第十九話
雨が止んだ。止む時も異常そのもので、一雫さえ残さず乾き、ある瞬間を境にフツリと絶えた。
だが星舟はそこに気づくことがしばらくできなかった。
一つには彼が外の聴覚情報を正確に受け取れる心理状況ではなかったことに起因し、そしてもう一つ、身近の別の水音が彼の耳を占めていたからだった。
彼の陣羽織を、軍服を、したたる紅雫が濡らしていく。
彼を組み敷く長範は、荒い呼吸とともにそのまま固まっていた。否、見る者に分かるか分からないか程度に小刻みに震えていた。その身が、唇が。
そして大きく目が見開かれていた。
ちょうど、星舟自身がそうであるように。
「き、さま……」
やがてその口端から、血とともに言葉が漏れる。
「人間では、なかったのか……っ!?」
え、と呼気が漏れる。
とっさの出来事ゆえに停滞していた処理が頭の中で再開され、世界は鮮明となっていく。
自分が死ぬはずだった。つまらない末路が思い描かれていたはずだ。
だがその予想は外れ、首級から外れた刺客の刃は、星舟を殺害することが能わず、依然彼の手に握られていた。
代わり、血で濡れていたのは星舟自身の刃だ。そして腕だ。
決して抜けるはずのなかった『牙』が銀刃を剥き出して、男の肉体を穿ち抜いている。
その柄を縋るように握りしめていたおのが腕が、二の腕、肩口と……未知の金属で、覆われていた。侵食されていた。
汐津藩家老は、自身のすべてを擲った最期の賭博に負けた。
無念の形相のまま崩れ落ちて、おぞましき問いがその遺言となった。
と同時に、星舟は恐懼した。
腰を擦るように後ずさり、まだ熱の残る骸の下から抜け出て、肺腑で過剰な量の外気を取り込み、やがて縁へと行き当たってそこにもたれ込んだ。
「ちが、う……!」
硬直した指を剣の柄を一本一本外していく。その動きだけが、我ながら妙に丹念であった。
金音を立てて『牙』がこぼれ落ちると、虚脱感とともに、腕の異形化が解けた。
夢か、幻か。否、人ならざる力によって無惨な令料寺長範の死体は、偽り様もない現の事象であった。
「オレ、は……オレは!!」
黒髪を、隻眼を掌で覆い包み、喉をひくつかせて、出かかった言葉を呑み込む。
もっとも、それは言語化できようはずもなかった。
何かを肯定する証も否定する裏付けを、おのれの内に持たないことを悟った。
己は、いったい何者だ……?
~~~
雨は止んだ。だが、碧納の新館、シャロンの私室には水音が断続的に響いていた。
ジオグゥ、シャロンと敵の間に割り込んだ大柄な影が、前のめりに傾く。
「……アルジュナ、さま……」
刃の突き出た前当主の名を、愕然とジオグゥは呟いた。
その背に、幼き日、去りゆく父の面影を見た気がした。
その病身を刃に貫通されてもなお、老竜は背を伸ばし直して屹立し続けていた。
そして思いがけない腕力でもって刃を抜き取り、その凶手を絡めとる。
「若いな」
と彼は凶徒どもの面々を見回しつつ先ず言った。
「親もおろう、ともすれば子もあろう。だがサガラが戻れば、其方らからすべてを奪い去る。……疾くこの場を去れ、生きて本来の分に戻るが良かろう」
まるで噛んで含めるかのごとく説得した。
それを耳が届いているかどうかさえ、衰えたと言えども真竜の威圧感にさらされた今の彼らには分からない。
がちがちと歯の根を鳴らし、必死の面持ちで身を退いていく。アルジュナもそれを咎めず、腕を解放した。
彼らに理解できることがあるとすれば、この襲撃は混乱を突いた『急ぎ働き』なればこそ通用したこと。そして時とともにアルジュナの警告が現実味を増していくであろうということ。
本能が鳴らす警鐘に突き動かされるかのごとく、逃げ散った。
そもここにいるのは戦闘要員ではなく、追わんとする者はいなかった。
その気配が完全に霧散するのを皮切りに、アルジュナがようやく膝を折った。
「アルジュナ様!」と駆け寄るのを押しとどめ、なお立ち上がらんとする彼だったが、すでにその痩躯は限界に近く、ふたたび
「どうして、雨の中こちらへ……」
立て続けに襲ってきた凶事につい後回しにしていた疑問を、ジオグゥは呈した。
「サガラも星舟も発った。シャロンも病臥……とすれば何者かが、留守を……守らねばならぬと思った。……どうやら、間に合ったようで何よりだ」
澄んだ宝石質の視線に見返されて、シャロンは唇を噛んで俯いた。
間に合ってはいない。一足遅かった。
彼が身を挺して救わんとした娘は、すでに泉下へと旅立った。咎めることなど出来ようはずもないが、せめてあと一歩到着が早ければ、死に目に立ち会えることもできただろうに。
……そう我がことのように悔いるジオグゥではあったが、その背で咽こむ音が、彼女の暗澹たる心を切り裂いた。
女官のむせび泣く声とも違う。まして男衆が場の空気を読まずにしわぶきしたものであろうはずもない。たとえ声を発さずとも、息遣いを聞き間違えるはずもない。
恐る恐る顧みれば、さらに、死んだはずのシャロンが二度三度、遅れが生じた心肺の調子を取り戻すがごとく、咳き込んでいた。
「シャロン様っ!」
ジオグゥがその名を再度おのが舌に上らせたとたん、場は困惑や合理性をかなぐり捨てて歓喜と安堵に満ちた。
されども、まだ完全に魂が戻ってきたわけでもないらしい。
喘ぎ喘ぎつつ、陶酔するがごとく瞼を薄く持ち上げたシャロンは、
「セイちゃんが」
ふたたび頬に紅をのぼらせながらもジオグゥに夢見心地の調子で言った。
「セイちゃんが、いじめられそうになってたの。だからあっちに行って、一緒に戦ったの」
常よりひときわ幼く舌っ足らずで、かつ現実味に乏しい繰り言に苦笑しつつ、ジオグゥはその髪を撫でつけた。
「今はどうぞ……お休みください。あの粗忽者には、しかとこの不首尾への譴責をいたしますゆえ」
そして負傷したアルジュナが介助され、シャロンの、そして他の真竜の容態も時を待たずして安定して快方へと向かっていった。
理ではなく、肌身で判る。
竜にとっての悪夢が、ようやくに終わったのだった。
~~~
雨が止んだ。されど、喪われた命は戻って来ない。
取り残された骸を静かに数えながら、グルルガンは慄然とした。
だが、奇跡めいた、あるいは運命めいたものもまた、感じ取っていた。
何しろみずからの主が登殿した直後に、この紅雨が、黒い雨雲がいずこかに引き上げていったのだから。
やがて、サガラが宮殿の前へと戻ってきた。
グルルガンはそれに駆け寄り、
「如何で」
と尋ねた。
「残念ながら、陛下はすでに身罷られていたよ」
サガラは、事もなげにそう告げた。
「さ、さようで」
かける言葉も見つからず、強面の鳥竜は曖昧にうなずいた。
帝の崩御など、卑賎の身には遠く如何ともしがたい悲報であるがゆえ、実感が沸かないのいうのもある。
だがそれ以上に、この黒竜が言った以上は、そうなのだろう。その理非はともかくとして、信じるよりほかないのだ。
なのでこの時、別段グルルガンは何の疑問をも持たなかった。
彼が初めて危機感を覚えたのは、サガラが宮殿の、高く伸ばされた柱にもたれた時だった。
笑っていた。
それも忍んでさえいなかった。しきりに呼気を震わせるそれには、自制せんという意志も一応には感じ取れたが、それをも突き破って、やがてはどこか壊れて外れたような声音で、サガラは大笑いし始めた。
「こんな、こんなものが……こんなことがッ」
だがそこには、常の如く他者を見下し、貶めるような悪意は感じられない。
「さ、サガラ様……!?」
「なぁグルルガン、こんなことがあってたまるか!? あんなものに……いや、あんなものが、この世界の真実だと!!」
おろおろとする従者に大声を発し、肩を掴む。
だが、グルルガンに何か答えや反応を期待している様子には見えない。
おのれは、ぶつけ処だ。行き場のない感情をただぶちまけるだけのはけ口だ。
そう、この感情はおそらくは、付き合いの長いグルルガンの可能な限り察せられる限りでは……怒り。
「じゃあもうこの世界は……とうに壊れて狂って終わっているじゃないかっ!」
古今かつてない激怒と憎悪を以て、サガラ・トゥーチはいつまでも笑い続けて、グルルガンの胸の内に崩れて折れた。
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