第15話

 月曜の朝方に山手線やまのてせんで人身事故が発生したせいで東京近郊のJRジェイアールと私鉄に大幅なダイヤの乱れが発生していた。池袋いけぶくろ駅で殺人的に混んだ車内から解放されてから、白石しらいしさんに遅刻の連絡を入れた私は開き直って西口から外に出て喫茶店きっさてんでコーヒーを飲んでいた。連絡を入れたからといっていくら遅れてもいいわけではないのだが、何事も自分の都合のいいように考えるくせが身についている私には良心のとがめることは全くなかった。いつかひどい目にうと思う。

 定時ていじより1時間ほど遅れて事務所に着くと、遅れてすみません、と我ながらすまない感じにちっとも聞こえない声で言いながらドアを開けると、何やら場の空気がおかしかった。所長は窓の方を見ていて、白石さんはいたたまれなさそうに護島ごとうさんを見ている。そして、机に両手をついてうなだれていた護島さんがやってきたばかりの私をきっとにらんできた。遅刻したくらいでそんなに怒らなくても、と思ったが、彼女の目が涙に濡れていて、漆黒しっこくの溶岩が煮えたぎっているかのように瞳が揺れ動いているのに気づいて心が騒いだ。尋常ではなかった。護島さんはデニムのトートバッグを乱暴に手にして私の横まで早足で来ると、

「山崎さんと仲良しで良かったですね」

 と、呪詛じゅそを投げつけるようにつぶやいてから、鉄製てつせいのドアを荒々しく閉めて出て行ってしまった。あなんめ、あの写真を見せたのか。しかし、恥ずかしい写真を見られたとしても、それでも彼女が怒る理由にはなりはしない。ならばどうして。よく分からないが、私のせいで泣かせてしまったのなら謝らなくてはならない。急いで引き留めに行こうとすると、

「行かんでいい」

 と所長が大声を出した。それから白石さんに向かってうなずくと、彼女もバッグを抱えて「大丈夫だから」と私に向かって唇だけを動かして部屋を出て行った。わけがわからないので話をこうとすると、

「護島くんに辞めてもらうことにした」

 先に口を開かれた。周囲が暗黒に包まれて、すぐに回復したが、それでも少し明るさが減ったような気がする。

「仕事で不都合があってな」

 所長が説明した事情は次の通りである。所長が懇意こんいにしている蛎殻町かきがらちょうの税理士から相談があって、金町かなまちに本社のあるケータリングの業者の資産の内訳うちわけを調べることになり、護島さんがそれを担当していたという。しかし、彼女が書類を調べると不審な点がいくつも見つかって、どうも社長が何か操作をしているらしいと判明した。その社長は2代目で創業者の長女と結婚して婿養子むこようしに入っていたのだが、操作で浮いた金を愛人に使っていることまで護島さんはつかんでいたという。

「ちょっと待ってください。護島さんは僕と違って実地じっちの調査をしませんよね?」

「そうだ。あの子は書類だけでそこまで調べたんだ」

 まるで安楽椅子探偵あんらくいすたんていだ。彼女が有能なのか、私が無能なのか。いずれにしても自分に嫌気いやけがさすのに変わりはない。

 しかし、問題はそれからだった。見かねた護島さんが社長夫人に直接会いに行って忠告したのだ。夫人は「そんなことを頼んだ覚えはない」と激怒し、護島さんを面と向かって罵倒ばとうしたのみならず、所長にも電話で抗議してきたのだという。

「奥さんも薄々気が付いていたのだろう。それを証拠付きではっきり見せられれば、そりゃ怒るのも無理はない。護島くんの落ち度だ」

 そして昨日、所長が社長に呼び出されて、「おたくの調査員のせいでうちの家庭はめちゃくちゃだ」と言われたのだという。

「申し訳ないと頭を下げて、担当した調査員はクビにすると言ったのだが、それでは納得しなくてな。しかるべき金額を払え、さもなければ訴えると来た」

 老人がからかうように私を見る。

「どこかで昔聞いたことのある話だな」

 言われるまでもなく苦い既視感きしかんを呼び覚まされていた。私にはその話題はもう出すなと言ったのに、自分から出すのはいいのだろうか。

「どのつら下げて、という話だ。手前てまえのせいで家庭が崩壊しようとしているのに他人のせいにしたってどうにもならんよ。まあ、別れ際に“法廷でお会いしましょう”って言っておいたから、訴状そじょうが届くのが今から楽しみだ」

 賭けてもいいが、そんな手紙は決して届くことはない。ソフトな口調の裏側に社長の返り血が見えるかのようだ。

「でも、それって護島さんが悪いんですか?」

「ああ。あの子が悪い。不正を見つける能力があって、加えてそれを見逃がせない正義感があったのが悪い。そんな人間をここには置いておけない」

 人としての美点びてんが調査員としての長所とは限らない。それは私にもよく分かることだったが、しかし。

「それにしたっていきなり辞めさせることはないじゃないですか。もっと他にやりようが」

「やけにかばうじゃないか」

 所長が新種の植物を発見したかのように私を見つめたので、言葉は途中で切られてしまった。

「てっきり君はあの子を嫌っていると思っていたんだが。とお年齢としの離れたむすめにいつもやりこめられて、私なら我慢できんよ」

「僕が悪いんですから怒られるのは仕方ないですよ」

 その言葉を聞いても所長はまだ納得していないようだったし、言った私も納得できていなかった。自分が彼女をどう思っているのか、上手く整理できずにいた。

「だが、君の言う通りだろうな。もっと他に上手い方法があったはずだ。あの子を泣かせずに済むやりかたがあったのだろう。それができなかったのは私のわがままだ。私の中ではあの子は今でも小さなエポのままなんだ」

 エポ、というのは彼女の下の名前、恵穂えほから来ている呼び方なのだろう。

「前の仕事を辞めて次の仕事を探すまでのつなぎとして働かせていたつもりだったが、半年経ってこのまま居着いてしまいそうな感じがしてきてな。それで焦ってしまった。だが、あの子にはもっと他にいい仕事があるはずなんだ」

 何を職業として選ぶかは、あくまで個人の自由だ。向いていようがいまいが、自分のやりたい仕事をやればいい。その点で言えば、今回の所長の決断は完全に誤りだ。しかし、それでも私が責める気にあまりなれなかったのは、それが彼女に対する愛情から出たものだったことがよく分かったからだ。

「あの、もしかして、“おじさま”って呼ばれてました?」

「なんだ、しゃべったのか。しょうがないな。事務所では所長と呼べ、ときつく言いつけていたんだが」

 そう言いながらも、言葉とは裏腹に嬉しそうに笑っている。

「それで、護島さんを辞めさせる考えに変わりは」

「ない。たとえあの子に嫌われようとそれだけは変えない」

 やはり言葉とは裏腹に、孫娘のように思っている女の子に嫌われたくないのがよく分かった。無理しなくてもいいと思うが、老人にとってはどうしても譲れない一点なのだろう。書類だけで諸々の事情を見抜いてしまうほどの能力の持ち主なら、この事務所で埋もれるよりはもっと他にいい働き口を見つけた方が確かにいいのかもしれなかった。何か資格でも取って、とふと口に出たのが聞こえたのだろうか、

「それはいい。そのための資金は私が出そう。君もたまにはいいことを言うな」

 いつもはろくなことを言わない、と考えてしまうのはひがみ根性のせいだろうか。そこへ白石さんが戻ってきた。少し疲れているのか、いつもふくよかな顔が少しだけボリュームを失っている。

「どうだった?」

 待ちかねたように所長が尋ねる。

「かわいそうにずっと泣いてましたよ。カフェで一緒にお茶を飲んで落ち着かせてから、今日のところは帰しました」

「そうか」

 彼女が泣いていた、というのがとてもこたえたように見えた。怒られて叱られるのはもちろんつらいが、人を怒り叱るのもそれなりにつらいというのは、年齢ねんれいを重ねなければ分からないことのようだった。

「護島さんならちゃんと立ち直ると思いますよ。強い子ですから」

「当たり前だ。そうでなければ困る」

「だいたい所長が良くないんですよ。あんなに怒ることはないじゃないですか」

 うるさい、と口をもごもご動かしてそっぽを向いてしまう。

「それにソリガチさんも」

 いきなり矛先ほこさきがこちらに向いた。

「いや、遅刻をしたのはよくなかったですけど、だからって」

「そうじゃなくて」

 スマホを突きつけられた。液晶画面の中には私と猫の格好をしたあなんがツーショットで映っている。その場では突然の思い付きでやったように見えたが、とても上手く撮れていた。見事なものだったが、この場ではそれが私にわざわいしていた。

「何なのこれ。でれでれしちゃって」

「いや、これは無理矢理」

 この写真を護島さんに見せたあなんもおかしいし、白石さんに写真を送った護島さんもおかしい。私の周りの女性陣はみんなどうかしているのではないか。そもそも私にはその写真は送られていなかった。送られたとしても保存するかしないかは断言できないが。

「見損なった。ソリガチさんはそんな人じゃないって思ってたのに」

 こんな娘がいたな、と不意に思い出した。内気な友達の告白を断った馬鹿な男に食って掛かった女の子だ。「ソーリーはひどいよ」と困ったことにしまいには自分のことでもないのに泣き出してしまった。もうひとつ困ったことに私は友達よりもその子の方がちょっと好きだったのだが、さしあたって今はどうでもいいことだ。

「ほう。君はずいぶんと可愛いペットを飼っているんだな」

 老眼鏡ろうがんきょうをかけた所長がのぞきこんできた。話がややこしくなる一方だ。

「こんな写真をうちの旦那が撮ってきたら離婚だよ、離婚。そりゃ護島さんも愛想をつかすよ」

「護島さん、僕のことを何か言ってたんですか?」

 白石さんは何故か勝ち誇った笑みを浮かべてから言った。バックに背負った暗闇を白い稲妻が切り裂くのが見えるかのようだ。

「言ってたよ。“死ねばいいのに”って」

 いつもなら死にたくなるところだったが、何故か今日に限っては地球最後の日まで何が何でも生き抜いてやろうと、心の中で固く誓った。

「でも、そうですね。護島さんは僕なんかとは違ってここで働くにはまっとうすぎるのかもしれませんね」

「何を言う。君もそうだ」

 所長の目から光の矢が走る。

「自分をおとしめるのは傲慢の裏返しだ。感心せんな。とにかく君もいつまでもここにいてはいかん」

「じゃあ僕も辞めさせますか?」

 自覚はしていなかったが、護島さんを辞めさせたのに腹を立てていたのだろう。勢いで挑発するかのような物言いになってしまったが、幸い所長はそこまで肝の小さい人ではなかった。

「クビにするまでもなかろう。いずれ君は自分からここを出ていくさ。それがいつか、どういう理由かは分からんがね。少なくとも君がユニバーサル貿易で私の後釜あとがまに座ることはない」

 そんなことは全く考えてもいなかったので驚いたが、もしかするとオフィスの処分やLEDエルイーディーの導入を進言したので勘繰かんぐられたかもしれない。

「そんな野心があればどんなにかよかったかと思いますよ」

「全くだ。欲がないのも考えものだ」

 所長も本気でそんな風には考えていなかったようで、鼻で笑われた。

「ユニバーサル貿易は私のものだ。私が死ねば終わる。そして最後は私一人で迎えるつもりだ」

「私はおしまいまで付き合いますよ」

 白石さんはからっとした湿っぽさのまるでない口ぶりでそう言ったが、所長は何も言い返さなかった。この2人の関係もよく分からないが、知りたいとも思わなかった。少なくとも私の立ち入れるようなものでないことだけは分かっていて、それだけで十分だった。まだ正午にもなっていないのに、いろいろありすぎて疲れ切ってしまった。

「そのうち正岡まさおかさんに報告しに行くつもりなんですが」

 その話題を出したのは何でもいいからこの空気から逃がれるためだった。

「年内いっぱいかかるという話じゃなかったか?」

「もう嫌になったんです」

 つくろうことでもないので正直に言う。

「それならそれでいい。嫌なのを無理にすることはない。正岡くんも大目に見てくれるさ」

 それでも多少嫌味を言われるのは覚悟しなければならないだろう。私と話をしながら所長は何やら机の中を探っていたが、ふくれ上がった茶封筒を机の上に置くと、ひとつ大きく息をついた。

「道場まで行ってきてくれないか。君も気分を変えたいだろう」

 有難い申し出だったが、町屋まちやの道場には先週行ったばかりなので戸惑っていると、

「先生がやっとアフリカから帰ってきたそうだ。お土産みやげを取りに来てくれ、と連絡があった」

 一体何を持たされることやら。茶封筒を入れたビジネスバッグを片手に外へ行こうとすると、

「護島さんなら大丈夫よ」

 と白石さんが私を見て微笑んだ。どうにか機嫌を直してくれたらしい。そう、彼女ならきっと大丈夫だろう。若く才能のある美しい女性だ。ただ、私とは二度と会うことはないだろう。あれで最後かと思うと複雑だが、別れ方を選ぶ権利など私にはないのだから仕方がない。そう思いながら、昼間でも暗い階段をゆっくりと降りていき、3階と4階の間の踊り場にさしかかり、そしていつか彼女が立ち止まったまま私を見詰めていたあたりもそのままただ通り過ぎていった。

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