エピローグ:魂の縄張り
藩王国
かつては、そして彼自身の仮想の中では意気揚々と凱旋していたはずであった、王都。
だが現とは無常である。
網草英悟は帰途、七尾藩兵に捕らえられた。彼に従っていたわずかな供はその場で即殺され、本人は護送車によって見世物のごとく大路を運ばれて、すでに彼が進行先で略奪や虐殺をくり返してきたことは周知となっており、そんな大罪人が自分達と同じ道を渡ることさえ穢らわしい、とでも言いたげに顔をしかめ、背け、あるいは露骨に罵声や石を投じる者さえあった。
そのいずれにも、虜囚、網草英悟は反応しなかった。すでに細州にて命を落としたかのごとく、がっくりと項垂れたまま車輪付きの監獄の中で黙していた。
その彼が反応を示したのは、車が道中で留まった際である。
――さては衆人環視の中、見せしめに首を刎ねるつもりか。
自身の死が間近に迫っていても、少年はやはり何の感情も沸いては来なかった。
実感が薄いわけではないが、もはや命に執着する理由がなくなっていた。
だが、並び立った風の薫りを、格子越しに見えた影を、感じ取った彼の死魂はにわかに現世へと引き戻された。
深く編み笠をかぶり長刀を携えた、すらりとした輪郭。
一見すれば涼やかな美剣士、あるいはそれに扮する役者のようでもあるが、それが彼の重く強く慕う娘……尊崇する女王であることは彼の眼には瞭然としていた。
車を遮ったその貴人を咎めんとした番兵も、さすがに間近で見ればその面立ちを知っていたのだろう。
くれた一瞥をもってすべてを察し、そして恐懼して引き下がり、突然の休憩を御者へと命じた。
もしや自分を助けにきてくれたのか。
……などと甘い幻想は、もはや抱くまい。
そうであれば、常のごとく王号を所かまわず下し、とうにこのような獄など解いていただろう。
そうは出来ぬから人目を忍び、節や道理を曲げてここに来た。そうまでして、逢いに来てくれた。
女王は何も語らない。質すべき罪過があろう。友としての別辞があろう。だがそれらを飲み下し、理智と情念として双眸に宿し、格子に指の一本さえ近づけずないままに、見据える。
対し英悟にもまた、伝えるべき慕情がある。これまで重ねた無道を、彼女の前途を大きく狂わせたことを、詫びねばならない。だがついには一言も出なかった。発声器官を、敗走の果てに取り落としたかのごとく。
役に立たぬ唇をぐっと押し込め、代わり痩せたその手を袷へと突っ込んだ。
抜き取ったのは、擦り切れた袱紗。そしてその中に入れた蘭蕉の簪。それほど厳密に検められなかったのが幸いし、持ち込むことができた。
たしかに折った。情愛反転し憎みもした。だが捨てられなかった。未練がましいとは自覚しつつも。
あるいはこれで自害も抵抗もできただろうが、どれももはや意味のない用途だ。
もう良い。捨てられなかった。虚飾虚勢の剥げ落ちた今となっては、ただその一事のみが真実だ。
女王はかつてみずからが下賜したそれをじっと見下ろしていたが、ややあって初めてその手が動いた。
返上された簪を握り返し、その刹那だけ指先が触れる。
それが最後の交流となった。
赤国流花は踵を返す。目敏くそれを察した護送兵は、あらためて進発した。
その後二度と英悟を顧みることなく、みずからの王道へと立ち返っていった。
〜〜〜
裁判所へ。そして日を待たずして刑場に向かうであろうその車を背に、女王は歩き出した。
その背にいつの間にか、音もなくひっそりと影のように、カミンレイが寄り添っていた。
彼女の存在に気がついたがしばし流花は無視して歩き出した。女楽師も、さほど反応を期待していない様子であった。
その日初めて流花がカミンレイに声掛けしたのは、王殿に至る間際であった。
「あの者、何と言ったかな」
いつ、どういう席での、何者であったのか。
それはあえて口に上らせなかった。
だが、カミンレイは即座に答えた。
対尾の撤退戦での異様な食い下がり。議場においては己に噛みつき、八十亀での局地戦にて英悟の出鼻を挫いて狂わせ、そして今また彼の命運に終止符を打った愚かな犬の名を。
「夏山です。夏山星舟」
「……此度こそ覚えおこう」
かの青年が全ての元凶という訳ではないことは承知している。寧ろその責めは流花自身にあるということも。
だがそれでも、やはりケジメはつけておくべきではあろうと思う。
ただ在るがために巡り巡って己が覇業を躓かせたあの小石めを、粉々に踏み躙らねばならぬ。
ふと、何故だか、自身が処した葛城陽理の無念そうな顔が思い浮かぶ。
あの者はこの状況を、獄中で嗤っているだろうか。
……いや、そもそも自分はあの時、何とあの者を喝破したのか。
近頃のことであったはずだったが、とうに忘れた。
……現というのは、如何な天才をもっても完璧な立ち回りを良しとさせない。
この後、網草を大抜擢しつつもその暴走を防げなかった流花はやはりその信望を大きく損なった。
議事においては女王退任を要求する声は絶えず、対抗馬を立てるものあり。
それぐらいであればまだ可愛い方であった。
小藩には、体制そのものに見切りをついえて竜国に鞍替えする者あり。さらには連合より離脱して別の寄り合いを形成して対抗する者が出始め、しばらくは流花たちは国内の再統一に注力することとなった。
皮肉にも網草英悟の暴走と奇病という二つの厄災は、竜が洞より出し今日に至るまで、ついぞなかった束の間の停戦を生じさせたのであった。
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