない。

「種無しスイカ」さんのきわめて現実味げんじつみのある体験談たいけんだんと掲示板特有の嫌味いやみな書き込みにも動じずにどんな質問にも答えようとする堂々とした態度が、普段ふだん阿久津に興味のないギャラリーの興味もいたようで、徐々じょじょに掲示板の外へも「炎上」が及ぼうとしていた。そして、一部で人気のある人騒がせなフリーライターが自らのブログでこの件を面白おかしく取り上げたのがきっかけで、いくつかのニュースサイトでも報じられるようになり、最初の書き込みから3日後にはついに阿久津もコメントを発表せざるを得ない状況に追い込まれていた。阿久津はかつて「ネットでこそ美しくあれ!」という著書を出したくらい、ネット上での振る舞いに自信を持っていたのだが、どういうわけかこの件に関する対応ははなは拙劣せつれつを極めるもの、としか言いようがなかった。まず、最初に取材を受けた時にはコメントを出すこと自体を拒否し、次に取材を受けた時には「事実無根」とのみコメントを出し、さらにその次には「あの写真は芸術のためのものであって皆様が想像されているものとは違う」と否定していたが、結局は「私の未熟さゆえにあらぬ誤解を招いてしまったことをおびする」と例の自由じゆうおかのスタジオから放送しているインターネットの生番組で謝罪する羽目はめになってしまった。掲示板に書き込みがあってから10日後のことだった。しかし、謝罪の理由が分かりにくかったうえに、言動の端々はしばしに自己弁護がつきまとい、加えてヌード撮影をジョークにしてしまう不謹慎さもさらなる不信を招き、謝ったのに余計に批判されるという負のスパイラルを描く結果になってしまい、結局いくつかのレギュラー番組から阿久津の姿が消える事態にまで発展してしまっていた。そして、男性週刊誌がこの件を取り上げ、正岡が怪我を押してまでそれを買いに行ったわけである。おじさん向けの週刊誌に「今〇〇がブーム!」と取り上げられる頃にはそのブームは終わっている、となかなか気のいたことを誰かが言ったそうだが、まさにその通りで阿久津の騒ぎも今ではネット上でもすっかり沈静化ちんせいかし、最初の火種になった掲示板でも語られることはあまりなくなった。ただ、その掲示板では騒動があるまで阿久津は「悪屑」という蔑称べっしょうで呼ばれていたのだが、騒動以来、「悪屑性器」という新たな蔑称をつけられていた。私はサジッタからサジタリウスにはなれなかったが、阿久津はもうひとつの名前を手に入れることができたらしい。彼がそれを知ったとしても喜ぶとは到底思えないが。


「面白いねえ。近年きんねんまれに見る面白さだよ」

 事態が現在進行形で動いていたため、報告書が最終的に完成したのは結局昨夜さくやになってからだった。その分ごたえのある内容になったらしく、正岡は少年のように目を輝かせて書類を読みふけっていた。

「いや、読み終えるのが残念なくらいだよ。どう? 続きはないの?」

 大河たいが小説の続きを読むのと同じように言わないで欲しかった。首をめぐらせて後ろを見ると、この前まで壁にあったドガの踊り子の代わりにエドワード・ホッパーがいた暗い室内に一人たたずむ丸顔の女性が見えた。カヨちんを思い出したが、あまり頻繁ひんぱんに絵を架け替えるのもどうかな、と余計なことを考えてしまった。

「続きなんてありませんが、そこに書いてないことはいくつかあります」

 それを説明する必要はなかったが、怪我を負った老人に少しサービスをしたい気持ちがあったのも事実だった。

「へえ。ぜひ聞きたいな」

 そう言って座り直すと姿勢を改めた。そんなに真剣になられるほどの話でもないのに、とひそかに困惑する。

「実はあの後、阿久津から電話があったんです」

 老人の口が大きく開く。呆気あっけにとられる、の実例として記録に残したくなる姿だった。

「ちょっと。それって凄く大事なことじゃない。どうして報告書に書かなかったんだ」


 書かなかった理由は単純で、気が進まなかったからである。その日はあの夜からちょうど1週間が経っていた。ワークショップを辞めさせられたことで気楽に水曜を過ごせるようになった私は、午後に飛田給とびたきゅうから白糸台しらいとだいまで歩きながら資料用の写真を数十枚撮った後、近所にある高校の女生徒たちと調査と称した世間話を少ししてから調布ちょうふ駅まで戻って、いつも涙目の理事長と電話で今後の相談を済ませてから、夕方に所沢ところざわの自宅に帰ってきた。そこまでは、取り立てて収穫はないが全くの無駄でもない、ありふれた1日だった。マカロニサラダを作って、それをつまみにビールを飲もうと思っていると、マナーモードにしたままだったのでメロディは鳴らなかったが、テーブルに置いたスマホの画面が光っていて誰かから電話がかかってきたと分かった。表示された番号には見覚えがある。阿久津のものだ。

「はい、もしもし」

「どうも。阿久津です」

 死病におかされた人のような声だった。私はこの時の彼が苦しい状況に置かれているのを当然知っていた。

「どうしました? 退会の手続きをしなきゃいけませんでしたっけ?」

 だが、それを自分から口にするつもりはなかった。阿久津が何のために電話してきたのかは察しがついている。

「うん。それは別にいいんだけどさ」

 しばしの沈黙。だが、向こうで言おうか言うまいか迷っているのは伝わってくる。

「僕が今大変なのは知ってるよね?」

「そのようですね」

 あまりしらを切るのも良くないのでここは話を合わせておく。

「誰かがサークルのことを洩らしちゃったみたいでさ。写真を出す奴までいる始末だ。一体何を考えているんだか」

不心得者ふこころえものがいたんですね」

 空々そらぞらしい、と自分でも思ったが、相手もそう思ったようだった。それだけでなく心の柔らかな表面を紙やすりでこすられたかのような不快感を覚えたのが伝わってきた。

「君さ。先週のこと、誰かに言わなかった? あれからなんだよ。こんな騒ぎになったのは」

 明らかに我慢がかなくなっていた。普段の阿久津ならこれほどたやすく本音を洩らしはしないだろう。なんとか私から言わせるように仕向しむけていたはずだ。プライドが崩れて、本音をさらけ出すハードルがいつもより低くなっていた。

「すみません。実は知り合いに話してしまいました。僕一人の胸にしまい込むにはあまりに重大な話でしたから。でも、その知り合いが僕の話を言いらすとは思えないんですけどね。信用の置ける奴なんですよ」

 私はもはや勝負も駆け引きもするつもりはなかった。弱った相手をいたぶる趣味もなかった。ただ安全圏あんぜんけんへと確実にを進めることしか頭になかった。

「ああ、でも、万が一彼が秘密を洩らしていたとしたら、それはやっぱり僕の責任です。それで阿久津さんに迷惑をかけてしまったとしたらなんとお詫びしていいものか。すぐに彼から話を聞いて」

「いや、それには及ばないよ」

 私の出まかせを聞き飽きたかのように阿久津がうんざりした口調で言った。秘密を洩らしたのが私だと分かっていても、それを追及できないように守備を十重二十重とえはたえに固めているのもまた分かったのだろう。そして、そんな相手を攻撃するほど阿久津のプライドは崩れ切っていないようだった。

「まあいいさ。洩れない秘密はないと思って諦めるしかないんだろうね。今回の件はいい勉強をさせてもらったと思うことにするよ」

 自分に向かってそう言い聞かせているようだった。そして、そもそも私に電話を掛けたのが間違いだったとも思っているようだった。

「変な電話をかけて悪かったね。もう君に迷惑を掛けたりしないから安心して欲しい」

「いえ、そんなことは」

「それじゃ」

 返事もろくに聞かずに電話を切ってしまった。私と話すのは苦痛でしかないのだろう。狙い通りに危険が及ばずに済んだが、我が身可愛さに策を練った自分自身の小狡こずるさに嫌気いやけがさしたのも事実だった。で上がったマカロニをボウルに移し始めても、気分はなかなか治らなかった。


「そんなに自分を責めなくてもいいんじゃないのかね。この場合、保険を掛けるのは妥当だとうだと思うよ」

 正岡は私を擁護ようごしてくれているようだった。

「いえ、実はまだ他にも用意はあったんです。阿久津がわれを忘れて僕を攻撃してこないとも限りませんからね。まあ、切り札を使わなくて済んだのはよかったんですけど」

「何それ。なんだか凄そうだ」

 興味津々しんしんだ。よいりの子供を寝かしつけようと昔話を語っている気分になってくる。うっかり口を滑らせた私が悪いのだ。仕方なく「切り札」について語ることにする。

「実は、阿久津から“サークル”に勧誘された次の日の朝一番で、三河安城みかわあんじょうまで新幹線で日帰りで行って来たんです」

 え、と正岡が驚きの声を洩らす。

「ちょっと待って。三河安城って確か阿久津の地元じゃなかった?」

 よく覚えていた、と素直に感心したが、彼の記憶力がいいおかげで私はしばしばからかわれているので、あまり喜べる話でもなかった。

「その通りです。普段の僕のやり方だと、必要のない限り、調査対象の実家まで調べはしないのですが」

「今回はその必要がしょうじたってわけだね」

 老人はすっかりノリノリだ。フォーエヴァー・ヤング、と言いたくなる。

「あ、でもさ。実家を調べるとしたら日帰りじゃ間に合わなくないかな? 結構大変なんじゃないの」

「僕が気になっていたことだけ調べればよかったので、そんなに時間はかかりませんでした」

「何が気になったんだい?」

「阿久津のお父さんですよ」

 阿久津の父親の今際いまわの言葉が「名探偵ガブリエル」の口癖くちぐせのもとになった、という話は阿久津の十八番おはこと言ってよかったが、しかし、最初に聞いた時から妙だと思っていたし、私が加瀬かせにその話をした時の彼の反応を考えても、果たして本当なのかかなり疑わしくなっていた。

「実家の住所は分かっていたので行ってみると既に更地さらちになってました。近所のおばさんに話を聞くと、5年ほど前に長女が、つまり阿久津のお姉さんが“土地を処分することにしました”と挨拶あいさつに来たそうなんですが」

 そこから先は話しづらかった。大広間おおひろまに集まった一同に向かって真犯人の名前を告げる時の探偵も実は気が重かったりするのだろうか。

「なんだい。気を持たせないでよ」

 だが、正岡は待ってはくれないし、そこで話を打ち切るわけにもいかなかった。

「そのおばさんが言うには、13年前に事業に行き詰まった阿久津のお父さんは北陸ほくりくまで行くと言い残して、そのまま行方をくらませてしまったそうなんです。警察も一応調べたみたいなんですが、東尋坊とうじんぼうの方へ向かったことまでしか確認はとれなかったそうです」

 目の前の老人は自分から話をせがんでおきながら、聞くんじゃなかった、と言いたげな顔をしていた。おばさんから話を聞いた時の私もそんな顔をしていたのだろう。それにしても、何故駿河湾するがわんなのか、と思っていた。阿久津の話では父親の最後を看取みとったのは駿河湾が見える小さな病院だったのだが、実際に父親が姿を消した場所とは方角が真逆まぎゃくである。右にあるものを隠したい時に左を指さすような子供じみた心理が働いたのか。

「でも、有名人の父親がいなくなったのって、もうちょっとニュースにならない? そんな話聞いたこともないよ」

「後で地元の図書館で確認しましたが、ローカル紙では小さく報じられてました。全国のニュースにはならなかったようですけどね。それに実は世間では意外とたくさんの人が知らないうちに突然いなくなっているんですよ」

 私もそういった行方不明者を探す依頼を何度か受けたことがある。見つかったこともあれば、分からずじまいのこともあったが、見つかったとしても彼や彼女が不在だった間に生じた空白を埋めるのは並大抵の努力では追い付かなさそうで、気が重い仕事であるのは間違いなかった。

「それから、阿久津が有名人としてネームヴァリューがそれほどないから、過去をほじくりかえされなかった、ということもあると思いますよ。誰もが知る俳優や作家なら抛ってはおかれないでしょう」

「なかなか手厳しいね」

 テーブルの上に置かれた白い陶器のポットからカップに紅茶のお代わりを注ぎながら正岡は苦笑いを浮かべた。私としては事実を述べたまでだ。

「どうしてそんな嘘をつくんだろうね?」

「さあ。そこまでは」

 知る必要はないだろうと思った。知りたくもない。

「つまり、僕の切り札というのはそれだったんです。もし阿久津がなりふり構わず僕を攻撃しようとするのであれば、父親に関する事実を公表しようと思ってたんです」

「また小泉くんを使うつもりだった?」

 そこまでは考えていなかったが、そうなっていたかもしれない。架空の話には答えられない、と私の中に住む報道官が記者のしつこい質問をシャットアウトしようとしていた。そこまで聞くと、正岡はソファーの上に横ざまに身を投げ出した。強がりを言っていても足が痛むのかもしれない。

「いやあ、面白かった。何より最高なのはこの裏話を知るのが君と僕の2人だけだということだよ」

 それから、私の方を見て何の底意そこいもない優しい微笑みを浮かべた。まるで孫弟子まごでしを見守る師匠のような眼差まなざしだ。

「ありがとう。最高のプレゼントだよ」

「お誕生日でしたか?」

 慌て気味の私の問いかけに、老人の笑顔はあっという間にいつもの意地の悪いものに変わっていた。こっちの方が何故か安心する。

「何を言ってるんだ。今日はクリスマスじゃないか。君は女の子をデートに誘ったりしないのかい」

 うっかりしていたが、ここ最近はその手のイベントには全く関心が無くなってしまっていた。先月の私の誕生日も、白石しらいしさんから手作りの小さなケーキと所長から白い封筒に入った熱海あたみの旅館の宿泊券をもらうまでは完全に忘れていたくらいだ。2月の所長の誕生日には私も何か用意したかった。

「プレゼントをもらえない、サンタに会えないかわいそうな子供もいるのだろうね」

 正岡が暖色だんしょくの光をはなっているシャンデリアを見上げながらそんなことを言った。サンタクロースは子供の寝ている間に来るから普通は会えないのではないか、と思ったが何故か突っ込む気持ちにはなれない。

「でも、世界中から子供がいなくなって、プレゼントを渡せなくなったサンタクロースはもっとかわいそうなのかもしれないね」

 どういう状況を老人が考えているのかは分からなかったが、今の彼の境遇きょうぐうに即した言葉であるような気がして、掛ける言葉が見つからなかった。

徳見とくみくんのお母様には知らせたんですか?」

 無理に話題を切り替えた。

「こないだ君と電話で話した後で、あの子がどうして会社を辞めて阿久津のところに行ったのか、それだけは説明しておいたよ。そうしたらまあ、なげくこと嘆くこと。この人、面倒臭いなあ、と思っちゃうくらい」

 ひどい言いようだが、私にも身に覚えのある感覚なので非難するわけにもいかなかった。

「今回の騒ぎはまだ知らないんじゃないかな。インターネットはおろかテレビも見ない人だしね。お花畑で暮らしてるんだよ。もし知ったら卒倒するんじゃないの」

 仰向あおむけに寝たままの姿勢で私の方を横目で見てから、

「あの坊やは阿久津が女の子のヌードを撮っていたのを知ってたかね?」

 と訊いてきた。

「知らないと思いますよ。結局、阿久津は一番大事な部分では徳見くんを信用していなかったようですし、もし徳見くんがあれを知ったら、決して許さないと思いますよ。誰よりも阿久津を評価していたから尚更なおさら耐えられないんじゃないですかね。これできっと会社も辞めるでしょう」

「どうだろうなあ。逆に“今こそ支えなければいけない!”とか余計なことを考えて居座るかもよ。坊やならやりかねない」

 実は私もその可能性はあると思っていた。会社を辞めてしまえば、阿久津を信じた自分の判断ミスを認めることになってしまうからだ。だが、それは彼を悪く解釈しすぎているのかもしれない。いずれにしても、徳見くんが何をどう選択しようとそれは私の関知するところではなかった。どちらの道を選んでも厳しい道のりであることに変わりはない。

「ああ、眠くなってきた」

 正岡が身体を横たえたまま目を閉じて満足そうに微笑む。立ち去るべき時が来たようだ。

「それでは、今日はこの辺で」

「いろいろ無理を言って悪かったね。また何かあったら頼むよ。少し早いけどいお年を」

「ちゃんとベッドで寝た方がいいですよ」

「うるさいな。君は僕のお母さんか」

 そうは言いながらも気分を悪くしたようには見えない。ドアを閉めながらもう一度室内の様子をうかがうと、正岡は寝返りを打って身体の向きを変えてしまっていて、その顔を見ることはできなかった。


 重く垂れこめた曇り空の下で、今出てきたばかりの正岡の屋敷を見ていた。しばらくは見ることもないだろうし、あるいはこれが見納みおさめになるのかもしれなかった。薄いグレーのコートのすそが風で揺れる。ぺらぺらで頼りなかったがそれでも着てみると案外温かい。うめおか駅へ向かって歩き出してから、私は正岡にただ一つだけ言わなかったことを思い返していた。

 それも阿久津から電話があったのと同じ日に、掲示板に書き込みがあってからちょうど1週間目にあった出来事だ。深夜になって掲示板のスレッドに「こんなブログを見つけた」とアドレスが貼られていた。チェックしてみると、そのブログはデザインが初期設定から何も変更されていないうえに、タイトルも管理人の名前も何もなかった。ただ、ある女性が阿久津のワークショップに参加するまでの経緯、参加してからの様々な経験、そして阿久津にそそのかされて裸の写真を撮られたことが長々と書かれている、内容といえばそれだけだった。告白のためだけにブログを開設したのだろう。身柄を特定しる情報は注意深く避けられていたが、ACT2アクトツーの参加者が読めばこのブログの主が誰かはすぐに分かってしまうはずだった。カシオペアさんだ。

 いかにも彼女が書いたらしい明快で論理的な文章だった。だが、それだけに、そのような明晰めいせきな知性の持ち主が何故阿久津の口車に乗ってしまったのか、分からないのがもどかしかった。彼女自身にもその理由は分からないようだから、私に分かるはずはないのだが。

「阿久津が悪いわけじゃない。自分が馬鹿なだけなんだ」

 そう言いたいのが伝わってきて、私には彼女の苦悩を思いやることしか出来なかったのだが、巨大掲示板でのこのブログの評判は散々なものだった。一番多かったのは「被害者ぶるな」という批判で、「そもそも阿久津のワークショップに参加する時点で終わっている」「欲求不満だったんだろう」「これだから女はだめなんだ」などと言われ放題だった。PCパソコンから念波ねんぱを送り込んでこの世を火の海にしてやりたくなったが、こんな風に正義感せいぎかんの化け物がすぐに暴れ出しそうになるからインターネットなど本気で見るものではない。彼女を馬鹿にしている連中も何処かで別の性質たちの悪い罠に足を取られるのだろう、と考えると怒る価値すらないように思えてくる。そうとでも思わなければとてもやっていけなかった。


 夕闇迫る帰り道を歩いて自宅に着くまではなんとか自分自身をたもてているつもりだった。だが、鍵を開けて中に入って電気をけると、そこが私の部屋でなく彼女のいるあの部屋だと気付いたその瞬間に、私の中で何かがぱきっと音を立てて割れた。シンクに背を向けて立っている彼女の顔はいつもの三日月の微笑みで、着ているのもいつものオレンジのTシャツだったが、何故か長袖になっていた。過去の亡霊も季節を気にするのか、と思うと笑ってしまう。一瞬ののち、いつもの私の部屋に戻り、彼女の姿も無くなっていたが、いつまたあの部屋に変わるかと思うと恐ろしくなった私は、急いで手を使わずに革靴を脱ぎ捨てて、コートも脱がないまま散らかり放題のベッドルームに入り、積まれた本を蹴飛ばして、そのままベッドに倒れ伏した。昨日の晴れ間に掛け布団と毛布を日干ししておいてよかった、それだけを思った。どん底に落ちた人間に一番必要なものは音楽でも食事でも友人でもなく、真新しいシーツの上で太陽のにおいのする毛布にくるまれて眠ることなのかもしれない。その夜は何も夢をみなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る