第16話
「明日お目にかかりたいのですが」
「助けて欲しいんです」
護島さんの話は
「所長に迷惑がかかるよ、と言われてどうしても断り切れなくて」
私にはあんなに強気なのに、と彼女に一瞬腹を立ててしまったが、本当に悪いのは断れないように仕向けたそのブローカーなのだ。つくづく私は人間ができていない。
「そんなの無視しちゃえばいいんじゃないの?」
「しっかり断っておきたいんです。本当に所長に迷惑がかかってもいけないし、心配事を残したままだと次に行けませんから」
あんなに泣いていたのに、2日で前を向こうとしているのは立派なものだ、と皮肉でなく思う。
「それで一緒に立ち会ってもらいたいんです。相手の方がどうも苦手で、一人だと断り切れる自信がなくて」
「分かった。僕でよければ」
「最初は
お前はベストの選択じゃないんだ、と言われたかのように悪意で解釈してしまう。我ながらなんて
「白石さんは結構
事務所にやってきた依頼人と押し問答になりかけた時に彼女が
「いえ、それは困ります。なんとか
「それよりも所長に言えばすぐに片付くと思うけど」
しばしの沈黙の後、
「おじさまには会わせる顔がありませんから」
とだけそっと呟いた。すっかり
「まあいいか。僕らで解決すれば済む話だ。ただ、終わった後で所長には一応報告させてもらうよ。君に手を出そうとした人間を見過ごしたりすれば、僕は所長に殺される」
冗談ではなく本気で私はそう思っている。彼女から返事はなかったが、了解したものと受け取った。明日の14時に待ち合わせることにして、話を終えようとしたのだが、電話の向こうで何か言いたそうな気配がしたので待っていると、
「本当のことを言うと意外でした」
と
「意外って、何が?」
「あなたが私を助けてくれるとは思っていませんでした。怒ってばかりいる変な女を助けてはくれないだろう、とさっきお風呂に入りながら悩んでました」
お風呂とかそういう余計な情報は聞かせないで欲しい。頭にノイズが飛び込んで
「確かに君は変だけど、いい意味で変だから、そういう人なら当然助けるよ」
「それって
彼女の声が不機嫌になったので、いつもの調子が戻ってきた、と何故か心が
「言わせてもらいますけど、あなたの方が私よりずっと変です」
「僕が言ったんじゃない。君が自分から“変な女”って言ったんだ。それに自分が変なことくらいは分かっているよ。僕の方は君と違って悪い意味で変なんだろうけど」
「そうですよね。
やはり根に持っていた。
「本当にしっかりしてくださいよ。私がいなくなったからといって油断しないで真面目に生きてください」
最後にそう言って彼女は電話を切った。別に私のお目付け役になってくれと頼んだ覚えはないのだが。お願いで始まってお説教で終わるという今までにないスタイルの電話を経験したのはこれからの私の人生においてどのような意味を持つのだろうか。
「お待たせ」
彼女は
「護島さん、
私の問いかけには答えず、キャラメル色のダッフルコートを身に
「ここです」
護島さんはこれから決闘に
「何してるんですか。早く入ってください」
ドアから顔だけを出した護島さんに注意されたので
「申し訳ありません。只今アイスティーを切らしております。トロピカルアイスティーならございますが」
トロピカルアイスティーの「トロピカル」部分を抜かせばいいじゃないか、と思ったものの、この純喫茶はそこまで
「ごめんなさい」
「え?」
「私、昨日も電話で怒っちゃいました。もうやめないといけないって分かっていたんですけど。白石さんからも注意されたんです。ああ見えてもソリガチさんだって傷つくんだって」
謝られているのか失礼なことを言われているのか分からない。
「いやいや、しょうがないよ。何しろ僕は君の名前も間違えていたんだから」
取りなしたつもりだったが、彼女をますます恐縮させてしまった。
「今考えるとあれも怒りすぎました。自分でもよく分からないんです。瞬間的に頭に血が
「いいっていいって、僕は全然気にしてないからさ。でも、君がうちの事務所に入った時から僕を気に入らないように見えたのは気になる」
また謝りかけたのを手で制する。
「どうしてそんな風に思ったのか、それだけは教えて欲しい。もし僕に至らないところがあれば直しておきたいんだ」
そう言われると彼女はしばらく下を向いて考え込んでいたが、視線を戻すと、
「生理的に?」
と言った。それは直しようがない。そればかりは私にはどうしようもないことだ。
「いえ、違うんです。外見とか
残念ながら、それは私にも思い当たることだった。どの場所に行っても人と
「本当に見た目は別に嫌じゃないんですよ。バズ・ライトイヤーに似ているなあ、っていつも思ってました」
フォローのつもりなのだろうが、
「そろそろ、そのブローカーの人が来るんじゃないの? こんな話をしている場合じゃ」
「まだ1時間あるから大丈夫です」
思いも寄らないことを言われた。手術台の上にコウモリ
「昨日電話でお伝えした時間は約束の1時間前なんです」
「どうしてそんな」
「あなたとお会いするのもたぶんこれで最後でしょうから、ちゃんとお話しておきたかったんです」
こう見えて
「お待たせしました。ロイヤルミルクティーです」
そんな私の思いを忖度することなくウェイターが注文の品を運んできた。護島さんの目の前に白いカップが置かれる。
「こちらがトロピカルアイステイーになります」
それは私の想像していたものとは違っていた。
「そんなに笑わなくてもいいじゃないか」
「笑ってません。笑ってなんかいません」
そう言いながらも
「やっぱり笑ってるじゃないか」
「だって、そんなつまらなさそうな顔をしてパインを食べなくてもいいじゃないですか。完全に私を笑わせようとしてやっているでしょう」
そんなつもりは全くないので
「ああ、おかしい。ソリガチさんってやっぱり変な人ですね」
君には言われたくない、と心の中でクルミのような硬い思いが出来上がりつつあったが、
「でも、
そう言われてクルミを
やはり護島さんの話は簡潔すぎるので、今度も適当に補足しておく。3年前に都内の私大を卒業した彼女は
「どういうこと?」
「課長は“男女は平等に扱われるべきだ”という立派な考えをお持ちの方だったんです」
「つまり、女子社員にもマッサージをしたり、単独で呼び出してたってこと?」
なるほど、それはちょっと
「はっきりと下心があれば拒否できますけど、あくまで善意でやられていたので断り切れないんです。私の隣の同期の女の子はいつも嫌そうな顔をして我慢してました」
「それは護島さんも大変だったね」
「いえ、私は最初に触られそうになった時に結構本気で怒ったので、それからは二度としてこなくなりました」
「さすが」
「馬鹿にしてません?」
いつものはしばみ色の瞳で私を
「隣の
そして、そんな状況が3か月ほど続いたある日、いつものように隣の女子社員にマッサージをして、「これで終わり!」と最後に課長に背中を強めに叩かれたその
「席に戻った課長のところまで行って、“いい加減にしてください。これはセクハラですよ”と大声を出してしまいました。課長は驚いて“二度とやらない”と約束してくれました。悪気はなかったんですから、分かってくれたのならそれでよかったんですけど」
ところがそれでは終わらなかった。部下の女子社員から抗議を受けたことを聞きつけたらしい人事部が課長を元の製造部門に転属させ、さらにそれから間もなく課長は会社を
「事情はいろいろあったみたいです。セクハラ防止のガイドラインを制定したアピールに使われたのだとか、本社と製造部門との
その結果、護島さんにとって会社はかなり居心地の悪い場所になってしまった。迷惑がっていたはずの前課長は「いい人」としてしか課の人々の記憶には残らず、それを追い出した―ように見える―彼女は
「それが決定的でした。私は何のために怒ったのか、って馬鹿みたいに思っちゃって。それからは、朝、会社に行こうとすると必ず体調が悪くなって、それでも無理して行っていたんですけど、久しぶりに会ったおじさまについ
それで会社を辞めてユニバーサル貿易に移ってきた、ということらしい。
「でも、結局今度も同じでしたね」
護島さんの声が熱く
「誰かを助けたくてやったことなのに迷惑がられるだけで。どうしてこうなっちゃうんだろうって」
ちょうどその時、アイスティーを飲み切った私のストローが勢い余って、ずごごごご、と大きな音を立てた。話の腰を折られた護島さんの顔に血が
「
「え?」
こいついきなり何を言い出すんだ、という表情をしているが、濡れた目の
「今の話を聞いていて永劫回帰だな、と思った」
「ニーチェ、でしたか?」
頭のいい
「僕もうろ覚えなんだけど、確か“ツァラトゥストラはかく語りき”に出てくる」
上手く舌が回らず「たらつすとら」と発音してしまった。もっと呼びやすい名前にしてくれなかったドイツの哲学者を恨む。
「人生は決して一度きりじゃなくて何度でも同じことを繰り返す、という考え方だったと思う。そして、君にもそれがあてはまる」
「じゃあ、私はこれからもまた同じ失敗をすると?」
「ああ。そう思うよ」
向こうの席に見える
「僕からも君に聞きたい。もし今ここにタイムマシンがあって過去に戻れたとして、無理矢理マッサージをされて泣いている隣の女の子を助けないのか? そして、
護島さんは、このクイズは
「いえ。仮にもう一度過去に戻れたとしても、私は同じ行動をしたと思います」
「そうだろうね。正しいと思った行動をして、誰かを助けようとして、それなのに感謝もされずに迷惑がられる。君はきっと今までそんな風に生きてきたんだろうし、これからもそうやって生きていくんじゃないかな」
「ひどいことを言いますね」
そう言いながらも、その目はもはや私を責めてはいないようだった。
「人は変われる、という考え方は僕には疑わしい。人間はそんな粘土みたいに柔らかく出来てはいないと思う。変わる努力を必死でするより変わらない変えられない自分を認めてそれでもなんとかやっていく、というのが僕には合っている。それが君に合っているかは分からないけど、参考までに聞いてくれたらいいよ」
年下の女の子を相手に調子に乗って偉そうなことを言っている自分が嫌になるが、目の前で彼女に泣かれるのはもっと嫌だった。偉そうなことを言ったのなら本当に偉くなるまで頑張ればいいだけの話だ。
「いきなりそんな哲学めいたことを言われてもわけがわかりません」
そう言った彼女の身体から光の
「よく分からなくなってきました。頭の中がゴチャゴチャになっちゃって」
「時間はあるから
そうできればいいんですけど、と彼女が呟く。
「どうしてもっと器用に上手くできないのか、っていつも自分が嫌になってたんです」
「でも、そういう生き方は君らしいと思うし、僕はそんな君を素敵だと思う」
ん、と彼女が声を出そうとして
「もう、あなたはそうやっていつもふざけてばっかりで」
今泣いたカラスがもう笑った、というわけでもないが、護島さんは元気を取り戻したのか私に向かって怒り始めた。だが、私の耳には彼女の言葉は
「私が聞きたいのはあなたの言葉。他の誰かの言葉じゃなくって」
そう彼女に言われたから。そうしよう、そうありたいと思っていたから。彼女にそう言われたから。護島さんではない彼女に言われたから。
突然私は彼女のいるあの部屋に戻っていた。今ではもう誰もいない部屋だ。彼女は
「そういうことか」
私は
「い
顔の上半分を右手で押さえながら前を窺うと、護島さんが顔を苦痛に
「ごめん。ちょっとぼうっとしてた」
先に謝っておく。彼女がいてくれなければ戻ってこられなかったかもしれない。こんな失態をやらかして護島さんはとても怒っているだろう、と思っていたが、意外にも彼女は、
「本当に駄目な人ですね」
と呟いて、不機嫌そうに横を向いただけだった。何か変なことを口走ってしまったのだろうか。かける言葉が見つからずに困っていると、入り口のベルが鳴って、どうも、と誰かが間延びした
「来ました。あの人です」
立ち上がった護島さんを見つけた絵画ブローカーが笑顔でこちらに向かってくる。薄くなりかけた髪を後ろに流してポマードできっちり固め、左耳に赤い石のピアスを入れている。ジムに通ってでもいるのか、それなりに
「やあやあ。護島さん、お久しぶり。お元気でしたか」
ブローカー氏の
「こちらの方は?」
彼が恐る恐る
「初めてお目にかかります。わたくし、ソリガチと申しまして、ユニバーサル貿易で護島の指導に当たっている者です」
「はあ。それで、そのソリガチさんが一体何の
「実はわたくしの横にいる護島がこのたびめでたく
ブローカー氏の目が
「柔道100キロ
今度は二回連続で突いてきた。痛い痛い。
「そういうわけですので、申し訳ありませんが、護島が
ブローカー氏の顔面は真っ青になっていた。女の子と会えると思ってうきうきしていたところへ、変なオヤジが出てきたのだから同情に耐えないが、そこまで
「いや、それは大丈夫です。そちらとのお仕事はこれっきりにしてもらえますか」
額の汗を白い絹のハンカチで
「それは?」
「ご結婚ということですので、
護島さんが慌てて返そうとするのを押しとどめる。
「それは有難うございます。後でうちの
「いえ、結構です。それはもう本当に」
あまりにも怯えているのでかわいそうになってきたが、これならもう護島さんにちょっかいを出すこともあるまい。それでも一応ダメを押しておく。
「それでは、今後は護島への連絡を一切遠慮していただくことにして、何かありましたら、わたくし、ソリガチの方まで連絡していただけたら」
「いやいやいや、それはそのそれは、本当に結構ですので。それでは。護島さん、お幸せに」
ブローカー氏がよろめきながら「純喫茶 フラジャイル」から出て行くのを見送っているところにまた背中を突かれて、ぐえ、と
「ちょっと。あんなデタラメを言って、どういうつもりなんですか」
「うまく行ったんだからそんなに怒らなくても。でも、いくらなんでも怖がりすぎじゃないか、あの人」
「よくないですよ。もし嘘だとばれたら」
そう言いながら私の顔をのぞきこんだ護島さんの目が驚きで見開かれた。
「どうかした?」
「ソリガチさん、血が出てる」
眉間から丸めたティッシュを離すと、わずかに
「ごめんなさい。そんなつもりはなかったんですけど」
つもりがあってやっていたならあまりにもひどいが、もちろんわざとではないので落ち込んでいる護島さんを責められない。
「パンチも結構効いたから、
「反省してますから
本気で
「どうしたんです? 変な笑い方をして」
「なんだかなあ、と思って。今までずっと怒られてばかりだったのに、最後の最後でこんな風になってさ」
「そうですね」
沈黙が流れたが、それは別に気まずいものではなかった。
「自分でもよく分からないんですけど、いつの間にかソリガチさんがそんなに嫌じゃなくなったんです。壁があって入れないと思っていたけど、よく見たらすぐそこに門があるのに気付いた、そんな感じです。そうしたら、今まで怒っていたのは、なんだかなあ、って私も思います」
彼女は気付いていないのだろうが、それはおそらく、あの暗い階段で起こったことだ。あそこで彼女が門の存在に気付いたのを私は見ていたのだ。ただ、そのわりにはまだ怒りすぎているような気もする。
ブローカー氏から渡された封筒の中を見た護島さんが
「これ、結構入ってますよ。どうしよう」
見てみると中で
「貰っておいたらいいよ。退職金代わりとでも思って」
「でも」
「再就職の活動資金にしたらいいんじゃない。それともこれで資格を取るための勉強を始めるとか」
資格ですか、と彼女が呟いた。所長もそれがいいと思っているみたいだ、と告げると黙り込んでしまった。
「これからどうしようとか、何か考えはあるの?」
「とりあえず、しばらくは実家で落ち着いて考えようと思います。今日あなたに言われたことをもう一度よく考えたいんです」
そこまで重く受け止められるとかえって困ってしまう。彼女なら私の言葉などなくても自分で道を見つけて、歩いて行ける。
「家は何処?」
「
名前は知っているが、降りたことのない駅だ。
「じゃあここから
騒々しいベルの音を背に私たちは店を後にした。既に日は西に
「地下に降りる所まででいいですよ」
彼女にそう言われると、今度こそ本当に最後なのだという実感が
すぐに地下への入り口に着いてしまった。彼女が私を見上げたとき、思っていたよりも
「ソリガチさんには今までたくさんご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。そして今日は本当にありがとうございました」
そう言って護島さんは目を細めた。私に向かって笑いかけてくれたのか、それとも辺りのビルに反射する
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