第21話
サンプラザの方から
「こっち、こっち」
と後ろから呼ばれた気がしたので見てみると、壁際で銀色の高いスツールに腰かけた阿久津がこれまた銀色の高いテーブルに
「場所、分かりにくかったんじゃない?」
「いえ、それほどでも」
そう言いながら私もスツールに座ったが、あまりに高すぎて足が届かないのが不安だった。
「どうしたんだい、変な顔をして」
知らぬ
「いいじゃないですか、その服」
「僕の趣味からすると大人しすぎるけどね。君に合わせたんだ」
そう言われて見てみると、確かにワイシャツも黒かった。ペアルック、というわけでもあるまいが、一応好意を示してくれたつもりであるにせよ、正直に言わせてもらえれば
「どうだった? 今日は」
「読書が
皮肉のつもりはないが、そうとしか言えない。阿久津は含み笑いをしてから、
「やっぱり考えは変わらないのかな」
「ええ。それに
「聞いたよ。でも、彼もそんなつもりはなかったみたいだから、許してあげてよ」
とても嬉しそうにしているので、やはりそうなると分かっていてやったな、と確信が芽生えたが、
「とにかく、僕が
「完全な人間なんていないよ。君にだって短所はあるんだろうけど、それを
意味ありげに
「ちょっと待ってください。この前は徳見くんを右腕にすると言ってましたよね?」
「右腕が一本しかないというつまらない常識に
この人は
「うん、でも、どちらかを選べ、と言われたら君だな」
「徳見くんの方が僕より学歴も職歴も素晴らしいですよ」
「これはセンスの問題なんだ。
最後の方は何を言っているのかさっぱり分からないが、私を引き入れたいがために徳見くんを落としているわけではなく、あの青年をあまり評価していないのは本当のように見えた。それに、徳見くんにはセンスが無い、というのは私も
「彼を
「そんなことするわけないじゃん。プロくんはこれからも僕の大事な仲間だ。働く場所を変えて頑張ってもらう。きっと彼もその方が幸せなんじゃないかな」
徳見くん個人は評価していなくても、
「でも、僕がスタッフになっても出来ることなんてないと思いますけど」
ぱん、と阿久津が手を叩く音が響いた。いつもの
「さあ、そこなんだ。実は君に折り入ってお願いしたいことがあるんだ」
そう言うと、阿久津は向かいのスツールから飛び降りて、私の左隣にあるスツールに改めて座り直した。近づいたおかげで、ライムの香りが鼻を
「これを見て欲しいんだ」
端末を差し出してきたので
「ちょっとやめてくださいよ、こんなところで」
「いいから、よく見てみてよ」
阿久津は全く動じることなくモニターに指を滑らせて別の写真を私に見せようとする。どれも女性のヌードが映っていて、しかもすべて修正されていなかった。どぎつい、というか、えげつない。何のつもりなのか分からずに
「これは分かりやすいんじゃないかな」
タブレットを私に手渡してきた。その写真には女性の顔がはっきりと
「カシオペアさん?」
「他にもいっぱいあるからさ、もっと見てみてよ」
私に衝撃を与えることができたと見て取ったからか、阿久津の口調から余裕が感じられる。それから、ベアトリーチェに会えるわけでもないのに私は
「これは阿久津さんが自分で撮ったんですか?」
10分後、全ての写真を見終わった私はビールで
「うん。素人もいいところなんだけどさ、道具だけはいいのを
卒業アルバムを見せあっているかのような口ぶりで全く
「どうしてこんな写真を?」
「僕は美を
「じゃないかな?」と言われて私が「その通り」と言うとでも思っているのだろうか。
「
「みんな最初は
本当かどうか
「それで、僕にこの写真を見せた理由は何なんです?」
本当は「こんな写真」と言ってしまいたかったが、阿久津に敵意を悟られたくないのと、
「もちろん、君にもこういった撮影に参加して欲しいから見せたんだよ。見た以上は僕らは運命共同体だよ」
「何か勘違いしてませんか? 僕は写真撮影のスキルなんてありませんし、とてもお役に立てそうもないですよ」
こんな男と運命を共同したくない、と思ったおかげでつい言葉が
「いや、君にお願いしたいのは撮影の手伝いじゃなくて。その前の段階さ」
「前?」
「うん。モデル集め。それをお願いしたいんだ」
それこそ私には向いていないことだった。ヌードになってくれる女の子の心当たりなどないし、
「サジッタさんって、イケメンじゃん。僕の言うことを聞けばもっと良い顔になると思うけどね。そういう人が話してくれたら女の子も安心してくれると思うんだよ。どうも僕が説得しようとすると、みんなオーラに圧倒されたのか、腰が引けちゃうんだよね」
自分からオーラが出ていると思っているのは凄い。それにしても阿久津の言うことを聞いた私はどんな風に仕上がってしまうのだろうか。
「いや、それは買いかぶりですよ。僕にはそんなことはとても無理です」
「自信を持ちなって。少なくともスーちゃんは君の言うことを聞いてくれる」
思わず耳を疑った。
「今なんて言いました?」
「スーちゃん。ACT2に参加しているスピカちゃんだよ。まあ、君らの呼び方だと、カヨちん、になるのかな。可愛い名前だよね」
「カヨちんがどうしたんです?」
もはや隠していてもしょうがないので自分の呼びたいように呼ぶ。今になって彼女に合ったいいあだ名だ、と思えてきた。
「言ったまんまだよ。あの
「こう言ったらなんですけど、あの
やれやれ、と言いたげに肩をすくめる。
「君はまだつまらない常識に
その後、
「写真を撮りたいなら、さっさと頼みに行けばいいじゃないですか。あなたの言うことならあの娘も断れない」
何故か話が来年発売予定の阿久津がプロデュースするパフュームの件になったので、私に宣伝してもしょうがないだろう、と思って、無理矢理話に割り込んだ。
「断れないってそんな、こっちが脅しているような言い方はしないでよ。嫌がっているのを無理にさせたりはしない」
どうだか。二杯目のビールがやけに
「それにもう彼女には一度お願いしてるんだ。悪いようにはしない、って心からお願いしたんだけど、逃げられちゃってさ」
そうか。さっきカヨちんが言っていた「相談」とはこれだったのか、と今になって気が付いた。直感に従って話を聞いておけば、と後悔の念であっという間に心が暗い色に
「しかしですね。説得しろと言ったって、こういう写真ですよ。不安に思うなって方が無理でしょう」
「何が不安なの?」
阿久津は検査機の画面に未知の
「いや、だから。この中に入った写真は全部きわどいものばかりじゃないですか。撮影の途中で襲われるんじゃないか、とか思われてもしょうがないでしょう」
ひー、と中のお湯が
「馬鹿言わないでよ。僕がそんなことをするように見える? さっきも言ったように、僕はあくまで美を追求するためにやっているんだ。女の子を傷つけることは絶対にしない。誓ってもいい」
かなりの
「まあ、でも、撮った後で写真を見ながらオナニーはするけどね」
スツールの上から転げ落ちそうになってなんとか踏ん張った。危うく青いフロアタイルに頭を打ち付けるところだった。
「僕は今になって
ジュンローもびびらないで話しかけておけば、阿久津ともっと仲良くできたんじゃないか、と思った。私としては決してその仲間には加わりたくはなかったが。
「人間ってさあ、悲しいけど生きてる限りは性欲の
「タイかシンガポールにでも行くんですか?」
悪乗りしたわけではなく、全く興味のない話題だと逆に乗りやすくなることもあるのだ。
「お、詳しいね。昔はモロッコが
そんなわけねえだろ、と乱暴な口をきいてしまいそうになるのをこらえる。今が人生で一番無駄な瞬間だという確信があった。
「そうだ。忘れていた」
私が持ったままにしていたタブレットをさっと奪い取って何度かモニターにタッチすると、また私の手に戻してきた。画面の中では裸の女性が真っ白なシーツの上で身を
「赤根くんに撮ってもらったんだけどね。こういうのもある」
やはりユダはあの
「阿久津さん一人でやられているわけじゃないんですか?」
怒りを
「動画はさすがに無理だからね。それにこれを
一瞬の後、話の意味を理解した時、とうとう
「つまり、
「もちろん選ばれたメンバーだけだよ。僕が認めた人間しか見られないから安心して欲しい」
だから安心できないのだ。写真がどういう風に使われるか分かったものではない。知らぬうちに私は
「さあ。もう時間も遅いからさ。早く決めて欲しいんだ」
阿久津は勝利を確信した口調で私を
「そうですね。なかなか難しい話ですね」
考えているふりをする。断るにしても上手い言い訳を思いつかなかった。それでは目の前の口だけはやたら上手い男に丸め込まれてしまう。ジョージ・ベンソンの<変わらぬ思い>が
「考えるまでもないじゃないですか。そんな男なんかやっつけちゃってください」
そんな風に怒られるんだろうな、と苦笑いがこみあげてくる。決して私を甘やかしてはくれない。もう寝てしまっているだろうか、とここから東の方に住んでいる彼女に思いを巡らせていると、
「どうしたの? 付き合っている彼女でもいるの? そんなの別に気兼ねしなくてもいいんだよ。やましいことなんて何もないんだからさ」
目の前に船がやってきた。それは
「ほら、スマホをいじるのは後でもいいからさ。早く返事を聞かせて欲しいな」
手にしていたスマホをジャケットのポケットに戻して、大きく息を吐いてから話を始める。
「さすがですね、阿久津さん。やっぱり何でもお見通しなんですね」
「え、一体何?」
私に微笑まれて阿久津は明らかに戸惑っていた。おそらく私が応じるとは思っていなかったのだろうが、断るにしても私が
「実はその通りなんです。僕には恋人がいて、阿久津さんと撮影に参加するのは彼女を裏切ることになります。申し訳ありませんが、僕にはとてもできません。お断りさせていただきます」
「ちょっと待ってよ。一体何を言ってるんだ」
頭を下げる私を見た阿久津が
「さっき言ったのはジョークだよ、ジョーク。君に彼女がいないってのは見れば分かるよ」
白石さんもいつかそんなことを言っていたが、何を根拠にそう思うのだろう。私の顔に「彼女いない歴」でもデジタル表示されているのか。
「実はいたんです。すみません」
「謝らないでよ。いや、だとしてもだよ。これもさっき言ったけど、僕の撮影にやましいことなんて何もないんだから、君が言うような裏切りにはならないんだよ」
「僕は阿久津さんほど強くはありません。どうしても彼女に悪いと思ってしまうんです。阿久津さんは、心身ともに健康であれ、といつも仰ってましたが、
私が
「やっぱり信じられないな」
右人差し指でテーブルの表面をモールス信号を打ち出すように叩きながら、
「何がです?」
「君に彼女がいるというのは、どう考えてもおかしい。納得できない」
だから、何を根拠に私に彼女がいないと考えているのか。感情的になるべき状況ではなかったが、さすがにむかむかしてきた。「俺、ゆうべ
「そう言われても。本当にいるんだからしょうがないですよ」
「じゃあ、証拠を見せてよ。証拠を」
阿久津が私に向かって右手を差し出してきた。クリニックで肌を白くしようとして失敗したのか、手のひらがところどころまだらになっている。私がそれに気付いたのに阿久津も気付いたようで、手はすぐに引っ込められた。それはそれとして、私はいかにも面倒臭そうな
「これが僕の彼女です」
阿久津の
「本当にいたんだ」
しばらく後にやっとそれだけを絞り出すように
「他に写真は?」
「すみません。
自分で言っていても嘘くさいが、それを確かめる手段はない。阿久津も納得はしていないようだったが、鼻をぐすぐす
つまり、白金台からの帰り道に
「名前は?」
「はい?」
阿久津が細いグラスに入った炭酸水を
「その、彼女の名前だよ」
「えーと、
「ゴトウさん? ふーん」
おそらく「後藤」だと思っているのだろうが、わざわざ説明はしない。
「その写真、何処で撮ったの?」
「うちの職場です。同僚なんです」
「へえ。そうなんだ」
もう一度炭酸水を飲む。まだ何か疑っているのだろうか。
「どうも違和感があるんだよね。彼氏が撮ったにしては表情が硬いというか。僕も写真を撮るから、その点が引っかかる」
エロ写真を撮るのと一緒にしないで欲しかったが、痛いところを
「シャイな
よくも出まかせが飛び出すものだ、と我ながら感心する。嘘が
「そういうものなのかなあ」
阿久津も納得せざるを得ないようだった。まだ疑いを捨てきれていないようだったが、これ以上攻める手立てがない、というように見えた。
「でもまあ、きれいな娘だよね」
「ありがとうございます」
急にテンションが変わった。阿久津から漂うライムの香りが危険信号のように思えた。
「やっぱり惜しいな。サジッタさんの周りにはかわいい女の子が集まるんだよ。ほら、この前の猫ちゃんもそうだったし」
そう思うなら、
「どうだろう? 君の彼女も猫ちゃんも僕に撮らせてもらえないかな?」
怒りで目の前が白くなり、一瞬何も見えなくなる。すぐに床に飛び降りて今まで腰掛けていたスツールを水平にフルスイングして美しすぎる評論家の顔面を粉々に砕いてしまえれば、今世紀に入ってから最高に
「やめてください。そんなことできませんよ」
ただ、感情を意のままにコントロールできるほど年齢を重ねているわけでもなかった。
「僕は彼女を愛してるんです」
言葉が
「そう興奮しないでよ。君の気持ちはよく分かったから。僕だって
一連のやりとりが始まって、ようやく私の感情を引き出せたことに満足できたようで、阿久津はにんまりと微笑んでいた。虫を
「それだったら僕を撮ってみたらどうです?」
意味ありげな笑いを浮かべたつもりだったが、阿久津の腰が少し引けたのを見るとそれは上手く行ったようだった。
「え、何?」
「僕を撮ってみたらどうか、と言ってるんです。さっきの阿久津さんの話を伺っていると、女の人だけを
出まかせが
「どうです、僕を撮ってみませんか」
そう言って阿久津の右手の甲に自分の右手をそっと重ね合わせた。なんとか
「やめてよ。気持ち悪いなあ。僕はその気は全然ないんだよ。本当にやめてくれないか」
私に触られた手の甲を胸ポケットから取り出した
なるほどな、と私には他にも
「もういいよ」
「どうしました?」
私のいるテーブルまで
「もういいと言ってるんだ。君には何も頼まないし、ACT2も辞めてもらう」
「そうですか。残念ですが仕方ないですね。今までお世話になりました」
私が全く感情を出さずに頭を下げたのを見たACT2の主宰者は一瞬だけひどく傷ついたような表情を浮かべて、それからまた元のポーカーフェイスに戻った。自分は常にクールでいようとしているのに、他人にクールでいられると困ってしまうようだった。なんとも自分勝手な話だが、今の私は彼を心から嫌いになれないでいた。スツールから降りて扉の方へ3歩だけ進んだところで、まだ言い忘れていたことがあったのに気付いた。
「でも、阿久津さんはひとつだけ誤解されてますよ」
「何が?」
こちらを見ようともせずに訊いてきた。背中を見るだけで私をわずらわしく思っているのがよく分かる。
「
しばしの沈黙の
「それって同じことなんじゃないの?」
他人を道具としてしか見てこなかった人がそう思うのは無理もないことなのかもしれなかった。もう一度頭を下げてから、決して振り向くことなく店を出て行った。
これが巡り合わせの果てなのか。そう思うと中野駅まで向かう道の途中で一歩も足を踏み出せなくなってしまった。ひどく
カヨちんはどうなるのだ。
それだけは
「遅くに申し訳ないス」
ジュンローだった。
「別に構わないよ。どうした?」
「実は
「もしかして、加瀬さん、怒ってた?」
「逆ス。とても面白い人だね、って褒めていたス。できればまた会って話がしたいって」
阿久津のことを話す気になったのだろうか。だが、もしそんな機会があれば私の方でもあの気のいい作家に
「もしかしてまだ外スか? 大変スね」
ああ、と
巡り合わせがまだ続いているのならば。今この瞬間に何か意味があるのならば。私が黙ったのをいいことに電話の向こうでジュンローがいそいそと
「ジュンロー、ちょっといいか。話があるんだ」
強引に割り込むと、実は気のいい青年は素直に、大丈夫スよ、とだけ言って私の言葉に耳を傾けようとしているようだった。こんな風にあなんの話も聞いてあげればいいのに、と余計な世話を焼きながら、話を切り出した。
「少し長くなるけどいいかい? それから前もって言っておくけど、これからする話を誰にも言ったらだめだからな。僕と君だけの秘密の話だ。もう一度言うけど、絶対に絶対に内緒だからな」
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