第2話 淡い光に誘なわれ。

浅葱色あさぎいろの空に、入道雲が塗られている。

依明は大きな欠伸をして、縁側に腰掛けた。

じりじりと鳴く蝉の声が煩わしいほどだ。

真夏の昼のことである。


「こうも暑いとなにもする気が起きんな…ああこんな服など脱ぎ捨ててしまいたい…」

依明は忌々しそうに襟元を引っ張り、ぱたぱたと扇ぎながらひとりごちた。

そばを流れる池の水音と、そこで遊ぶ子供たちの甲高いはしゃぎ声がせめてもの気休めである。二人の妹の兄であり、元来の子ども好きである依明は目を細めてその様子を眺めていた。


きゃあきゃあとはしゃぐ子どもたち。

ぱしゃぱしゃと水が跳ねる。


「はは、俺もあんな時代があっ…………」


言いかけた時、水しぶきというにはあまりに塊であり、あまりに早いスピードで飛ぶ水滴が依明を襲った。

「うがっ…?!つめた!!!」

飛び上がって濡れた顔を袖で拭うと、子どもたちの歓声に混じって女性の声が聞こえた。

「ほら、あのお兄さんがお菓子をくれるそうよ、いってらっしゃいな」

「ちょ、ちょっと待って!?水かけられたの俺!!かけられた上お菓子までぶんどられるの?!損に損を重ねてるだけじゃね!?」


\ケチー/\ボンボンのくせにー/\貧乏性/


「うるせぇガキども!!」

「ケチな男は嫌われるわよ、そんなだから独身なのよ朝利も依明くんも」

理不尽に子供たちになじられる中、聞き覚えのある少し低めの声に顔を上げると、満面の笑みで立っている真っ白な肌の女房がそこにいた。


「け、馨子けいこ、殿」

「久し振りね、お元気そうで何より」

朝利の姉、馨子こと雪緒ゆきおである。朝利と同じく真っ黒な髪に切れ長の目をした美しい女房であった。

失礼、と依明の隣にそっと腰掛ける。

「何しれっと座ってるんです、どうしてくれるんですかこれ」

「乾くわよ」

「そうじゃなくて」

「それより」

「い、いひゃいいひゃい」

ぐにぃ、と爪が食い込むほど依明の頬をつねりながら微笑んだ。

「雪緒と呼んで頂戴、言ったでしょう?」

「ゆ、ゆひぉ、ひゃん」

「よろしい」

依明は爪の痕が残り、赤く染まった頬を不満げに撫でた。

「それ女房名ですし…さすがに左大臣殿のご令嬢を女房名で呼ばわるのは…」

「いいのよ」

何故って…と意味ありげにそっと伏し目で呟いた。白い肌と黒い髪がコントラストを強調させ、影を帯びる。ごくり、と依明は生唾を飲んだ。

「話せない事情も、あるのでしょうな…」

申し訳ない、と口を開きかけたその時。


「可愛くないじゃない!!」


「………は?」

「だって、朝利はあんなにお洒落な漢字なのに何故私だけ馨子なのよ、変に凝ってバランスは悪いしそれにけいこ!せめてかおるこにしなさいよ、全くお父様ったら何を考えていらっしゃることやら」

「……何を考えていらっしゃることやらはあなたに向けたいのですが」

依明のツッコミなど意に介さず、そうだわ、と膝を打って雪緒は立ち上がった。

「こんなことをしている場合じゃなかった」

「もう本当に何なんですかあなたは!」

「朝利は何処にいるか知らないかしら」

「何処までも無視!!…朝利ならここにはいませんよ。出仕も終わったことですし」


何とも羨ましい話だが、この時代の出勤、つまり出仕はおよそ4時間ほどであったという。作者は学校帰りや休みの日のアルバイトにひぃひぃ言っているところなので書きながら2人に殺意が湧いている。

メタ発言をしてしまった。

閑話休題。


「そう、じゃあ仕方ないわね。それにしてもこの暑いのに、子どもたちは本当に元気なこと」

「そうですな…」

甲高いはしゃぎ声や歓声を聞きながら夏の暑さに浸っていると。

突然、一際大きな金切り声が聞こえた。

「えっ何、何?!」

子どもたちは変わりなく遊んでいる。

金切り声はだんだんと増え、近づいてくる。

耳を澄ませると、がらがらと牛車の車輪の音が混じって聞こえてきた。

あら、と雪緒が目を上げた。

「来たわね」

金切り声は近づくにつれ、中身が聞き取れ始めてくる。

「朝利さまよ!!朝利さま!!」

「一目お会いしたかったのよ!!本物だわ、本物の朝利さまよ!!」

牛車が依明たちの前まで進むと、がらがらと車輪を引く音が止み、女房たちの金切り声のユニゾンは収束した。

「やぁ、依明殿ではないですか」

「お前かよ!!」

大スターが空港に降り立つ時も同じ現象が起きる。古今東西アイドルというものは変わらない存在なのだろう。


「あら、依明さまもいらっしゃるわ」

「まぁ…お二人が並ぶと絵になりますこと…」

「依明さまも負けず劣らず素敵な方よね…」


こうなると依明も満更ではない。

得意げな表情を押し殺しつつ、朝利に向き直った。

「どうした、てっきり戻ったかと」

「暑くてやりきれないもので、池に涼みに来たのですが…おや、ねぇ、…あね…け、…雪緒さん」

「遠回りしたなおい」

「何よかっこつけちゃって。いつものように姉様でいいのよ?」

「何を仰います雪緒さん。いつも雪緒さんですよ雪緒さん」

「主張が激しいな」

トレードマークの青い直衣を夏の空に反射させ、朝利はひらりと牛車から降りて縁側に腰掛けた。

「そう、朝利、ここのところ宮中である噂が流行っているのだけれど。聞いているかしら」

「はて…」

「なんでも、最近宮中では夜になると鬼火が出るらしいのよ。目撃者も何人かいると聞いているわ」


雪緒の話はこうであった。

夜、酉の刻頃になると鬼火が出ると専ら噂になっており、何人もがその光に魅入られてしまうという。しばらくして帰ってくる人々は口々に「この世のものとは思えないものを見た」と言うのであった。


「……ということよ。朝利、そこで頼みがあるのd」

「嫌です」

「何よ、まだ何も言ってn」

「嫌です。絶対に、嫌、です。面倒です。帰ります」

一言ずつ区切るように言って、朝利はくるりと踵を返した。

「おい朝利、そっち反対だぞ」

「わかってます」

「そうか、ならいいけどな。…汗すごいぞ」

「暑いので」

「足震えてんぞ」

「寒いので」

「どっちだよ!!」

「暑くて汗をかいたのが冷えたので寒いんです!!」

「苦しすぎるだろ言い訳が!!」

ぎゃいぎゃいと言い争う二人を見ながら、雪緒がふふ、と笑った。

「あら、怖いのかしら。宮中のアイドルともあろう朝利様なのに?」

「怖いのではありません、そんな非現実的なものに振り回されているのが滑稽なだけです。真相究明をするまでもありません」

「一番振り回されてんのお前じゃないのそれ」

「お願いよ朝利、このままだと私怖くて眠れないの。きゃーこわぁいたすけてぇ」

長い袖でわざとらしく口元を隠し、くねくねと怖がる素振りをする雪緒には目もくれず、すたすたと歩き去った。

かなりしょうもない会話をしたばかりだというのに、颯爽と去っていくぴんと張った背筋に向かって、依明は腰掛けたまま叫んだ。

「小心者のアサリ野郎ーばーかばーか」

「依明くん、その程度ではいくらあの子でも…」

雪緒が言うが早いか、それまで一心不乱に牛車に向かっていた朝利は、振り向きざまにきっ、と依明を睨みつけて言い放った。

「何ですって、たかが鬼火の一つや二つがどうだって言うんです。私がいないことを証明して差し上げますから首を洗って待ってなさいこの鳥頭」

一息で言い切ると、金切り声をバックに優雅に去っていった。

雪緒と依明は顔を見合わせた。

「「……乗るんだ、挑発」」


……と思いきや、屋敷の門の前で牛車はピタリと止まり、あ、そうそう。と朝利は顔をちらりと覗かせた。

「依明殿、責任を取って同行願います」

「あ、俺もなんだ」


✳︎


申の刻、依明は朝利の御所に向かった。

暗い屋敷はしんと静まり返っている。

「そろそろ噂の時刻だ、早めに行っておこうぜ」


返事はない。


辺りは日が傾いており、月明かりが微かに震えている。不気味なほどに静まり返った屋敷からは物音ひとつしない。ふ、と耳を澄ますと烏が遠くで鳴いた。ぬるい夏の風が肌に纏わりつく。


依明は少し声を大きくしてもう一度呼びかけた。

「おい朝利、いるんだろ?出て来いよ」

やはり返事はない。

さすがの依明もまさか本当に物怪もののけ鬼神きしんの類が、と焦りながらもう一度声をかけた。

「あさと…………」

物忌ものいみです。すみません」

食い気味に、やけに早口で朝利がやっと屋敷の中に閉じこもったまま返事を返した。

「そうかーそりゃあ大変だなー仕方ないなー………って阿呆か!!この数時間で何があったんだよ、見え透いた嘘はやめろ出て来い!!」

「嫌です!!物忌ですよ!?出ません絶対に家から出るものかああ」


物忌とは、平安時代の貴族の間で流行した陰陽道おんようどうの儀式の一種である。汚れや不浄に触れた時や、神事のため、また災いから身を守るためなどの理由から家にこもって身を慎むことを言う。そして言うまでもなく朝利は仮病……もとい仮物忌である。


「観念しろ、入るぞ」

「ちょっと、近寄らないでくださいこの鳥頭、馬鹿が移ります」

「状況を顧みて言え、馬鹿はどっちだ」

依明が屋敷へ押し入ると、書簡や書類、文などが散らばり放題の部屋の真ん中で三角座りをした朝利が恨めしそうに睨みつけていた。

「………病んでんなぁ」

「ここのところ忙しくて片付ける暇もなかったんです」

宴の席を始めとする宮中行事に引っ張りだこの朝利は、最近ほとんど依明でさえ話しかけられる状況になかった。案外忙しい時期や役職もあるのだ。作者反省。

「ほら、じゃあ息抜きってことで。行くぞ」

「いやほんと結構ですって、物忌ですって、うわぁああ」

半ば引きずられるように、朝利は依明とともに宮中へ向かった。


✳︎


宮中の庭にある池は草木が周りに生い茂っており、昼間に見るとなかなか風情があり壮観であるが、夜に見ると格別不気味さが浮き彫りになってしまう。

そこへ、いつもの颯爽とした立ち居振る舞いが消し飛んで腰が引けた朝利と、それを面白がりながらからかう依明がやってきた。

「な、何もいないじゃないですか。ほら御覧なさい」

「噂の時刻にはまだ少しあるぞ、しばらく様子を見よう」

不気味な池をロの字状に囲んだ縁側の廊下に二人は腰掛けた。

「いくら待ったところで同じです、早く戻りませんか」

「まぁそう言うなよ。お前何でそんな怖がりなんだ、面白いな」

「怖いわけではありませんが断じて。…雪緒さんが私にしてきた数々の狼藉が尾を引いているのではないですかね」

「あぁ………察した。おつかれさまなことだな」


雪緒の朝利いじりは幼少の頃から続いている。長い付き合いの幼馴染である依明は間近でそれをよく見ていた。どころか、巻き込まれていた。

左大臣の娘であり、現在は皇后の女房にという高い地位にいる雪緒は、文学的好奇心に溢れた女性であった。それだけなら良かったのだが、ある時は天の岩戸を再現すると言いながら押入れに閉じ込められ、ある時は日本武尊ヤマトタケルを再現すると言って熊襲クマソ役をさせられた朝利を追い回さざるを得なくなり、朝利からしばらく嫌われてしまった。雪緒は大笑いをしながらそれを眺め、決まってこう言うのだ。


「本当に可愛い弟たちだこと」


おかげで二人は「可愛いとは何ぞや」という哲学を早いうちから学ぶことになる。


(今回もその類じゃないかと疑ってるから俺は怖がらないんだがな…。なにを企んでいることやら)

依明はかたわらの顔面蒼白な朝利を哀れんだ目で眺めた。


その時である。


対の縁側に、すぅ…、と一筋の光が柔らかく走った。

「ひ…!」

朝利が短く叫び声を上げた。

その瞬間、光はピタリと止まり、二人のいる縁側の方に向かって動き始めた。

「南無三…!!!」

数珠を取り出した朝利を後ろに追いやり、依明は灯籠とうろうを頼りに光の方へじっと目を凝らした。

たれかあるか!」

依明が呼びかけると、光は更に近づいた。


「…おや、中将お二方ではないですか。奇遇ですね、この夜更けに」


「………と、当今さま?」

灯籠の光で映し出されたのは、手燭てしょくを持った野分天皇であった。

「夏は夜、とはよく言ったものです。この涼しげに鳴く虫たちの声と星の瞬きが美しい調和ですね、心が穏やかに落ち着きます」

「落ち着きませんよ、主にあなたのせいで」

相も変わらず浮世離れの飄々とした口振りで庭園の池の茂みを眺める野分天皇に、朝利はガタガタと震える手を後ろに隠して機嫌悪く答えた。

「…当今さま、もしかして、もしかしなくても、大臣殿の許可は取っての御散策ですよね…?」

依明は恐る恐る尋ねた。

「大臣?…あぁ、しばらくしたら来ると思いますよ。それでは御機嫌よう」

無許可かよ!と心のツッコミが口に出かけたその瞬間、やはり背後から足音が聞こえた。 昼間より幾分音量は下げており、スタタタタと足袋が高速で擦れる音だけが響いている。

「当今さまぁああお戻りください…」

「大声を出せないのを逆手に取るのはおやめ下さい当今さまぁあ……」

小声で出せる最大音量を調節しながら右大臣、左大臣が後ろから駆け抜けた。


「「父上…」」

心中お察しいたします…と二人は心の中で合掌を捧げた。


「当今さまの御散策のせいで宮中では鬼火と噂されているのですぞ…」

「あぁおやめ下さい当今さま、手燭を持ったままスピードを上げるのはおやめ下さい…まって本当にやめて宮中が焦げる…!!」

スタタタタ…と三人分の足音が角を曲がって消えていった。


なるほど、と一行を見送りながら朝利が呟いた。

「噂の出処は当今さまだったのですね、それに尾ひれがついて回ったと」

「どうやらそのようだな、雪緒さんに一杯食わされた」

依明は苦笑して朝利の頭を撫でた。

「良かったな、大したことなかったじゃないか」

「やめてください、鳥になります」

「ならねぇから!!」

朝利が依明の手を払いのけたその時であった。

またしても光が一筋走った。

「当今さまも飽きないものだな…」

我々も加勢するか、と二人が立ち上がった瞬間、朝利が呆然と呟いた。

「……依明殿、当今さまではありません」

「何?」


一筋だった光は二筋、三筋と増えてゆく。

「何だ、どうなってる?!」

鈍く緑色に輝く光はとうとう数え切れぬほどになった。

暗闇に包まれた庭園の中を悠々と飛び回り、光の筋を幾つも描く。茂みに点在する無数の光はまるで宝玉のように美しく、夏の夜空を転写したかのようである。


「……これは、…蛍?」


無数の光の正体は夏の夜の風物詩、蛍であった。

「鬼火ねぇ、…」

それは、鬼というにはあまりに美しかった。

「確かに、この世のものとは思えないものですね…」


そこへ、さくさくと茂みを踏み分けて歩く足音が聞こえた。

「あら、今日は一段と数が多いわね…。良いものが見られたでしょう?」

昼間と全く同じ、満面の笑みで立っている雪緒であった。

「姉さま…!!これは、あまりに」

動転して呼び方が戻ってしまっている朝利を笑いながら、雪緒はそばの蛍を一つ手に乗せて遊ばせた。

「このところ忙しいと聞いていて、良い息抜きを探していたの。どうかしら、お気に召して?」

ぐ、と朝利は言い淀んだ。

「…初めから蛍と言ってくだされば良かったものを」

「あら、鬼火の噂は本当よ?ついでに確かめてもらおうと思ったのだけど、それも所詮は噂だったみたいね」

まぁともあれ、と依明は立ち上がった腰をもう一度落ち着けた。

「今宵の蛍が見られたのは雪緒さんのお陰ということにいたそう」

朝利は不服そうな顔をしながら、握りしめ続けた数珠を懐に入れた。


飛び回る蛍の間を、一筋の光が、すぅ…、とすり抜けた。




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