第17話

 神保町じんぼうちょうの喫茶店での一件について私から報告を受けた所長は苦虫にがむしつぶしたような顔をしていた。それも東南とうなんアジアのジャングルにいそうな全長15センチはあるでかいやつを噛んでしまったような恐ろしい顔だった。本当は護島ごとうさんが自分に頼まなかったことを、そして私が事前に報告しなかったことも怒りたいのだろうが、

「あんなに怒られてすぐに所長に何かお願いするのは無理な話よね」

 と、白石しらいしさんに先回りして言われてしまったので、何も言うことができないようだった。

「ご苦労だったな。おてんばに付き合わされて君も迷惑したろう」

 そう言うのがやっとのようだ。怒られるのを覚悟していたのでほっと胸をで下ろす。

「それから、大場おおばくんにはしかるべき措置そちを取ることにしよう」

 お気の毒な絵画かいがブローカーをあまりいじめないでもらいたいものだが、何か言うと私までとばっちりが来そうなのでもちろん何もしたりはしない。

 とうとう私たち3人だけになってしまった事務所の中は前よりも静かでとても広く感じた。慣れ親しんだはずの場所なのにとても居づらく感じるのを不思議に思っていると、スマホからにぎやかな曲が流れ出したので、扉の外に出て確認するとジュンローからだった。

「お久しぶりス」

 この前有明ありあけであなんと会ったと伝えると、

「聞きましたよ。とうとうコスプレに目覚めたみたいスね」

 違うと言っているのに。彼女のために腹を立てて阿久津あくつのワークショップのを行くのをやめたのは何だったのか、と思ったが、恩着せがましく考えるのもみっともないのでやめにした。話が多少通じなくても、それでもあなんがいいであるのに変わりはない。

「もしかしたらソリガチさんが興味を持つかもと思いまして」

 ジュンローの話は思いがけないもので、かつてマグニでストーリーと脚本を担当していた加瀬かせと接点ができたというのだ。ここ最近精力的に小説を発表し続けてきた加瀬は、志摩半島しまはんとうの海沿いの町で過ごした少年期の思い出を描いた最新作が特に評価され、近く文学賞の候補作に選ばれるとの噂を私も週刊誌で目にして、興味をかれて読んでみると、読む者の郷愁きょうしゅうを誘わずにはいられない詩情しじょうあふれた作品で、高く評価されるのも当然だと感じた。エンターテインメントより純文学の方に資質があるようだったが、小説を発表しながらも加瀬は映画やドラマの脚本の仕事も続けていて、その制作の過程を取材していたジュンローと面識ができたのだという。

「阿久津さんのこともそれとなく聞いてみたんスけど」

「どうだった?」

「“最近彼も頑張ってるみたいだね”とかたりさわりのないことを言ってたスけど、マグニの頃のことを聞こうとすると、“友達の悪口はあまり言いたくない”って黙っちゃったスよ」

 つまり、本当のことを言えば悪口になってしまう、ということなのだろう。加瀬の沈黙はマグニ時代の阿久津の行状ぎょうじょうを何よりも雄弁ゆうべんに証明しているように思えた。

「俺はダメだったスけど、ソリガチさんならもっと上手く聞き出せるんじゃないスか」

 それで今度加瀬が参加する飲み会に来ないか、と誘われた。阿久津の調査を切り上げたことをジュンローには説明していなかった。しかし、書類を作るのも気乗りがしなかったので、最近は調布ちょうふの新校舎や石神井池しゃくじいいけ周辺の外来生物がいらいせいぶつやパンナコッタの再ブームの仕掛け、といった他の調査を優先してやっていて、正岡まさおかに報告書を提出して正式に調査を終わらせたわけでもなかった。ジュンローは期待してくれているようだが、私も加瀬から何か新事実を聞き出せる自信はなかったので、どうしようかと迷ったが、結局好奇心には勝てずに参加することにした。加瀬の顔だけでも一度直接見ておくのも悪くはない。

「じゃあ、お言葉に甘えて参加させてもらうよ。それでいつやるんだい?」

「今夜ス」

 さかいの時といい急な話を持ってくる男だ。さいわい予定はなかったからよかったものの。その後電話の向こうでワンマンショーが始まりそうな気配がしたのでさっさと切ってしまった。せめて夜まで体力を温存おんぞんしておけないのか。

「終わった?」

 気付かないうちに白石さんが横に立っていたので驚いてしまった。注意していたつもりだったが大声をあげてしまっていたのだろうか。

「すみません。すぐに戻りますから」

「それはいいの。中に戻ったってどうせさぼるんでしょ」

 別にばりばり働くつもりはなかったが、そう言われるとモーレツ社員のように働きたくなってくる。

「護島さんのこと、助けてくれてありがとうね」

 頭を下げられた。

「私もあの子のことは気になってたんだけど、結構大変だったみたいだね」

「最初は白石さんに一緒に来てもらうつもりだったみたいですよ」

 あはは、と口を隠して笑ってから、

「聞いた。確かに私がその場にいたら、むかついて相手に水をかけちゃっていたかもね。ついでにコーヒーやビールなんかも」

 そこまでされた相手が心配になってしまう。というか、それを知っているということは。

「護島さんと話したんですか?」

「昨日の夜、電話がかかってきてね。思ったより元気そうで安心した」

「じゃあ、あの後相手から連絡があったりは」

「ないって。ソリガチくんがかなりおどしたんだからもう大丈夫でしょ」

 別に脅してはいないが、それだけは気になっていたからほっとした。

「そんなに気になるなら、電話をかけてあげなさいよ」

 白石さんが左ひじで私の右脇腹を突いてきた。さほど力は込められてなかったが、不幸にもタイミングが合ったせいで息が詰まってしまう。やはりこの人は武闘派ぶとうはか。

「でも、彼女はもう辞めたんですから」

「かけたいならかければいいじゃない。やらない理由を探してどうするの」

「新しい仕事を探す邪魔になったら悪いですよ」

 手のほどこしようがない、と言いたげに白石さんが溜息ためいきをつく。

「あんたがもてないのがよく分かった。これじゃ女の子は逃げてくわ」

「自分がもてないのはよく分かってますよ」

 少し不貞腐ふてくされて返事をした。

「私が言いたいのはそういうことじゃないんだけど。じゃあ、やっぱり猫娘ねこむすめちゃんがいいんだ」

 猫娘というのは、あなんのことだろう。何故いきなりその名前が出てくる。

「誤解しないで欲しいんですけど、あの娘は彼氏かれし持ちですよ」

「どうかしらねえ」

 そんなことまで疑わないで欲しい。白石さんは少し離れてから私の全身をじろじろと見渡した。自分が何故か一つだけ倒れなかったドミノのはいのように思えてくる。

「まあいいか。護島さんか猫娘ちゃんが苦労しても、私には関係ないもんね」

 そう言うと、事務所の中に戻って行ってしまった。一体何が言いたいのか。わけが分からない。このまま戻るのも後を追いかけたみたいでしゃくなので、少し早く昼飯をることにして階段を降りて行く。一体何歳いくつになったらおばさんのお小言こごとにもいちいち腹を立てない、海のように広い心を持てるようになるのだろうか。


 みぞくち駅で田園都市線でんえんとしせんを降りると夜風よかぜが身にみた。着膨きぶくれるのは嫌なのだが、さすがにコートを着ないときつい。武蔵溝むさしみぞくち駅の方へ向かい、教わった通りの道を歩いていくと、「海鮮処かいせんどころ シーサーペント」の赤い看板が見つかった。入口の横にイラストがられていて、世界地図の太平洋たいへいようから長い首をもたげた海蛇うみへびが「いらっしゃいませ!」とにこやかに呼びかけている。今流行はやりのゆるキャラなのだろうか。自動ドアから入ると店員たちがそれこそイラストの海蛇のように「いらっしゃいませ!」と挨拶あいさつしたつもりなのだろうが、大声を出そうとするあまり発音が不明瞭ふめいりょうになって「しゃいませー」としか聞こえない。座敷席ざしきせきを予約したと聞いていたので、こけしのような顔立ちの背の低い若い女性店員に尋ねようとすると、

「こっちス、こっちス」

 と私を待ってくれていたらしいジュンローが廊下ろうかの奥で手を振っていたので、そちらへ向かう。こけしがどんな声なのか聞いてみたかったが、後で注文を取りに来るだろうか。狭い階段を上がり2階に出ると、そこは全て畳敷たたみじきの宴会場えんかいじょうで、左半分が仕切られて貸し切りになっていて、そこが私たちの参加する宴席えんせきのようだった。既に10名ほどが集まっていて、思い思いに酒を飲んだり刺身さしみをつまんだりしていた。

「今日はそんなにあらたまった席でもないので、適当にくつろいでくれていいスよ」

「加瀬さんはいる?」

 見たところ、調査の過程で何度も写真で見てきた顔はいないようだった。

「まだみたいスね。でも、必ず来ますから大丈夫スよ」

「おお、小泉こいずみくん。横の人は誰?」

 もう酔っぱらっているのか、顔を赤くした肥満体ひまんたいの男性がジュンローと私に向かって手を上げた。香港ホンコンのアクション映画によく出ているラム・シューという俳優はいゆうに似ていた。

「ソリガチさん。僕がいつもお世話になっている先輩ス」

 ジュンローが紹介すると、ラムさん―勝手に名前を付けてしまった―と周りの何人かがにこやかに迎えてくれた。ビールの中ジョッキを注文してから、話を聞いてみると、今夜は再来年の初めにBSビーエス五夜ごや連続放映する予定のスペシャルドラマの関係者の集まりで、ラムさんは広報の仕事をしているとのことだった。

「もうスケジュールがキツキツでねえ、正月返上で頑張らないといけなくなってきたんですわ」

 ラムさんはそう言って、黄色いネクタイを緩めると日本酒をぐいとあおった。

「脚本が遅れてたりするんですか?」

「とんでもない。加瀬さんの脚本は2年前にはほとんど出来上がってたんですよ。あの人はとにかく筆が速いんだ。でも、スポンサーが撤退てったいしたり、爆弾テロでタイのロケがダメになったりで、そのたびに書き直す必要が出て、大変な苦労をされていて我々は加瀬さんの方へ足を向けて寝られないんです」

 一応調査のために来ているのだから、加瀬の仕事ぶりを何人かに聞いてみたのだが、誰に聞いても文句は出ず、突然の無理な注文にも応えてくれている、小説が評価されるようになって本当に良かった、とたたえる声しか聞こえてこなかった。いい人なのだろう。違う業種ぎょうしゅの人間がまぎんで大丈夫か、と思っていたが、それは杞憂きゆうだったようでなごやかに話しているうちにあっという間に1時間が経過していた。

「あ、加瀬さんだ」

 ラムさんが手を上げたので、海草かいそうサラダを頬張ほおばりながら顔を上げると、3人の男たちが一緒にやってきていて、その中央に加瀬が立っていた。血色けっしょくのいい四角い顔はあぶらで光っていて、白いタートルネックを着ているせいで顔の大きさが余計に強調されて見える。 

「遅くなりました」

 低い声でそれだけ言って、窓際まどぎわの真ん中の席にどかっと腰を下ろした。いきなり話しかけるのもおかしいので、しばらく遠くから様子を窺っていると、コップで芋焼酎いもじょうちゅうをがぶがぶ飲みながら、カツオのたたきを一気に2枚、3枚とまとめて口の中にほうんでいる。お話を考える人は普通の人より燃料が必要なのだろう、と思わせる食べっぷりだった。加瀬は人気者らしく、入れ代わり立ち代わり関係者がやってきては話しかけている。これでは話を聞けそうもない、とあきらめて、今夜は飲みの席を楽しむことにした。変な名前の店だが料理は美味うまかった。キスの天ぷらをかじっていると、遠くでジュンローがアイドルについて熱く語り出していたのに気付いた。とうとう始まってしまったか。

「どうしてここなんだろうな」

 酔いが回っていたせいか、思わず口にしてしまっていたらしい。

「何がです?」

 右側から渋い声でかれたので見てみると、加瀬が座っていた。気づかないうちに席を移っていたらしい。煙草たばこからはハッカのにおいが強くかおった。メンソールか。私が変な顔をしたのに気付いたのだろう、

「これを吸うとインポになるって言いますけどね」

 と笑った。そういう都市伝説なら昔聞いたことがある。

「それで、何を気にされているんです?」

「いや、この辺が飲み会の会場になるのは珍しい気がしまして。どうして都内じゃないんだろうと」

 加瀬は肩を揺らして笑った。一件落着いっけんらくちゃくしたあと捕物帳とりものちょうの主役のような豪快な笑い方だ。

「別に大した事情はありませんよ。今日は一日、川崎かわさきの方でロケハンとかいろいろやっていたんです。鶴見つるみ多摩川たまがわ武蔵小杉むさしこすぎ。いろいろと見て回ってたんです」

「脚本の方もロケハンに参加されるんですか?」

「実際に行かないと分からないこともありますからね。特に武蔵小杉は最近だいぶひらけてきていると聞いていたので一度行ってみたかった」

 そういえば、あなんの実家も武蔵小杉だった。両親と二匹の犬と一緒に暮らしているらしい。

「脚本はもう出来ていると聞きましたけど」

「僕もそのつもりなんですけど、監督がねばる人でね。“この脚本は正解なんだけど、まだ大正解だいせいかいじゃない”って事あるごとに手直しを頼んでくるから、じゃあ大正解を出すまで付き合ってやろうじゃないか、って腹をくくったんですよ」

 物作りの内幕うちまくを見るのは、どんな業界でもそれなりに楽しいもので、調査員になってよかったと思える数少ない瞬間の一つだった。

「それで今日はどうせなら川崎の方で飲もうという話になりまして。あとここの板長いたちょうがプロデューサーの身内なんです」

「そういうことでしたか。気にするほどでもなかったですね」

「でも、そういうちょっとしたことを見逃がさないのが僕らには大事なんです。決して馬鹿にはできない」

 そこで初めて私をじっとながめて、

「見ない顔ですね。同業者の方ですか?」

「いえ、僕は彼に連れられてきたんです」

 遠くで相変わらず熱弁をふるっているジュンローを指さす。

「小泉くんの。ほう」

「また悪い病気が出てますね」

「彼はいつもあんな感じなんですか?」

「いいやつなんですけどね。ただ、話がむやみに長いのはいただけない。プログレの曲みたいに長い」

純喫茶じゅんきっさ フラジャイル」に行って以来、私の中で何度目かのプログレッシブ・ロックのブームが来ていて、今朝も『フォックストロット』をいてから家を出てきた。

「妙なレトリックを使いますね」

 加瀬が天下の副将軍ふくしょうぐんのように笑う。そんなにおかしなことを言ったつもりはなかったが、お気にしたのなら何よりだ。それからしばらく2人で話し込んだ。調査員の仕事は興味をくようで、加瀬もご多分たぶんれずいろいろと質問をしてきた。ただ、私から阿久津について聞けば彼の口が重くなるのは目に見えていたから、その話題はけるようにしていた。

「“こんあおい”、読ませていただきました。とても良かったです」

「ありがとうございます。あれは僕もかなり思い入れがある話なので、みなさんが読んでくださってとても嬉しいです」

「加瀬さんはあの辺のお生まれで?」

「中学まで志摩で過ごしました。高校から名古屋なごやに出て30年以上暮らして、東京に移ったのはつい最近ですね」

 3本目のメンソールに火をつけた。

「ご存知かどうか知らないけど、マグニ、という会社で働いていたんです。なかなか凄い面子めんつそろった会社でね、去年アカデミーの外国語映画賞にノミネートされた恵比寿馨えびすかおるくん、最近アフガニスタンまで行ってニュースになった堺豪さかいごうくん、彼らと一緒に立ち上げた会社なんです。他にも才能のある仲間がいたんですが、あと誰でも知っているのは、阿久津世紀あくつせいきくん。彼も僕の仲間でした」

 私が避けていたのに向こうの方から飛び込んできた。こういう偶然は調査員をしていると実はよくあることなのだが、私の場合、こうなると喜んで飛びつくよりも逆に警戒して身構えてしまう。ここからは気を付けて話を進める必要がある。

「ああ、阿久津さん」

 あえてあまり関心のないふりをする。

「テレビでよく見かけるので僕も嬉しいですね。まあ、今の彼は僕が知っていた頃よりはだいぶお洒落しゃれになっているけど」

 オブラートで二重三重にじゅうさんじゅうに包んだ言い方だ。

「前は違ったんですか?」

「身なりに気を付けるよりは美味うまい飯が食いたい、という男でしたよ。何か心境しんきょうの変化があったんでしょうけどね」

「阿久津さんも作家として本を出されてますけど、加瀬さんは読まれたりは?」

 敗北を覚悟した武将のような苦い笑いを浮かべた。何をやっても時代劇みたいな所作しょさになってしまう人らしい。

「最初に出たのは読みましたけど、それ以外はちょっと。けなしているわけじゃないですよ。彼が本に書いていることは、僕らと仕事をしている時にいつも言っていたのとほぼ同じなんです。だから、読まなくても分かってしまう、それだけです」

 思ったよりも話してくれているので、私からも話を振ってみることにした。危なくなったら引けばいい。

「実は僕もこの前、阿久津さんの話をあるイベントで直接聞く機会があったんです」

「ほう。どうでした?」

「とにかく話が上手でしたね。思わず聞きれてしまいました。特に名探偵ガブリエルの口癖くちぐせの話は感動的でした」

「ガブリエルの?」

 加瀬がいぶかしげに訊いてきた。

「ええ、ガブリエルの推理が暗礁あんしょうに乗り上げた時に、“神よ”と言うのは、阿久津さんのお父様が亡くなられた時の最後の言葉だったという話で」

 そこから先は続けることができなかった。加瀬の顔から脂気あぶらっけがなくなって表情が暗くなっている。指で挟んだ煙草の灰が崩れて畳の上に散っていく。

「どうしたんです?」

 どうやら私は地雷じらいを踏んでしまったらしい。しかも最初の一歩でだ。堺が知ったら腹をかかえて笑いそうだ。それでも加瀬はどうにかして口を開こうとしていた。

「だって、彼の親父おやじさんは」

 最後まで言えはしなかった。その後は長い沈黙が訪れた。加瀬は短くなった煙草をアルミの灰皿に乱暴に押し付けてからはずっとうつむいたままで、私も何も訊けないまま、ジョッキの中に残ったビールを飲み切らないように少しずつめることしかできずにいた。

「おかわりお持ちしましょうか?」

 と聞いてきたのはからの皿を下げに来たこけしだった。見た目通り童女どうじょのような声だったのが微笑ほほえましかったが、こんなを居酒屋で働かせるのはいかがなものか、とも思ってしまった。中年になるとこのような身勝手みがってな考えをするようになるのだろうか。せっかくなのでおかわりを頼んでいると、

邦画ほうが

 と加瀬が言ったのが聞こえた。両手を後ろの畳について上体じょうたいらして天井を見上げている。

「何か言いました?」

「邦画。昔の邦画がお好きだってさっき言ってましたよね」

 さっき、と言ってもそれは15分近く前の話である。どうも阿久津の件はなかったことにして別の話をしようとしているらしい。映像関係の仕事をしているから、都合つごうの悪い現実はカットできるとでも思っているのか、と意地悪いじわるなことを思い浮かべたが、なかったことにしたかったのは私も同じなので、加瀬の話に乗ることにした。幸い私たちの好みは重複ちょうふくする部分が大きく、特に2人とも日活にっかつアクション映画のファンだったのは好都合だった。日活のファン、というと鈴木清順すずきせいじゅんの話をしたがる人が多いのだが、加瀬がそうでもなかったのも私には嬉しかった。たまには違う話もしたいのだ。私としては、今日は映画ファンのつどいに参加しただけだ、と思いたいところだった。


 終電しゅうでんが近いということで、お開きになった。ジュンローの姿が見えなかったが、ラムさんに訊くと、「彼女の家に行く」と言って先に帰ったらしい。ここから武蔵小杉まですぐに行けはするが、夜更けから彼女の実家に行くというのは明らかに非常識だろう。あなんの父上はジュンローを殴っていいと思う。むしろ私が追いかけて行って殴りたい。

「ソリガチさんに今度何か調べ物を頼んでもいいですか」

 とラムさんに言われたので名刺を渡しておいた。こういった地道な営業活動もしていかなければ、と思ったが、酔いが覚めてしまえばそんな殊勝しゅしょうな心掛けははる天空てんくう彼方かなたに飛び去ってしまうのは分かっていた。

「ねえ」

 店を出て元来た道を戻ろうとして誰かに呼ばれた。振り返ると加瀬がチノパンのポケットに両手を突っ込んで立っていた。

「さっきの話なんだけどさ」

 なかったことにしたかったが、やはりなかったことにはできない、と思ったようだった。いい人なんだな、と鼻の奥が熱くなる。

「阿久津くんのこと、嫌いにならないで欲しいんだ。いいやつなんだよ、本当に」

 私は阿久津のことを好きとも嫌いとも言っていないのだから、加瀬の話は理屈になっていないのだが、自分に言い聞かせる代わりに私に向かって話しかけているのが分かったので、何も言えない。

「それはよく分かってます」

「ありがとう。それだけが言いたかったんだ」

 それじゃ、と私が帰るのとは逆の方向に加瀬は小走りで去っていった。自動車くるまでも待たせているのだろうか。その背中を見ながら、加瀬も堺も阿久津のことを心配しているのに、と胸の内が苦くなっていた。朝方の所長のような顔をしていたかもしれない。駅へ向かって歩き出すと、うつむいていたせいで路上がよく見えた。誰かもどしていたら嫌だな、と思いながらも疲れて顔が上げられない。店から4本目の電柱まで来たところで、その周りに赤とオレンジのガラスの欠片かけらが散らばっているのを見つけた。根元には白い塗料とりょうこすれた跡もある。誰かがバックしそこなってテールランプを壊してしまったのだろう。日付が変わる直前の寒さにふるえながら、私は顔も知らないドライバーに同情していた。

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