第19話
夜になると雲が急に出てきて、今にも冷たい雨が降り出しそうな
「突然お呼び立てしてすみません」
「こちらこそ連絡もせずに休んで申し訳ない」
2人で全く心のこもっていない挨拶をかわす。楽しい
「今日はお仕事だったんですか?」
「ええ」
「スーパーにでも行かれてました?」
何を言っているのか、と思ったが、
「カミツキガメを
「はい?」
「ニュースで見たことありません? ペットとして飼えなくなったのを池や沼に捨てて、それが
「ご冗談がお上手ですね」
徳見くんはそう返すのがやっとだった。自己をコントロールする能力には
「今日は
「西新宿というと、この前
「いえ、あそこよりはもう少し
「ほう。そうなんですか。それにしても、あの日は大変でしたね」
有明のイベント、と言われた徳見くんの顔に複雑な感情がさざなみのように
「実は来年の春から阿久津が地方の大学で
「結構なことじゃないですか」
「それでですね」
「すみません。注文いいですか?」
通りかかった
「
「それってどういうことなんですか?」
「実は、うちの会社に入っていただきたいのです」
予想外の申し出にさすがに驚く。
「すみません。
「ですから、阿久津の正式なスタッフになって欲しい、ということです」
クビを覚悟して社長に会いに行ったら重役に取り立てられる、というのはフィクションの世界ではよくあるのかもしれなかったが、現実にそのようなことがあれば嬉しくなるよりも不気味に感じるのではないか、となんとなく思った。
「どうして僕なんです? ACT2に入ってまだ日も浅いですよ」
「時間が短くても実力の
ずいぶんと昔のことを言われて、我が事ながらそういえばそうだったかな、と思ってしまった。
「ついていけなくて
「いえ、それでも素晴らしいものです」
それでですね、と勢い込んだ徳見くんの目の前に私の注文した品物が置かれた。黒く泡立った液体の表面にバニラアイスが浮かべられている。細長い金属の
「それは?」
「コーラフロートですよ。どこの喫茶店にもあると思いますけど」
「僕をスタッフにしたい、というのは阿久津さんのお考えなんですか?」
相手の変化に取り合うことなく、私は話を再開させた。
「ええ、それはもちろん。最初に阿久津が言い出したことです」
「そうですか。でも、僕にも勤めがありますから。いきなりスタッフ、と言われても」
「それは
ようやく話が順調に進み出したので、徳見くんの表情も
「ワークショップやイベントの時だけ手伝うというのでも大丈夫ですか?」
「はい、それで結構です。でも、実はそれよりも、他にやっていただきたいことがあるんです。阿久津の著書の
「アシスタント、というと?」
「通常、阿久津は自分で執筆せずに
「口述筆記をされているんですか?」
「はい。現在、阿久津は多数の著書をオーダーされてまして、出版社からのニーズになるべく応えるためには、それが最も適したスタイルなのです」
もっともらしい話だが、阿久津は元々文章を書くのが苦手だったと聞く。
「じゃあ、あれもそうなんですか? この前新聞に
冗談めかして言ったつもりだったが、徳見くんの表情が
「もしかして、ソリガチさんはそれで気分を害されているのですか? お気持ちはお察ししますが、しかし、ACT2に参加するにあたってサインされた書類には、ワークショップの参加者の発言および文章を
「いやいや、気分を悪くするなんてとんでもない。パイシーズくんには大変
ふざけながらも最後の方は割と本気で怒ってしまった。所長のように「
「そうですね。その点はこちらの
「なんとかした方がいいですよ。
「
徳見くんがしょげているのを見ているうちに、より基本的でより重要なことを訊くべきだ、という思いが
「話題を変えたいんですが、徳見さんはどうして阿久津さんの所に参加されたのですか?」
「と言いますと?」
「いえ、スタッフとして参加するために、先輩である徳見さんの経験をおうかがいしておきたいと思ったものですから。よろしければぜひ今後の参考にさせてください」
考えてみれば、それを知らなければどうにもならないはずのことで、もっと早く知っておくべきことでもあった。徳見くんが母親に阿久津の会社に入る理由をきちんと説明していれば、彼女もそこまで心配しなかっただろう。それさえ分かれば、事態の解決に2歩か3歩は近づける。今まではそれを訊くチャンスはなかったが、今こうして
「先輩と呼ばれるほど経験を積んだわけではないのですが、何かのお役に立つのであれば、お話させていただきます」
狙いは当たった。徳見くんは目を閉じて頭の中を整理しているようだったが、やがてゆっくりと話し出した。
「何故参加したのかといえば、それは僕が今まで会ってきた人間の中で阿久津が一番頭が良かったからです」
青年が何を言っているのかすぐには理解できなかった。
「すみません、徳見さんは確か大学は」
「
何故
「こう言ったら悪いのかもしれませんが、阿久津さんは確か
「いえ、そういう学力とか
教育に熱心な人が良く持ち出す
「はあ。それはどういったものなんですか?」
「僕は大学を出てからある
そのことなら私の方が徳見くんよりもご存知かもしれないし、この前の加瀬の反応を思い出すと今でも震えが来そうだ。だが、そのことを青年に
「イベントが終わった後に、パネリストとスタッフの
「阿久津さんのどの点が優れていると?」
「まず発想が凄いですよね。あんなことは僕にはとても思いつかない。そして、発想を生かすだけのバイタリティ。普通なら美しくなりたいと思っても、あそこまで自分の身を
「それで会社を辞めたんですか?」
「はい。上司や家族には反対されましたが、阿久津と一緒に仕事をしたいという、自分の気持ちに正直になりたかったんです」
「凄い勇気ですね」
皮肉半分本気半分でそう思う。
「でも、僕はまだ満足していません。阿久津の能力はこんなものじゃないんです。ゆくゆくは日本を動かすオピニオン・リーダーとして活躍して欲しいんです」
ここまでの話を聞いて、私は大まかな事情を理解したつもりになっていた。一言で言えば、徳見くんは阿久津に
「今のお話は大いに参考になりました」
「お役に立てたのなら
確かに参考になったが、徳見くんの考えているような意味で役に立ったわけではなかった。事情をつかんでしまった今になって、私はかなり冷ややかな気持ちになりつつあった。飲み込んだアイスクリームが身体を内側から冷やしているのも影響しているのかもしれない。やはり冬の夜に食べるものではなかった。今度こそ報告書をまとめて、
「そうですね。一度家に帰ってからよく考えてみます。それでなんとか余裕を見つけてまた水曜日に
「分かりました。ではお待ちしています」
もちろんそんなつもりなどはなく、早く家に帰りたいから適当なことを言っているだけだ。22時から
「コメンテーターとしてレギュラーをやらせていただいているのは嬉しいのですが、やはり自分の番組を、メイン
「バラエティ番組にも良く出演されてますね」
そういえば先週は世界一
「阿久津は“いい
普通の
「ゆくゆくは政府や地方自治体からも声を掛けられるようなそんな位置に行きたいんです」
「広報活動に参加したりするんですか?」
「まさにそうです。振り込め
まるで思わなかった。完全に
「あと、そうですね。ACT2はいずれ
「解体?」
アイスの冷たさで口が
「ええ。阿久津がどういう考えなのかは知りませんが、僕が見たところ、あそこには未来はありません」
「ACT2は参加者たちに人生の
「ソリガチさんだって分かるでしょう。あそこに来ている人たちにこれから先、見込みがあるかくらい。あなたのような人はあくまで例外です。選考基準を
まさにその時、店内にテナーサックスの
「そうやって選ばれた人たちからさらに選りすぐったメンバーで阿久津の周囲を固めるんです」
阿久津の影響を受けているのか、それとも実はジュンローと同じ人種なのか、徳見くんもしゃべっているうちにどんどん気持ちが良くなってしまう手合いなのかもしれない。もっとも、2人と違って、聞き手の反応を気にするところがあって、私の表情が
「すみません、一人でしゃべってしまって」
「ACT2に来ている参加者のみなさんも、僕も、そしてあなたも、一体どこが違うというんですか、プロキオンさん」
彼が言い終わらないうちに言い返してしまった。名前を変えて呼んだ意味が分かったようで、徳見くんの顔に後悔とも
「そうですね。じゃあ、さっきは徳見さんのお話を
さらなる
「申し訳ないんですけど、僕はあなたと違って、阿久津さんを全く評価していません」
もう一度コーヒーを飲む。いきなり私が目の前で顔の皮を
「僕は阿久津さんの本をかなり読みましたが、本当のところはその必要はなかったですね。最初に出した“テレビを見れば神になる!”と一番売れた“ラクして罪なほど美しくなる方法”を読めば、あの人の考え方は十分に分かります」
本当は阿久津の著書には全部目を通しているのだが、それを言うとかえって
「2冊ともお読みになりました?」
「ええ、それはもちろん。どちらも素晴らしい本だと思いました」
「そうですか。僕はそうは思いませんでした。2冊とも読者に“ちょっとした努力でもっと素晴らしい人間になれる”と
そう言いながら、私は神保町の喫茶店で
「ACT2での阿久津さんのお話も、そこから一歩も出ていません。まあ、何回かお話を聞かせてもらって、あそこまで内容のない話をいかにも面白そうに語れる
「あなたは」
徳見くんが
「そう思っているのなら、どうしてわざわざワークショップなんかに参加してきたんですか。我々の
こちらの痛いところを
「まあまあ、落ち着いて。別に阿久津さんやあなたの邪魔なんかしないし、これからもみんなで楽しくやってくれればいいじゃないですか。今話したのはあくまで僕の個人的な
そう言われても、徳見くんの怒りは彼の
「とにかく、こっちはそんな考えなのでスタッフには全くもって
そう言ってコーヒーを飲み切った。徳見くんはようやく怒りを収めて、「分かりました」と
私が徳見くんに腹を立てたのは、結局のところ彼が嫌いになりきれないからなのだろう。
「たまにはご家族とちゃんとお話をされたらどうですか」
席を立ちながら
「
子供の頃に
「あなんはいい
思わずそう呟いていた。信号が青に変わったので、小走りで
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