中将殿、当今さまがお呼びです!

宮島奈落

第1話 月夜の晩に、文が落ち。

月が中天にかかる。


管弦の宴、酔月の夜。

響くは笙と篠笛。酒を酌み交わす公達の賑わいは、和歌の詠み合いで飛び交う声に変わる。木々を揺らす夜風は最近、めっきりと冷えてきた。


時は平安、都は宮中である—



「三勝二敗、朝利中将が一手進んでおりますな」

「いやいや、依明中将も負けておられませんぞ」

盃の海が傾くなか、とある二人の名前がその海を闊歩していた。宴の中心は専らその二人の噂と張り合いの場面である。

そしてまさに今、この宮中のみならず都で知らぬものはない二人の中将が、文を片手に火花を散らしていた。


一人は志水朝利しみずあさとし、華奢な身体に射干玉ぬばたまの髪、藍の束帯から透き通る白い肌が覗く美男子だ。そのどこか女性的かつ知的な雰囲気からは思いもよらない、彼の機転のきいた皮肉屋な一面は宮中の女房を虜にしてやまない。


そしてもう一人は鳥羽依明とばよりあき。大柄で筋肉質、茜の束帯からは筋張った腕が見える。あかがねの髪が目立つが派手な顔立ちをしたこれまた美男子である。その風貌から放たれる繊細な和歌や笙の音色、そして時折見せる優しさが宮中の女房たちをざわめかせていた。


今宵は観月の宴、3日前の騒動は皆すっかり忘れているようだ。


その日も、黒い夜空に眩い月がよく映える、月夜の晩であった。

天皇の妹、女東宮である透子さまの御簾の前にとある文が落ちていたことから事件は始まった—


✳︎


—3日前、宮中にて。

「おい朝利、聞いたか?」

なにやら興奮冷めやらぬ様子で庭園にいた朝利中将に話しかけているのは、依明中将である。

「なんでも昨日の夜に………おい朝利、聞いているのか?………朝利、…っ、この、スカしの貝野郎!!」

いつまでも返事をしない朝利に声を荒げた依明を横目に、池の鯉からやっと目を離し、忌々しそうに大きくため息をついた。

「なんですか騒々しい…聞こえていますよ。なんですか、昨日の夜に東宮さまの御寝殿に文が落とされていた話ですか」

「…お、おう。知っていたのか」

「貴方のような鳥頭さんでは覚えていられないでしょうから全部言ってあげたんです。どこかの命知らずの悪ふざけでしょうね。東宮さまに求婚したところで…。お話は終わりですか」

「この……俺は鳥羽だ、羽はどこに行った」

「もぎました」

「もいだ?!」


何を隠そう、この二人はかの左大臣と右大臣の家系であり、幼少の頃から気心の知れた仲であった。家柄もそこそこ、才覚に溢れ、何より華のある人物たちである。縁談は星の数ほど来ているが、未だ独り身を楽しんでいる二人だ。


「何だよ、何をそんなに機嫌を損ねて……あ、さてはお前返歌の数で俺に負けたのをまだ根に持って」

「ピーチクパーチクうるさいんですよ…鳥風情がさえずるな…!!」

遮って、朝利ががし、っと依明の烏帽子を掴むと同時に依明は烏帽子の根元を抑えた。

「やめろ、烏帽子はやめろ!!こんな外で外れたら社会的に死ぬ!」

「冥土への旅路はさぞ楽しいでしょうね…」

「待て、落ち着け、それは物理的に死んでるからな!?それより、話には続きがあるんだ」

何とか振り払い、依明は続けた。

「何でもその話に関して俺たちに話があるらしい。というわけだ、朝利、当今さまのところへ参るぞ」

当今さま、即ち現天皇の野分のわき天皇のことである。

この天皇、普段はおとなしく口数も少ない優男であるが、宮中を一人で出歩く癖があり、なかなか頭を悩ませる人物である。

そして、この中将二人の人気の高まりは野分天皇の耳にも当然入っているのであった。


「参りました、志水朝利中将と鳥羽依明中将です」

「そうですか、こちらへ寄りなさい。貴方たちに折り入って頼みがあるのです」

豪奢な作りで広々とした内裏だいりに若干の気後れを感じながら、二人は女御にょうごに促されるままに足を進めて、姿勢を正した。

「話というのは他でもない、くだんの東宮のことなのですが、透子とうこは私に文の内容を話してくれないのです。内容がわからなければ相手が誰かもわからない。そこで、宮中を賑わせている貴方たちに聞き出してきてほしいのです。いくら透子とはいえ貴方がたからの頼みでしたら聞くでしょう」

野分天皇は頼みましたよ、とそっと微笑み、優雅な足捌きで内裏を去ろうとしたが、女御に「困ります今上さま」と止められた。


—所変わって、東宮御所とうぐうごしょ

「東宮さま、おあにいさまがご心配してはりますから、はようお話になられたほうがよろしいですえ」

尚侍ないしのかみ白藤しらふじは猫の毛繕いを手伝いながら透子にそう促していた。

「何でも本日はあの中将さまお二人にお頼みを致したとか…」

「何ですって」

俯いていた透子東宮の顔が跳ね上がり、黒くうねる豊かな髪の中から、真っ白に整った美しい顔が現れた。事件当日から泣き通しだった目尻のふちが赤く染まり、見慣れたはずの白藤でさえ、ぞっとするほどの美しさであった。

「あぁ、お兄さまの過剰な心配を恐れるあまりにわたくしは恐ろしさをこらえて、口を閉ざしているというのに…」

「そう仰らずに…」

透子東宮の目から涙がはらはらと流れ落ちたちょうどその時、「おられますかな」と中将二人の声がした。

「は、はいただいま。東宮さま、お二人が訪ねてきはりましたよ」

「いやです、こんな哀れな私の姿などとても朝利中将さまにお見せできません…!」

「何言うてはるの、どうせ御簾越しですわ」

「乙女心の機微をお分かりになって…!」

文字通り蚊帳…いや、御簾の外の二人は顔を見合わせた。

「……俺は?」


✳︎


落ち込む依明を空気にして、透子東宮が涙ながらに語った内容はこうであった。

「その日はお兄さまが私のところへ来ていらして…お忍びのようで女御さまに連れ帰られていたのですけれど…その後、夕膳の支度をしてくださった女房がこの文を…」

几帳の下から差し出された文には、こう書かれていた。


「汝を想ふ心ばせが抑へられず、我が心は千々に乱れたり。汝が我をめづといひしかの夜も月のかげが満ちたりき。月のかげの妖しさと、宵の暗闇に紛れて今夜、観月の宴の夜に、攫ひに参る」


—貴女への想いが抑えられず、私の心は千々に乱れております。貴女が私を愛するといったあの夜も月の光が満ちていました。月の光の妖しさと、宵の暗闇に紛れて今夜、観月の宴の夜に攫いに参ります。


「………なんだこれ」

開口一番、依明が呟いた。

「横恋慕の脅迫状…でしょうか。失礼ながら心当たりは」

「ありませんわ…!!私、殿方と契りを交わしたことなど一度も…」

さめざめと泣き崩れる透子東宮を慰めながら、白藤が言った。

「東宮さまは今までのどんな文にもご返答をなさりませんでした。…そのうちのどなたかが痺れを切らしたのでしょうか」

朝利は小さくため息をついて、立ち上がった。

「なんと嗜みのかけた公達で…」

「言いにくいことを言わせてしまい、申し訳ありません。きちんと当今さまのところへお伝え致しますゆえ、何卒お気落ちをなさらず…」

依明がそっと声をかけると、微かに頷いた気配がした。

「有難うございます…朝利中将さま」

「いえ、依明です」

「……あら」



天皇の元へ参内し、二人は事の顛末を話した。

「……という内容でございました」

「如何なさいましょう、いくら色恋は公達の嗜みとはいえ人道を外れております。さらに相手は東宮さまとあっては然るべき対応を」

依明がそう言うと、渋い顔をして聞いていた野分天皇が重々しく口を開いた。

「そうですね、…しかし若気の至りというものも有ろうことでしょう。今回は私の胸の内に秘め、穏便に済ませるということで如何ですか。例の文は私が管理いたしましょう」

おや、と二人は顔を見合わせた。

この野分天皇、重度の妹思いであることで有名である。お忍びで妹の部屋に行くのだから相当なものであるはずだ。そのため、この場に居合わせた誰もが激昂すると思い込んでいた。

「え、よ、よろしいんですか」

「仕方がないでしょう。透子にその気がないのでしたら大丈夫でしょうから」

ご苦労さまでした、と微笑まれては後が続かず、そのまま二人は引き退がった。


しかし、文の内容とその噂はたちまち宮中に広まった。この時代、人伝の噂が情報の全てであるため、真偽を確かめる間もなく瞬く間に耳に入ってきてしまう。

そんな中、やり玉に挙げられたのは宮中で絶大な人気を誇る中将二人であり、出仕に出るたびヒソヒソと噂に指を指され、質問攻めにあっていた。


「やぁ、聞いたぞ依明。お前とうとう東宮さまに手を出したらしいじゃないか」

「何言ってんだ、俺じゃねぇよ!?」

「じゃあ朝利か」

「何故です、私がそんな節操のないことをするはずがありません」

「しかしお前たち返歌の数を競ったりなんだったりしてたじゃないか」

梨下に冠を正さず、だぞ。

にやにやと笑う同期にぐっ、と二人で息を飲み込んだ。


「ついでにどっちが勝ったんだ」

「え、それはもう圧勝ですよね」

「「俺私」」

「「………」」

「「………あ?」」


\嘘をつくなてめぇ、何ですって一度勝ったくらいでなんです総括したらどうですか、うるせぇそんなこと言われてないだろうが、そうですね鳥頭さんに期待したのが間違いでした、何だとこのアサリ野郎/


目の前で喧嘩を始めた二人を同期の中将はぬるい目で眺めた。

「まぁとにかく当今さまが寛大なお心の持ち主でよかったな。今後気をつけろよ」

「「だからやってないっての!!」」



—その頃、 野分天皇のもとでは、左大臣右大臣を含めて3日後の宴のための会議を開いていた。

「観月の宴…といえば、噂のあの文もそのような内容でしたな」

「あぁ、月夜に女人を攫うなど、まるで輝夜姫かぐやひめのようですな」

宮中を席巻する一大スキャンダルで盛り上がる中、女御がぼそ、と呟いた。

「私としては3年前の観月の宴の辺りから天皇の放浪癖が始まったのが最大のなや………いえ。何でもありません」

女御と両大臣がちらり、と野分天皇を見やると決まりの悪そうな顔をしたままぱたぱたと忙しく扇子を開閉していた。


✳︎


そして、あらぬ疑いをかけられた朝利と依明も内裏でさらなる気炎をあげていた。

「だから俺じゃねー!!」

「私でもありませんよまったく」

「朝利、こうなっては致し方ない。一つ手を組むのはどうだ」

「……不本意ですが仕方ありませんね」

「これ以上言われて黙ってられるか、俺たちで真犯人を見つけてやる」

「しかしどうやって…」

「うーむ…」


朝利と依明があらぬ疑いを払拭しようと頭を悩ませているちょうどその時、対の寝殿からドタドタと音が聞こえた。


「またそんなところにいらしたのですか!!お戻りなさいませ!!」


足音がだんだん近づいてくる。

ドタドタと走り回る音の先に、場違いなほどゆったりとした優雅な足音が二人の前に止まった。


「おや、そこにいるのは中将殿。奇遇ですね、私は散策の帰りです」

「当今さま…」

二人は全てを理解した表情で顔を見合わせ頷いた。

すぅ、と息を吸い込むや否や、依明が背後の軍勢に向かって叫んだ。

「当今さまはこちらにおられますぞ!!」

「おとなしくお捕まりなさいませ、当今さま。観月の宴の準備をせねばなりません」

「……おや。では失礼」

すたこらと逃げる野分天皇を追う、左大臣と右大臣を含む女房や典薬助たちがかたまりとなって2人の前を通り過ぎた。

「当今さまぁああ!!」

「宮中をみだりに走ってはなりませんよ、せわしなくて仕方がない」

「でしたらお逃げなさるな!!!」

「何という優雅さ……!!あれほどゆったりとした早歩きができる方は他におりますまい…!」

「まるで水面は静かに、足元は激しく水を掻く白鳥のごときお姿…!」

「それは褒めているのか左大臣殿!」

「少々立腹の思いもありまする、右大臣殿!」


背後数メートルの喧騒など意にも介さず、野分天皇はそのまま角に消えていった。


「内裏の名物だな、ありゃ…」

「しかし歴代の天皇の中で他に妻をおつくりにならないのはあの方くらいです」


宮中にいる全員、誰も口には出さないがあの名物が起こる理由を知っていた。

野分天皇は北の御方様、つまり後宮の淑子皇后が気になって仕方がないのだ。

3年前に三日夜の餅を食べてからというもの、あの放浪癖は一向に収まる気配がない。理由は明白である。


「…とはいえなぁ、…いや、今はそれより!俺たちの疑いを晴らさなくては」

「ふむ…」

「しかし返歌の競い合いが疑いの種になるとはな」

「寄らば文殊の知恵、とはよく言ったものですが…こんな鳥と一緒ではかないませんね」

「哺乳類ですらないアサリが何を抜かすか」

「「………あ?」」



それから程なくして、軍勢に捕らえられたのであろう野分天皇から、3日後の宴の会議に呼ばれた。

元服を終えた公達は皆出仕し、天皇の御前にずらりと並んでいる。

参内した公達たちによって、厳かな雰囲気を醸し出す内裏の中に、ぎゃいぎゃいと言い合いながら二人の中将が入ってきた。

参内していた公達たちは一斉に振り返る。

「「……これは、失礼を致しました」」

注目を一身に受けた二人は、声を揃えてそそくさと席に着いた。


それぞれが思い思いに発言をする中、天皇はしっかり聞き入っている素振りで居眠りをしており、左大臣のこめかみに度々青筋を立てさせつつ滞りなく会議は終盤を迎えた。


「……では、原則として従来に沿って楽器の演目や催し物は進行するということでよろしいか」

うむ、うむと頷く一同の中、誰かが口を開いた。

「そういえばあの文によると東宮さまは宴の夜に連れ去られるようですな」

ははは、と笑いが起こる。

「犯人の目星はついておりますな」と意味ありげににやにやと笑いながら、朝利と依明を何人もが横目に見やった。

「っ、だから」

「……依明殿、少し」

朝利は依明を制止し、立ち上がった。


「この度の噂の文は、当今さまの寛大な思し召しで胸の内に止めてくださるとのことでしたが、私たち一同は真相が気になるところ。そこで今、この場を持って証明したい次第です」

「あ、朝利?何か思いついたのか?」

困惑する依明に、朝利は言った。

「文、であるのなら筆跡という動かぬ証拠が残るでしょう」

催しに和歌の詠み合いがありましたから、と薄く笑った。

射干玉の髪が妖しく揺れ、ぞくりと背筋が凍るような笑顔を貼り付けたまま左大臣のところへ向かう。

「父上、観月の宴の文をお見せ願いたいのですが」

つまるところ、朝利がしようとしているのは筆跡鑑定である。パソコンもワープロもないこの時代、当然和歌は手書きで記されている。たしかに動かぬ証拠となるだろう。

「朝利中将、何もそこまでする必要はありません。いわば身内の問題ですから、あなたたちにご迷惑をお掛けするのは心苦しいものがあります」

野分天皇が扇子を広げて、朝利に言った。

「当今さまの御身内でいらっしゃるならなおのこと、宮中の一大事変です」

はぁ、と大袈裟にため息をついてみせ、朝利は続けた。

辟易へきえきしているんですよ、この娯楽の少ない宮中の中で根も葉もない詮索をされるのには…!!何より私がこんな鳥頭と同列に見られるなど」

「おい後半どうなってんだ」


依明がさらりと盛り込まれた罵倒に反応したちょうどその時。

背後に衣摺れの音を感じた。

野分天皇の顔がみるみる青ざめていく。

「と、…淑子としこ

「あらあら、何の騒ぎです。…ごめんなさいね、少し遅れてしまいました」

ふふ、と上品な笑いを浮かながら、目を泳がせて青ざめる野分天皇の顔をじっと見つめ、不思議そうに首を傾げた。

「あら、どうなさったの」

「い、や、何でもない、んだ」

疑問符を浮かべたまま、淑子皇后は立ち上がっている朝利と、その手に持った文を見つけてあっと声を上げた。

「中将さま、それはもしかして」

野分天皇はあぁ…と声を零し、広げた扇子でばさりと顔を覆った。




「私たちの三日夜、三年前の観月の宴の日に野分さまがくださった後朝きぬぎぬの文ではありませんか」




一拍の間をおいて、どよめきの声が湧き上がった。

朝利と依明も開いた口をふさげず、野分天皇は扇子で顔を覆ったまま微動だにしない。

「と、当今さま…これはどういう…?」

依明が尋ねると、観念したように溜息をひとつつき、扇子から少しだけ顔を出してぼそぼそと話し始めた。

「…件の宴は3年目にして、三日夜の夜であるから節目としてもう一度同じ文を渡そうと思っていたのですが…どこかに落としてしまったのです。…それがまさか透子のところとは思いもよらず…」

どっ、と内裏中が笑いに包まれた。

「いや申し訳ないな中将二人には、まさかこんな結末とは」

「本当ですよまったく」

「いや、しかし宮中一のおしどり夫婦は健在ということだな」

一同の笑いの中、淑子皇后がそっと野分天皇に近づいた。

「ふふ、…今宵も月が美しゅうございます。…もう一度、私の心を攫っていただけるのですか?」

「…攫うも何も」

そばにいるのだから同じだろう、と野分天皇は顔をさらに赤らめた。






月が中天にかかる。


管弦の宴、酔月の夜。

響くは笙と篠笛。酒を酌み交わす貴族たちの賑わいは、和歌の詠み合いで飛び交う声に変わる。木々を揺らす夜風は最近、めっきりと冷えてきた。


時は平安、都は宮中である。

今宵の月は、満月だ。



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