薄皮の愛

緑茶

薄皮の愛

 愛した女性に求婚するため、私は遥か先の土地を目指して夜汽車へと乗り込んだ。

 時刻は午後四時を回っていたうえ、車内にはそれほど乗客が居なかった。

 そのため私は窓辺で、夕焼けの冬景色をストレスなく楽しむことが出来そうだった。

 しかし、そんな私の視線が窓に向けてさまよったところ、丁度向かい側の席に座った二人の客に目があった。

 おそらくは十代後半の、年若い少女が二人。

 片方は茶色がかった毛を三つ編みにしており、もうひとりは帽子を目深に被って眠りこけていて、その容貌を伺うことは出来ない。

 本来であれば一瞥ののちに無視を決め込む他人であったのだが、私は何故かその二人組から目が離せなかった。

 どういうわけか、その二人の存在感が、まるで書割のような現実味のなさを醸し出していたからだ。

 なんとなく私が座りの悪い心地になって、外の景色を見られないでいると、ふと三つ編みの少女のほうが、私に向かって声をかけてきた。


「あなたは……どちらまで行かれるのですか?」


 澄んだ声だった。そこにはまるで濁った調子がなく、その歌声にような清新さが、かえって二人の存在感を際立たせていた。

 私はそのまま無視するわけにはいかず、土地名と目的を簡単に説明した。すると、マルトと名乗った少女はあくまで会話の続きといった調子で、こう言ったのである。


「ではあなたは、その女性を愛しているから結婚したい、ということですよね?」


 なんとも突拍子のない質問だった。普通なら無視するところだったが、なぜか私はそれ以上に心の何かを見透かされたような心地になった。

 私はもちろんだ、と答えた。ずっと思慕し続けてきた存在であって、彼女なしでは自分は生きた心地がしないのだ、と。

 そうまで答えるのは恥ずかしいことだったが、その先に少女が話すことが無性に気になってしまい、言わなくても良いようなことまで喋ってしまったのだ。

 私が答えるとマルトは少しだけ考えて……こう言った。私はその発言に少々度肝を抜かれた。


「……あなたは、本当にその女性を愛しているんですか? 本当に、その存在の全てを?」


 なんということを言ってくれるのだ、と思った。

 私はやや憮然として、『もちろんだ』と言おうとした。

 しかし、その全てを首肯することは、なぜか出来なかった。彼女の発言のウェイトは、『全て』という部分にかかっていた。

 マルトは続ける。


「私はね、そうは思わないの。人間はその人のすべてを愛することなんて出来やしない……そして、どこか醜い部分を見つけてしまうと、全てが裏返ってしまう。愛しかった存在が、そうでなくなってしまう。それを避けたいから、誰もが『すべて』を愛そうとする……私は、そういうものだと思っているんです」


 その根拠はどこにあるのだ、と私は問おうとした――気付けば私は景色そっちのけでこの少女との問答に夢中になっており、発車のベルが鳴り響いたことにも気づかなかった。

 するとマルトは、私の気持ちを見透かしたように、こう言った。


「よかったら、聞いてくださいませんか」


 私は力なく頷く。そして彼女は、とんでもないことを言った。


「私はね、人間のある部分しか愛せなくなってしまったんです。そのために、何かが狂ってしまった。信じるか信じないかは別ですけど……私はそのことが原因で、人を殺してしまったの。今は、その逃亡中……共犯者と一緒にね」


 汽車が動き始める。いつしか周囲の音は聞こえなくなって、私は少女の話に没入していた。その語りには魔力があった。

 今しがた恐ろしいことを少女は口にしたのに、私はもはやそれから逃れようとは思わなかった。


「これは……少し前、私の身に起きたことです。きっと、あなたにも縁のあることかもしれないから……今ここで、話してしまいますね」


 そして少女は語り出す。それに呼応するように、先頭車から吐き出された黒煙が、夕焼けの見える窓をすっかり覆い隠した――。



 私は駆け出しの美容師をしていました。

 その仕事とは、お客のもとへ赴いて、ちょっとした美容整形を施すということでした。評判は上々であったため、自分は、毎日が充実していました。

 そして、充実していた理由は仕事だけではありません。

 自分にとって大事な人が居て、その人と毎日を過ごすことはとても意味のあることと思えていたことにもあったのです。

 彼女――アルテはとても気立てが良くて、毎日のように自分のことを気遣ってくれていました。

 それは無償の奉仕を自分に行うということではなく、大事な友人に対して、心から尽くすという気持ちのもとで行われていたから、自分は全くそれに対して負い目を感じることもありませんでした。

 それどころか、私自身もその子に対して、いつもいつもしてあげられることはないかと考えて、実行することが出来ていたのです。

 それは恋といってもそういないものでしたが、もし言葉というものにもっと詳しければ、それ以上の意味の大きさのある言葉をあてがいたかったほどです。

 私は郷里を飛び出して美容師になった身であったために、母親とは疎遠になっていくばかりでした。

 アルテはその私の孤独を埋めてくれる存在だったので、かけがえのない人でした。

 彼女は彼女で、私のためであればなんだってする、ということを口癖のように言うのが常でした。

 そんな関係の私達でしたから、自分にとって一番の癒やしは、仕事を終えて疲れた後、アルテの笑顔を見ることとなっていて、それ以外は何もいらないと思えるのでした。

 しかし、そんな中でも、急に不安が訪れることがあって。それは何かというと、『自分たちはこのままで良いのだろうか』という思いでした。

 というのも、自分たちの関係――思い思われるという関係は、あまりにも完璧過ぎたから。

 それゆえに、何か大きなことが起きれば、すぐにでも崩れ去ってしまうのではないかと――そのような怖さがあったのです。まるで、精巧さを極めたガラス細工のように。

 一度その思いに駆られると、私は『ここまでの関係になる手前ぐらいの、お互いの目を見て微笑み合うくらいの関係のほうが、今よりも心地よいものだったのでは』と思うこともありました。

 でも、その思いを相手に打ち明けると、決まって相手はその不安は無用だと言ってくれたのです。

 そもそも自分とあなたの関係が壊れること自体……大きなことが起きること自体考えることがナンセンスだ、と。そんな先のことを考えて不安に思うなら、最初からこの関係は成立しないのだと、そう言ってくれました。

 私はその言葉に心底感謝して、そのとおりだと思いました。

 そしてこの先は、そんな不安を覚えることもなく、平穏に愛の日々を過ごしていこうと思ったのです。


 しかしある時、その関係性が一変する出来事がありました。


 それは、私の家の隣に、ある一人の少女が引っ越して来たということでした。

 その少女は勉学のために遠い場所から一人でやってきた少女で、歳は同じくらいでした。

 私は気軽な気持ちでその少女に接触して、友達、とはいかなくても、毎朝挨拶をかわすぐらいの関係性になろうと思っていました。

 しかし、それが全ての転落のきっかけでした。

 その少女――ギルダは、当時の自分にとっての本質をさらけ出し、私の前に吐き出させた、毒薬のような少女だったのです。

 きっかけは、ギルダが、私に髪を綺麗にしてもらうために、私を家に呼んだときのことでした。

 彼女の家は非常に豪奢で、お世辞にも裕福とはいえない私たちの家と比べれば、なんだか異空間に建っているようでした。

 私はその時点で相当萎縮していたのですが、彼女との初対面では更に驚かさました。

 私が道具一式を持って家に訪れたところ、玄関を開けた瞬間、不意に何かモノが飛んできました。

 それは髪の毛をとくためのブラシでした。ブラシは私の額に当たって、赤いあざができてしまいました。

 私が玄関先で痛みにうずくまっていると、奥から確かな足音が聞こえてきます。それは私の前で立ち止まります。

 顔をあげると、そこに居たのはとある少女です――彼女こそギルダだったのです。

 瞬間、私は彼女に対して、息をするのを忘れてしまいました。何故って、その少女の容姿がとてつもなく美しかったから。


 ヒビ一つ無い白磁のような肌に、波のごとくなめらかな長い黒髪。そこには一遍のささくれもなく、ひとかけらのにきびさえありませんでした。それだけでなく、ほっそりした身体は、上質な美しいドレスによって包まれています。


 私はその時点で――彼女の姿に圧倒されていました。

 そうです。私はなによりも、美というものを信奉していました。それはアルテへの愛とは別の所にあるもので、かけがえのない綺麗な人に出会うたび、私は恍惚とした気持ちになり、自分の職業について祝福したものです。今、その遍歴が、あらたに更新されたような心地がしました。


 私が痛みも忘れてその少女の顔を見ていると、少女は私に、突然大きな声を張り上げてこう言いました。


「遅刻よ。二十秒も遅れているじゃない。一体何を考えているのかしら……あなた、本当に仕事をする気があるの?」


 その声さえ、美しく。それでいて、それは歌のようではなく、どちらかといえば荘重な鐘のような響きがありました。

 私はそう言われてしばらく呆けていましたが、やがて彼女が何をして、何を言ってきたのかを理解しました。

 つまり、彼女は私が数十秒遅れたのに業を煮やして、ブラシを投げつけたというわけだったのです。

 とはいえ本当は、数十秒遅れたのではなく、むしろ数十秒早かったのですが。

 おまけに、上の言葉を言った後に、彼女は私にこう言いました。


「もう、どうしてくれるのよ。この櫛は……私のお気に入りだったのに」


 自分が投げつけたのに、です。

 私は圧倒されました――美しい容貌に反して、彼女は、凄まじく身勝手な人間でした。

 途方もない気持ちをいだきつつも、仕事は仕事であるので、私はさしたる嫌味も言うことなく、彼女に対して仕事をしました。

 ……本当に美しい少女でした。鏡に映る少女を見た時、何か空間が歪む感覚がしたものです。何故ならあまりにも美しくて、天女かなにかに思われたからです。

 だが仕事のときは本気です。私は見とれつつも手を止めたわけではなく、一本一本いたわるように髪をとき始めていました。


 しかしそこでもなお、少女からは容赦のない言葉が飛んできたのです。


「ちょっと。今髪を引っ張ったでしょう。ちゃんとしなさい」


 そのような言葉は、定期的に飛んできました。私は流石にムッとして、一度手を止めてしまいました。すると彼女は烈火のように怒って、私に対してあれやこれやを言ってきます。

 しかし私はそれにもめげず、仕事をしました。それなりに自分の腕に対してプライドのある私ですから、『美容』と言いつつ、髪の毛を綺麗にする『だけ』しか要求されなくとも……ナイフやクリームなどの大部分を未使用のままでも、耐え忍んで仕事を続けました。

 自分でも驚きでした。これまで何度も、失礼で傍若無人な客に出会ってきましたが、今相手にしている彼女は、彼らよりもずっとわがまま放題でした。なのに、彼女の髪の匂いが流れてくると、言い返す気もなくなってしまうのです。

 もっとも、それもあって、そもそも彼女の美貌に対しては、髪の毛を綺麗にするぐらいしかやるべきことがないように思えたのですが。

 ……仕事を終えると、彼女は感謝の言葉も言わずに、私に乱暴な仕草でお代を払いました。過不足はありませんでしたが、そこから、私の仕事ぶりにまた二、三文句を零しました。

 それから、私が去る時、こう言ったのです。


「……明日も明後日も来なさい。そうして同じことをしてくれればいいのよ」


 帰宅して、私を待っていたアルテに対して、今日の顛末を話すと、彼女はひどく憤慨していました。

 そんな傍若無人は聞いたこともないし、それは仕事を妨害する行為にも等しい、と。彼女の怒りは、もっとものように思われました。

 彼女は、アタリマエのことに、あたりまえのように怒れる存在でした。そんな彼女だからこそ、私は彼女のことを愛することができたのです。

 そして、こうも言いました。

 そんな客に対して、あなたが下手に出る必要はない。むしろこちらをないがしろにするような態度を取ればどうなるかをよく教えてやるべきだ、と。

 もちろん私はそれに対しても肯定しました。もっとものことだからです。しかし次の一言に関しては、どういうわけか……すぐに首を縦に振ることが出来ませんでした。

「あなたはその客のことを……――嫌いになるべきだわ」


 次の日も、私はその客の相手をしました。

 ギルダは相変わらず凄まじいまでの美しさを放っており、何人もの男を周囲に取り巻いていました。彼らは医者だそうで、身体の強くない彼女のことを、過剰なまでに心配しているようでした。しかしギルダは、彼らをすぐに帰らせてしまいました。

 その剣幕といえばすさまじく、大の男たちがほうほうの体で去っていくのを見るのは、なかなかに貴重な体験と言えました。

 私がその態度に対して、凄い、だとかかっこよかった、などといったぼんやりした感想をよこすと、彼女は呆れたようにため息をついてこう言ったものです。


「あんな連中。格好と稼ぎだけは立派で……私に対しても、同じようにしか見ていないんだもの。ふざけてるわ。あんな連中、空気と同じ」


 なんともひどい言い方もあったものだ、そんな風に言われれば彼らも堪ったものではないだろう――心のなかで彼らに対して少しだけ同情しつつ、私は仕事を始めます。

 相変わらず美しい髪の毛。それでいて、その横暴さも、まったく変わった兆しがありません。

 相も変わらず細かい注文ばかり言ってきて、それに従わないと滅茶苦茶なことを言ってきます。彼女の髪はどんどん美しくなるのに、私はどんどんへとへとになっていきました。

 そうして、疲れきった状態で仕事を終えます。彼女はそれを見ると、ふっと笑いながら、馬鹿にするような顔で言ってきます。


「呆れた。そんな態度しか出来ないなら、とっとと私を客にするのをやめておきなさい。情けないんだから」


 流石にその言葉には嫌な感情を隠しきれませんでしたが、その場では耐え抜きました。

 私は帰宅すると、そのことをアルテに対して愚痴という形でぶちまけました。

 優しい彼女は相変わらずその全てを受け入れてくれて、こう言いました。


「本当にその人の言うとおりよ、いくら顔が良かったって……人間は中身が良くなければ、その人がいい人だとは言えないんだから」


 きっと私はそのとおりだと思っていたのです。その日の出来事に出会うまでは。


 ある日私は、夕暮れの道を一人で静かに歩くギルダに出会いました。

 自分はそもそも普段は他の客も回っており、応対している時以外彼女のことを全く知らなかったのです。

 なので、そんな状況そのものが珍しいといえました。私はなんとなく気になって、こっそりと彼女のことを観察しました。

 すると、驚くような状況が現れました。

 ギルダはギルダそのものでした――しかし、いつにもまして、その美しさは際立っているようでした。その理由というのはおそらく、彼女が持ち前の横暴さをその時は一切発揮していなかったせいでしょう。

 彼女は喪服を着て、しずしずと歩いていたのです。それはまるで夕凪そのものの静寂さで、嵐のような彼女しか知らなかった自分には、その時点で大変な衝撃でした。

 その姿は、その美しい容貌を邪魔するようなあらゆるものが排除された今、恐ろしく美しいように思えました。

 ……その時彼女を見たことを、私は当然彼女に対して伝えませんでした。

 それは、彼女の姿に対して、激しい衝撃を受けていたことも、理由の一つだったのです。

 

 そして、あの夕暮れ以来です。アルテのことを、完璧に愛していると、ハッキリ思えなくなっていると自覚したのは。


 元々自分はどこか、アルテに対して息苦しさのようなものを感じていたのです。ですが、その理由となるものを見つけられないでいました。そんな状態で帰宅して、愛の言葉がかけられると、そんな懊悩はどうでも良くなって、やはり彼女を愛していると思うのでした。

 けれど……私は、確実に変わりつつありました。

 私は、ギルダに対して、仕事の際に態度を軟化させることをおぼえました。あの、夕暮れの美しい彼女が目に焼き付いて離れなかったせいです。彼女の我儘に応対している時も、つねにあの姿が目に映っていました。

 だからでしょうか。私は実に滑らかに、彼女に対して対応することが出来るようになっていました。

 それは彼女と出会って以来はじめてのことで、私は何とも言えない心地よさをその過程に対しておぼえていたものです。

 ですが、それと同時に、もう一つ、変わってしまったことがありました。

 それは、アルテとのやりとりが、なんだか色あせたものに変わってしまったということです。

 相も変わらず、彼女と日常を過ごすことは楽しかったし、彼女の言葉にはこれ以上ないほどの愛がありました。

 私自身も、鏡に映る、抱き合う自分たちを見て、こんな幸福な生活は他にないと思うことが多かったのです。

 しかし、それ以外のふとした時間……あの夕暮れの光景が脳内をかすめるその瞬間、私はアルテとのやりとりが使い古された、なんとも味気のないようなものであるかのように思えてしまいました。

 そんな私の態度に気付いていたのか、アルテもひどく私を心配し――時に不満を漏らしました。私はそのたびに、大丈夫、問題ない、と答えるのでした。

 しかし、やはりその嫌な感じに間違いはありませんでした。

 そうです。私は、アルテとの何不自由ない生活に対して――少々の嫌気を感じるようになっていたのです。

 その感じをごまかすために、私はより一層仕事に打ち込みました。ギルダに対する仕事も、日に日に真剣度合いを増していくのでした。

 

 何故だろう――この二つのバランスが不安定になっていく。その感覚は、一体どこからやってきたのだろう。

 まもなくそれは、その日の事件によって分かってしまうのでした。


 ある時、いつものようにギルダの家に行って仕事をしました。その日の彼女の髪も相変わらず美しく、肌は絹のように滑らかでした。

 しかし、彼女の態度がどこかおかしい。彼女はどこか心ここにあらずというべきか、妙に落ち着きがありませんでした。

 それはある意味謙虚とも言える振る舞いであり、普段の大きく構えた彼女の態度からは想像もつかない――そう、しおらしいとも言える態度です。

 いつもは、何か下手なことを言うことは、彼女の心を刺激して大きな怒りが飛んで来ることに繋がるので控えていましたが、そのときばかりは彼女に対して言葉を紡がざるを得ませんでした――どうしたのですか、具合でも悪いのですか、と。

 ここのところ体調を崩しがちなのは耳にしていましたし、彼女が(私には見せたがりませんが)病弱であるのも分かっていましたから。

 すると彼女は、その態度を再び大きく変えました。

 あっという間に、いつも通りの横柄な口の利き方に戻ったのです。そして次に、何の躊躇いもなく飛び出した言葉に、私は大きく動揺させられました。


「私ね……どうやら、あなたのことを愛してしまったのよ」


 あまりのことにめまいがしつつも、私はその言葉の真意を問いただしました。するとやはり彼女は火を噴く勢いで怒りはじめて、自分が生半可な気持ちでそんなことを口にするわけはないと言いました。私は彼女をなんとかなだめると、暫くの間心のなかでその言葉をこねくり回しました。しかしやはり、その言葉は突然すぎました。

 やがて彼女は平静を取り戻し――言いました。


「ねえ……あなたは私のことを、どう思っているの?」


 愛している、という次に来る言葉としては順当なものでした。しかしながら、その問いに対して私はうまく答えられず……もごもごと口を動かすだけに終始してしまいました。するとギルダは、いつものように烈火の如く怒ったのです。そのまま私に対して言いました。


「あなたはそもそも、愛するということがなんであるか、考えたことがある? あなたにとって、『愛する』とは何? その答えを知ることが出来なければ、私はあなたに対してこのまま好意を向け続けられない」


 なぜ彼女は私にそのようなことを言ったのか。それは、私がアルテのことを愛していると、ギルダに対しても何度か言っていたからでしょう。

 私はすぐ答えようとしました――それはアルテのことを思えば、すぐにでも浮かんでくることのはずでした。

 しかし、アルテに対してぎこちない関係を強いていたその時の私は……即座に答えを出すことが出来ませんでした。何故だろう、私は間違いなくアルテのことを愛しているはずなのに。

 やがて、私の身体をじわじわと不安感が襲います。なんだろう、これはなんだろう……ギルダはそんな私の様子を見て、言葉を紡ぎます。


「あなたは、私のことを美しいと言ったわよね……――それは、『愛とはどう違うの?』」


 その言葉は、私にとって落雷のように響きました。それほどまでに衝撃でした。

 やめてくれ、と言う暇もなく、彼女は続きの言葉を言いました。


「もし、あなたにとって『美しいものにかしずくこと』が愛と同じであるなら。それはあの子よりも、私の方を愛していることになるんじゃないかしら。ねぇ、どうなのよ――答えなさいよ! 、私なんかより、ずっと――――!!!!」


 ……思わず私は、手を出していました。

 ぴしゃりと、彼女の頬を叩きます。

 ギルダは後ずさりながら、きっと私を睨んできます。私は荒く息を吐きます。そのまま、彼女の言葉が何度も胸を打っているのを感じ取ります。


 ……そこで手を出したのは。何やら心の中を言い当てられたような心地がしたからでしょう。実際すでに、私はどこかで『そうなのではないか』と思っていたのですから。

 ギルダの髪を撫でる時、私はアルテと他愛ない会話を交わす時と同じような表情をなどと、誰が保証できるでしょう。

 どちらも私にとっては、神聖なことなのに。

 ……私は彼女に続きの言葉を言わせることなく、すぐさま荷物をまとめて、そこを飛び出しました。


 何故って、ギルダの指摘によって――ひとつの恐ろしい可能性に行き当たったからです。


 それは、私がアルテのことを、本当は愛してなどいなかったのではないか、という仮定です。


 しかも、その仮定が確信に変わるのに、そう長い時間はかからなかったのです。


 ――長らく会っていなかった母が難病にかかって亡くなったという話が舞い込んできたのは、ギルダにあの奇妙な告白をされてからしばらく後のことでした。

 私は愛の方向性こそ違えど、母のことを愛していましたから、その知らせを受けて大いに悲しみました。家を出る際にあったわずかなわだかまりなどは、結局のところ時間が経てば消えていくものです。

 そして同時に、ある陽性の感情が心のなかに湧き上がったのです。

 それはかつての著名な作家が言った言葉に近いものでした。

『愛することの次に、その人を失うことは尊いものだ』。

 なぜなら、私は母の死を受けて、一つのことを証明できると思ったからです。それは、私はギルダのことを愛しておらず、愛するのは自分がもとより愛していたアルテの全てであるということです。

 私は、そのような、ある意味で神聖とも言える、真理へと奉仕するような気持ちで葬儀へと参列しました。もしかすれば、涙さえ流していなかったのかもしれません。母を愛していたということに安心を覚えていたからです。

 そうして私は、葬列が少しずつ前に進む様子を見ながら、幼馴染のことを思っていました。

(大丈夫だ。彼女のことも、私は変わらずに愛している――大丈夫だ)

 そして、棺のすぐ前まで来ました。あの中に、私が大切に愛していたあの人が、母が眠っている。前の人が後ろに下がると、私は一歩前に出ます。

 そのまま、ごくなめらかな動作で、棺の中に眠る母を覗き込みました。


 そこに横たわっていたのは、母ではありませんでした。

 それは干からびて異様な色に染まった、肉の塊でした。間違いなく母であったはずなのに、あまりにもその姿は変わり果てていました。頭のなかにあった母の姿と、激しく乖離していました。


 その時私が思ったことを記憶から掘り起こすたび、私は心をかき乱されて――何も分からなくなってしまうのです。そう、狂っていた。何もかもが、とうの昔に狂っていたのです。


 私が母だったものを見た際に思ったのは、たったひとつ。誰しもが抱く感情。


 ――『なんて、醜いんだろう』。


 これであったのです。

 一瞬私はめまいが起きて、その次に、何故いつまでも母に会おうとしなかったのかを強く後悔しました。少しずつ、彼女が衰弱していくのを見ていれば、そんなことを思わずに済んだかもしれないのに。ああ、何故――。

 しかし、その思いを消し去ることなど出来ません。私は確かに、愛していた母を、その姿が老いたことで、醜いと感じてしまったのです。

 そう――まるで、


 私は背中にいやな汗をたっぷりと滲ませながら、最低限の所作で葬儀を終えると、逃げるように家へと帰っていきました。

 ……そのさなか、私はギルダに会いました。彼女に対して、礼節を働かせようという気にはなれませんでした。脳内で、あの木乃伊のような姿がこびりついて離れないのですから。

 だから、まともに反応することができませんでした。しかし、ギルダはそれに対して怒りませんでした。それどころか、ついぞ浮かべたことのないような笑顔を作って、私にこう言ったのです。


「今にあなたは、全てを理解するわ。そうなればもう、あの子は、あなたには必要ない」


 何故そこでアルテの名前が出てくるのか――一瞬はそう思いましたが、すぐにハッとしました。汗はさらに私を追い詰めるようにじわじわと肉体を蝕みます。私はすぐに身を翻して、自宅へと急ぎました。

 どうか、どうか――ありえないことを、私は考えています。

 どうか私達の家が、常に裕福であり、常に明るく、どこにも傷などのない、美しくて瀟洒な在り方をしていますように――どうか、食卓が美しいシャンデリアに囲まれた場所でありますように――どうか、どうか。

 私の思いは過去へ飛び、ギルダと出会った頃に着地していました。

 どうか――どうか、彼女と出会う前に戻れますように……。


 しかし。

「どうしたの……? 怖い顔をして……」


 玄関を開けて私を出迎えたアルテは……いつもどおりのアルテでした。

 そう、


 私に慈愛と思いやりを投げかけてきた目の前の少女――。

 それは……これ以上ないほどの醜女でした。

 にきびが顔中に浮かび、いくらまとめようとぼろぼろになる髪の毛。そして、家事仕事で汚れきった洋服。

 いつも見ていたはずのその姿が、いつもよりも遥かに、醜く思えました。


 私は悲鳴を上げて、彼女から離れました。いてもたってもいられませんでした。

 私は心配する彼女の声を振り切って、外に出ます。

 まもなく、嘔吐しました――それはしばらくの間続きました。

 すえた臭いを地面にぶちまけ続けている間、私はこれまで幼馴染と過ごしていた時間を思い出していました。


 そうだ、ずっと一緒だった。ずっと共に過ごしてきた。その中で私は確かに、彼女のことを愛していたはずなのに。それなのにどうして、どうして。

 ――ずっと見てきて、知っていたはずの彼女の醜さについて、何も思わなかったのだろう、蓋をするように、なかったことにしていたのだろう。


「ようやくあなたは、ごまかすのをやめたのよね……ああ、なんて馬鹿な子なんでしょう」


 見下ろすように降り注いだのはギルダの声でした。彼女は私の目の前に立っています。どこか、悲しげな微笑を浮かべながら。


 私は口の端を拭って荒く息をつきながら、彼女の言葉の真意を探ります。

 彼女は言いました。


「要するに、そこにあなたの本質があったけど……あなたは私に出会うまで、それに気づかなかったわけね」


 本質――その言葉が出た瞬間、私は彼女の言葉を遮らなければならないという気持ちに襲われました。

 私は彼女に掴みかかろうとしましたが、それは小さなうめき声とよろよろした身体の動きになるだけでした。彼女は笑い、続けます。


「あなたはずっと人間の外側を変えていく仕事をしていて、そのなかで、自分が一体何に愛を見出しているのかに気付いていなかったのよ。私は知っている……あなたが、婚約者を亡くして彷徨っていた私をじっと見つめていたことを。その眼差しに、何があったのかを。あそこにあったのは愛よ。外形だけを称える眼差しじゃない。あそこにあったのは……紛れもなく、あなたが思っているのと同じ質量の『愛』だったのよ」


 そんなはずはない、私の愛は、アルテに――そう言おうとしましたが、詰まってしまいます。

 ではなぜ、あの時からずっと息苦しさを感じていたのだろう。

 その答えは全て、母の死に今しがた結びつきました。それは点と線が繋がる感覚でした。全てが一つになろうとしています。

 私の動悸は強まって、吐き気ではなく、この世の終わりのような絶望感へと昇華されようとしていました。それ以上、彼女に言わせてはいけない。しかし。


「聞きなさい。あなたはその人間全てを肯定することが愛だなんて思っちゃいないの。あなたはそう信じたかったんでしょうけど、本当は違ったの。むしろあなたは自分の異常さに恐れをなしていて、それから逃れるために、あなたが醜いと思ったあの子の提唱する愛に、自分の身を預けたのよ。それが、あなたの母親が死んだことによって、いいえ……私に出会ったことによって壊れてしまった……ああ、なんて愛しいんでしょう! いいかしら、あなたの、――」


 やめろ、それ以上言わないで。……そう叫ぼうとしました。しかし、背中を走る寒気と震えが、その言葉を飲み込ませました――そして、彼女のとどめが放たれます。


「あなたの本質は、美しいものしか愛せないということなのよ! だからあの日、私に出会った時、既にあなたは本当の愛というものを思い出していたのよ! だからあなたはもう惑わされない……あなたにとっての偽りの愛などには! もうあなたは……あのアルテという子を愛することなんて出来やしない! はじめからそれは作られた、思い込みの愛だったんですもの! ああ、かわいそうに――自分が狂っていないことの証明のために、あなたはあの子を利用したんだわ!」


 それが全てでした。自分が自分の仕事をやってきた中で、確実に醸成されてきたもの。いや、あるいは……自分が心の中にそのような欠陥を抱えているからこそ、私は今の仕事についたのかもしれません。これまでの全てが、まるごと覆されるような気持ちでした。

 そうでありながら、今までにないほど自分のことを言い当てられていました。完敗だ。もうどうすることもできない。これが全てだ……。

 これが、私という人間のすべてなのだ――私は、私にとっての愛の本質を理解しました。


「私は嬉しいのよ……これが私にとっての愛なのだということを、あなたにも分かってもらえた……」


 ギルダの言葉を聞きながら、私はこれまで築き上げてきたもの全てが終わってしまったことを感じていました。しかし、それは一つの安楽でもありました。これ以上、自分を偽る必要が無いことを悟ったからでしょう。

 なるほど、認めざるを得ません。私がこれから愛するのは――アルテではなく、この少女なのだと。


 私は彼女の言葉に静かに頷いた後、そっとその美しい腕に向かって歩みを進めていきました。

 そのまま、彼女の腕に抱かれて、愛という名の呪いを受けることになったのです。

 

 ……それ以来、私の生活は変わりました。

 アルテは、私と彼女の間で行われていた告白の一部始終をその目で見ていたらしく、私に対して何も言わないようになりました。

 私といえば変わらず、共に生活のために思いやり行動していますが……そこからは何かがすっぽりと抜け落ちているのでした。悲しいかどうかさえ分からず、ただ何もかもが終わったのだという感慨だけがありました。

 時折、楽しいと思えていた頃の生活に戻りたいと思うこともあっても、その時も涙が出ることはなく。

 私にとって、アルテとの愛は、砂漠に近しいものになっていました。


 私は相変わらずギルダの家に通い、仕事をしていました。彼女はあの告白以来、人が変わったように大人しくなり、何も無茶なことを言わなくなりました。

 しかしそれは、彼女がもはや何も言わずとも自分を手中に収めているということから来る余裕に相違ありませんでした。私は、蜘蛛の巣にかかった羽虫を思い出したものです。

 彼女は私に、愛の言葉を囁くことはありませんでした。しかし私は彼女の髪に触れている間、彼女が私を愛していることを知ることが出来たし、逆も然りでした。

 ああ――私はこんなにも、彼女の美しさを愛しているのだと。


 

 私が本当の私に目覚めてから数ヶ月が経過して――ギルダが病に倒れました。もともと弱い身体が、私との交流を通じて、過剰に感情的な振る舞いを強いられたところ、更に酷使させられた……原因としては、そうではないかと私は思いました。

 だとすれば、彼女はどれほどの精神的な力を私に注いだのだろう。かつてならそれを思えば震えていたであろう私の身体は、今はこれから起きることに対して、凪のように静かに落ち着いていました。

 医者がゲルダに、余命僅かであると告げたにもかかわらず。


 私は、最後に彼女が私をベッドの横に呼んだ日のことを忘れません――それが彼女の最期であり、私に消えない罪が刻まれた日だったからです。

 彼女は私に対して、息も絶え絶えで――それでいて、塵ほどの動揺もなく、なるべくしてなった、という態度を取りながら言いました。


「先生が言っていたわ……この病気の症状は、とりわけ皮膚に多く現れるんですって。そしてそれが最大になるのは、死んだ時だって。そうなれば……私がどうなるかは、分かるわよね?」


 私は思い出していました――猿のように縮こまった母の亡骸を。私が頷くと、彼女は弱々しく微笑みました。未だに彼女は完璧な美しさを保っていました。


「私は……美しいまま死にたい。あなたにとっての私が、かけがえのない状態のまま死んでいきたい……私が、何を求めているか。わかって?」


 もちろんでした。私は再び頷きます。

 そして既に、心に決めていました。これからすることが私の立場を悪くしたとしても、関係ありませんでした。私は私の信じる愛に尽くした――それだけのことなのですから。


「ねえ……私を殺してよ。自然に死ねば、醜くなるなら……私は美しいまま、あなたの心に焼き付いて死んでいきたい……だから」


 そうして私は、彼女の首に手をかけます。もう涙は出ません。何もかもが理解できていました。それはやはり、神聖なものに仕えるような気持ちでした。


「お願い……これで私とあなたは、ずっと一緒。あなたは私に呪われたまま、ずっと生きていく……」


 私は手に力を込めます。


「だから、さようなら……私の、愛した人――」


 そうして私は、彼女の首を強く締めて、彼女を永遠にこの世から葬り去りました。

 私は心を閉ざしきろうとしていましたが、その私に対して、寄り添ってくれる少女が居ました……アルテです。

 まもなくアルテは、私に対して言いました。

 『一緒に逃げよう』と。


 ああ――。

 私は悟りました。アルテは、私を赦してくれる。私を愛しているからこそ、私の愛の形を受け入れてくれる。


 そうして私たちはまもなく、逃亡生活に入ったのでした。



 それが数カ月前のことで、提案した本人は、今こうして横で疲労のあまり眠りこけているのだと、彼女は肩をすくめて言った。

 話はそれで終了した。私はあまりのことに、口を聞くことができなかった……目の前の少女が、全く別の生き物に見えるようだったからだ。

 マルトは言った。


「ねえ、あなたはこのまま、私たちを見過ごしていてくださいますか? それとも……」


 言葉を断ち切るように、私は首を横に振った。出来るわけがないのだ。その話は常軌を逸していながら、どこか自分たち全てに巣食う何かについて話しているようだったから。


「なら、良かったです」


 マルトは染み渡るような笑顔を浮かべた……。

 汽車はまもなく、ホームに着いた。

 マルトは荷物をまとめて、自分たちはここで降りますと言った。私は何も言葉を返すことが出来ず、ただ手をぎこちなく振ることしか出来なかった。

 そしてそのまま、罪の意識を抱えたまま、少女二人の後ろ姿を見送ることになるのだと思われた……。

 しかし。


「……ここは」


 もう一人の少女が、目を覚ます。


 その途端、帽子が脱げ落ちて、その容姿があらわになった。

 私は目の前が真っ白になりそうだった。何故なら、あまりにもありえないことだったから。


「あなた。もっと早くに起こして頂戴って言っていたでしょう。愚図ね」


 話し終えたマルトにそう言った彼女の顔は――話の中に出てきた、『ゲルダ』そのものだったからである。


「ごめんなさい。本当に……さあ、行きましょう」


「ちょっと。先に出るのは私よ。勘違いしないで」


 会話が続く。二人は立ち上がる。私は二人を止めようとした。

 何故だ。そこに居るのは『アルテ』であるべきはずなのに。たった今、そう言っていたではないか。

 なぜ、そこに『ギルダ』が居るのだ――。


 


 私は心臓を激しく鼓動させたが、声は出なかった。

 そんな私の思いを読み取ったように、マルトは言い放った。


「ええ。ギルダは死にましたよ。私が殺したんですから……」

 

 では、そこに居るのは――。



 そう言われた瞬間、その少女が一見ギルダに見えるものの、よく見ればまるで違うことに気付いた。


 その顔は痣だらけで、いたるところに、皮膚を無理矢理に歪めた傷跡があった。髪の毛も、よく見ると、強引に植え込んだような痕が見受けられていた。


 ……それが意味することを理解した時、私はその場で崩れ落ちそうになった。


「ここまでできるようになるまで、長かったわ……私の仕事も、きっと無駄ではなかったのよね……? 愛してるわ。『アルテ』」


 ……ああ。きっとマルトは気づかない。

 髪の毛の下に、別の色の髪の毛がうっすら浮かんでいることにも。その顔に浮かんでいる傷が、美しさを損ねつつあることにも。見えているものが、瞳をくらませている限り。永遠に、永遠に。


 そしてアルテの瞳には、何も写っていなかった。客観的に見れば少女が映っているはずなのに、何もなかった。空っぽのアルテは、ただそれだけを見ていた。まったくの、空っぽの虚無を。そうして、まるで人形のように――『ギルダ』そのものとして、そっくりに頷いた。

 彼女はマルトのことを心の底から愛していたのだろう。だからきっと、自分にとっては偽りの形であるマルトの愛を模倣することにしたのだ。その決心をするまで、一体どれだけの気力と時間を要したのか……その瞳は、何も語らない。


 これから先、二人はどうなっていくのだろう。やがてその傷だらけの假面が外れた時、少女はどうするのだろう……もはや、その結末は、自分には届かないところにあるように感じられたのだった。


 やがて二人は、車両を出た。黒煙に紛れて、その姿はホームの向こう側へ消えていき、見えなくなった。


 その後、客席に残っている乗客は僅かだった。

 私は身体を両腕でかき抱きながら、窓の外を見る。

 とっくに夕暮れは消え失せて、そこにあるのは途方もない、どこまでも続くと思われる闇だけだった。


 ――ああ。愛とは。

 私は嘆いて、叫ばずにはいられない。

 ――ああ、人間の愛とは。一体どこにあって、我々をどんな闇へといざなっていくのだろう。


 それらが、薄皮のようなこの世界に包まれている限り……まるで表情を見ることが出来ないとなれば、これほどまでに残酷な話は無いではないか。

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薄皮の愛 緑茶 @wangd1

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