第19話

 夜になると雲が急に出てきて、今にも冷たい雨が降り出しそうな気配けはいを感じながら、伊勢丹いせたんの裏にある「純喫茶じゅんきっさ ロンリー・ハート」に着いた。もしかすると神保町じんぼうちょう姉妹店しまいてんがあるのだろうか。自動ドアから入ってすぐ目の前に地下に降りる階段があって、降り切った先の白い扉を開けるとジャズのナンバーが流れる広い部屋に出た。そこそこ込み合った店内を見渡していると、右奥の壁沿かべぞいの席で徳見とくみくんが立ち上がっていた。

「突然お呼び立てしてすみません」

「こちらこそ連絡もせずに休んで申し訳ない」

 2人で全く心のこもっていない挨拶をかわす。楽しい対話たいわになる予感がした。

「今日はお仕事だったんですか?」

「ええ」

「スーパーにでも行かれてました?」

 何を言っているのか、と思ったが、ACT2アクトツーでの私は駄菓子だがし卸売おろしうりをやっていることになっていたのを思い出した。だが、そんな設定を後生ごしょう大事に守るつもりはもうなくなっていた。

「カミツキガメを捕獲ほかくしてました」

「はい?」

「ニュースで見たことありません? ペットとして飼えなくなったのを池や沼に捨てて、それが繁殖はんしょくして生態系せいたいけいを荒らすんです。嘆かわしい限りですよ」

「ご冗談がお上手ですね」

 徳見くんはそう返すのがやっとだった。自己をコントロールする能力にはけているようだったが、そうでなくては阿久津あくつの部下はつとまらないだろう。今度は私が徳見くんの予定をいてくると思ったのか、しばらく黙って待っていたが、私が何も言わないので自分から話し出した。

「今日は西新宿にししんじゅくにある専門学校で阿久津が講演をおこないまして、私もそのアシスタントをしてきました」

「西新宿というと、この前有明ありあけのイベントの打ち上げをやったバーの近くですか?」

「いえ、あそこよりはもう少し都庁とちょう寄りです。京王けいおうプラザホテルの近くなので」

「ほう。そうなんですか。それにしても、あの日は大変でしたね」

 有明のイベント、と言われた徳見くんの顔に複雑な感情がさざなみのようにあらわれた。イベントで猫の女の子といちゃついていたのを思い出したのか、はたまたその後の交歓会こうかんかいを途中退席したのを思い出したのか、彼の脳裏のうりにどのような私の様子が去来きょらいしたのかは知るすべはない。

「実は来年の春から阿久津が地方の大学で客員教授きゃくいんきょうじゅを務めることになってまして。今後はアカデミックな方面に力を入れていこうと思っているんです」

「結構なことじゃないですか」

「それでですね」

「すみません。注文いいですか?」

 通りかかった年増としまのウェイトレスに私が声をかけたので、徳見くんの話はそれで終わってしまった。別に彼を困らせようとしているわけではないが、合わせようとしているわけでもないので、こんな具合にみ合わなくなっているのだろう。ウェイトレスが立ち去ると徳見君は話を再開させたが、どうも様子がおかしいと思い始めているようだった。

先程さきほど電話でもお伝えしましたが、今日はタンホイザー・ゲートの人間としてサジッタさん、いえ、ソリガチさんにお会いしに来ました」

「それってどういうことなんですか?」

「実は、うちの会社に入っていただきたいのです」

 予想外の申し出にさすがに驚く。

「すみません。おっしゃっている意味がよく分かりませんが」

「ですから、阿久津の正式なスタッフになって欲しい、ということです」

 クビを覚悟して社長に会いに行ったら重役に取り立てられる、というのはフィクションの世界ではよくあるのかもしれなかったが、現実にそのようなことがあれば嬉しくなるよりも不気味に感じるのではないか、となんとなく思った。

「どうして僕なんです? ACT2に入ってまだ日も浅いですよ」

「時間が短くても実力の有無うむは判断できます。ワークショップでの発言と提出していただいたレポートを見る限り、あなたのスキルは確かなものです。それにMARCHマーチの大学院を出てらっしゃいますよね?」

 ずいぶんと昔のことを言われて、我が事ながらそういえばそうだったかな、と思ってしまった。

「ついていけなくて中退ちゅうたいしましたけどね」

「いえ、それでも素晴らしいものです」

 それでですね、と勢い込んだ徳見くんの目の前に私の注文した品物が置かれた。黒く泡立った液体の表面にバニラアイスが浮かべられている。細長い金属のさじでアイスクリームをめ取る私を見ながら徳見くんが不審そうに尋ねてきた。

「それは?」

「コーラフロートですよ。どこの喫茶店にもあると思いますけど」

 吉祥寺きちじょうじであなんと一緒にコーヒーを飲んだばかりなので、他の飲み物にしたかったのだが、まさかビールを飲むわけにはいかないし、トロピカルアイスティーはもってのほか、それでついコーラフロートを選んでしまったわけである。とはいっても、真面目まじめな話し合いの時に頼む飲み物とはとても言えない。別に狙ってやったわけではなかったが、徳見くんもさすがにいらついてきたようで、有明の時のように、誰でもいいから殺したい、とまでは行かなかったが、こいつを一発殴りたい、という程度には目つきがすさんできていた。

「僕をスタッフにしたい、というのは阿久津さんのお考えなんですか?」

 相手の変化に取り合うことなく、私は話を再開させた。

「ええ、それはもちろん。最初に阿久津が言い出したことです」

「そうですか。でも、僕にも勤めがありますから。いきなりスタッフ、と言われても」

「それは重々じゅうじゅう承知しています。今のお勤めを辞められる必要は全くありませんし、お仕事に影響の出ない範囲で手伝ってくださるだけで結構です」

 ようやく話が順調に進み出したので、徳見くんの表情もやわらいできた。いつまた脱線だっせんするか分かったものではないが。

「ワークショップやイベントの時だけ手伝うというのでも大丈夫ですか?」

「はい、それで結構です。でも、実はそれよりも、他にやっていただきたいことがあるんです。阿久津の著書の執筆しっぴつに際してアシスタントをして欲しいんです」

「アシスタント、というと?」

「通常、阿久津は自分で執筆せずに口述筆記こうじゅつひっきをしています。その文章の起こしと編集の方を手伝って欲しいんです」

「口述筆記をされているんですか?」

「はい。現在、阿久津は多数の著書をオーダーされてまして、出版社からのニーズになるべく応えるためには、それが最も適したスタイルなのです」

 もっともらしい話だが、阿久津は元々文章を書くのが苦手だったと聞く。

「じゃあ、あれもそうなんですか? この前新聞にっていた阿久津さんが戦争について語っていた記事。あれも口頭こうとうで語ったのを文章にしたんですか?」

 冗談めかして言ったつもりだったが、徳見くんの表情が露骨ろこつに変わった。当然と言えば当然だが、ワークショップでの私の発言を流用りゅうようしたのを知っていたようだ。

「もしかして、ソリガチさんはそれで気分を害されているのですか? お気持ちはお察ししますが、しかし、ACT2に参加するにあたってサインされた書類には、ワークショップの参加者の発言および文章を阿久津世紀あくつせいきが自由に利用できるむね条項じょうこうが」

「いやいや、気分を悪くするなんてとんでもない。パイシーズくんには大変うらやましがられましたし、僕のでよければどんどん使ってくれて構いません。ただ、契約書に書いてあるから、と言えば何でも通ると思ってるなんて、今どきの闇金やみきんよりもブラックじゃないの? とは思いますけど。それに“自由に利用できる”とはいっても、誰の発言なのか明記めいきする必要はあるんじゃないですかね」

 ふざけながらも最後の方は割と本気で怒ってしまった。所長のように「法廷ほうていで会おう」と言いたくなってくる。参加者がみんなテッペイのように思っているわけではなく、自分の発言として残して欲しい、と思う人だっているはずなのだ。というより、それが普通の感覚だろう。私が気持ちをしずめるためにコーラとアイスクリームがちょうどいい割合になるように気をくばりながら口にする一方で、徳見くんも黙ったまま目が泳がせている。やくざまがいの手を平気で使うほどすれてはいない、ということらしい。

「そうですね。その点はこちらの不備ふびと見られても仕方がないのかもしれません」

「なんとかした方がいいですよ。素人しろうとの僕でもやばいって分かる」

顧問こもんの先生に相談してみます」

 徳見くんがしょげているのを見ているうちに、より基本的でより重要なことを訊くべきだ、という思いがいてきた。加瀬かせの時は躊躇ためらってしまったが、今は調査を終わらせる流れの中にある、という確信が私にはあった。

「話題を変えたいんですが、徳見さんはどうして阿久津さんの所に参加されたのですか?」

「と言いますと?」

「いえ、スタッフとして参加するために、先輩である徳見さんの経験をおうかがいしておきたいと思ったものですから。よろしければぜひ今後の参考にさせてください」

 考えてみれば、それを知らなければどうにもならないはずのことで、もっと早く知っておくべきことでもあった。徳見くんが母親に阿久津の会社に入る理由をきちんと説明していれば、彼女もそこまで心配しなかっただろう。それさえ分かれば、事態の解決に2歩か3歩は近づける。今まではそれを訊くチャンスはなかったが、今こうして大義名分たいぎめいぶんして質問すれば、彼は答えるしかないはずだった。

「先輩と呼ばれるほど経験を積んだわけではないのですが、何かのお役に立つのであれば、お話させていただきます」

 狙いは当たった。徳見くんは目を閉じて頭の中を整理しているようだったが、やがてゆっくりと話し出した。

「何故参加したのかといえば、それは僕が今まで会ってきた人間の中で阿久津が一番頭が良かったからです」

 青年が何を言っているのかすぐには理解できなかった。

「すみません、徳見さんは確か大学は」

本郷ほんごうの方です」

 何故東大とうだいだとはっきり言わないのだろう。

「こう言ったら悪いのかもしれませんが、阿久津さんは確か愛知あいち私大しだいを中退していて、つまり高卒こうそつですよね」

「いえ、そういう学力とか偏差値へんさちを問題にしているわけではありません。それとは違った、学校では評価されない頭の良さなんです」

 教育に熱心な人が良く持ち出す常套句じょうとうくが出てきた。

「はあ。それはどういったものなんですか?」

「僕は大学を出てからある広告代理店こうこくだいりてんに勤務していたんですが、ある時マスコミ関係者向けのイベントをセッティングすることになって、それに阿久津もパネリストとして参加していたんです。そこでの話が今まで聞いたこともないくらいに面白くて。特に、“名探偵ガブリエル”の口癖くちぐせの話は圧巻あっかんでした。ワークショップでもよく話していますから、ソリガチさんもご存知とは思いますが、正直ふるえが来ました」

 そのことなら私の方が徳見くんよりもご存知かもしれないし、この前の加瀬の反応を思い出すと今でも震えが来そうだ。だが、そのことを青年にげるのはやめておいた。それを言ってしまえば何かが確実に終わってしまう。

「イベントが終わった後に、パネリストとスタッフの歓談かんだんの場がもうけられて、そこで阿久津と面と向かって話をしたのですが、そこで僕は“この人だ”って思ったんです。それまで学校や会社で本当に凄い人に会ったことがなかったんです。もちろん、僕より成績の良かった人や仕事のできる人はいました。でも、それは努力の量が大きかったり、機会に恵まれていたのであって、僕よりすぐれた能力を持っているわけではない、としか思えなかったんです」

「阿久津さんのどの点が優れていると?」

「まず発想が凄いですよね。あんなことは僕にはとても思いつかない。そして、発想を生かすだけのバイタリティ。普通なら美しくなりたいと思っても、あそこまで自分の身をけずることはできません。それにトークの力も素晴らしい。人の心を揺さぶらずにはおかない話術わじゅつを持っています」

「それで会社を辞めたんですか?」

「はい。上司や家族には反対されましたが、阿久津と一緒に仕事をしたいという、自分の気持ちに正直になりたかったんです」

「凄い勇気ですね」

 皮肉半分本気半分でそう思う。

「でも、僕はまだ満足していません。阿久津の能力はこんなものじゃないんです。ゆくゆくは日本を動かすオピニオン・リーダーとして活躍して欲しいんです」

 ここまでの話を聞いて、私は大まかな事情を理解したつもりになっていた。一言で言えば、徳見くんは阿久津にだまされている。いや、阿久津の方から騙しに来たわけではないから、正確に言えば、徳見くんが自分から騙されに行っているのだ。彼が自分の見たいものを見出した鏡がたまたま阿久津だっただけで、おそらく他の誰かでも良かったのではないだろうか。小栗栖おぐるすでもよかったのかもしれない。いつだったか、文部官僚もんぶかんりょうが誰がどう見ても偽物にせもの古伊万里こいまり高額こうがくで買わされた事案じあんに関わった時に、所長が「いくら勉強ができても人を見る目が無いやつはダメだ」と切って捨てていたのを思い出したが、おそらく徳見くんもばっさりやられてしまうのだろう。彼の頭が悪いはずはないが、しかし、「阿久津世紀は優れた能力の持ち主だ」という大きく誤った前提から出発しているから、正しい結論に行きつくはずがないのだ。理路整然りろせいぜんと間違えている、とでも言うべきなのか。かつての仲間として阿久津を擁護ようごしている加瀬やさかいも徳見くんの言葉を聞いたら「オピニオン・リーダーって」とき出してしまうだろう。

「今のお話は大いに参考になりました」

「お役に立てたのなら光栄こうえいです。ぜひよくお考えになってください」

 確かに参考になったが、徳見くんの考えているような意味で役に立ったわけではなかった。事情をつかんでしまった今になって、私はかなり冷ややかな気持ちになりつつあった。飲み込んだアイスクリームが身体を内側から冷やしているのも影響しているのかもしれない。やはり冬の夜に食べるものではなかった。今度こそ報告書をまとめて、正岡まさおかに渡すことにしよう。徳見くんがとんだ見込み違いをしているとしても、正岡から話を聞いた徳見くんの母上の嘆きがさらに深くなったとしても、私には関わりのないことだった。みんな思い思いにすればいい。さっきまで感じていためぐり合わせも、結局あれは錯覚さっかくに過ぎなかったのではないだろうか、そう思えてくるほどに冷めていた。

「そうですね。一度家に帰ってからよく考えてみます。それでなんとか余裕を見つけてまた水曜日に中野なかのまで行きますので」

「分かりました。ではお待ちしています」

 もちろんそんなつもりなどはなく、早く家に帰りたいから適当なことを言っているだけだ。22時からCSシーエスで放映される『フルスタリョフ、車を!』を録画予約してあったが、今から急げば生でられるかもしれなかった。しかし、そんな私の里心さとごころも知らずに、徳見くんは阿久津と共に歩むはずの明るい未来を目を輝かせて語っていた。

「コメンテーターとしてレギュラーをやらせていただいているのは嬉しいのですが、やはり自分の番組を、メインMCエムシーをやらなければいけないでしょうね。そのために今から各局かっきょくのプロデューサーに掛け合っているところなんです」

「バラエティ番組にも良く出演されてますね」

 そういえば先週は世界一くさい魚の缶詰かんづめを食べさせられているのを観た。

「阿久津は“いい宣伝せんでんになるから”と原則げんそくとしてオファーを断らないのですが、僕としては少しひかえて欲しいですね。オネエの方々と同じくくりで見られるのも抵抗ていこうがあります」

 普通の視聴者しちょうしゃからすると「美しすぎる評論家」とオネエタレントの区別がつかなくても無理はない。かり白石しらいしさんあたりから聞かれたとしても、私も上手く説明できる自信はなかった。

「ゆくゆくは政府や地方自治体からも声を掛けられるようなそんな位置に行きたいんです」

「広報活動に参加したりするんですか?」

「まさにそうです。振り込め詐欺さぎの被害の予防を訴えるのに阿久津はピッタリだと思いません?」

 まるで思わなかった。完全に贔屓ひいきの引き倒しになってしまっているが、徳見くんの舌はますます滑らかになっていく。

「あと、そうですね。ACT2はいずれ解体かいたいしたい、と思っています」

「解体?」

 アイスの冷たさで口がちぢこまっていたせいか、「買いたい」のイントネーションで発音してしまった。

「ええ。阿久津がどういう考えなのかは知りませんが、僕が見たところ、あそこには未来はありません」

「ACT2は参加者たちに人生の第二幕だいにまくを提供する場じゃなかったんですか?」

「ソリガチさんだって分かるでしょう。あそこに来ている人たちにこれから先、見込みがあるかくらい。あなたのような人はあくまで例外です。選考基準を厳格化げんかくかして、もっと質のいい参加者を集めるべきです」

 まさにその時、店内にテナーサックスの独奏ソロが鳴り響いた。プレイヤーの肺活量はいかつりょうはどうなっているのか、と心配になるくらいの速いテンポでひとしきり暴れまわった後、後から加わったピアノになだめられるかのように、BGMビージーエムにちょうどいい落ち着いた曲調に変化していった。だが、私の気分はそれにつられて荒々しくなったまま、少しも落ち着きはしなかった。

「そうやって選ばれた人たちからさらに選りすぐったメンバーで阿久津の周囲を固めるんです」

 阿久津の影響を受けているのか、それとも実はジュンローと同じ人種なのか、徳見くんもしゃべっているうちにどんどん気持ちが良くなってしまう手合いなのかもしれない。もっとも、2人と違って、聞き手の反応を気にするところがあって、私の表情がかたくなっているのに気付いたようだった。

「すみません、一人でしゃべってしまって」

「ACT2に来ている参加者のみなさんも、僕も、そしてあなたも、一体どこが違うというんですか、

 彼が言い終わらないうちに言い返してしまった。名前を変えて呼んだ意味が分かったようで、徳見くんの顔に後悔ともおびえともつかない揺れが見える。彼が阿久津にあるかどうかも怪しい未来をたくして思い上がるのはどうでもよかったが、金と時間をいてワークショップまで来ている満たされないものをかかえた人たちを見下しているのを我慢することはできなかった。今日は正義感せいぎかんの化け物が我慢できずに表まで出てきてしまったが、奴もたまには広い場所で思い切り走りたいだろう、とドッグランにでもれてきている気分になっていた。

「そうですね。じゃあ、さっきは徳見さんのお話をうかがったから、今度は僕の考えでも話しましょうか」

 さらなる追撃ついげきを覚悟していたのに、予想外の流れになって徳見くんは困惑こんわくしているようだったが、それには取り合わず、パンクにかぶれているのかと思うくらい髪の短いウェイトレスにコーヒーをたのんだ。ロシアの映画は明日の日曜にゆっくり観ることにしよう。「すみません」とか「あの」とかあやまりたそうにしている青年を「まあまあ」と手で制止せいししながら待っていると、3分ほどでさっきとは別のベリーショートのウェイトレスが注文の品を持ってきた。ファッションには周期しゅうきがあるというから、もしかするとまたセシル・カットが流行はやっているのかもしれない。砂糖もクリームも入れずにそのまま口にしてようやく話を切り出す。

「申し訳ないんですけど、僕はあなたと違って、阿久津さんを全く評価していません」

 もう一度コーヒーを飲む。いきなり私が目の前で顔の皮をぎ取り、中から名探偵か怪盗かいとうの顔が現れたかのように徳見くんは愕然がくぜんとしていたが、構わずに続ける。

「僕は阿久津さんの本をかなり読みましたが、本当のところはその必要はなかったですね。最初に出した“テレビを見れば神になる!”と一番売れた“ラクして罪なほど美しくなる方法”を読めば、あの人の考え方は十分に分かります」

 本当は阿久津の著書には全部目を通しているのだが、それを言うとかえってあやしまれそうなのでぼかしておいた。

「2冊ともお読みになりました?」

「ええ、それはもちろん。どちらも素晴らしい本だと思いました」

「そうですか。僕はそうは思いませんでした。2冊とも読者に“ちょっとした努力でもっと素晴らしい人間になれる”と幻想げんそうを与えておいて、実際のところは、今のままでもいいんだ、と自堕落じだらく安住あんじゅうすることを容認ようにんしている、麻薬まやくのような内容としか思えませんでした。テレビを流し見ているだけでいっぱしのインテリになれるとか、普通に暮らしていて誰もが羨む美貌びぼうが手に入るとか、そんなことがあるわけがない。あるわけがないじゃないですか」

 そう言いながら、私は神保町の喫茶店で護島ごとうさんに向かって永劫回帰えいごうかいきがどうのこうのと語ったのを苦く思い返していた。コーヒーをブラックで飲んだせいでもないだろうが。阿久津と私の考え方はまるで違っていて、最初から合うはずがなかったのだ。もちろん私が正しいと言うつもりはない。2人とも詐欺師なのは同じで、阿久津はここから外に出る道があるとき、私はそんな道などはないと否定している、それだけの違いなのかもしれない。ただ、護島さんやカヨちんのように、そんな詐欺まがいの言葉からも何かを見出みいだして前に進もうとしている人たちがいて、本当に凄いのは彼女たちなのだ。

「ACT2での阿久津さんのお話も、そこから一歩も出ていません。まあ、何回かお話を聞かせてもらって、あそこまで内容のない話をいかにも面白そうに語れる超絶技巧ちょうぜつぎこうには感心させられましたが、それと同時に聞けば聞くほど嫌気いやけがさしてくるのも事実でしたね。ああ、この人って本当に中味がないんだなあ、というのが分かってしまって」

「あなたは」

 徳見くんがいきどおりを隠せない様子で私の話をさえぎった。

「そう思っているのなら、どうしてわざわざワークショップなんかに参加してきたんですか。我々の邪魔じゃまをしたいんですか」

 こちらの痛いところをかれたが、答えたくない質問には答えなくていい、という真理しんりを発見してからというもの、私の人生はずいぶんと楽になった。誠実せいじつさを引き換えにして手に入れただけのことはある。

「まあまあ、落ち着いて。別に阿久津さんやあなたの邪魔なんかしないし、これからもみんなで楽しくやってくれればいいじゃないですか。今話したのはあくまで僕の個人的な見解けんかいであって、おそらくあなたの方が正しいんだと思いますよ。うん、そうですね、僕が間違っているんでしょう、きっと」

 そう言われても、徳見くんの怒りは彼の身体からだの中でますますヒートアップしているように見えた。私の言葉が何かしらのウィークポイントを直撃ちょくげきしてしまったのかもしれない。両耳から煙を噴き出しそうになっている青年を見て、悪いことをした、と素直に反省する。

「とにかく、こっちはそんな考えなのでスタッフには全くもって不適格ふてきかくだと、阿久津さんにそのようにお伝え願えますか」

 そう言ってコーヒーを飲み切った。徳見くんはようやく怒りを収めて、「分かりました」と不承不承ふしょうぶしょううなずいた。おそらく彼は、親や教師から説教せっきょうされた後で、「どうして僕だけ」とか捨て台詞ぜりふを吐いて、さらに余計に怒られてしまうような頭の良さに比例ひれいしてプライドも高い少年だったのではないか、何故かそんな気がした。

 私が徳見くんに腹を立てたのは、結局のところ彼が嫌いになりきれないからなのだろう。愛着あいちゃくがあるから裏切られたと自分勝手に思ってしまったのだ。これがテッペイだったらそんなに頭に来ないはずだった。あいつもそれなりにいいやつだとは思うが。

「たまにはご家族とちゃんとお話をされたらどうですか」

 席を立ちながら余計よけいなことを言ってしまったのは、そんなことを考えていたからだろう。それはどういう意味です、と徳見くんが怪訝けげんな顔をして訊いてきたが、私はさっさと彼の分まで支払いを済ませて、白い扉から出て行ってしまった。


 所沢ところざわ駅を出ると、小雨こさめがぱらついていた。もう少し寒くなれば雪になるかもしれなかった。ここから家まで15分ほど歩かなければならない。本降ほんぶりならタクシーに乗るのだが、それほどの雨でもなかった。

春雨はるさめじゃ、れてまいろう」

 子供の頃に出先でさきで雨に降られた時に、祖父がそう言って私の手を引いて歩き出してからというもの、小雨の中を歩き出す時には決まってそうつぶやいていた。夏でも秋でも冬でも春雨である。しかし、それでも寒空さむぞらした街灯がいとうまばらな夜道よみちを一人で歩くのはこたえた。身体がこごえるだけでなく、心も寒々さむざむしかった。帰りの電車に乗ってからずっと、徳見くんに向かって阿久津の欠点を列挙れっきょしたことが胸につかえていた。間違いを信じ込んで幸せを感じている人に事実を突きつけることは、調査員という仕事には常に付きまとう事柄ことがらだったが、それは私が一番苦手な瞬間でもあった。どんな理由があろうと人を不快ふかいにさせる権利が私にあるはずはないのだ。迷信めいしんの中で平穏へいおんに暮らす未開みかいたみもうひらこうと文明社会ぶんめいしゃかいからはるばるやってくる宣教師せんきょうしたちに向かって、お前ら一体何様なにさまだ、とつ当たりしたくなるが、頭も性格もいい青年を怒らせた私こそ何様のつもりなのか。悪いことは続き、赤信号に引っかかってしまった。23時過ぎなのに交通量が結構あるのに加えて、今無理に道路を渡ろうとすれば足がもつれて転んでしまいそうだ。したがって、黙って立ち尽くすよりほかにどうしようもなかった。雨粒あまつぶはじききれなくなって水を吸って重くなりつつあるジャケットの左肩に右手で触れた時に、夕方のあなんの身体の感触かんしょくが不意によみがえった。そしてその時、百万ひゃくまんもの小さな輝きをめた暗闇くらやみのようなひとみが私を見上げていたことも。女の子にボディタッチされたくらいでいちいちうろたえる年齢としでもなくなってしまったが、それでもよく考えてみると結構凄いことをされた気がしてきた。

「あなんはいいだな」

 思わずそう呟いていた。信号が青に変わったので、小走りでけ出す。冷え切っていた心がわずかに動いた気がした。それがあなんの天真爛漫さのおかげなのか、もっと身もふたもなく性欲を覚えただけなのかは分からなかったが、いずれにしても今日のところは家までなんとか帰り着くことが出来そうだった。

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