リィミィ

 網草英悟を退け、死間と化して最後の執念を見せた令料寺長範を単身返り討ちにして後、夏山星舟の行動は迅速だった。

 否、性急である……とその副官のリィミィは見ていた。


「校正、出来てるか!?」

 戦勝の喜びも取り敢えず捨て置き、彼女らの内で温めていた草案をここにて一気に形にし建白書として表し、それをサガラに提出するという。


 主命ゆえに一応は終えた仕事の成果を差し出すと、奪うがごとくに手に取られる。

 その必死の隻眼をつらつらと眺めつつ、

「時期尚早だろう。もう少し戦後処理が落ち着き、根回ししてからの方が良いんじゃないのか?」

 と懸念を口にする。

 だが隻眼がそれに否意を如実に示していた。


「いや……混乱している今だからこそ、その隙に付け入る余地が多分にある。勲功だって誰の記憶にも新しい。褒章がわりにコイツを受け入れさせることだってできるさ」


 それじゃあ、と止める間もなく彼は退出した。

 ――まさかとは思うが……

 その足で、今まさに時間を縫って帰郷しているサガラに談判に持ち込む気なのではないだろうか。


「だいじょうぶでしょうか? 隊長」

 物陰からそっとこちらを覗きこんでいたシェントゥにもその異常は伝わっていたぐらいだから、第三者から見ても相当に焦っていたのだろう。彼女が文字校正などを手伝っていたことを言いそびれる程度には、時を惜しんでいたはずだ。サガラがその弱みを見逃してくれているとは、思えないのだが。


 ――何を焦っている? いや、何を恐れている?


 今の星舟には何か、幽霊めいた、得体のしれない者に追尾されているような気分さえ見受けられる。それは戦勝による逸りなのか、あるいは完全なる別物なのか。それはリィミィにさえ分からないが。


 ふと、リィミィは視線を窓硝子に投げた。

 わずかにそこに写し取られた彼女の現身は、戦に書類の取りまとめにと、連日に等しき徹夜の日々のせいもあってか、そろそろ衰えのようなものを感じさせた。シワが増えたとか容色に劣化が見られるなどということはなさそうではあるが、それでもどこか、疲れのようなものが総身にのしかかっている。

 部分的な、あるいは一時的なというものではない。慢性的かつ全体的に、具体性の欠ける憔悴があった。言葉にも、力や熱が籠らない。かつてであれば、せめて昨年の今ごろの時期であれば、頬を張ってでも星舟を諌止しただろうに。


「もう、良いのかもな」


 首をかしげて聞き返すシェントゥには何も言わず、リィミィもまた部屋を退出した。


 ~~~


 自分の留守を狙った襲撃者たちは、アルジュナの挺身と引き換えに逃げていったというが、その傷跡は今も碧納新館のあちこちに生々しく残っていて、事務と修繕両面から後始末が慌ただしく続いていた。

 ゆえに功労者たる夏山星舟へも挨拶もそこそこ、作業に従事する者はそれぞれがそれぞれの役割に没入していた。


 その合間をくぐり抜けるようにして、星舟は膨大な紙束を抱えて、廊下を速足勇み足にて通り抜けていく。


 もっとも、星舟とてこのすべてが裁可されるとは思っていない。

 最初にやや大げさに過ぎるほどに吹っ掛けて、次に妥協案を捜していく。交渉事の常套手段だ。最低限の線として、星舟が帝都に召されれば良いのだ。


 中央政府に大きく空いた穴。その新枢軸になんとしても己をねじ込む。そこを橋頭保として、人間を政権に参画させ数で竜を支配する。

 惜しむらくは、『人材』と呼べる者が今なお恒常子雲ぐらいということで、その子雲にしても単身大略を担うには荷が勝ちすぎる。


 だがまずはハコを用意しなければならない。中身を集め、育てるのはその後からでも遅くはないはずだ。


 ――だが……

 という声が、聞こえてくる。

 ――人のためのハコだと?

 内なる部分から聞こえてくる。

 ――笑止、お前は、すでに人では……


「違うっ!!」

 胸中より涌き出でる嘲笑に、星舟は否定の一喝を呉れた。

 周囲に誰かが通れば、当然突如として大音声を発した星舟に不審の眼を向けたことだろう。

 だが聞かれたとて、埒もない冗談と一笑に付されたことだろう。

 ……人が、竜になるなどと。


「オレは人間だ! 人間のはずだっ!!」

 それでも星舟は必死にその事実を拒む。


 現実的に考えて、夏山星舟が実は真竜の落胤であったなどということはありえない。

 生母はどうしようもない夜鷹のひとりで、母の自覚さえ持てぬ、劣悪な環境下で壊れた人間のひとりだった。そこに真竜の知遇を得る機など皆無だし、その子たる自分が左眼を腐り落とすことなどなかったはずだ。

 父も、ろくでなしだった。血筋確かな家族などどこにもなかった。名前さえもなかったのだから当たり前だ。


 ゆえに、考えられるのは自分の気の迷いによるただの妄想か……だがその結論を、長範の惨死体という現実が阻む。

 であれば何かを契機として、自分の身体が置き換わった、あるいは置き換わりつつある、ということか。


 ……たとえば、あの断続的な、そして今も時折ぶり返す、原因不明の強烈な目まいや、その後に続く異常な快調などを経て……


 しかし星舟は否を示す。


「人間でなきゃ、ダメだろ……ッ」


 己が人でなければこの人竜融和の構想が根底から崩れていく。すべてが水泡に帰す。

 自分のここまでの苦難の道も。その道の中で散った命も、散らした命も、何もかもが。

 それだけは、あってはならないのだ。


「御免!」

 と言うや、サガラのいるであろう執務室の扉を開けた。


「おめでとう!!」

 その戸口の向こう側に、サガラはいた。

 不躾を承知で、奇襲がごとく機先を制して主導権を握るはずだった。だが、あらかじめ示し合わせていたかのようにこの黒竜は待ち受けていて、歓待とともに部屋へと誘い入れた。


 そこにいたのは、サガラのみではなかった。

 肩身が狭そうに片隅にグルルガンがいた。それはまだ良いが、他にも大勢。

 皆、いずれも年若く利発そうな……おそらくは今回の騒動を生き抜いた真竜や上位獣竜、あるいはその混血児たちであろう。


 呆然とする星舟の手より書類を奪い取り、それを適当な感じで作業机に放りだすと、その肩を抱いて中央へ。


「皆、この星舟は乱を収めてくれた。今回の最大の功労者と言って良い」


 と、星舟の軍事行動が自分の指図であったかのごとく、さりげなく……だが印象を強めて吹聴し……屈託のなさそうな笑みを浮かべていた。


「その功を報いるため、このようなものを用意した」

 サガラはそう宣うや、星舟の前面に回り込み、胸元に屈みこむや、軍服がわりの陣羽織に金具を食わせ、針で縫い合わせた。

 狼、もしくは犬の彫金が施された楕円形のそれを、星舟は憮然と見下した。


「いわゆる勲章、というものだ。異国ではこれをもって生涯の誉れとするらしく、今回俺もそれに倣ってみたというわけだ」


 そうは言ったものの、感触としては牛が軛を取り付けられるような、あるいはそのまま犬が首輪で小屋に繋ぎ止められるような不快さがあった。

 だが、同時にあることも理解して、さっと頭の先から血の気が失せる。


 この瞬間、自分の褒美は、それに付随する計画は、こんな鉄片ひとつで処理されたということ。

 そして身を尽くし戦ったという名声はすべてサガラに掻っ攫われて、代わりに自分は嫉妬を買い、褒美欲しさに人を売った、サガラ走狗の汚名を負うはめになったということだ。

 周囲からは喝采があがり、拒む前にそれが確定されてしまった。


「お前ごときを帝都に連れていくわけないだろ」


 隣に並び直し、手を振りながらサガラは言った。

 当然、この論功賞は露見していなければ出来ない。こちらの動きは、すべてこの男には筒抜けであった、ということなのだろう。


「今、俺には明確な目的がある。いちいちお前なんぞにかかずらっていられないんだよ」

 他者に見せる表情はそのままに、彼らに聞こえぬ小さな恫喝。軍靴を爪先で踏みにじられながら、肩に手を置く。

「まっ、今後も俺のために頑張ってくれな……『野心家ごっこ』をテキトーに楽しみつつ、さ」


 ~~~


 夏山星舟が徒手で、肩を落として夏山の本宅とは別に碧納にあてがわれていた官舎に帰ってきた。

 リィミィはそれを読んで執務室からここまで身を移していたわけだが、その予想以上に星舟は悄然としていた。


 戸を締めぬままに部屋の中央に棒立ちとなった彼を前にしては、せっかく用意していた慰めの言葉のいずれも、その効果が期待できない。


「外、誰かいるか」

 出逢ったころのように縮こまった青年の背が、おもむろに尋ねた。

 自分で確かめれば良いだろう、とは返さず、言われたとおりにリィミィは戸より顔を覗かせて目視したし、獣竜の鋭敏さを使ってそれを見た。

「……今の時分から仕事を切り上げて帰って来るほど、暇を持て余したような者などいるはずもないだろう、あんた以外」

 確かめた後、鍵を掛けてリィミィは答えた。

 そうか、と言ったきり、星舟は俯いたまま何も言わず、何事も起こさなかった。


 だがリィミィがその場の沈黙に慣れてきた一瞬後のことである。


「クソがぁっ!!」


 星舟は突如として吼えた。机を蹴り上げ、そこに積み重ねられていた、資料の数々が宙を舞う。乱暴に陣羽織を脱ぎ捨てて、床に叩きつけ、それでもなお収まらないのか壁に拳を叩きつける。


「あの野郎ふざけやがって! 誰のために戦ってやったと思ってる!? 何のために多くの者たちがこの戦と病で死んでいった!? 病気で潰れてたお前にいつオレが言いなりになってたっていうんだ!? こんなゴミで、あんな一言で、あいつの気分ひとつでっ、ここまで積み重ねてきたものがすべてご破算だってのか!? 畜生!!」


 荒れ狂う星舟を止める手立てなどない。外聞を気にする様子もない。いや、一応確かめたうえでそれをしているわけだから、ぎりぎりのところで理性はまだ彼のところで引っかかってはいるのだろう。

 だが、いっそ本当に狂を発して人生を破綻させたほうが、いくらかは救われたのかもしれない。


 ひとしきり騒いだ後、力なく星舟は寝台に座り込んだ。やがて半身さえ支える気力を喪ったものと見え、身体を横たえた。


「どこから漏れた……いや、出所は分かっている。自分に手いっぱいでの動向を見落としていたオレの手落ちだ」


 などとよく分からない反省をしつつ、寝転がってリィミィに背を向ける。

 そして一言、地の底まで落ち込んだ声で、


「もう、終いだ」

 と零した。


 正直に言えば、リィミィにはこの青年が何故これほどまでに深く絶望しているのかも、何をあそこまで焦り、怯えていたのかも理解できない。打ち明けてさえもらえない。それは信頼されていないからではなく、彼がそういう域にまで達してしまったがゆえだろう。立ち止まっていたのは他ならぬリィミィ自身だ。


 もはや、してやれることも、捧げられるものも多くはなかった。

 それでも、覇道を突き進むにはあまりにも優しい甘ちゃんを修羅道へと進ませてしまった発端として、最後の務めぐらいは、今の彼に必要とされることぐらいは、果たさねばならない。

 理智的な助言者ではなく、リィミィ自身として。


「じゃあ」

 リィミィは、壁と彼の間に身を割り込ませた。寝台の上に横たえ、彼の隻眼に双眸の視線を注ぐ。

 その行動には絶望の淵に立つ星舟さえも、いささか驚いたように瞠った。


「諦めるか? すべてを投げ出すか?」

 重ねるようにしてリィミィは問う。星舟は乾いた唇を微動だにさせない。

 だが、残されたその眼が彼の心を代弁する。

 すっかり気力の失せた眼。だがその奥底でなお、熾のごとく、消えようのない意志が燃え続けている。


 彼の黒髪を、リィミィは安堵とある種の諦めとともに腕の中に招き入れた。


「諦めるわけにはいかないのだろう。諦めたら、そこまで切り捨ててきた命が無為になるのだろう。それだけは……自分で許せないのだろう?」


 だから彼は突き進み続ける。折れようとも壊れようとも、どんな敵が目の前に阻んでもどれほど愛した者たちが引き留めても、きっと暗闇の中に星の輝きを求める。自分の道に、自分で散らした者たちに、意義を見出せるその瞬間まで。


「ならば進め。今は立ち止まって、くすぶっても良いが、必ずその先へ行け」

 止められぬのならば、彼の活路はきっとその暗澹の中にしかないのだから。


「そこには、もう私は居ないだろうけどな」

 名残りを惜しむがごとく、自身の胸に彼の鼻面を押し当て、より強くかき抱く。確かな熱を感じる。


 ――あぁそれにつけても。

 怒りも荒れもすれ、こんな時でさえ泣くことだけは決してしないこの餓鬼の、なんと可愛げのないことか。


「……硬い」

 と、星舟は感想をこぼした。だろうな、とリィミィは返した。

「何しろ初めて、女であることを行使している」


「……いや、所作だけの話じゃなくて、肉薄いし骨ばってて痛ぇんだけど」

 リィミィは腕の内にある脳天に音が鳴るほどの肘鉄を食らわせた。


 ~~~


 そして明くる朝。

 星舟は着衣を整え、身を起こした。

 すでにそこにリィミィの姿はない。部屋もきれいに片付いている。よもやそのまま出奔、ということなくごく普通に出仕し、寝坊してくると見て星舟の代わり分も働いているのだろう。自分の体調は押し隠して。


 ――代わり。

 その言葉に行き当たって、星舟は強烈な自己嫌悪に今更ながらに駆られていた。

 再び布団の上に身を崩し、枕でみずからの厚顔を埋める。


 自分がリィミィに求めていたのは、助言者、共同事業の相棒ではなかったのか。それはリィミィとて同じではなかったのか。


 その彼女に、最後の最後で自分は女であることを求めた。母の役割をさせてしまった。そしてそれを自分から受け入れたリィミィは、学者としての夢も世界に向けた理想もこの世の理不尽に対する報復も諦めて道から降りたのだろう。

 それこそ、降りることの出来ない自分の代わりに。

 理屈ではないのは分かっている。だが、まぎれもなく、代償行為だ。リィミィが最後に示した献身だった。


 リィミィの香の残る枕の生地に吐いた息は、深く、重い。

 折れられぬとて、退けぬとて、ここから先に何を目指せば良いというのだ?

 幼少の星舟と若き日のリィミィが目指したその道は、逸れるしか、術はないというのに。


 戸が叩かれた。


「あの、お目覚めですか?」


 声の主はシェントゥである。

 一瞬、強烈に顔をしかめた星舟だったが、枕から顔を持ち上げた瞬間には、深呼吸のうえで平常心を取り戻し、

「ちょうど良い、オレもお前に用があった。入れ」

 と招く。


 失礼しますと折り目正しく入って来るシェントゥは、わずかに緊張した様子を垣間見せた。

 一応はリィミィが片づけていった室内ではあったが、それでもわずかな痕跡や、完全ならぬ星舟の状態から何かしら察せられるものはあるのだろう。

 いつも以上にせかせか様子を見せつつ、


「あの、副隊長から言われて朝餉をお持ちしました……ほかにも、入り用なものがあれば」

 と早口で言って、開けられた机の上に粥と梅干を置いた。足早に退散しようとする。

「まぁ待て。用があるっつったろ……どうせ、そっちには急ぐ必要も最早ないだろうしな」

 その彼女を、星舟は呼び止めた。


「けどせめて、最低限ここだけは、ハッキリさせとかないと気持ち悪くてな」

「……なんでしょう?」


 シェントゥはあどけなく小首を傾げてみせる。

 声にして苦笑をこぼしながら、星舟は一筋の視線を注ぎながら、彼女に質した。




「お前、サガラの間諜だろ」

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