第20話
「そういうことだったの? しょうもないなあ」
ユニバーサル貿易にちょうど出社している時に、私からの連絡がしばらく
「ご婦人にどう伝えたものかなあ。困った困った」
いつも私を
「長らくお待たせしましたが、近いうちに報告できると思います」
「楽しみにしてるよ。ここのところ外に出られなくて暇で暇でさ」
どうしたのか
「買い物は大丈夫なんですか?」
「いつも近所の店に配達を頼んでいるし、お手伝いさんもいるからその点は心配ないよ」
何度か正岡の家まで通っているが、ハウスキーパーらしき人には会ったことがなかった。私が訪れている間は
「それは気を付けた方がいいよ。うちの
そう言って腕を組んだ。寒さが厳しくなって、ブラウスの上に
「こっちで見舞いの品を用意しておくから、次に正岡くんの家に行く時に持っていきなさい」
所長も年齢を考えると
昨日の夕方から正岡に渡す報告書作りに取り掛かっていて、会社にもノートパソコンを持ち込んで執筆を続けていた。私のは
「仕事してますね」
「しとるな」
見えはしなかったが、2人が頷きあっているのが感じられた。普通に仕事をしているだけで感心されるとは、普段の私はどれほど
それから退社の時間まで、ずっと机から離れずに書類に掛かりきりだった。最初は冷やかし気味だった所長と白石さんも
「それじゃ、戸締りお願いね。ほどほどにするのよ」
「あまり
2人は先に帰っていった。気を使わせてしまったかな、と反省してから、再び取り掛かる。
夕方のオフィスで一人きりになると、護島さんに
気が付くと21時になっていた。
「もしもし」
「どうも。
よりによってエネルギー切れの状態で一番相手にしたくない人物からの電話だった。早くも
「こんばんは」
何故か
「こんばんは。どうしたんです、こんな時間に?」
「
タンホイザー・ゲートに入る件だろうか。
「徳見くんから話をお聞きになりました?」
「聞いたからこうやって電話してるんだよ。やっぱり彼じゃ
「なら、僕があなたについてどう考えてるかも聞きましたよね?」
「あんまり
負け惜しみには聞こえなかった。一体どういうつもりなのか。しかし、やはり、今の私には彼と話をするだけの体力が残っていなかった。
「あの、申し訳ないんですけど、
三十六計を
「あれ、何か
「阿久津さんのせいじゃないんです。実はさっきまで
「だめだよそれは。
「はい、すみません」
もうやめるつもりなのにどうして大人しく
「阿久津さん、食事の方は?」
「僕は日が沈んでからは何も口にしないことにしているんだ。おかげですこぶる体調がいい。君も試してみるといいよ」
それができるのはある程度余裕のある生活を送っている人だけではないか、という気がした。
「うんうん。そうだね。じゃあ、
「参加しないといけませんか?」
「何が気に入らなかったのかは分からないけどさ、もう一度来てみたら考えもまた変わるかもしれないじゃない」
言っていることはもっともなので反論しづらい。それにも増してこれ以上話を長引かせるのは無理だった。
「分かりました。そうすることにします」
「オッケー。じゃあ明後日、楽しみにしてるよ。あ、そうそう。晩御飯はヘルシーなものを食べるんだよ。ジャンクフードなんかもってのほかだからね。いいね?」
そのまま切れてしまった。カレーライスは阿久津の中でセーフになるのだろうか。わずかな時間の会話だったが、
もう来るつもりのなかった場所まで足を運ぶのに、いくらかの気まずさを
「みなさんこんばんは」
奥の扉から阿久津が入ってきた。ニシキヘビの皮で出来たスーツとポークパイハットで身を固め、薄いピンクのサングラスもかけている。自らの
阿久津に来いと言われたからそうしただけで、ワークショップに積極的に参加する気は元からありはしなかった。私が徳見くんに向かって
「ね。言った通りでしょ」
「本当に真っ黒じゃん。まじうける」
今日も「キャラクター設定」を守って一応黒ずくめで来ていたので、たぶん自分の話をされてるんだな、と思うとかなりいたたまれなかった。いくら声を落としても、すぐ横にいる私に聞こえないわけがないのだが、その辺の配慮ができないのはまだ若いせいなのだろうか。
「はい、そこ。何話してるの」
阿久津も気付いたようだった。
「なんだ、ソリガチさんと話してたんだ。いい大人が注意するどころか一緒に話をするなんて困るよ」
何かが始まった感覚があった。阿久津が私をわざわざ呼んだからには何か狙いがあるはずだ。あるいは終わった後の話というのは
「ソリガチさんさ、久々に来たんだったら、もっとやる気を見せてくれないと。そういうところがだめなんだよ。心が
「すみません。以後気を付けます」
私が素直に頭を下げたので阿久津は
「ああ、じゃあ、もういいや。やる気がないんだったらさ、話に参加しなくてもいいよ。ソリガチさんが好きなことをやってくれていいからさ」
ついさっき言っていたことと違う、と他の参加者もさすがに
「
私の言葉に何人かが笑いを
「いやいや、罰だなんてそんな。ここは自由な集まりだから、そんなものはないよ。誤解しないで欲しいなあ」
参加者に反抗されるのを何より嫌う阿久津は空気の変化を
「じゃあ本でも読んでてよ。自分のためだけの時間を過ごしてくれればいいから。何か持ってるんでしょ、本?」
「はあ」
ジャケットの左ポケットから、フィリップ・K・ディックの『最後から二番目の真実』を取り出した。あと50ページで終わるところまで読み進めていた。
「うん。じゃあそれを読んでて。僕の話はもう聞かなくていいよ」
そう言うと阿久津は
「いつもそんなにたくさん本を持っているんですか?」
ひそひそと訊いてきたが、みんなも本の2、3冊は常に持ち歩いてるんじゃないの? と逆に訊きたくなった。ビジネスバッグの中にはヨーロッパの最新情勢を解説した
それでも阿久津の話には一応耳を
「いい加減にしてくれ。なんでそこまで言われなきゃならないんだ」
阿久津の嫌味にたまりかねたのか、ライさんがとうとう大声を上げた。横の女の子たちが身を
「そう感情的にならなくてもいいじゃない」
阿久津は
「もううんざりなんだよ。あんたには本当にうんざりだ」
顔を怒りで赤く染めたライさんが勢いよく席を立ってそのまま出て行ってしまう。ドアの閉まる音が会議室中に響き渡る。
「もう、なんなんだろうね。あれは」
阿久津が笑うとつられて何人かの参加者も笑った。テッペイは声を出して笑ったが、そのせいで余計に
「でも、みんな、彼を憎んではいけないよ。新しい時代についていけない、
決め
「じゃあ、今日はこの辺にしようか。みんなお疲れ様」
阿久津は「なんだあいつ」という表情で私を一瞬だけ見てから奥の扉の中へ入っていった。
「あの」
と後ろから呼びかけられた。見るとカヨちんとアルパカが立っていた。
「また
「君もやめてなかったんだ」
私がそう言うと、カヨちんは
「実は相談したいことが」
と言いかけたその時、どん、と
「1時間後に、阿久津の行きつけの店まで来て欲しいそうです」
それだけを言うと、上司の後を追って奥へと去っていった。徳見くんがやったと分かると怒りは一気に
「大丈夫ですか?」
2人の女の子も異変に気付いたのか心細そうにしている。特にアルパカは今にも泣きそうになっていたが、そんな表情になると可愛く見える娘のようだった。
「プロキオンさんも忙しいんだよ。でも、ごめん。この後用事があるから、相談はまた今度にできる?」
「あ、はい。別にそんなに急いでいないので大丈夫です」
そう言って微笑んだ彼女を見ると、すぐに話を聞いてあげなくてはいけない、という直感が体中を
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