第18話

 青空のしたで、私を含めた4人の男たちが扇形おうぎがたえがいて立っていた。何処かから椅子いすを運んできてそれに腰掛ければすぐにでも弦楽四重奏げんがくしじゅうそうを始められそうな間隔かんかくをとっていた。けるものなら私はチェロを担当したいところだ。一番最初に口をひらいたのは私だった。

「どうします、これ?」

「そりゃあ、もちろんこのままほうっておくわけにはいかないよ」

「でも、今日は装備を何も持ってきてませんよ」

「困ったねえ」

 私たちの描く扇のかなめにあたる位置にはカミツキガメが鎮座ちんざましましていた。東京の水が余程よほど合ったのか、碁盤ごばんほどの大きさに成長している。人間何するものぞ、という勢いで時折あたりを睥睨へいげいしている生き物に我々は手を出しかねていた。

 自然愛護団体からの依頼で、石神井池しゃくじいいけでの外来生物がいらいせいぶつの調査を手伝った私は、そのまま引き続いてかしら公園での調査にも参加することになった。本格的な調査に入る前に一度下見をしようと、団体のメンバーと池までやってきたのだが、12月には珍しい陽気に誘われたのか、池のほとりの歩道に堂々と姿を現していたカミツキガメに遭遇そうぐうしてしまった次第である。

 しゃあ、と音を立ててカメが私の方に首を伸ばしてきたので、思わずうわっ、と叫んで退いてしまう。

「実はこいつ、む力はそれほど無いんですよね」

「前に海でウツボに噛まれたけど、あれはやばかった。泣くかと思った」

 さすがは自然を愛する男たちだ。私と違って全く動じるところがない。

「後ろから行けば素手すでつかまえられるんじゃないですか?」

「捕まえてどうするよ。こんなの持ち運べないって」

「困ったねえ」

 大柄な君波きみなみさんと小柄な荒井あらいくんが大声で怒鳴どなりあいに近い話し合いをしている横で、今年大学を定年退職した乱橋らんばし先生が全然困ってなさそうに困っていると、今日やってきたメンバー唯一の女子である四角い眼鏡の阿井あいさんが公園の管理事務所の職員を2人ほど連れてきた。後から来た方が犬や猫を入れる持ち運び用のケースを持っていたので、その中に亀を入れてしまえばよさそうだ。

「後は若い彼らに任せようか」

 乱橋先生にとっては私も年輩ねんぱいのカテゴリーに入れられてしまうようだ。井の頭池の水面はきらきらと輝いていたが、の光がやや暖かいとはいっても吹き付ける風はひたすらに冷たかった。

「出だしからこれじゃねえ。どうやら池の水を抜いてしまわねばいけないみたいだ。行政ぎょうせいに掛け合わないとねえ」

「抜けるんですか? こんなに大きい池ですよ?」

「前から数年に一度ポンプを使ってやっているよ。底に溜まったゴミも掃除しなくてはいけないしねえ」

 思っていたより大掛かりな話になってきてしまいそうだった。

「やっぱりブルーギルやブラックバスとかいるんですかね」

「ピラニアやピラルクもいないとは限らないねえ」

 それでは東京がアマゾンになってしまう。やはり地球は温暖化してゆだってきているのだろうか、と思っていると、スーツのジャケットのポケットにしまったスマホから<ボンド・ストリート>が聞こえてきたので、先生に断ってから、池の方へ2、3歩足を踏み出して電話に出た。

「はろはろー」

「あなんか。今日は休み?」

「土曜だから。ずっとひましてる。ソリガチさんはお仕事?」

「ああ。今は井の頭公園の池のそばにいる」

「やだ」

「嫌って、何が?」

「だって、そこでカップルが一緒にボートに乗ったら必ず別れるって」

 頭が悪いではないが、どうにも知識がかたよっている。

「それで何か用事でも?」

「実は相談したいことがあって。すぐに会いたいんだけど」

 ジュンローだけでなくあなんも急な話を持ってくるようになったのか。そこで彼氏かれしの存在に思い当たった。

「ジュンローも一緒に来る?」

「ううん。ソリガチさんと、私と、2人で会いたい」

 声からイライラが伝わってくる。のんびり屋の彼女にしては珍しかった。それに私とあなんが2人きりで会うのもあまりないことだった。

「何か困ってる?」

「わりと」

「分かった。なら夕方に何処かで落ち合おう」

吉祥寺きちじょうじまで行くから待っててくれる?」

 それなら話が早い。駅で待ち合わせすることに決めたその時、後ろで君波さんの叫び声が聞こえ、遅れて阿井さんも悲鳴をあげた。

「なになになになに?」

「ごめん。切るよ」

 あなんには後で事情を説明しないといけないが、とりあえず戻ってみると、カミツキガメが君波さんの腹の上にのしかかり、さらには左手の親指にも食いついていた。私が見ていない間に一体何が起こったのか。

「痛って。こいつ、痛ってえ」

 君波さんの顔がみるみる赤くなっていくが、それでも荒井くんは落ち着いたものだった。

「無理に抜こうとするともっと怪我けがしますよ。でも、どうしようかな。とりあえず下ろした方がいいのかな」

「困ったねえ」

 乱橋先生は相変わらず困っていて、阿井さんは無言でただふるえている。どうすることもできずに手をこまねいているばかりの私をカミツキガメが指を口にしたまま、ぎょろりとにらみつけてきたが、さっきみたいにおびえることもなく、無駄な抵抗をすればお前の損になるだけだぞ、と言って聞かせてやりたい気分になっていた。


 吉祥寺駅の長い改装工事かいそうこうじも終わって、迷路めいろのようになっていた構内こうないも新しく美しくなっていたが、アップデートされていない私の頭はつい以前のままのつもりで動いてしまうので、多少面倒な思いをした。井の頭線の改札かいさつに着く直前に、あなんが護島ごとうさんに例の写真を送った件を注意しなければならなかったのを思い出した。本当はさっき電話で言っておかなければならないことだった。だから、バッファローチェックのコートを着たあなんが笑顔で右手を振りながら階段を降りてきた時も、なるべく厳しい表情を浮かべるようにしたつもりでいたが、

「変な顔」

 いきなりそう言われた。私の努力の甲斐かいはなく、いつもの「はろはろー」もなかった。さっき電話でませたから今日はもういいと思っているのかもしれない。

「どうして護島さんにあの写真を送ったりしたんだ?」

「それで怒ってるの? 上手くれたから見せたかっただけだよ」

「それにしてもだな」

「護島さん、会社をめちゃったんだって? 大変だね」

 彼女が私の話を聞かないのはいつものことだが、今度ばかりはしっかり言って聞かさねば。

「あのなあ」

「こないだ護島さんの家に初めて行ったんだけど、きれいなところに住んでたよ」

清澄白河きよすみしらかわの?」

「うん。結構遠かったけど、元気になって欲しかったから。ソリガチさんの話もした」

「何か変なことを言わなかったか?」

「言わないよ」

 私の顔をちらっと見てから少しすと、

「でも、護島さんは言ってたかも。ソリガチさんがいつも会社でどんな感じなのか、聞けて面白かった」

「護島さん、僕のことを何て言ってたんだ?」

「“死ねばいいのに”って何度も言ってた」

 おかしい。私の中では神保町じんぼうちょうで最後に別れた時にはおたがいかなり分かり合えたつもりでいたのだが。それよりも、また話をはぐらかされているではないか。

「あなん、そんなことよりも」

「ほらほら、落ち込まない。別に護島さんはソリガチさんのことを嫌ってないから大丈夫だよ。それより、私、何か食べたい。お昼も食べてないもん」

 自由だ。まるで風のように自由だ。こんなを私がどうにかしようとしたのが間違いだったのだろうか。それにしても、あなんはフォローしてくれたが、また「死ねばいいのに」とは、護島さんはやはり私を嫌いなのだな、と落ち込んでしまう。とはいえ、元気でやっているのならそれでもいい、という安心の方が大きかった。


 公園口こうえんぐちを出てすぐ目の前にある、東日本を中心にチェーン展開しているコーヒーショップ「青ヒゲの兄弟の店」の奥まったテーブル席で私たちは面と向かって座っていた。

「おいしい」

 オレンジレアチーズケーキを頬張ほおばるあなんが陶然とうぜんとした表情を浮かべている。人はワンコインでも十分幸せになれるようだ。こんなをさっきまで怒ろうとしたのが馬鹿みたいだ、とひそかに苦笑いを浮かべる。つい甘やかしたくなる女の子なのだ。

「ちゃんとした食事じゃなくて大丈夫か?」

「食べたい時に食べたいものを食べるのが一番だよ」

 当たり前のようでいて深く聞こえ、深いようでいて当たり前に聞こえる、彼女の話はいつもそんな感じだ。

「それで、何か困ってるんだって?」

「うん。浮気うわきされた」

「え?」

「ジュンくんに浮気された」

 皿の上のケーキの残骸ざんがい掃蕩そうとうするのに夢中むちゅうなあなんとその口から出てきた話にはあまりにもギャップがありすぎた。それにしても、にわかには信じがたい。

「何かの間違いじゃないのか?」

 ジュンローがあなん以外の女の子に手を出すとはとても思えなかった。そもそもコミュニケーションに多大な問題をかかえているあの男があなんと付き合ったことだって、目の見えない海亀うみがめが水面まで出てみたらたまたまそこに浮いていた木の穴にすっぽりと頭がはまってしまった、それくらいのミラクルなのだ。ケースに入れられて持ち去られたカミツキガメの行方を、私は聞かされていなかった。

「間違いないよ。私、見たんだから」

 あなんの話によると、江古田えこだにあるジュンローの家まで泊まりに出かけた彼女がシャワーを使わせてもらっていると、武蔵小杉むさしこすぎの実家から持ってきたシャンプーをバッグに入れたままにしていたのに気付いて取りに戻ろうとしたところ、ジュンローがPCパソコンのモニターを見ながら何かしているのを見てしまったのだという。

「そしたら、アニメを見ながら

 つまり、アニメの女の子を見ながらオナニーをしていた、ということらしい。何をしているんだあいつ。

「えーと、それは浮気になるのかな?」

「なるよ。だって、アニメのキャラとはセックスできないじゃん。そうしたら、その次ってオナニーでしょ? だから、セックスしているのと同じだよ」

 セックスの次がオナニーという話は初耳はつみみだが、あなんが浮気だと考えているのであれば、そうなってしまうのだろう。ジュンローが変なことをしているのを見られるのが悪い。それよりも声を落とさないままセックスとかオナニーとか連呼れんこしないで欲しい。

「ジュンローはあなんに見られたって気付いてた?」

「たぶん気付いてない。私、そのままシャワーに戻ったから。っていうか、ジュンくん、財布からお金を抜かれても気が付かないもん。たぶんナイフで刺されてもわかんないよ」

「そんなことするなよ。あいつ、いつも困ってるのに」

 実入みいりがないわけではないが、趣味のために惜しげもなく使ってしまうので手元にあまり残らないのだそうだ。

「大丈夫。必ず返してるから。時々は利子りしもつけてる」

 それでいいのだろうか。どうも釈然しゃくぜんとしない。それにしても、2人の性生活に何か問題があったから、ジュンローはそんなことをしたのだろうか。口にしたくもない話だが、やむなく聞いてみる。

「それで、君たちは、その、夜、なんだ。その、あれを、えーと、ちゃんとしてるのかい?」

「やだ、ソリガチさん。何もごもごしてるの。やらしいなあ」

 露骨ろこつに引かれた。

「いいから。それでどうなんだ」

「してるよ。だって、その日もジュンくんの家に着いてすぐに、ナースのピンクの制服で」

「分かった。もういい」

 ジュンローといいあなんといい、こいつら本当に何でも話すんだな、と慄然りつぜんとする。今の20代がみんなこうだとは信じたくはない。私よりずっと嫌らしいではないか、と思ったが、分かりやすいスケベよりムッツリスケベの方が性欲が強いとも聞くから、あなんもムッツリの方が嫌らしいと考えているのかもしれない。自分がムッツリなのはいさぎよく認めよう。

「とにかく、そっちの方が問題ないのは分かったよ」

「私も上手うまく行ってると思ってたから凄くショック。でも、男の人ってみんなそうなの? 彼女がいてもオナニーするの? ソリガチさんもそう?」

「いや、それは。人によるとしか言えないよ。ジュンローはしたいんだろ。別腹べつばらなんじゃないの?」

 あなんが緋色ひいろのソファーの上を転がるようにして笑い出した。右斜め前方の席に座ったいかにも品のいい老紳士に振り返って見られたので、軽く頭を下げておく。れがうるさくして申し訳ない。

「べつばら、って。スイーツじゃないんだから。馬鹿じゃないの」

 まだ笑っている。

「そこまで笑うことないだろ」

「ソリガチさんが変なこと言うからだよ」

 それぞれの見解けんかいは分かれたが、この話が始まってからずっとむすっとしていたあなんの機嫌きげんが良くなったのなら、それで良しとすべきなのだろう。

「他のならどうするのかな、って思って、護島さんにも訊いてみたんだけど、3分くらいフリーズしちゃったから、訊くのあきらめたんだけど」

 あの娘になんてことを訊くのか。アインシュタインにPKピーケー戦のゴールキーパーをまかせるくらい不向ふむきだろう。

「とりあえず、僕には分からないな。こんな可愛い彼女がいたら、そんなことしなくてもいいのにさ」

 あなんの表情が消えた。初期化しょきかされてこれまでのデータが全てなくなってしまったかのようだ。

「ソリガチさん、今なんて?」

「今って?」

「もう一度言ってみて」

「えーと、こんな可愛い彼女がいるのにそんなことをする意味が分からない」

 あなんの視線が強くなって目から怪光線かいこうせんが出そうになっている。アメリカン・コミックを原作にした映画でそういうヒーローがいたのを思い出す。

「本当にそう思う?」

「ああ。あなんは可愛いよ」

 そう言われると私の顔をもう一度強く見てから下の方に目をらし、そばに置いていたコートをばさっと音が立つくらいの勢いでひざの上に乗せた。私としては事実を述べただけなのだが、何か気に入らなかったのだろうか。

「それで、あなんはどうしたいんだ?」

 返事が来るまで少し間があった。少しねたような口ぶりで答える。

「どうって?」

「ジュンローと別れたいのか?」

 思いも寄らないことを言われたかのように目を見開いてから、暗い表情になって肩を落とした。普段ふだん明るいにそんな顔をされると、見ている方もつらくなる。

「そこまでは、思ってない。ジュンくんのこと、やっぱり好きだし」

 後輩の修羅場しゅらばに関わらずに済みそうで、私としては一応安心する。

「ソリガチさんからジュンくんにひとこと言ってくれない?」

「“彼女が家に泊まりに来ている時くらいオナニーは控えろ”って?」

 今度は私の笑いが止まらなくなる番だった。そんなことを言わなければならないこちらの身にもなって欲しい。自分で勝手に可笑おかしくなっているのだから世話はないが、老紳士にもう一度謝っておく。

「やめてよ。恥ずかしいなあ」

 さっきの自分のことは棚に上げてあなんが注意してきた。

「ごめんごめん。分かった。今度ジュンローに会ったら注意しておくよ。だから、あなんも、もう気にしない方がいい」

「でも、でも。何かしときたい。何もしないままだとむかつく。リベンジしたい」

 にぎこぶしを振り回して怒っているがちっとも怖くない。ジュンローがあなんをめるのも分かる気がした。もちろん、舐めてかかれる女の子などこの世に居はしないから、ジュンローは大きなミスをおかしているのだが。

「いつもより多めに金を抜いて、何か欲しいものを買えば? ばれてもジュンローは怒れないだろ」

「そういうのじゃないなあ。私、本当に欲しいものは自分のお金で買いたいから、違うのがいい」

「じゃあ、いつもジュンローの財布から抜いた金は何に使ってるんだ?」

「わりとどうでもいいものを買ってる」

 それじゃあジュンローがますます気の毒だ、と思ったが、とにかく私のアイディアはあなんにはぴんと来ないようだった。細いあごに右手を軽く当ててしばらく考え込んでいたが、私の顔に目をやると何か思いついたようで、正視せいしできないほどにまばゆい笑顔を浮かべた。5秒も見ていたら洗脳せんのうされてしまいそうだ。

「うん、分かった。今回は我慢する。でも次やったら許さない」

 怖いことを言っているが、ジュンローが気を付ければ避けられるはずの事態だ。妥協点だきょうてんとしては十分だろう。

「もし、もう一度同じことがあったら、何をするつもりなんだ?」

 ふふふ、と笑ってから、

「内緒。でも、ソリガチさんにも手伝ってもらいたい。私がお願いしたら聞いてくれる?」

 なんだかよく分からないが、ジュンローを脅かすのなら私が一番適任てきにんかもしれない。

「まあ、僕に出来ることなら」

 それを聞いた彼女が大喜びするわけでもなく、くすくす笑っているだけなのを見て、安請やすういしてしまったのではないか、と不安になってきたが、そこへスマホから踊り出したくなるような音楽が聴こえてきた。あなんに謝ってから出る。

「ごぶさたしています。徳見とくみです」

 予想外の相手だった。彼とは今目の前にいるあなんのおかげで有明ありあけで睨まれて以来になるのか。

「しばらくお休みされているようですね」

としで仕事がいそがしいもので。すみません」

 もちろん行かなくなった理由を正直に言いはしない。

「次はいつ参加できそうですか?」

「さあ、分かりません。少なくとも年内は無理だと思います」

 電話の相手は黙ってしまった。甘すぎるマスクの眉間みけんしわが寄っている様子を思い浮かべていると、

「今日これから、会ってお話できませんか?」

ACT2アクトツーは欠席している人間をそこまで心配してくれるんですか。ずいぶん親切ですね」

「いえ、今日はACT2ではなくタンホイザー・ゲートの人間としてお話があるんです」

 つまり、阿久津あくつの部下として話をしたい、ということらしい。徳見くんが独断どくだんで動いているのではなく上司のめいを受けて動いていると考えるのが自然だろう。それにしても意図がはかねたが、私の意志はその言葉を聞いたときに一瞬で固まっていた。

 めぐわせというものを、私は信じていた。一度なら偶然でも、もう一度続けば必然ひつぜんだと、そう考えていた。今目の前で座っている女の子を馬鹿にするのに腹を立てて、一度は阿久津の調査を抛棄ほうきした。しかし、それでも、望んでもいないのに、この前加瀬かせと話す機会が巡ってきて、そして今こうして徳見くんが接触しようとしている。今や私は調査の完結に向かって動いている激しい流れの中にいるとしか思えなかった。推理小説を話題にする時に、「どんな名探偵もあらかじめ事件を防ぐことのできない後付けで動く人間に過ぎない」という批判ひはんめいたジョークが言われることがあるが、私に言わせれば、名探偵は事件を完結せざるを得ない宿命しゅくめいを背負った、他の誰にも果たすことのできない役割を任された人物なのだ。あのガブリエルもそうだ。もちろん、自分を名探偵になぞらえることなどとてもおこがましいが、今の私がフィナーレに向かう舞台ぶたいの上で逃がれられない役を振られているのは確かだった。もう逃げられないし、逃げてはいけない。そう思っていた。

「徳見さんは今どちらに?」

新宿しんじゅく所用しょようを済ませたところです」

「じゃあ、僕が今からそちらに向かいますから」

 一時間後に会う約束をして、あなんの方に向き直ると、

「お仕事の時はそんななんだね」

 と少しさびしそうに微笑ほほえみを浮かべていた。抛っておかれたせいだろうか。

「あなんだって仕事の時は真面目まじめになるだろ?」

「どうかなあ。変わんないと思うけど」

「やってみてよ。コールセンターでいつもどんな感じで電話に出てるのか」

 スマホを差し出してみる。

「やだ。絶対やだ」

「ほら」

「やだったら」

 珍しくこちらから攻める格好になったので楽しくなってしまったが、あまりやると怒られそうなのでほどほどにしておく。所詮しょせん私はSエスにはなれない。

「聞いてたと思うけど、僕はこれから人に会いに行かなきゃいけない。あなんも新宿まで来る?」

 湘南新宿しょうなんしんじゅくラインで武蔵小杉まで帰れるはずだった。

「ううん。久しぶりにサンロードを歩いてきたい。本当はソリガチさんと行きたかった」

「僕が一緒でも何も面白くないって」

 そうでもないけどなあ、と言いながら、あなんが先に席を立った。赤いミニスカートから伸びる黒いタイツに包まれた長いあしがどんどん先に行くのをながめながら私も立ち上がった。


約束やくそく、忘れないでね」

「ああ」

 おそらくジュンローが再犯さいはんした場合のことを言っているのだろうが、頭の中が仕事モードに切り替わりつつある私は何処かうわそらで、それはあなんにもしっかり分かってしまっていたようだった。いきなり左腕をかかえられやわらかな身体からだに強く押し付けられた。私の二の腕が黒いセーターに隠された胸の谷間を左右に押し広げている。それでも私が何も反応しないので、あなんは不思議に思ったようだった。

「怒らないの?」

「あなんがしたいからしてるんだろ?」

 この前の有明と同じパターンのはずだから、怒るだけ損だった。効き目がないと見たのか、あなんは私の腕をぱっと放すと、後ろを向いて一人で何かぶつぶつ言っていた。護島さんだけでなく、このも私を勝手に理解したつもりになっているのかもしれない。私には2人のことが全然分からないままだというのに。中央線ちゅうおうせんの改札の前まで来た。

「じゃあ、お仕事頑張って」

「あなんも気を付けて」

 改札を抜けて、エスカレーターでホームへと上がろうとしても、あなんはまだ私に向かって両手を大きく振っていた。見送りはほどほどで切り上げてくれた方が見送られる方もやりやすい、とは思ったが、それでも胸の内があたたかくなったのは確かだったから、文句は言わないことにした。

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