シェントゥ
お前はサガラの間諜であろう。
確信めいた調子で問われた侍従は、シェントゥという少年として入隊してきた女は、何も答えなかった。
逃げもしない。いつものようにワタワタと動揺しない。あるいは冤罪だと、信じてほしいと情に訴えるかとも思ったが、そうもしなかった。
ただ色が抜けた。感情が抜けた。輝きが抜けた。今目の前にいるはずなのに気配が薄れ、一切の『個』というものを出さなくなった。
おそらくはそれこそがこの情緒豊かな面の奥に潜ませていた、この女の『素』なのであろう。かの侍女長殿の不愛想にはこちらへの敵意と嫌悪という単純明快な理屈があったが、この女にはそもそもこちらに興味があるかどうかさえ定かではない。
「まぁ良い。それじゃあその考えに至った経緯を、順を追って説明してやる」
起き上がって粥を覗き見ながら、星舟は続けた。
「まず切欠は、お前がオレに懸想をしてるって馬鹿姉弟のドタバタだった。その時に男装をしてるってわかったわけなんだが、それがなおさらオレには不審だった。何故男の恰好をする必要がある? リィミィにしろキララにせよ、れっきとした女性でも軍務は果たせる」
だから考えた。そのバカみたいな嘘には、もっと大きな虚偽が隠されているのではないか。
多少の不審な行動には可愛らしい隠し事秘め事があったから、と皆が合点するように。
「ひょっとしたらそれはオレの杞憂に過ぎず、過去の境遇から男装せざるをえなかった、とも考えもした。……が、そもそも入隊に至る前後までの略歴は追えたが、ある時を境に完全に途絶えた。そしてお前が入ってきたのは、サガラが東部に帰ってくるすぐ前のことだ」
その段階で可能性を考慮すべきだった。気づかなければならなかった。
それもすでに取り返しのつかない後悔でしかないが、それでもその失敗を清算する意味合いも兼ねて、星舟はシェントゥの背後に回り込みつつ語り続けた。
「で、サガラとお前との絡みをカルラディオ様に調べてもらった。オレの知らない接点があるとすればそれは、東部周辺ではなく奴が駐在していた帝都あたりでのことだからな。そしたら拍子抜けするぐらいアッサリ分かったよ。奴の指揮下の近衛の縁者に、お前と同じ、狐の
その調査においてもっとも驚いた事実を噛みしめるように呟きながら、星舟は戸に鍵をかけた。
「今の説明で、何か間違ってることあるか?」
問う星舟に、シェントゥは虚空を見上げたままだった。
「ひとつ」
と、声は少年めいたそのままに、平坦な調子で女は答えた。
「大きな間違いがあるとすればそれは、そのことに気づいてもなお、わたしを排除できなかったことでしょうね。遠ざけは、していたみたいですけど」
「……そりゃあ、直後にあの雨が降ったからな。あれさえなけりゃ今頃フン縛って、首を斬ってサガラの鼻先に」
「無理ですよ」
即応であった。
シェントゥは冷ややかな眼差しに、感情の色が浮かぶ。軽侮由来のものが。
「たとえ病が流行らずとも、貴方にはできません。少なくとも、殺せなかったでしょう? それこそが、サガラに貴方が勝てない最大の理由ですよ」
「……どういうことだよ」
シェントゥはくすり、と声を鳴らす。
あまりに自然過ぎて、本当に可笑しがっているかどうかさえ分からない、生理的な嫌悪を誘う笑みであった。
「凶暴な熊を果敢に狩る猟犬でも、狼には決して挑みかからない。それは、全ての点において、犬が狼に劣るがためです」
なるほど熊を相手にするのであれば数で襲えるだろう。連携や知恵、あるいは機動力でその圧倒的な攻撃性や体格差を覆すこともできるだろう。
だが、それらいずれも勝る上位種相手には、犬は尾を巻いて逃げるのみ、というわけだ。
「言わずもがな、サガラは狼、貴方は犬です」
綺麗に畳まれた羽織の胸元。その勲章を眺めながら、シェントゥは言った。
「もしサガラが逆の立場であれば、真っ先に殺すか、でなければ素知らぬていで上手いこと操り、骨の髄まで利用し尽くしたでしょう」
そのいずれにも踏み切れなかったあたりにもやはり、自分の半端さが表れているということか。
それを見抜いていたからこそ、あの『狼』は『犬』の行いを野心家ごっこと揶揄したのだろう。
「まして、女の胸に縋りついて慰めてもらうような惰弱な男に打ち倒せるものでしょうか」
「……そうだな」
自身の弱さ醜さを、星舟は率直に認めた。
おのれにそれ以上の変化と凶兆が起こりつつある今となっては、散々に指摘され切ったことに頑なに否定を入れたり、憤慨する気にもなれなかった。
「……似ている者、か」
星舟はしみじみと呟いた。
「思えばあいつも、同じ半端者なりに苦しい思いを、ともすれば今のオレ以上に味わって、闘い抜いてきたのに、オレのように誰かに縋れる立場になかったんだよな……そう考えると、少し可哀想だな」
それをシェントゥは無表情で聞き流す……かと思っていたが、彼女の表情は劇的なものだった。
そこまでの中性的魅力のある愛嬌とも、その虚飾を取り払った人形じみた無感情、いずれとも程遠い。
左目は驚嘆に見開かれ、対の目は呆れに眇めら、口の端では嘲りの色合いを作りつつも、どこか苦み走ったものを感じさせた。
「貴方、今ものすごいおこがましい物言いしてるっていう自覚がありますか?」
ここに来るまで押し殺していた感情がすべて暴発したかのような彼女の面持ちに、星舟は当惑を見せた。
蹴り上げて小石が、南方の椰子の実に当たってその強固な皮殻をふいに打ち砕いた。そんな感じに。
「……なんだよ、別に皮肉や負け惜しみで言ってるわけじゃねーって」
「だからこそなおさらタチが悪いですよ。なまじ挑発するよりサガラが怒り狂いそうですね」
「で、このことをそのサガラ様には伝えるか?」
「まさか。そんなことを告げれば、わたしがあの男に殺されるぐらいの冒涜ですよ、今のは」
「そんなに」
いまいち自覚のない星舟ではあったが、ふっと息を吐いた後、施錠を解いて戸を開けた。
「そら、もう行っていいぞ」
「……許すと、わたしを? 何のために戸を閉じたのですか?」
「そりゃ、話の途中に逃げられても困るしな」
「言ったすぐそばからこれだ。本当に、吐き気がするほどに、甘い……」
「お前のおかげでオレの前途は断たれたし、さっき言ったが、その用済んだ以上はお前もオレの相手をする必要なんてないだろ」
そんな段になって殺す殺さないもないもんだ、と締めくくり、さっさと出ていくようにアゴで促す。
冷ややかな目で見返したシェントゥは、やがて大義そうにため息を吐いて、
「それでも、たしかに」
と言葉をつぎ足した。
「分をわきまえず吼えかかり、かと思えば馴れ馴れしくすり寄って来る。そんな訳の分からない狂犬ほど、狼にとってはわずらわしいものもないでしょうね」
「そりゃどうも」
「あぁ、むろんこちらとしても、今の貴方には殺すほどの価値など微塵も見出してはおりません。その粥にも毒など入れてませんので、どうぞ快くお召し上がりを」
などと辛辣に言い置いて、サガラの間諜はごく当たり前の権利を用いるがごとくに退出した。
別れの挨拶ぐらいは欲しかったが、まぁ敵にそれを求めるのも間抜けは話だ。
すっかり必要以上の水を吸ってぐでりと溶けた米を立ったまますする。梅干しを含んで塩気が舌と喉を介して臓腑の中に染みわたっていくのを感じながら星舟は、
――こんな体、こんな心でも、どうしようもなく腹は減るな……
と独り胸中に漏らしていた。
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