第21話

 サンプラザの方から中野なかの区役所の前を通り過ぎ、新しくうつってきた明治大学めいじだいがくのキャンパスの方へ向かっていると、何処どこかからカルキのにおいが強くただよってきた。近くにプールがあるのかもしれない、とあたりを見渡していると、阿久津あくつの行きつけの店だという「BARバー 君色思きみいろおもい」が見つかった。入口の重い扉をけて入ると、暗い店内のあちこちでネオンかんえがかれたアルファベットが色とりどりに明滅めいめつを繰り返していた。天井の隅に斜めに掛けられたスピーカーから、ビリー・ヒューズの<とどかぬ想い>が少し割れ気味に聞こえてきて、誰かがこれからの幸運を保証してくれているような気持ちになった。長いカウンターと平行にはしから端まで歩ききった時に、

「こっち、こっち」

 と後ろから呼ばれた気がしたので見てみると、壁際で銀色の高いスツールに腰かけた阿久津がこれまた銀色の高いテーブルに頬杖ほおづえをついて私を見ていた。壁を埋め尽くすモノクロの写真を見やりながら、阿久津の方へと向かう。

「場所、分かりにくかったんじゃない?」

「いえ、それほどでも」

 そう言いながら私もスツールに座ったが、あまりに高すぎて足が届かないのが不安だった。すすめられて生ビールを注文する。阿久津は本場アルプスでされたという炭酸水を飲んでいた。

「どうしたんだい、変な顔をして」

 知らぬに阿久津のことをじろじろと見てしまっていたらしい。だが、見たくなるのもやむを得ないというものだった。きつめのウェーブがかかった50代にしては黒すぎる髪と、今でも少しずつ人の手が加わっているのか、ますます作り物じみてきた顔面には一応慣れていたが、身を包んでいるのがいつの間に着替えたのか、いつもの奇抜きばつよそおいでなく黒のスーツなのが意外で、つい興味をかれてしまうのだ。と言っても、やはりただのスーツではなく、ドルチェ&ガッバーナだ。デパートでうっかり店に迷い込んでしまって、値段を聞いた後でそれとなく立ち去るのに苦労したから、ファッションにうとい私でもよく覚えていた。

「いいじゃないですか、その服」

「僕の趣味からすると大人しすぎるけどね。君に合わせたんだ」

 そう言われて見てみると、確かにワイシャツも黒かった。ペアルック、というわけでもあるまいが、一応好意を示してくれたつもりであるにせよ、正直に言わせてもらえれば気色きしょく悪かった。ビールが運ばれてきたので乾杯する。黒ずくめのおっさん二人が夜更よふけに何をやっているのか、と心底しんそこ疑問に感じた。

「どうだった? 今日は」

「読書がはかどりましたね」

 皮肉のつもりはないが、そうとしか言えない。阿久津は含み笑いをしてから、

「やっぱり考えは変わらないのかな」

「ええ。それに徳見とくみくんにもすっかり嫌われてしまって」

「聞いたよ。でも、彼もそんなつもりはなかったみたいだから、許してあげてよ」

 とても嬉しそうにしているので、やはりそうなると分かっていてやったな、と確信が芽生えたが、憤懣ふんまんは次にしておく。

「とにかく、僕が協調性きょうちょうせいがない人間だというのは、よくお分かりいただけたと思うのですが」

「完全な人間なんていないよ。君にだって短所はあるんだろうけど、それをおぎなって余りある長所があると僕には分かる。だから、君には僕の右腕になって欲しいんだ。つまり、僕がユル・ブリンナーで、君がスティーブ・マックイーンだ」

 意味ありげに微笑ほほえまれた。あれから『荒野の七人』を急いで観たようだ。私の軽口に対応できなかったのが、彼のプライドを深く傷つけたのがよく分かって、申し訳ないような気持ちになった。しかし、その気持ちを正直に言うとさらに傷つけてしまうのは目に見えていたので、それについては何も言わないのが正解のようだった。やはり沈黙は金なのだ。

「ちょっと待ってください。この前は徳見くんを右腕にすると言ってましたよね?」

「右腕が一本しかないというつまらない常識にしばられてちゃだめだよ。君には2本目の右腕になって欲しい」

 この人は阿修羅あしゅらにでもなるつもりなのだろうか。

「うん、でも、どちらかを選べ、と言われたら君だな」

「徳見くんの方が僕より学歴も職歴も素晴らしいですよ」

「これはセンスの問題なんだ。阿久津世紀あくつせいきと付き合うためには並外なみはずれた感性が必要なんだ。昔のマグニのみんなにはそれがあった。プロくんにも期待していたんだけど、やっぱり受験秀才はだめなんだね。偏差値へんさちとマークシートが彼の大いなる可能性をつぶしてしまったんだ。とても残念なことだけどね」

 最後の方は何を言っているのかさっぱり分からないが、私を引き入れたいがために徳見くんを落としているわけではなく、あの青年をあまり評価していないのは本当のように見えた。それに、徳見くんにはセンスが無い、というのは私も同感どうかんだった。センスがあれば阿久津などに肩入れするはずがない。

「彼をめさせるのはかわいそうですね」

「そんなことするわけないじゃん。プロくんはこれからも僕の大事な仲間だ。働く場所を変えて頑張ってもらう。きっと彼もその方が幸せなんじゃないかな」

 徳見くん個人は評価していなくても、東大とうだい卒で大手広告代理店に勤務していた人間をスタッフとして使っているというステータスを手放したくないのだろう。もちろん、私は阿久津のスタッフになどなりはしないが、新宿しんじゅくの喫茶店で青年が私に向かって熱く語っていたプランが実現する見込みは限りなくゼロに近いようだった。片思いもいいところだ、とビールの味も薄く感じてしまう。

「でも、僕がスタッフになっても出来ることなんてないと思いますけど」

 ぱん、と阿久津が手を叩く音が響いた。いつものくせだ。スモークをいたわけでもないのに、室内がけむって見える。

「さあ、そこなんだ。実は君に折り入ってお願いしたいことがあるんだ」

 そう言うと、阿久津は向かいのスツールから飛び降りて、私の左隣にあるスツールに改めて座り直した。近づいたおかげで、ライムの香りが鼻をじかくようになった。少し息苦しいが眠気ねむけ覚ましにはなる、と前向きに考えるしかない。阿久津は手にしていた黒く薄いケースからタブレット型の端末たんまつを取り出して、何やら操作を始めた。便利なのは分かっているので、私もこういった端末が欲しかったのだが、量販店りょうはんてんで試しに手に取ってみるたびに、アンがギルバートの頭を小さな黒板で殴りつけたのを思い出してしまい、購入するまでには至っていなかった。まだしばらくはザオラルのノートパソコンのままでいい。

「これを見て欲しいんだ」

 端末を差し出してきたのでのぞいてみると、一糸いっしまとわぬ女性のあられもない姿が目に飛び込んできた。乳房ちぶさへそももちろん、性器もしになっている。どぎつい写真というほかない。

「ちょっとやめてくださいよ、こんなところで」

 壁際かべぎわとはいえ、仕切りがあるわけではない。人目についてもおかしくはなかった。

「いいから、よく見てみてよ」

 阿久津は全く動じることなくモニターに指を滑らせて別の写真を私に見せようとする。どれも女性のヌードが映っていて、しかもすべて修正されていなかった。どぎつい、というか、えげつない。何のつもりなのか分からずに困惑こんわくしていると、

「これは分かりやすいんじゃないかな」

 タブレットを私に手渡してきた。その写真には女性の顔がはっきりとうつっていた。美人とは言えないが、細身で知的な風貌ふうぼう。私はこの人と何処かで会っている。それに気付くと、凍りかけの池に足をひたしたように、冷気れいきが一気に下半身から駆け上がってきた。

「カシオペアさん?」

 白金台しろがねだいのカフェで微笑んでいた彼女、阿久津にいびられて涙を流しながらも気丈きじょうに耐えていた彼女、夜の新宿で私がアラン・ドロンに似ているとそれだけを言うために駆けつけてきた彼女。そんな彼女がタブレットの中で無防備な生まれたままの姿をさらしていた。眼鏡を掛けていなかったからすぐには気付けなかったのだ。それにしても、普段のカシオペアさんからはとても想像できない振る舞いだ。一体何がどうしたらこういうことになるのか。

「他にもいっぱいあるからさ、もっと見てみてよ」

 私に衝撃を与えることができたと見て取ったからか、阿久津の口調から余裕が感じられる。それから、ベアトリーチェに会えるわけでもないのに私は地獄巡じごくめぐりを始めた。タブレットには莫大ばくだいなヌード写真が収められていて、胸焼けがしそうになる。一生分の乳房と臀部でんぶと陰毛を見た気になった。エレクトリック・ライト・オーケストラの<見果てぬ思い>がバックで流れていたが、こういう状況で聴きたい曲ではなかったし、これからこの曲を聴くたびに彼女たちの裸体らたいを思い出してしまうのだろうか。いくらか冷静さを取り戻した頭で、これらの写真は、モデルが素人しろうとならった方も素人なのだと気付いていた。構図に美的びてきなものが一切感じられず、生理にしか訴えてこないのはそのせいだろう。あなんの方が余程よほど上手うまいのかも知れない。それにしても、普段ふだんなんなしにながめている雑誌のグラビアも実は大したものなんだな、と私は思っていた。カメラマンは露骨ろこつ扇情的せんじょうてきにならないように気を配っていて、モデルは肉体を美しく見せるように常日頃つねひごろから自己節制じこせっせいをしているのだろう。経験と努力と技術が素人の写真とは一線をかくしているのだ。今度からはもう少しちゃんと見るようにしよう、と思ったが、コンビニで目を皿のようにしてアイドルの水着写真を眺めている中年がいたら、それはそれで問題になりそうだった。写真の中にはカシオペアさんのほかにも見知った顔が何人かいた。ジャコビニさん、デネブさん、アルファ・ケンタウリさん。他にもワークショップで言葉をわした人もただ名前だけは知っている人もいた。

「これは阿久津さんが自分で撮ったんですか?」

 10分後、全ての写真を見終わった私はビールでかわきをいやしながら話を始めた。

「うん。素人もいいところなんだけどさ、道具だけはいいのをそろえているから、なんとか見られるものになっていると思うよ」

 卒業アルバムを見せあっているかのような口ぶりで全くわるびれる様子はなかった。

「どうしてこんな写真を?」

「僕は美を追求ついきゅうしている人間だからね。美の基本と言えばなんといっても女性の裸体だよ。なるべくたくさんの女性を見て、真実の美に近づこうとするのは当然のことなんじゃないかな?」

「じゃないかな?」と言われて私が「その通り」と言うとでも思っているのだろうか。

ACT2アクトツーの会員の方もいましたね」

「みんな最初はしぶっていたけどね。“君の新たな可能性を見たい”と言うと大体は聞いてくれたよ。つまらない常識から解放されてもうひとつ高いレベルに達する手助けができて、僕としても嬉しい限りだね」

 本当かどうかあやしいものだった。主宰者しゅさいしゃから言われて抵抗できなかったのかもしれない。阿久津のことだから脅迫や強要にならないように気を付けたのだろうが、どちらにせよ彼女たちを何らかの手段で追いこんだことは想像にかたくなかった。カシオペアさんもそうだったかと思うと気分も身体が重くなる。知らぬ間に木星もくせい移住いじゅうしていたのだろうか。

「それで、僕にこの写真を見せた理由は何なんです?」

 本当は「こんな写真」と言ってしまいたかったが、阿久津に敵意を悟られたくないのと、被写体ひしゃたいとなった女性たちに悪い気がしたので言葉を選んだ。D&Gのスーツに身を包んだ男が手を叩いてから陽気に話し出す。

「もちろん、君にもこういった撮影に参加して欲しいから見せたんだよ。見た以上は僕らは運命共同体だよ」

「何か勘違いしてませんか? 僕は写真撮影のスキルなんてありませんし、とてもお役に立てそうもないですよ」

 こんな男と運命を共同したくない、と思ったおかげでつい言葉が刺々とげとげしくなる。

「いや、君にお願いしたいのは撮影の手伝いじゃなくて。その前の段階さ」

「前?」

「うん。モデル集め。それをお願いしたいんだ」

 それこそ私には向いていないことだった。ヌードになってくれる女の子の心当たりなどないし、口説くどき落とすことも出来そうもないし、したくもない。答えるまでもなく表情に出ていたのか、阿久津があわてて話し出す。

「サジッタさんって、イケメンじゃん。僕の言うことを聞けばもっと良い顔になると思うけどね。そういう人が話してくれたら女の子も安心してくれると思うんだよ。どうも僕が説得しようとすると、みんなオーラに圧倒されたのか、腰が引けちゃうんだよね」

 自分からオーラが出ていると思っているのは凄い。それにしても阿久津の言うことを聞いた私はどんな風に仕上がってしまうのだろうか。

「いや、それは買いかぶりですよ。僕にはそんなことはとても無理です」

「自信を持ちなって。少なくともスーちゃんは君の言うことを聞いてくれる」

 思わず耳を疑った。

「今なんて言いました?」

「スーちゃん。ACT2に参加しているスピカちゃんだよ。まあ、君らの呼び方だと、カヨちん、になるのかな。可愛い名前だよね」

 二重にじゅうに衝撃がやってきた。とりあえずあとの方から考えてみる。カヨちん、という呼び方を知っているということは、私たちが阿久津に無断でひそかに集まっているのを知っていたことになる。誰が話したのか。まず、もちろん私ではない。カヨちんの性格からして自分から話すとも考えにくい。それに彼女はワークショップを辞めようか迷っていた。ヨコタニも明らかにお人好しで嘘がつけそうもないので、彼でもない。テッペイは一見怪しいが、私が阿久津ならあんなお調子者をスパイに選んだりはしない。あいつをスパイにしたら逆に阿久津の情報をスパイしている側に流しかねない。したがって、有り得ない。そうなると、残るのは赤根あかねしかいない。疑わしい点はいくつもあった。まず、「ポラリス」という北極星ほっきょくせいの名前をあたえられていること。これはやはりおかしかった。次に、あの飲み会で阿久津の内情ないじょうを自分からべらべらしゃべっていたこと。あれはおそらく他の4人から悪口を引き出そうとするためのだったのだろう。はっきり感づいていたわけではないが、何となく危ういものを感じて、あの日阿久津の文句をなるべく言わないようにしたのは正解だったのか、と思ったが、その後で徳見くんに何もかもぶちまけてしまったのだから、今となっては無駄な配慮でしかなかった。さすがはビッグ・ブラザー。手下のやることなすこと全てを監視していたのか、と心の中で苦笑くしょうを浮かべながら、もうひとつの衝撃について考えを移す。

「カヨちんがどうしたんです?」

 もはや隠していてもしょうがないので自分の呼びたいように呼ぶ。今になって彼女に合ったいいあだ名だ、と思えてきた。

「言ったまんまだよ。あののヌードを撮りたいんだ」

「こう言ったらなんですけど、あのの裸を見たいと本気で思います?」

 やれやれ、と言いたげに肩をすくめる。赤坂あかさかの中華料理屋でさかいが似たような仕草をしていたが、阿久津のそれは明らかにやりすぎで、何処か痛めてしまわないか心配になるくらいだった。

「君はまだつまらない常識にとらわれているようだね。いいかい? 今の美の基準なんてものはきわめてあやふやなものでしかないんだ。長い目で見れば、むしろカヨちんのようなふくよかな体形たいけいが女性として最高に美しいとされていた時代の方が長かったんだよ」

 その後、土偶どぐうがどうとかルーベンスがどうとか長い講釈こうしゃくれていたが、聞いても無駄なのは分かっていたので、ビールのお代わりを注文したりしてなんとか場をしのいだ。はっきり言って理由なんてものはどうでもいいのだろう。この男はただ単に自分のワークショップに参加した女性はみんな脱がしてしまわなければ気が済まない、それだけなのだ。ジンギスカン顔負けの征服欲せいふくよくだ。

「写真を撮りたいなら、さっさと頼みに行けばいいじゃないですか。あなたの言うことならあの娘も断れない」

 何故か話が来年発売予定の阿久津がプロデュースするパフュームの件になったので、私に宣伝してもしょうがないだろう、と思って、無理矢理話に割り込んだ。

「断れないってそんな、こっちが脅しているような言い方はしないでよ。嫌がっているのを無理にさせたりはしない」

 どうだか。二杯目のビールがやけににがい。

「それにもう彼女には一度お願いしてるんだ。悪いようにはしない、って心からお願いしたんだけど、逃げられちゃってさ」

 そうか。さっきカヨちんが言っていた「相談」とはこれだったのか、と今になって気が付いた。直感に従って話を聞いておけば、と後悔の念であっという間に心が暗い色にまる。だが、彼女は自分ひとりだけで一度は断ったのだ。君は強い、ともしまた会えるのなら言ってあげたくなった。それに有明ありあけであなんが「彼氏が来る」と嘘をつき、「気を付けて」と私に言ってきた意味もやっと分かった。もちろん彼女にも真相が見えていたわけではないが、阿久津が危ない人間だと察したから、誘いを断って私に注意したのだ。あのにもお礼を言わないといけない、と思った。土曜に家まで帰れたのもあなんのおかげだった。女の子たちが頑張っているのなら、だらしのないおじさんも少しは踏ん張らないといけないようだ。

「しかしですね。説得しろと言ったって、こういう写真ですよ。不安に思うなって方が無理でしょう」

「何が不安なの?」

 阿久津は検査機の画面に未知の波形はけいを見つけた科学者のような顔をしていた。

「いや、だから。この中に入った写真は全部きわどいものばかりじゃないですか。撮影の途中で襲われるんじゃないか、とか思われてもしょうがないでしょう」

 ひー、と中のお湯が沸騰ふっとうした金属のやかんのような音を立てて阿久津が笑った。私の家でも電気ポットを使っているので、長いことあの音を聞いていない。

「馬鹿言わないでよ。僕がそんなことをするように見える? さっきも言ったように、僕はあくまで美を追求するためにやっているんだ。女の子を傷つけることは絶対にしない。誓ってもいい」

 かなりの剣幕けんまくで詰め寄られて、取り付け騒ぎが起こった時の銀行の窓口の人はこんな気持ちなのだろうか、となんとなく思ったが、そこまで怒るくらいなら下衆げす勘繰かんぐりだったのか、と少し反省していると、

「まあ、でも、撮った後で写真を見ながらオナニーはするけどね」

 スツールの上から転げ落ちそうになってなんとか踏ん張った。危うく青いフロアタイルに頭を打ち付けるところだった。

「僕は今になって童貞どうていを捨てたことを後悔してるんだ。オナニーってさあ、無限の可能性を秘めてるんだよ。自分をなぐさめると書いて自慰じいとは上手く言ったものだよね。本当に癒される。この年齢としになってそれに気付くとはねえ。サジッタさんももっとした方がいいよ。1日1回することで、不要ふような栄養分を排出はいしゅつ出来て健康にもいいんだ」

 ジュンローもびびらないで話しかけておけば、阿久津ともっと仲良くできたんじゃないか、と思った。私としては決してその仲間には加わりたくはなかったが。

「人間ってさあ、悲しいけど生きてる限りは性欲の奴隷どれいでしかないんだよね。僕もいずれはチンコを切り落としちまおうと思っているんだけど、まだ決心がつかなくてね。やっぱり完全な肉体を目指めざすためには、あれは邪魔でさ。どうしてあんな形をしているんだろう」

「タイかシンガポールにでも行くんですか?」

 悪乗りしたわけではなく、全く興味のない話題だと逆に乗りやすくなることもあるのだ。

「お、詳しいね。昔はモロッコが本場ほんばだったというけどね。何、サジッタさんも考えたことあるの?」

 そんなわけねえだろ、と乱暴な口をきいてしまいそうになるのをこらえる。今が人生で一番無駄な瞬間だという確信があった。PCパソコンで作業をしているうちに1時間くらいソリティアをしてしまうことがたまにあるが、まだこの時間にくらべれば少しは意味がある。

「そうだ。忘れていた」

 私が持ったままにしていたタブレットをさっと奪い取って何度かモニターにタッチすると、また私の手に戻してきた。画面の中では裸の女性が真っ白なシーツの上で身を強張こわばらせている動画が流れていた。うつっていたのはカシオペアさんだった。

「赤根くんに撮ってもらったんだけどね。こういうのもある」

 やはりユダはあの髭面ひげづらだったか、と思ったが、さすがに本職ほんしょくが手掛けたものだけあって写真よりは見られはした。ただ、赤根はおそらく分かってやっているはずだが、どう見てもアダルトビデオをした撮り方をしていた。性的な言葉をささやいているのが聞こえる。阿久津が今までしてきた弁解はそれだけで全て吹き飛んでしまった。何が美の追求だ。

「阿久津さん一人でやられているわけじゃないんですか?」

 怒りをおさえられた自分をめてやりたい気分になったが、しかしそれでもここは怒るべき場面なのかもしれなかった。カシオペアさんのために私は何もできないのか。

「動画はさすがに無理だからね。それにこれをひとめするのはずるい気もしてさ。美を追求する同志たちと共有してるよ」

 一瞬の後、話の意味を理解した時、とうとう煉獄れんごくの底まで足を踏み入れた気分になった。

「つまり、SNSエスエヌエスか何かで、今僕が見た写真や動画をみんなで見合っていると?」

「もちろん選ばれたメンバーだけだよ。僕が認めた人間しか見られないから安心して欲しい」

 だから安心できないのだ。写真がどういう風に使われるか分かったものではない。知らぬうちに私は絶体絶命ぜったいぜつめい窮地きゅうちに立っていたようだった。もちろん、こんな撮影の片棒かたぼうかつぐつもりなどはなかったが、だからといって、見過ごしたままでいいのか。

「さあ。もう時間も遅いからさ。早く決めて欲しいんだ」

 阿久津は勝利を確信した口調で私をかした。自分だけがワイルド・ドロー4を持っていて、他人にいくらでもカードを引かせることができると信じ込んでいるみたいだ。だが、目の前の男は自信過剰じしんかじょうな余り、「ウノ」の宣言を忘れてあがれないようなへまを仕出かすこともあるような人間だ。勝負が決まったと思うのは早すぎる。

「そうですね。なかなか難しい話ですね」

 考えているふりをする。断るにしても上手い言い訳を思いつかなかった。それでは目の前の口だけはやたら上手い男に丸め込まれてしまう。ジョージ・ベンソンの<変わらぬ思い>がBGMビージーエムで聴こえてきて、しばらくそれに耳をかたむける。名前からして思いの多い店のようで、私も短い時間のうちに色々なことを思い巡らさなければならなかった。護島ごとうさんならどうするだろう、とふと思った。

「考えるまでもないじゃないですか。そんな男なんかやっつけちゃってください」

 そんな風に怒られるんだろうな、と苦笑いがこみあげてくる。決して私を甘やかしてはくれない。もう寝てしまっているだろうか、とここから東の方に住んでいる彼女に思いを巡らせていると、

「どうしたの? 付き合っている彼女でもいるの? そんなの別に気兼ねしなくてもいいんだよ。やましいことなんて何もないんだからさ」

 目の前に船がやってきた。それは泥舟どろふねかもしれないしタイタニック号かもしれなかった。だが、それでも船は行くのだ。乗らないわけにはいかなかった。

「ほら、スマホをいじるのは後でもいいからさ。早く返事を聞かせて欲しいな」

 手にしていたスマホをジャケットのポケットに戻して、大きく息を吐いてから話を始める。

「さすがですね、阿久津さん。やっぱり何でもお見通しなんですね」

「え、一体何?」

 私に微笑まれて阿久津は明らかに戸惑っていた。おそらく私が応じるとは思っていなかったのだろうが、断るにしても私が激高げきこうすると思っていたのだろう。女性にひどい扱いをするな、と詰られるとでも思っていたのではないか。ちょうど今日のライさんのように、ワークショップでも参加者をわざと感情的にさせて、自分だけはあくまで冷静なふりをして怒った相手を気のゆくまで嘲弄ちょうろうするのをしばしば楽しんでいたから、私もそんなお気に入りの娯楽に参加させたかったのだろうが、とりあえず今のところは当てがはずれていた。

「実はその通りなんです。僕には恋人がいて、阿久津さんと撮影に参加するのは彼女を裏切ることになります。申し訳ありませんが、僕にはとてもできません。お断りさせていただきます」

「ちょっと待ってよ。一体何を言ってるんだ」

 頭を下げる私を見た阿久津が狼狽ろうばいしている。今まで見たことのない珍しい光景だった。

「さっき言ったのはジョークだよ、ジョーク。君に彼女がいないってのは見れば分かるよ」

 白石さんもいつかそんなことを言っていたが、何を根拠にそう思うのだろう。私の顔に「彼女いない歴」でもデジタル表示されているのか。

「実はいたんです。すみません」

「謝らないでよ。いや、だとしてもだよ。これもさっき言ったけど、僕の撮影にやましいことなんて何もないんだから、君が言うような裏切りにはならないんだよ」

「僕は阿久津さんほど強くはありません。どうしても彼女に悪いと思ってしまうんです。阿久津さんは、心身ともに健康であれ、といつも仰ってましたが、罪悪感ざいあくかんかかえるのは健康に一番良くないと思うんです」

 私が下手したてに出ているのに加えて、阿久津自身が唱えている理屈まで持ち出しているから、反論するのは難しいようだった。汗をかきあぶらの浮き始めた向かいの男の顔がセルロイドのお面のように見えてくる。そんな仮面を付けたハッカー集団がペンタゴンのメインコンピューターに侵入したニュースを先日見たのを思い出した。

「やっぱり信じられないな」

 右人差し指でテーブルの表面をモールス信号を打ち出すように叩きながら、不貞腐ふてくされたように阿久津が呟く。

「何がです?」

「君に彼女がいるというのは、どう考えてもおかしい。納得できない」

 だから、何を根拠に私に彼女がいないと考えているのか。感情的になるべき状況ではなかったが、さすがにむかむかしてきた。「俺、ゆうべUFOユーフォーにさらわれたんだ」と調子に乗ってホラを吹いた男子小学生でも、今の私ほど疑われはしないのではないか。

「そう言われても。本当にいるんだからしょうがないですよ」

「じゃあ、証拠を見せてよ。証拠を」

 阿久津が私に向かって右手を差し出してきた。クリニックで肌を白くしようとして失敗したのか、手のひらがところどころまだらになっている。私がそれに気付いたのに阿久津も気付いたようで、手はすぐに引っ込められた。それはそれとして、私はいかにも面倒臭そうなていを装い、ポケットからさっきしまったばかりのスマホを取り出し、電源ボタンを軽く押して待ち受け画面を表示させてから、阿久津に渡した。

「これが僕の彼女です」

 阿久津の小鼻こばながぴくぴく動いていた。鼻筋が青白くけて見えるのは、後ろにあるネオンサインに照らされたせいなのか、それとも隆鼻りゅうび手術をしたせいなのか。

「本当にいたんだ」

 しばらく後にやっとそれだけを絞り出すようにつぶやいた。私の彼女はUMAユーマか伝説上の生き物なのか。むかつきを通り越していっそ面白くなってきた。

「他に写真は?」

「すみません。昨晩ゆうべうちPCパソコンにデータを全部移しちゃったんですよ。一度うっかり全部消しちゃってから、こまめに保存するようにしてるんです」

 自分で言っていても嘘くさいが、それを確かめる手段はない。阿久津も納得はしていないようだったが、鼻をぐすぐすすすりながら私にスマホを返してきた。待ち受け画面に護島さんが映っているのが見えたが、やがて画面は真っ暗になり、それを確認してから再びポケットにスマホを戻した。

 つまり、白金台からの帰り道に白石しらいしさんから送られてきた護島さんの写真を、私は自分の彼女だといつわって阿久津に見せたのである。「彼女でもいるの?」と言われた時に咄嗟とっさに思いついて、メールを確認するふりをしながら写真を待ち受け画面に設定した、そんなトリックとも呼べない小細工こざいくだったが、阿久津を納得させられるのであればそれで十分だった。もっとも、護島さんがこれを知れば激怒げきどするに違いなく、そうなると私の身の安全もさだかではなくなってしまうが、もちろん自分から言ったりしないので、その心配は皆無かいむと言って良かった。たぶん。

「名前は?」

「はい?」

 阿久津が細いグラスに入った炭酸水をなかばくらいまで飲んでからいてきた。

「その、彼女の名前だよ」

「えーと、護島恵穂ごとうえほさんです」

「ゴトウさん? ふーん」

 おそらく「後藤」だと思っているのだろうが、わざわざ説明はしない。

「その写真、何処で撮ったの?」

「うちの職場です。同僚なんです」

「へえ。そうなんだ」

 もう一度炭酸水を飲む。まだ何か疑っているのだろうか。

「どうも違和感があるんだよね。彼氏が撮ったにしては表情が硬いというか。僕も写真を撮るから、その点が引っかかる」

 エロ写真を撮るのと一緒にしないで欲しかったが、痛いところをかれたのは確かだった。

「シャイななんですよ。これなんかまだマシな方で、写真を撮ろうとするといつも逃げるか顔を隠しちゃうんです」

 よくも出まかせが飛び出すものだ、と我ながら感心する。嘘が上手うまくなったところで何も得るものはないのは骨身ほねみみて分かっているはずなのだが。

「そういうものなのかなあ」

 阿久津も納得せざるを得ないようだった。まだ疑いを捨てきれていないようだったが、これ以上攻める手立てがない、というように見えた。

「でもまあ、きれいな娘だよね」

「ありがとうございます」

 急にテンションが変わった。阿久津から漂うライムの香りが危険信号のように思えた。

「やっぱり惜しいな。サジッタさんの周りにはかわいい女の子が集まるんだよ。ほら、この前の猫ちゃんもそうだったし」

 そう思うなら、何故なぜ私に彼女がいないと思っていたのか、いまひとつ理解できない。阿久津が私の方へゆっくりと身を乗り出してきた。ワークショップの時に着ていた蛇皮へびがわのスーツを脱いでも、中身はまだ蛇のままなのではないか、と思われた。

「どうだろう? 君の彼女も猫ちゃんも僕に撮らせてもらえないかな?」

 怒りで目の前が白くなり、一瞬何も見えなくなる。すぐに床に飛び降りて今まで腰掛けていたスツールを水平にフルスイングして美しすぎる評論家の顔面を粉々に砕いてしまえれば、今世紀に入ってから最高にさわやかな気分が味わえたかも知れないが、そんな刹那せつな的な衝動しょうどうに身をゆだねられるほど私はもう若くはなかった。

「やめてください。そんなことできませんよ」

 ただ、感情を意のままにコントロールできるほど年齢を重ねているわけでもなかった。

「僕は彼女を愛してるんです」

 言葉がほとばしっていた。思わず声が高くなっていたのか、横を通りがかった2人連れの色黒の女が私を見てげらげら笑っているように見えた。

「そう興奮しないでよ。君の気持ちはよく分かったから。僕だって無理強むりじいはしない」

 一連のやりとりが始まって、ようやく私の感情を引き出せたことに満足できたようで、阿久津はにんまりと微笑んでいた。虫を丸呑まるのみにしたウシガエルがそんな顔をするのだろう。だが、私はそれを後悔してはいなかった。ここで感情を出さなければ、何処で出すというのか。護島さんとあなんに申し訳が立たない。それに、私はまだ勝負を続けているつもりだった。

「それだったら僕を撮ってみたらどうです?」

 意味ありげな笑いを浮かべたつもりだったが、阿久津の腰が少し引けたのを見るとそれは上手く行ったようだった。

「え、何?」

「僕を撮ってみたらどうか、と言ってるんです。さっきの阿久津さんの話を伺っていると、女の人だけを特別視とくべつししているようでしたが、男だって捨てたものじゃないですよ。男性の肉体だって昔から美の象徴しょうちょうとみなされてきたのは、ミケランジェロのダビデぞうを見ても分かることです」

 出まかせが蛇口じゃぐちをひねったかのように勢いよく出てくるが、私のやりたいことは別にあった。

「どうです、僕を撮ってみませんか」

 そう言って阿久津の右手の甲に自分の右手をそっと重ね合わせた。なんとか淫靡いんびな意味合いを込めようとしたが、思っていたよりずっといかがわしい感じになってしまった。こんなに上手く行くのなら、女の子を口説くどく時に取っておきたかった。スパーリングで人生最高のフィニッシュ・ブローを決めるような馬鹿さ加減だ。私に触れられた阿久津は、身体に電流が走ったかのように飛び上がって、そのままスツールから降りて、反対の壁まで逃げてしまった。白い顔に血がのぼってオレンジがかって、ますますセルロイドのように見える。

「やめてよ。気持ち悪いなあ。僕はその気は全然ないんだよ。本当にやめてくれないか」

 私に触られた手の甲を胸ポケットから取り出した除菌じょきんティッシュで力を込めて拭っている。徳見くんが阿久津とオネエタレントを一緒の括りに入れられるのを嫌がっていたが、もしかするとテレビの収録現場でそういった方々に何か声を掛けられたこともあるのかもしれない。それはともかく、狙いが当たりすぎるくらいに当たったので、正直驚いていた。理屈ばかりが先走った人間がいざという時にいつも軽く見ていた自分自身の肉体に裏切られるのを私も何度かこの目で見たことがあるが、そんな人種のトップランナーである阿久津なら、殴るまでもなく触れるだけで心を動かすことができるのではないか。そう思って、軽く手を触ってみただけでこの騒ぎだ。ワークショップの初回が終わった後にカナブンを追い払おうとした時も、虫が嫌いだったのではなく、実は私にさわられる方が嫌だったのだろう。そういえば白金台で握手した時も明らかに気が進まなさそうだったのを思い出す。

 なるほどな、と私には他にもに落ちることがあった。さっき、阿久津は写真のために脱がせた女性に襲い掛かることはない、と言っていたがおそらくそれは事実なのだろう。しかし、やはり本心では襲い掛かって最後までやり遂げたいはずだった。拒絶されるのが怖くて実行できずにいて、それで仕方なく自分で性欲を発散させているのを何やら高尚こうしょうめかした理屈を付けているだけなのだ。ワークショップでの彼はポジティブで前向きなことしか言わないが、それはもしも後ろを向いてしまえば二度と前を向けないと分かっているからなのだろう。本当にポジティブなら何度倒れても立ち上がれるはずだ。女の子を口説いて上手く行かなくても、また次があるさ、と笑えるはずだ。結局、阿久津世紀は弱い人なのだ。私とは性質がことなってはいるが、弱さももろさも抱えている点では同じ男なのだ。そう思った時、調査を開始してから3か月が過ぎて、ようやく私は彼に近づけたような気がしていた。その阿久津は顔をそむけたまま、小声こごえで何かを言っている。

「もういいよ」

「どうしました?」

 私のいるテーブルまで早足はやあしで戻ってきた。

「もういいと言ってるんだ。君には何も頼まないし、ACT2も辞めてもらう」

 懸命けんめいに冷静さを装っているが、声が上ずっているのを隠せてはいない。私は元々辞めるつもりだったのだが、阿久津としては辞めさせる形にしたいのだろう。それくらい譲歩じょうほするのはやぶさかでなかった。

「そうですか。残念ですが仕方ないですね。今までお世話になりました」

 私が全く感情を出さずに頭を下げたのを見たACT2の主宰者は一瞬だけひどく傷ついたような表情を浮かべて、それからまた元のポーカーフェイスに戻った。自分は常にクールでいようとしているのに、他人にクールでいられると困ってしまうようだった。なんとも自分勝手な話だが、今の私は彼を心から嫌いになれないでいた。スツールから降りて扉の方へ3歩だけ進んだところで、まだ言い忘れていたことがあったのに気付いた。

「でも、阿久津さんはひとつだけ誤解されてますよ」

「何が?」

 こちらを見ようともせずに訊いてきた。背中を見るだけで私をわずらわしく思っているのがよく分かる。

一昨日おとといの電話で、“君が僕を嫌っているのは分かる”とおっしゃってましたが、僕は別にあなたを嫌ってはいませんよ。ただ単にあなたの能力を評価していないだけです」

 しばしの沈黙ののち、やはり私の方を見ないまま返事をしてきた。

「それって同じことなんじゃないの?」

 他人を道具としてしか見てこなかった人がそう思うのは無理もないことなのかもしれなかった。もう一度頭を下げてから、決して振り向くことなく店を出て行った。


 これが巡り合わせの果てなのか。そう思うと中野駅まで向かう道の途中で一歩も足を踏み出せなくなってしまった。ひどくけがれたものを見てしまった、そんな思いが私の胸も腹も腰も満たしていた。こんな仕事をやっていれば、人間のはらわたに詰まった汚物おぶつ垣間見かいまみることなど決して珍しくはなかったが、いつまでってもそれに慣れることはできなかった。早く慣れるべきなのかもしれなかったし、このまま慣れずにいた方がいいのかもしれなかった。終わりのない謎だ。思わず涙がこみあげてきたのはあまりに寒すぎるからで、別に動揺しているからではない。泣いても構わないが、このまま立ち止まったままだと今夜は家に帰れなくなる。なけなしの元気を振り絞って再び駅へと歩き出したところで、忘れ物をしているのに気付いた。

 カヨちんはどうなるのだ。

 それだけはほうってはおけなかった。阿久津が同好どうこうとエロ写真を見せ合っているのをわざわざ告発するつもりはなかった。私は護島さんほど正しく生きてはいない。だが、リスの子供が蛇に狙われているのを見て見ぬ振りができるほど弱肉強食じゃくにくきょうしょく信奉しんぽうしているわけでもなかった。彼女だけは助けたい。だが、どうしたらいいのか。何といっても連絡先が分からない。こんなことなら聞いておけば、と後悔しても遅かった。接触できるとすれば来週の水曜にワークショップに来るのを待ち構えるくらいしか方法が思い浮かばない。だが、この1週間のうちに阿久津がカヨちんに再度さいど接触しないという保証は何もなく、手遅れになる恐れは大いにあった。どうしたらいいのか。思いあぐねてアスファルトの上で右往左往うおうさおうする私を、せま車道しゃどうへだてた反対側の歩道でがたりをしていた新米しんまいのホストのような金髪の若い男が意志のまるでない眼でぼんやりと見ていた。さっきまで<グリーングリーン>をかなり自己流のアレンジを加えて切なく歌い上げていたが、23時過ぎの路上でそれを歌おうと思った彼の心情を理解するのは、今の私には難しかった。遠くのホームからのぼりのオレンジの電車がゆっくりと走り出すのを何度見送ればいいのだろう。途方に暮れているとポケットの中のスマホが<ボンド・ストリート>をにぎやかにかなで出した。それを耳にしたせいか、弾き語りの青年の眼の中に何かが目覚めたようなのを感じながら通話ボタンを押す。こんな夜更けに誰だろう。

「遅くに申し訳ないス」

 ジュンローだった。

「別に構わないよ。どうした?」

「実は加瀬かせさんたちと食事をしてきて、今帰ってきたところスけど、ソリガチさんのことを聞かれたス」

「もしかして、加瀬さん、怒ってた?」

「逆ス。とても面白い人だね、って褒めていたス。できればまた会って話がしたいって」

 阿久津のことを話す気になったのだろうか。だが、もしそんな機会があれば私の方でもあの気のいい作家にげなければいけないことがいくつかあった。

「もしかしてまだ外スか? 大変スね」

 ああ、と生返事なまへんじをする。ジュンローに注意しなくてはいけない、とあなんとの約束を思い返していたが、とてもじゃないが路上で電話で話せるようなことでもなかったし、人にお説教できる精神状態でもなかった。視線を駅から逆方向へと移すと、サンプラザが高くそびっていた。ACT2が毎週ワークショップを開催している会議場のあるビルはその陰になって見ることはできない。この時間になるとさすがに明かりのついている窓の方が少なく、漫然まんぜんと眺めているうちに<シティ・オブ・タイニー・ライツ>が頭の中で流れ出した。本当は鼻唄はなうたで歌いたいところだったが、電話をしながらではそうもいかない、と苦笑が漏れるのと同時に突然思い当たった。

 巡り合わせがまだ続いているのならば。今この瞬間に何か意味があるのならば。私が黙ったのをいいことに電話の向こうでジュンローがいそいそと一人芝居ひとりしばいを始めようとしているのが感じられたが、

「ジュンロー、ちょっといいか。話があるんだ」

 強引に割り込むと、実は気のいい青年は素直に、大丈夫スよ、とだけ言って私の言葉に耳を傾けようとしているようだった。こんな風にあなんの話も聞いてあげればいいのに、と余計な世話を焼きながら、話を切り出した。

「少し長くなるけどいいかい? それから前もって言っておくけど、これからする話を誰にも言ったらだめだからな。僕と君だけの秘密の話だ。もう一度言うけど、絶対に絶対に内緒だからな」

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