第17話
「あんなに怒られてすぐに所長に何かお願いするのは無理な話よね」
と、
「ご苦労だったな。おてんばに付き合わされて君も迷惑したろう」
そう言うのがやっとのようだ。怒られるのを覚悟していたのでほっと胸を
「それから、
お気の毒な
とうとう私たち3人だけになってしまった事務所の中は前よりも静かでとても広く感じた。慣れ親しんだはずの場所なのにとても居づらく感じるのを不思議に思っていると、スマホからにぎやかな曲が流れ出したので、扉の外に出て確認するとジュンローからだった。
「お久しぶりス」
この前
「聞きましたよ。とうとうコスプレに目覚めたみたいスね」
違うと言っているのに。彼女のために腹を立てて
「もしかしたらソリガチさんが興味を持つかもと思いまして」
ジュンローの話は思いがけないもので、かつてマグニでストーリーと脚本を担当していた
「阿久津さんのこともそれとなく聞いてみたんスけど」
「どうだった?」
「“最近彼も頑張ってるみたいだね”とか
つまり、本当のことを言えば悪口になってしまう、ということなのだろう。加瀬の沈黙はマグニ時代の阿久津の
「俺はダメだったスけど、ソリガチさんならもっと上手く聞き出せるんじゃないスか」
それで今度加瀬が参加する飲み会に来ないか、と誘われた。阿久津の調査を切り上げたことをジュンローには説明していなかった。しかし、書類を作るのも気乗りがしなかったので、最近は
「じゃあ、お言葉に甘えて参加させてもらうよ。それでいつやるんだい?」
「今夜ス」
「終わった?」
気付かないうちに白石さんが横に立っていたので驚いてしまった。注意していたつもりだったが大声をあげてしまっていたのだろうか。
「すみません。すぐに戻りますから」
「それはいいの。中に戻ったってどうせさぼるんでしょ」
別にばりばり働くつもりはなかったが、そう言われるとモーレツ社員のように働きたくなってくる。
「護島さんのこと、助けてくれてありがとうね」
頭を下げられた。
「私もあの子のことは気になってたんだけど、結構大変だったみたいだね」
「最初は白石さんに一緒に来てもらうつもりだったみたいですよ」
あはは、と口を隠して笑ってから、
「聞いた。確かに私がその場にいたら、むかついて相手に水をかけちゃっていたかもね。ついでにコーヒーやビールなんかも」
そこまでされた相手が心配になってしまう。というか、それを知っているということは。
「護島さんと話したんですか?」
「昨日の夜、電話がかかってきてね。思ったより元気そうで安心した」
「じゃあ、あの後相手から連絡があったりは」
「ないって。ソリガチくんがかなり
別に脅してはいないが、それだけは気になっていたからほっとした。
「そんなに気になるなら、電話をかけてあげなさいよ」
白石さんが左
「でも、彼女はもう辞めたんですから」
「かけたいならかければいいじゃない。やらない理由を探してどうするの」
「新しい仕事を探す邪魔になったら悪いですよ」
手の
「あんたがもてないのがよく分かった。これじゃ女の子は逃げてくわ」
「自分がもてないのはよく分かってますよ」
少し
「私が言いたいのはそういうことじゃないんだけど。じゃあ、やっぱり
猫娘というのは、あなんのことだろう。何故いきなりその名前が出てくる。
「誤解しないで欲しいんですけど、あの娘は
「どうかしらねえ」
そんなことまで疑わないで欲しい。白石さんは少し離れてから私の全身をじろじろと見渡した。自分が何故か一つだけ倒れなかったドミノの
「まあいいか。護島さんか猫娘ちゃんが苦労しても、私には関係ないもんね」
そう言うと、事務所の中に戻って行ってしまった。一体何が言いたいのか。わけが分からない。このまま戻るのも後を追いかけたみたいで
「こっちス、こっちス」
と私を待ってくれていたらしいジュンローが
「今日はそんなにあらたまった席でもないので、適当にくつろいでくれていいスよ」
「加瀬さんはいる?」
見たところ、調査の過程で何度も写真で見てきた顔はいないようだった。
「まだみたいスね。でも、必ず来ますから大丈夫スよ」
「おお、
もう酔っぱらっているのか、顔を赤くした
「ソリガチさん。僕がいつもお世話になっている先輩ス」
ジュンローが紹介すると、ラムさん―勝手に名前を付けてしまった―と周りの何人かがにこやかに迎えてくれた。ビールの中ジョッキを注文してから、話を聞いてみると、今夜は再来年の初めに
「もうスケジュールがキツキツでねえ、正月返上で頑張らないといけなくなってきたんですわ」
ラムさんはそう言って、黄色いネクタイを緩めると日本酒をぐいとあおった。
「脚本が遅れてたりするんですか?」
「とんでもない。加瀬さんの脚本は2年前にはほとんど出来上がってたんですよ。あの人はとにかく筆が速いんだ。でも、スポンサーが
一応調査のために来ているのだから、加瀬の仕事ぶりを何人かに聞いてみたのだが、誰に聞いても文句は出ず、突然の無理な注文にも応えてくれている、小説が評価されるようになって本当に良かった、と
「あ、加瀬さんだ」
ラムさんが手を上げたので、
「遅くなりました」
低い声でそれだけ言って、
「どうしてここなんだろうな」
酔いが回っていたせいか、思わず口にしてしまっていたらしい。
「何がです?」
右側から渋い声で
「これを吸うとインポになるって言いますけどね」
と笑った。そういう都市伝説なら昔聞いたことがある。
「それで、何を気にされているんです?」
「いや、この辺が飲み会の会場になるのは珍しい気がしまして。どうして都内じゃないんだろうと」
加瀬は肩を揺らして笑った。
「別に大した事情はありませんよ。今日は一日、
「脚本の方もロケハンに参加されるんですか?」
「実際に行かないと分からないこともありますからね。特に武蔵小杉は最近だいぶ
そういえば、あなんの実家も武蔵小杉だった。両親と二匹の犬と一緒に暮らしているらしい。
「脚本はもう出来ていると聞きましたけど」
「僕もそのつもりなんですけど、監督が
物作りの
「それで今日はどうせなら川崎の方で飲もうという話になりまして。あとここの
「そういうことでしたか。気にするほどでもなかったですね」
「でも、そういうちょっとしたことを見逃がさないのが僕らには大事なんです。決して馬鹿にはできない」
そこで初めて私をじっと
「見ない顔ですね。同業者の方ですか?」
「いえ、僕は彼に連れられてきたんです」
遠くで相変わらず熱弁をふるっているジュンローを指さす。
「小泉くんの。ほう」
「また悪い病気が出てますね」
「彼はいつもあんな感じなんですか?」
「いいやつなんですけどね。ただ、話がむやみに長いのはいただけない。プログレの曲みたいに長い」
「
「妙なレトリックを使いますね」
加瀬が天下の
「“
「ありがとうございます。あれは僕もかなり思い入れがある話なので、みなさんが読んでくださってとても嬉しいです」
「加瀬さんはあの辺のお生まれで?」
「中学まで志摩で過ごしました。高校から
3本目のメンソールに火をつけた。
「ご存知かどうか知らないけど、マグニ、という会社で働いていたんです。なかなか凄い
私が避けていたのに向こうの方から飛び込んできた。こういう偶然は調査員をしていると実はよくあることなのだが、私の場合、こうなると喜んで飛びつくよりも逆に警戒して身構えてしまう。ここからは気を付けて話を進める必要がある。
「ああ、阿久津さん」
あえてあまり関心のないふりをする。
「テレビでよく見かけるので僕も嬉しいですね。まあ、今の彼は僕が知っていた頃よりはだいぶお
オブラートで
「前は違ったんですか?」
「身なりに気を付けるよりは
「阿久津さんも作家として本を出されてますけど、加瀬さんは読まれたりは?」
敗北を覚悟した武将のような苦い笑いを浮かべた。何をやっても時代劇みたいな
「最初に出たのは読みましたけど、それ以外はちょっと。
思ったよりも話してくれているので、私からも話を振ってみることにした。危なくなったら引けばいい。
「実は僕もこの前、阿久津さんの話をあるイベントで直接聞く機会があったんです」
「ほう。どうでした?」
「とにかく話が上手でしたね。思わず聞き
「ガブリエルの?」
加瀬が
「ええ、ガブリエルの推理が
そこから先は続けることができなかった。加瀬の顔から
「どうしたんです?」
どうやら私は
「だって、彼の
最後まで言えはしなかった。その後は長い沈黙が訪れた。加瀬は短くなった煙草をアルミの灰皿に乱暴に押し付けてからはずっと
「おかわりお持ちしましょうか?」
と聞いてきたのは
「
と加瀬が言ったのが聞こえた。両手を後ろの畳について
「何か言いました?」
「邦画。昔の邦画がお好きだってさっき言ってましたよね」
さっき、と言ってもそれは15分近く前の話である。どうも阿久津の件はなかったことにして別の話をしようとしているらしい。映像関係の仕事をしているから、
「ソリガチさんに今度何か調べ物を頼んでもいいですか」
とラムさんに言われたので名刺を渡しておいた。こういった地道な営業活動もしていかなければ、と思ったが、酔いが覚めてしまえばそんな
「ねえ」
店を出て元来た道を戻ろうとして誰かに呼ばれた。振り返ると加瀬がチノパンのポケットに両手を突っ込んで立っていた。
「さっきの話なんだけどさ」
なかったことにしたかったが、やはりなかったことにはできない、と思ったようだった。いい人なんだな、と鼻の奥が熱くなる。
「阿久津くんのこと、嫌いにならないで欲しいんだ。いいやつなんだよ、本当に」
私は阿久津のことを好きとも嫌いとも言っていないのだから、加瀬の話は理屈になっていないのだが、自分に言い聞かせる代わりに私に向かって話しかけているのが分かったので、何も言えない。
「それはよく分かってます」
「ありがとう。それだけが言いたかったんだ」
それじゃ、と私が帰るのとは逆の方向に加瀬は小走りで去っていった。
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