恋人に裏切られた作家

御手紙 葉

恋人に裏切られた作家

 僕が生きた証がこの世にあるとするならば、それは間違いなく、僕の残した言葉の連なりのことだろう。僕が十六年間生きてきた中で、ただ一つ誇ることがあるとするならば、それはきっと幼い頃から文字を綴り続けてきたことだろう。それらは互いに螺旋のように絡み合い、そして僕の心の中核となっていた。

 僕はとある出版社の小さな新人賞を受賞し、それ以来、ずっと本を書き続けている。不思議なことに、自分の好きなように書いた作品が、あまりぱっとはしない数字だけれど、それなりに成果を上げていた。僕はそうして日々小説を書き続け、高校生活と並行して小説家としての道を歩み続けている。

 けれど、きっとそんな日々はいつか、何か空から落ちてきた大きな夜の帳によって呑み込まれ、消え失せてしまうだろう。そんな気がするのだ。同級生は誰一人として僕が作家をやっているとは知らないはずだけれど、一人だけ、僕の事情を知っている女の子がいた。

 その子の名前は、神田桜。同じく小説家であり、僕が連載している雑誌に投稿する、ライバルの一人だった。


 *


「ライバル、ね」

 桜は机の上で頬杖を突いたまま、唇の端を持ち上げて不敵に笑うと、僕の顔へと射抜くような視線を向けてきた。

「君は私を、友人ではなく、ライバルと呼ぶんだね。私があんなに君に勉強を教えたり、休日に相手をしてあげたり、本を貸してあげたりしたのに、その恩を心に刻むどころか、相手の顔にナイフで刻もうとするような蛮行を働くんだね。それはきっと、君にとって、とっても爽快で清々しい営みなんだね」

「あのね、なんで僕が神田の面子を潰して嬉しがるんだよ。ライバルでもあるし、友達でもあるって言ってるんだよ! 細かいことぶつぶつ言って、こっちは頭が混乱するだろ!」

「なら、シンプルに言おう。君は私の――弟子だ」

「僕はお前の弟子になった覚えはない。まあ、確かにお前の方が著名度は高いし、文章は巧いけどね」

 桜はくつくつと笑いながら、僕をからかうことに飽きたのか、椅子から立ち上がって窓際に近づいた。そして、カーテンの隙間から欄干へと手を置き、外を眺めている。

「お前には一体、何が見えているんだ?」

 その細い背中に、そう声を掛けたい衝動をぐっと堪える。

 いつも飄々と訳の分からないことを言っては、人を馬鹿にしたような笑いを見せるのに、時折とても慈しむような優しい表情を見せる。一見、残酷で手痛い仕打ちを人にするように見えて、その裏では深い思いやりがくすぶっていたりする。そんな表と裏がいつもころころと入れ替わるような、不思議な――いや、「謎」な少女だった。

「ところで、一史。最近君が、『彼女』というものを作ろうとしているとは、本当のことなのか?」

 僕は彼女の背中をぼんやり見つめていたその矢先、突然そんなことを言われたので、危うく椅子をひっくり返して倒れそうになった。僕は慌てて倒れた椅子を直しながら、中庭を眺め続ける桜へと怒鳴りつける。

「一体、どこからそんな話を聞いたんだ? もっと話すタイミングを考えろよ!」

「私はただ君から、イエスかノーかを聞いているんだ。イエスだったら、君の大切にしている万年筆で君の尻を刺す。ノーだったら、君が廊下を歩いている時、あいつが例の失恋野郎だ、と後ろ指を指す。さあ、言ってみろ」

「どっちも結末が最低だろ! 言うか、馬鹿!」

「答えなかった場合は、どっちも強行して、君の愚行を悔い改めさせる」

「なんで、彼女を作ったら、尻刺されて後ろ指を指されて、愚行なんて言われなくちゃいけないんだよ!」

「なら、それは本当なんだな?」

「本当だと言ったら?」

 僕が何気なくそう問いを返すと、突然桜は言葉に詰まってしまった。目を見開き、僕の顔を食い入るように見つめてくる。

「どうした? 本当だったら、何がまずいんだ?」

 僕がそう言って彼女を少し困惑気味に見つめると、彼女は僕を睨み据え、本当にいつの間にかすり取ったのか、僕の万年筆を構えて言った。

「もし君が彼女を作ったら、私は君と休日に遊びに行ったり、小説の話題で盛り上がったり、こうして文芸部でゆるゆると過ごすこともできなくなるんだぞ」

 彼女の瞳に薄らと涙が浮かんでいるのがわかった。僕は彼女のいじけている理由がようやくわかったような気がして、頭を掻きながら大きく溜息を吐いて、そして彼女へと歩み寄った。

「大丈夫だよ。断ったから」

「断……った?」

 僕はそう、と小さくうなずいた。

「全く顔も知らない女の子に校舎裏に呼び出されて、突然そう言われたんだ。でも、僕にはもう、恋人がいるし、断ったんだ」

 そう言うと、桜の目が夜空に忽然と現れたお月様みたいにまんまるに見開かれ、すぐにその頬が紅潮していく。その万年筆の先が、ふるふると揺れていることに気付いた。

「もう、恋人がいると……そう断ったのか?」

 桜は僕の万年筆を胸元で握り締め、初めて見せるような、どこか少女めいた――そう、どこか可愛らしいはにかむような顔で言った。僕は突然のそんな表情に首を傾げたけれど、すぐに笑って言い返した。

「いるじゃないか……そこに」

 僕はすっと指先を――桜の胸元へと向けた。

 桜がさらにお月様から、日の出のように輝く瞳へと見開いた。

「か、一史……いつからお前は私のことを、そんな風に……?」

「は? お前のこと? だから、そんなのもう当たり前じゃんか。お前もわかっていることだろ?」

「え、ふええ? 私も確かに……わかってはいたけど、そんな風にもう決定事項になっていたなんて、気付かな、かったから……」

「何言ってるんだよ、お前。僕の恋人はこれだよ、これ!」

 僕がすっと手を伸ばし、彼女が握る僕の万年筆へと触れた。そして、それを顔一杯に笑いながら叩き、諭すように言った。

「もう僕には『小説』という恋人がいるんだからさ、そんな恋愛にかまけている暇なんかないんだ。一人、もううるさい奴が近くにいるし、恋愛なんて有り得ない、懲り懲りだ、僕が高校生活で彼女を作るなんて、そんなことは、猿が空を飛んで地球を一周しても、地球が突然SFのような発展を遂げても、有り得ないことなんだ。だから、桜、安心していいぞ! 僕にはもう、恋人なんていないし、そんな気は全く――これっぽっちもないってさ」

 桜がすっと顔を俯かせ、身動きを止めた。その影がゆらゆらと何か、見えない炎を纏って揺れているような気がしたが、そんなことはただの僕の勘違いだろう。しかし、彼女が握った万年筆が何故か、ふるふると別の意味で揺れている気がした。

「さ、桜……ちょっと、お前、何怒って……」

「私がッ、お前のッ、愚行を悔い改めるッ!」

 彼女はそう叫び、僕の尻(ケツ)へ深々と万年筆を刺した。僕は雄叫びを上げて、何を誤ったのかわからぬまま、“恋人”に裏切られた心地がした。


 了

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