第16話

「明日お目にかかりたいのですが」

 護島ごとうさんから電話がかかってきたのは事務所で別れてから2日後の水曜の夜だった。本当なら中野なかのまで行って阿久津あくつのワークショップに参加する日だったのだが、もちろん出かけはしなかった。とはいえ、正当な理由はあったとしても予定されていたスケジュールをすっぽかすうしろめたさはどうしてもつきまとい、おまけに夕方にベッドの下に迷い込んだ『ワインズバーグ、オハイオ』の古い文庫本を取り出そうとして右腕を痛めてしまった。知らないうちに肩の可動域かどういきが狭くなっていたのだ。私がエースピッチャーだったら選手生命に関わっていただろう。しかし、彼女からの電話でそんなうしろめたさや痛みは何処かに吹き飛んでしまった。「私とは二度と会うことはないだろう」などとニヒルに決めたつもりだった2日前の私を指さして腹を抱えて笑いたかったが、私を笑う私、という図式ずしきも思えば悲しいものがあった。

「助けて欲しいんです」

 護島さんの話は簡潔かんけつすぎたので、私なりに適宜てきぎ補足しながら説明すると、彼女も私と同様に得意先にお使いに行かされることが度々あったらしい。その中に湯島ゆしま在住の絵画かいがブローカーがいて、出向くたびに口説かれて閉口へいこうしていたのだが、前回行った時にとうとう2人きりで会う約束をしてしまったのだという。そして、明日がその約束の日なのだそうだ。

「所長に迷惑がかかるよ、と言われてどうしても断り切れなくて」

 私にはあんなに強気なのに、と彼女に一瞬腹を立ててしまったが、本当に悪いのは断れないように仕向けたそのブローカーなのだ。つくづく私は人間ができていない。

「そんなの無視しちゃえばいいんじゃないの?」

「しっかり断っておきたいんです。本当に所長に迷惑がかかってもいけないし、心配事を残したままだと次に行けませんから」

 あんなに泣いていたのに、2日で前を向こうとしているのは立派なものだ、と皮肉でなく思う。

「それで一緒に立ち会ってもらいたいんです。相手の方がどうも苦手で、一人だと断り切れる自信がなくて」

「分かった。僕でよければ」

「最初は白石しらいしさんにお願いするつもりだったんですけど、こういう場合はやっぱり男の人がいいかなと思って」

 お前はベストの選択じゃないんだ、と言われたかのように悪意で解釈してしまう。我ながらなんて狭量きょうりょうな。

「白石さんは結構武闘派ぶとうはだから、そのブローカーの人に水をひっかけるくらいは平気でやるよ。僕よりよっぽど頼りになるんじゃないかな」

 事務所にやってきた依頼人と押し問答になりかけた時に彼女が啖呵たんかを切って相手を黙らせたのを私は目撃している。元ヤンキーなのかもしれない、と思ってそれ以来あまり逆らわないように気を付けている。

「いえ、それは困ります。なんとか穏便おんびんに済ませたいんです」

「それよりも所長に言えばすぐに片付くと思うけど」

 しばしの沈黙の後、

「おじさまには会わせる顔がありませんから」

 とだけそっと呟いた。すっかり萎縮いしゅくしてしまっていた。所長が知ったらあっちもしおれてしまいそうだ。

「まあいいか。僕らで解決すれば済む話だ。ただ、終わった後で所長には一応報告させてもらうよ。君に手を出そうとした人間を見過ごしたりすれば、僕は所長に殺される」

 冗談ではなく本気で私はそう思っている。彼女から返事はなかったが、了解したものと受け取った。明日の14時に待ち合わせることにして、話を終えようとしたのだが、電話の向こうで何か言いたそうな気配がしたので待っていると、

「本当のことを言うと意外でした」

 とみを含んだ声が聞こえてきた。

「意外って、何が?」

「あなたが私を助けてくれるとは思っていませんでした。怒ってばかりいる変な女を助けてはくれないだろう、とさっきお風呂に入りながら悩んでました」

 お風呂とかそういう余計な情報は聞かせないで欲しい。頭にノイズが飛び込んで収拾しゅうしゅうがつかなくなる。

「確かに君は変だけど、いい意味で変だから、そういう人なら当然助けるよ」

「それってめてませんよね」

 彼女の声が不機嫌になったので、いつもの調子が戻ってきた、と何故か心がはずんでしまう。

「言わせてもらいますけど、あなたの方が私よりずっと変です」

「僕が言ったんじゃない。君が自分から“変な女”って言ったんだ。それに自分が変なことくらいは分かっているよ。僕の方は君と違って悪い意味で変なんだろうけど」

「そうですよね。山崎やまざきさんとあんな写真をっちゃいますもんね」

 やはり根に持っていた。勘弁かんべんして欲しかったが、それから15分、その話題でねちねちと責められた。21世紀の日本で魔女裁判まじょさいばんが体験できるとは思ってもみなかった。

「本当にしっかりしてくださいよ。私がいなくなったからといって油断しないで真面目に生きてください」

 最後にそう言って彼女は電話を切った。別に私のお目付け役になってくれと頼んだ覚えはないのだが。お願いで始まってお説教で終わるという今までにないスタイルの電話を経験したのはこれからの私の人生においてどのような意味を持つのだろうか。


「お待たせ」

 彼女は刺繍ししゅうの本を手にしたまま私の方を見た。いつもより目が大きく見えて、所長の中に今でもいるという小さなエポに会えたような気がする。駿河台下するがだいしたの大きな書店には約束の5分前に着いていたが、先を越されてしまっていた。

「護島さん、裁縫さいほうするんだ?」

 私の問いかけには答えず、キャラメル色のダッフルコートを身にまとった彼女はさっさと店を出て行ってしまう。嫌な相手とこれから会わないといけないから、もう緊張しているのかもしれない。彼女の背中を追いかけて靖国通やすくにどおりを西へ向かう。もう少しで神保町じんぼうちょう駅に着きそうなところで、左に折れて路地ろじを進んでから今度は右に折れてしばらく進むと、ブローカーとの待ち合わせの場所である「純喫茶じゅんきっさ フラジャイル」の前に着いた。

「ここです」

 護島さんはこれから決闘におもむく若い拳銃使いのようないささか気負きおいすぎた表情をしてから店内に入っていく。ドアについたベルが騒々そうぞうしく音を立てる。しかし、私は片側だけ降りたシャッターの表面に『クリムゾン・キングの宮殿』と『タルカス』のジャケットのイラストが描かれていたのに気を取られていた。店主の趣味が全面に出すぎていて、「やばいな」と思わずつぶやいていた。降りていないもう一枚のシャッターにはそれこそ『こわれもの』がえがかれているのだろう。あとひとつイラストがあるとすれば『狂気』だろうか。閉店まで待って確かめたくなる。

「何してるんですか。早く入ってください」

 ドアから顔だけを出した護島さんに注意されたのであわてて中へ入る。店内にはプログレッシブ・ロックではなくピアノの演奏が控えめに流れているだけだった。仕切りの向こうにある四角いテーブル席に先に着いていた彼女が手前に座ったので、私は奥に座る。コートの下はいつも着ている黒のブレザーだったが、今日はいつもより不安げな表情のせいか、就活しゅうかつで苦労している大学生のように見えてしまう。スペードのような形の顎髭あごひげを生やしたウェイターが注文を取りに来て、護島さんはロイヤルミルクティーを頼んだ。ここまで来る途中に自販機で紙コップのホットコーヒーを買って飲んでいた私は目先を変えようとアイスティーを頼んだのだが、

「申し訳ありません。只今アイスティーを切らしております。トロピカルアイスティーならございますが」

 トロピカルアイスティーの「トロピカル」部分を抜かせばいいじゃないか、と思ったものの、この純喫茶はそこまで柔軟じゅうなんには出来ていないようなので、仕方なくトロピカルの付いたアイスティーを頼んだ。おそらくフルーティーな味付けがあわくされているくらいで、飲めないこともないだろう。ウェイターが立ち去るやいなや、居心地いごこち悪そうにしていた護島さんがいきなり口を開いた。

「ごめんなさい」

「え?」

「私、昨日も電話で怒っちゃいました。もうやめないといけないって分かっていたんですけど。白石さんからも注意されたんです。ああ見えてもソリガチさんだって傷つくんだって」

 謝られているのか失礼なことを言われているのか分からない。

「いやいや、しょうがないよ。何しろ僕は君の名前も間違えていたんだから」

 取りなしたつもりだったが、彼女をますます恐縮させてしまった。

「今考えるとあれも怒りすぎました。自分でもよく分からないんです。瞬間的に頭に血がのぼっちゃって」

「いいっていいって、僕は全然気にしてないからさ。でも、君がうちの事務所に入った時から僕を気に入らないように見えたのは気になる」

 また謝りかけたのを手で制する。

「どうしてそんな風に思ったのか、それだけは教えて欲しい。もし僕に至らないところがあれば直しておきたいんだ」

 そう言われると彼女はしばらく下を向いて考え込んでいたが、視線を戻すと、

「生理的に?」

 と言った。それは直しようがない。そればかりは私にはどうしようもないことだ。対向車たいこうしゃと正面衝突して大きくひびが走ったフロントガラスのようになっていたはずの私の表情を見た護島さんが慌てて弁解する。

「いえ、違うんです。外見とかにおいとかそういうことじゃなくて。あなたを初めて見た時から、なんというか、見えない壁を自分の周りにめぐらせているのを感じたんです。この人、凄く警戒してるって。そう思うと私の方も警戒して壁を作っちゃって。だからいつもついつい怒っちゃうのかなって思ったんです」

 残念ながら、それは私にも思い当たることだった。どの場所に行っても人と馴染なじめずにひとりになり、そのうち居づらくなってそこを離れていく、今までずっとその繰り返しだった。ユニバーサル貿易に比較的長くいるのは、所長も白石さんも必要最小限にしか私と接点を持とうとしないからだろう。食事に誘われたり自宅に招かれたりしたことは一度もない。仲良くしようとしなければ仲の良いままでいられるのかもしれなかった。「ATエーティーフィールドがあるぞ」と大学の同級生がふざけて私の顔の間近まぢかで手のひらを振ったこともあったが、そういえばその言葉が出てくる社会現象にまでなったアニメを私は見たことがなかった。

「本当に見た目は別に嫌じゃないんですよ。バズ・ライトイヤーに似ているなあ、っていつも思ってました」

 フォローのつもりなのだろうが、尊大そんだいな宇宙飛行士の人形に似ていると言われても別に嬉しくはない。アラン・ドロンよりはまだ受け入れやすいとはいうものの。その時、何のためにこの喫茶店に来ているのかを思い出した。彼女と2人きりでいつもと違うなごやかな雰囲気になりつつあるのに戸惑ったということもある。

「そろそろ、そのブローカーの人が来るんじゃないの? こんな話をしている場合じゃ」

「まだ1時間あるから大丈夫です」

 思いも寄らないことを言われた。手術台の上にコウモリがさを置かれたようだ。ミシンまで置かれたら完全に不条理ふじょうりになってしまう。

「昨日電話でお伝えした時間は約束の1時間前なんです」

「どうしてそんな」

「あなたとお会いするのもたぶんこれで最後でしょうから、ちゃんとお話しておきたかったんです」

 こう見えて策士さくしだな、と目の前の彼女を見直す思いがしたが、それにしても話したいこととは一体何だろうか。不安は高まる一方だ。

「お待たせしました。ロイヤルミルクティーです」

 そんな私の思いを忖度することなくウェイターが注文の品を運んできた。護島さんの目の前に白いカップが置かれる。

「こちらがトロピカルアイステイーになります」

 それは私の想像していたものとは違っていた。丼鉢どんぶりばちほどの大きさのグラスにはハイビスカスの花がされ、半円状にカットされた皮付きのパイナップルが黄色い果肉かにくを透明なふちにめりこませていた。完全に女の子向けの飲み物だ。南国情緒あふれるソフトドリンクを前にして呆然とする私を見た護島さんが背中の青いソファーに顔をうずめて身を震わせている。

「そんなに笑わなくてもいいじゃないか」

「笑ってません。笑ってなんかいません」

 そう言いながらも眼尻めじりにたまった涙を指でぬぐっているのだから説得力はまるでない。飲むのに邪魔なのでハイビスカスをけた後で、縁から外したパイナップルにそのままかじくと、彼女はまたソファーに顔を埋めてしまった。

「やっぱり笑ってるじゃないか」

「だって、そんなつまらなさそうな顔をしてパインを食べなくてもいいじゃないですか。完全に私を笑わせようとしてやっているでしょう」

 そんなつもりは全くないのではなはだ心外だ。ストローで口に含んだ琥珀色こはくいろの液体は特にわりえのしない市販のアイスティーそのままの味だった。一体なんなんだこの飲み物は。彼女の前だといつも何故か間抜けな事態になってしまうのは私の不徳ふとくいたすところなのだろうか。

「ああ、おかしい。ソリガチさんってやっぱり変な人ですね」

 君には言われたくない、と心の中でクルミのような硬い思いが出来上がりつつあったが、

「でも、小栗栖おぐるすのことをちゃんと話してくれたんだから、私のことも話さないといけませんよね。この前も話そうと思ったんですけど、勇気が出なくてだめでした。今日こそはちゃんとお話したいんです」

 そう言われてクルミを呆気あっけなく握り潰してしまったのだから我ながら現金に出来ている。それから護島さんは少し長い話を始めた。私にとっての小栗栖の件がそうであったように、彼女にとって思い出したくない過去の出来事のようだった。

 やはり護島さんの話は簡潔すぎるので、今度も適当に補足しておく。3年前に都内の私大を卒業した彼女は王子おうじにある大手食品メーカーの経理課に勤務していたという。勤務を始めて1年半になった時に新しい課長が製造部門から赴任ふにんしてきたのが問題の始まりだった。「課内に元気がない」のを気にした課長は、始業前にみんなで体操をしたり、終業後に親睦しんぼくのための食事会をするなど積極的に動いていたそうだ。そこまでは好意的にとらえられていたのだが、疲れが見える部下にマッサージをほどこしたり、休日に呼び出してマンツーマンで話し合いをし始めたところから課の空気がおかしくなりだしたという。

「どういうこと?」

「課長は“男女は平等に扱われるべきだ”という立派な考えをお持ちの方だったんです」

「つまり、女子社員にもマッサージをしたり、単独で呼び出してたってこと?」

 なるほど、それはちょっとさわりがあるかもしれない。

「はっきりと下心があれば拒否できますけど、あくまで善意でやられていたので断り切れないんです。私の隣の同期の女の子はいつも嫌そうな顔をして我慢してました」

「それは護島さんも大変だったね」

「いえ、私は最初に触られそうになった時に結構本気で怒ったので、それからは二度としてこなくなりました」

「さすが」

「馬鹿にしてません?」

 いつものはしばみ色の瞳で私をにらんだ後、軽く息をついた。

「隣のも嫌なら断ればよかったんです。でも、私が怒った時も、私の方が悪いように見られていたみたいだったし、つい我慢しちゃうんでしょうね。みんなだって課長のことを陰で迷惑がっていたんですけど」

 そして、そんな状況が3か月ほど続いたある日、いつものように隣の女子社員にマッサージをして、「これで終わり!」と最後に課長に背中を強めに叩かれたそのの目から涙がこぼれたのを見た時に護島さんは切れてしまったのだという。

「席に戻った課長のところまで行って、“いい加減にしてください。これはセクハラですよ”と大声を出してしまいました。課長は驚いて“二度とやらない”と約束してくれました。悪気はなかったんですから、分かってくれたのならそれでよかったんですけど」

 ところがそれでは終わらなかった。部下の女子社員から抗議を受けたことを聞きつけたらしい人事部が課長を元の製造部門に転属させ、さらにそれから間もなく課長は会社をめてしまったのだという。

「事情はいろいろあったみたいです。セクハラ防止のガイドラインを制定したアピールに使われたのだとか、本社と製造部門との軋轢あつれきとか、課長が会社を辞めたのは転属がきっかけではなく前々から予定されていたことだとか、いろんな話を聞きました。でも、私のせいで課長が辞めさせられた、というのが一番分かりやすい見方で、会社のほとんどの人もそういう風に思っていました」

 その結果、護島さんにとって会社はかなり居心地の悪い場所になってしまった。迷惑がっていたはずの前課長は「いい人」としてしか課の人々の記憶には残らず、それを追い出した―ように見える―彼女は融通ゆうづうの利かない空気の読めない頑固な扱いづらいやつ、とみなされてしまったのだ。隣の女子社員も「辞めさせなくてもよかったのに」と助けてくれたはずの同僚の陰口を叩き、不幸にもそれを彼女は聞いてしまった。

「それが決定的でした。私は何のために怒ったのか、って馬鹿みたいに思っちゃって。それからは、朝、会社に行こうとすると必ず体調が悪くなって、それでも無理して行っていたんですけど、久しぶりに会ったおじさまについ愚痴ぐちをこぼしたら、“そんな胸糞むなくそ悪いところになんか行くな”って怒られちゃって」

 それで会社を辞めてユニバーサル貿易に移ってきた、ということらしい。

「でも、結局今度も同じでしたね」

 護島さんの声が熱くうるんできた。いろいろと思い出して感情が高ぶってしまったようだ。

「誰かを助けたくてやったことなのに迷惑がられるだけで。どうしてこうなっちゃうんだろうって」

 ちょうどその時、アイスティーを飲み切った私のストローが勢い余って、ずごごごご、と大きな音を立てた。話の腰を折られた護島さんの顔に血がのぼって、ちゃんと話を聞いていたんですか、と食って掛かるその前に私の方から話を切り出した。

永劫回帰えいごうかいきだ」

「え?」

 こいついきなり何を言い出すんだ、という表情をしているが、濡れた目のふちが赤らみ輝いて見えて、この顔も私には好ましく思えた。

「今の話を聞いていて永劫回帰だな、と思った」

「ニーチェ、でしたか?」

 頭のいいは話が早くて助かる。

「僕もうろ覚えなんだけど、確か“ツァラトゥストラはかく語りき”に出てくる」

 上手く舌が回らず「たらつすとら」と発音してしまった。もっと呼びやすい名前にしてくれなかったドイツの哲学者を恨む。

「人生は決して一度きりじゃなくて何度でも同じことを繰り返す、という考え方だったと思う。そして、君にもそれがあてはまる」

「じゃあ、私はこれからもまた同じ失敗をすると?」

「ああ。そう思うよ」

 向こうの席に見えるととのった顔立ちからみるみるが失われていく。馬鹿にされている、と思ったのだろう。今まで怒られてきた復讐を最後の最後でされているとも思ったのかもしれない。だがそれは違うとちゃんと言ってあげなくては。

「僕からも君に聞きたい。もし今ここにタイムマシンがあって過去に戻れたとして、無理矢理マッサージをされて泣いている隣の女の子を助けないのか? そして、旦那だんなが愛人にみついでいるのに気づいていない奥さんにそのことを教えないのか? もう一度同じ状況に置かれたとしたら君は違う選択をするのか? どうだろう?」

 護島さんは、このクイズは一問一答いちもんいっとうではなくて三択問題さんたくもんだいですよ、と誰かに教えられたような表情になると、しばらく考え込んだ後、ミルクティーを少し口にしてから答えを出した。

「いえ。仮にもう一度過去に戻れたとしても、私は同じ行動をしたと思います」

 決然けつぜんとした口調だった。

「そうだろうね。正しいと思った行動をして、誰かを助けようとして、それなのに感謝もされずに迷惑がられる。君はきっと今までそんな風に生きてきたんだろうし、これからもそうやって生きていくんじゃないかな」

「ひどいことを言いますね」

 そう言いながらも、その目はもはや私を責めてはいないようだった。

「人は変われる、という考え方は僕には疑わしい。人間はそんな粘土みたいに柔らかく出来てはいないと思う。変わる努力を必死でするより変わらない変えられない自分を認めてそれでもなんとかやっていく、というのが僕には合っている。それが君に合っているかは分からないけど、参考までに聞いてくれたらいいよ」

 年下の女の子を相手に調子に乗って偉そうなことを言っている自分が嫌になるが、目の前で彼女に泣かれるのはもっと嫌だった。偉そうなことを言ったのなら本当に偉くなるまで頑張ればいいだけの話だ。なまものの私にはつらいところだが。

「いきなりそんな哲学めいたことを言われてもわけがわかりません」

 そう言った彼女の身体から光の粒子りゅうしがいくつか飛び出したかのように見えたのは、どんな気持ちの表れなのだろうか。とりあえず落ち着いてくれたようで一安心する。泣かれて店を出て行かれでもしたら、パイナップルの皮で頸動脈けいどうみゃくを切り裂いてただちに自決じけつするつもりだった。果物の皮にそこまでの強度きょうどがあるかは知らないが、文字通り死ぬ気でやればできないことはないだろう。

「よく分からなくなってきました。頭の中がゴチャゴチャになっちゃって」

「時間はあるからあせらないでゆっくり考えたらいいよ」

 そうできればいいんですけど、と彼女が呟く。

「どうしてもっと器用に上手くできないのか、っていつも自分が嫌になってたんです」

「でも、そういう生き方は君らしいと思うし、僕はそんな君を素敵だと思う」

 ん、と彼女が声を出そうとしてんだように聞こえた。私は今何か変なことを言ってしまっただろうか。自分でもよく分からない。急に不安になって、テーブルの上に置かれたハイビスカスの花を「いる?」と彼女に差し出してみたが、固く拒絶きょぜつされて渡せずじまいだった。

「もう、あなたはそうやっていつもふざけてばっかりで」

 今泣いたカラスがもう笑った、というわけでもないが、護島さんは元気を取り戻したのか私に向かって怒り始めた。だが、私の耳には彼女の言葉はこころよい音楽として響いても、その意味までつかむことはできなかった。今の話で本当に良かったのか、そんな疑念ぎねんだけが私の頭と胸の内をめていた。ニーチェのオリジナルは素晴らしいのに脚色きゃくしょくが台無しにした、と原作ファンに怒られはしないだろうか。いや、それよりも大事なのは、彼女にもっと正直に心のうちを打ち明けなくてはいけなかったのではないか、ということだ。正しい一般論より間違った個人の思いが必要とされる場面ではなかったのか。しかし、目の前の彼女は私の話を受け入れてくれたようなのに、どうしてそんな風に思うのか。

「私が聞きたいのはあなたの言葉。他の誰かの言葉じゃなくって」

 そう彼女に言われたから。そうしよう、そうありたいと思っていたから。彼女にそう言われたから。護島さんではない彼女に言われたから。

 突然私は彼女のいるあの部屋に戻っていた。今ではもう誰もいない部屋だ。彼女は菱形ひしがたにワイヤーの入ったガラスを背にして窓縁まどべりに軽く尻を乗せている。窓の外には夜の闇が広がっているだけだ。たけの短いジーンズから伸びた白い脚をぶらぶらと揺らし、オレンジのTシャツを形のいい胸が中から押し上げている。そして、上がった眉と垂れた目の、私が「X顔」と呼んでいつもからかっていたその顔も良く見える。薄く開いた唇はいつも三日月の形に笑みを浮かべ、伸びすぎた茶色い前髪の向こうに見える瞳は、はしばみ色だ。

「そういうことか」

 私は何事なにごとかを理解したが、それを他の誰かに上手うまく伝えることはできそうにない。彼女をずっと思い出さずに来たのは、それが最も危うい記憶だからだ。小栗栖のことは嫌なだけの思い出だが危険ではない。だが、彼女とのことは美しく優しく甘い思い出でもあり、再び振り返れば戻れなくなるかもしれず、そしてもう戻れないのかもしれなかった。海岸に立った時のように、足にひたひたと波が押し寄せている感覚につかまりかけたその時、突然、びしっ、と眉間みけんに激痛が走った。

「いつつつ」

 顔の上半分を右手で押さえながら前を窺うと、護島さんが顔を苦痛にゆがめて右の中指を振っていた。デコピンが強力すぎて自分の指も痛めてしまったのだろう。

「ごめん。ちょっとぼうっとしてた」

 先に謝っておく。彼女がいてくれなければ戻ってこられなかったかもしれない。こんな失態をやらかして護島さんはとても怒っているだろう、と思っていたが、意外にも彼女は、

「本当に駄目な人ですね」

 と呟いて、不機嫌そうに横を向いただけだった。何か変なことを口走ってしまったのだろうか。かける言葉が見つからずに困っていると、入り口のベルが鳴って、どうも、と誰かが間延びした挨拶あいさつをするのが聞こえた。護島さんの表情に一気に緊張が走っていた。

「来ました。あの人です」

 立ち上がった護島さんを見つけた絵画ブローカーが笑顔でこちらに向かってくる。薄くなりかけた髪を後ろに流してポマードできっちり固め、左耳に赤い石のピアスを入れている。ジムに通ってでもいるのか、それなりに均整きんせいの取れた体つきだったが、目の下がたるんで袋のようになっているのと、肌の色がどす黒いおかげですべてが台無しになっていた。何処か内臓が悪そうだ。クラーク・ゲーブルを肉汁にくじると一緒にじっくりことこと念入りに煮込にこんだら、このブローカー氏が出来上がるのかもしれなかった。

「やあやあ。護島さん、お久しぶり。お元気でしたか」

 ブローカー氏の上機嫌じょうきげんは護島さんの後ろにいる私を見つけるまでのわずかな間しか続かなかった。

「こちらの方は?」

 彼が恐る恐るたずねてきたので、ルーレットの目を思い通りにあやつるディーラーのような気分になって、前方ぜんぽうに進み出て話し出した。

「初めてお目にかかります。わたくし、ソリガチと申しまして、ユニバーサル貿易で護島の指導に当たっている者です」

 名刺めいし手渡てわたす。

「はあ。それで、そのソリガチさんが一体何の御用ごようで」

「実はわたくしの横にいる護島がこのたびめでたく寿退社ことぶきたいしゃすることになりまして」

 ブローカー氏の目が驚愕きょうがくで大きく見開かれた一方で、横にいる護島さんが私の背中をこぶしで突いてきて痛さを押し隠すのに苦労する。だが、こうなるとデタラメがアドリブで口から飛び出していくのを止められなくなる。

「柔道100キロ超級ちょうきゅうの日本代表候補と結婚するなんて実に良縁りょうえんに恵まれたものですが、我が社としては大きな痛手いたででもあります」

 今度は二回連続で突いてきた。痛い痛い。

「そういうわけですので、申し訳ありませんが、護島が大場おおば様の担当をつとめることはできなくなってしまいました。そこでよろしければ、わたくしが後任こうにんとして仕事を引き継ぎたいと思っているのですが、いかがでしょうか」

 ブローカー氏の顔面は真っ青になっていた。女の子と会えると思ってうきうきしていたところへ、変なオヤジが出てきたのだから同情に耐えないが、そこまでおびえることもなかろう。

「いや、それは大丈夫です。そちらとのお仕事はこれっきりにしてもらえますか」

 額の汗を白い絹のハンカチでぬぐってから、ふところから封筒を取り出して護島さんに手渡してきた。

「それは?」

「ご結婚ということですので、些少さしょうではありますが、お祝いとさせてください」

 護島さんが慌てて返そうとするのを押しとどめる。

「それは有難うございます。後でうちの長谷川はせがわの方からもお礼にあがらせてください」

「いえ、結構です。それはもう本当に」

 あまりにも怯えているのでかわいそうになってきたが、これならもう護島さんにちょっかいを出すこともあるまい。それでも一応ダメを押しておく。

「それでは、今後は護島への連絡を一切遠慮していただくことにして、何かありましたら、わたくし、ソリガチの方まで連絡していただけたら」

「いやいやいや、それはそのそれは、本当に結構ですので。それでは。護島さん、お幸せに」

 ブローカー氏がよろめきながら「純喫茶 フラジャイル」から出て行くのを見送っているところにまた背中を突かれて、ぐえ、とうめいてしまう。遂にお説教から鉄拳制裁てっけんせいさいへと進化してしまった。

「ちょっと。あんなデタラメを言って、どういうつもりなんですか」

「うまく行ったんだからそんなに怒らなくても。でも、いくらなんでも怖がりすぎじゃないか、あの人」

「よくないですよ。もし嘘だとばれたら」

 そう言いながら私の顔をのぞきこんだ護島さんの目が驚きで見開かれた。

「どうかした?」

「ソリガチさん、血が出てる」

 

 眉間から丸めたティッシュを離すと、わずかに朱色しゅいろにじんでいた。それほど大して出血ではないが、ブローカー氏が何故怯えていたのかようやく分かった。天下御免てんかごめんの向こう傷、というやつだ。

「ごめんなさい。そんなつもりはなかったんですけど」

 つもりがあってやっていたならあまりにもひどいが、もちろんわざとではないので落ち込んでいる護島さんを責められない。

「パンチも結構効いたから、空手からてでも習ったら?」

「反省してますから嫌味いやみを言わないでください」

 本気ですすめたつもりだが、そうは受け取ってもらえなかったようだ。不意に笑いが込み上げてきた。

「どうしたんです? 変な笑い方をして」

「なんだかなあ、と思って。今までずっと怒られてばかりだったのに、最後の最後でこんな風になってさ」

「そうですね」

 沈黙が流れたが、それは別に気まずいものではなかった。

「自分でもよく分からないんですけど、いつの間にかソリガチさんがそんなに嫌じゃなくなったんです。壁があって入れないと思っていたけど、よく見たらすぐそこに門があるのに気付いた、そんな感じです。そうしたら、今まで怒っていたのは、なんだかなあ、って私も思います」

 彼女は気付いていないのだろうが、それはおそらく、あの暗い階段で起こったことだ。あそこで彼女が門の存在に気付いたのを私は見ていたのだ。ただ、そのわりにはまだ怒りすぎているような気もする。

 ブローカー氏から渡された封筒の中を見た護島さんが嘆声たんせいをあげた。

「これ、結構入ってますよ。どうしよう」

 見てみると中で慶應義塾けいおうぎじゅく創始者そうししゃが列をなしていた。

「貰っておいたらいいよ。退職金代わりとでも思って」

「でも」

「再就職の活動資金にしたらいいんじゃない。それともこれで資格を取るための勉強を始めるとか」

 資格ですか、と彼女が呟いた。所長もそれがいいと思っているみたいだ、と告げると黙り込んでしまった。

「これからどうしようとか、何か考えはあるの?」

「とりあえず、しばらくは実家で落ち着いて考えようと思います。今日あなたに言われたことをもう一度よく考えたいんです」

 そこまで重く受け止められるとかえって困ってしまう。彼女なら私の言葉などなくても自分で道を見つけて、歩いて行ける。

「家は何処?」

清澄白河きよすみしらかわです」

 名前は知っているが、降りたことのない駅だ。

「じゃあここから半蔵門線はんぞうもんせんで一本だ」


 騒々しいベルの音を背に私たちは店を後にした。既に日は西にかたむいている。彼女を神保町駅まで送り届けてから、事務所に立ち寄るつもりだった。だが、今日のことを所長に報告するのは少し時間が経ってからにしよう。ブローカー氏の様子も見ておきたい。

「地下に降りる所まででいいですよ」

 彼女にそう言われると、今度こそ本当に最後なのだという実感がいてきた。私は護島さんがいなくなっても何も変わらずにこのまま生きていくのだろうし、護島さんも私がいなくても何も変わりはしないのだろう。そういう風にこの世界は出来ている。

 すぐに地下への入り口に着いてしまった。彼女が私を見上げたとき、思っていたよりも小柄こがらな人なのだと今更いまさら気付いた。

「ソリガチさんには今までたくさんご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。そして今日は本当にありがとうございました」

 そう言って護島さんは目を細めた。私に向かって笑いかけてくれたのか、それとも辺りのビルに反射する夕陽ゆうひまぶしかっただけなのか。それが分からずに戸惑っていると、彼女は急いで階段を降りて行ってしまった。最後まで挨拶もさせてくれないのか、と恨めしく思ったが、本当に恨むべきなのは鈍臭どんくさい私自身に他ならなかった。彼女が消えた下り階段をしばらく眺めてから、眉間を指先で軽くでながら事務所の方へと足を向けた。

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