第十八話

 星舟の命の灯が天運というなの嵐にさらされていたまさにその瞬間、同じくして生命の終わりを迎えようとしていた者がいた。

 碧納にて病臥していた、シャロン・トゥーチであった。


 苦し気に喘ぎその総身は燃えるような熱に蝕まれ、その血肉さえも焼き溶かすのではないか、というほどであった。

 もはや意識はなく、甲斐甲斐しく医師が面倒を見てはいるが、その献身もただ空転するばかりで徒労に終わっているという有様だった。


 その不甲斐なさに苛立つジオグゥではあったが、かと言って荒事しか出来ぬ彼女に医療行為など従事できようはずもない。まして、原因不明の治療法不明。唯一分かるのがその対応不能という絶望感のみであった。


 それでもつい病床を抜け出して出張って、おのが不養生をかえって詰られる結果となる。

 そして、シャロン自身の肉体とはまた別に、異常が発生していることをここで知った。


 『牙』が、ない。

 シャロンの武器。彼女自身を脅威の兵器たらしめるモノが。

 

 彼女自身はその力を忌避する向きがあったが、それでも真竜の至宝たるには違いない。トゥーチ家令嬢の危篤の裏でその事実を知った者は皆血相を変えて息を荒げている。


 そのことを秘密裏に報せてくれた侍女は、さらにこんなことを青ざめた顔と瞠った眼と震える唇で告げた。


「その、お嬢様の手元よりなくなったと思われるのは、夏山様が出陣した頃合いに前後すると」


 ジオグゥは低く笑った。


「それであの者が理由もなく盗み去ったと? ずいぶんと余裕のある妄想ですわね。……こういう与太話を吹聴し、そして信じる者が、かえって今の事態を混乱させていると分からないのか」


 夏山の天敵が、珍しく彼の肩を持った。

 無論、彼が目の前に居たのならば、相手が必死に否定すること込みで侍女の方に与し、憎き男を共に苛んだだろう。

 だが、この時ばかりは無用の疑惑を避けてやるだけの分別ぐらいは、ジオグゥにもあった。


 だが皮肉にも、常日頃何かにつけて夏山星舟の陰謀を疑う彼女が信じたこの一事に関してのみは、その読みを外していた。


 図らずも実際、『牙』は彼の手元にあったのだから。


 それとの因果性は知るべくもないが、見る見る内にシャロンは衰弱していった。

 寝台の上から転げ落ちないように押さえつけるのに苦労していた彼女の身柄はやがてその激しささえ失い、呼吸もしだいに収まっていく……否、収束していく。まるでどこか一つの道の、終点にたどり着いたかのごとくに。


 息を、とジオグゥは小さく声をあげてシャロンへと歩み寄った。

 息をしてくださいと、生きる者には欠かすべからざる行為を催促した。

 だが侍女長の願うのとは裏腹に、息遣いはもはや耳を側立てる者にしか聞こえない、糸を引くようなものになっていく。


 その糸が、ぷつり、と絶えた。


 まだ血の気と高熱の残る手の首を取り、脈を測っていた医師が、無念そうに、かつ助けられなかった己に降りかかる後難に恐怖し、首を振る。

 と同時に、ジオグゥの内部よりもまた、何かが底より抜け落ちた。

 その底があればこそ、怒りもあれば憎悪もあった。

 だがもはや、それらの感情も己が内を素通りするばかりだ。完全な、虚であった。


 立つことさえ能わぬ。膝より崩れ落ちる彼女を支えるのは、寝台の縁のみ。


 その精神的空白が、体勢の不均衡が、鋭敏な女獣竜としてはありえない事態を引き起こした。


 廊下より無数の靴音が響き、大小に分かれた悲鳴が散らばって聞こえる。

 身を起こす間も無く白の死装束と白い軍服をまとった兵士たちが室内に踊り込んでくる。


「見つけたぞ! シャロン・トゥーチだ!」

「斉場が遺臣と、『神聖騎士団』が、その命頂戴つかまつるゥ!」


 なんという、茶番か。

 すでにして命が絶えたまさにその際に、そうとは知らぬ愚者どもが殺しにかかってくるなど。


 届かぬか届くか微妙な間合いに至った刹那、彼らのひとりが、彼女の骸をさらに損なうべく、大刀を振り上げた。


 〜〜〜


 サガラ・トゥーチが帝都に至ると、そこはすでに死都と化していた。

 人の踏み入れぬ領域から竜が絶えれば、そこはまさしく虚ろな地獄だ。


 もはや防衛機能のない城門を単身くぐり抜ける。

 首都機能も持ち得ない居住区はグルルガンらに任せて、自身は禁中に踏み入れていく。それらの道々、累々と折り重なった死屍を乗り越えていく。


 いかなサガラとて少なからず動揺していた。いたが、それでも「まぁこうなるわな」とひどく冷淡な感想も持っていた。


 元よりここに住まう者どもに、それほど愛執があるわけでもない。皆いずれも、『混ざり者』であるサガラを侮蔑し、いくら忠勤に励み遁辞をさせぬほどの功を挙げてもなお、その視線の抜けきらなかった臣民である。


 今回こうして虫のように死んでいくのも、まぁ自身らの脆さに気づかず驕り、脚の痩せ細った椅子に安居していた分の清算と言ったところだろう。



 滅びるなら滅びれば良い。

 だが、なによりも許せぬものが目前に迫っている。


 人間が、まだのさばっている。

 際限のない分不相応な欲を持ち、その卑小な命惜しさに保身に奔ればどんな非道なこともしてのける。それを正義と定義づけて己さえも欺く。


 こんな醜い生物が、自分たちの去った後に霊長の頂点に収まるのか。獣竜たちが残ったとて、いずれ技術の進歩は彼らを凌駕する。そうでなくても、数を増やしてのさばり、この紅い雨こそが自分たちに地上を治めよという天意である吹聴する様が、容易に想像できる。


 それが何より、我慢がならない。


 ――まったく、蕩けた頭で余計なことばかり考えるもんだ。

 サガラはそう自嘲した。


 病魔に身を焦がし、業で我が身を焼くようにしながら、ふらつく身体で奥殿まで足を踏み入れる。

 苦痛の峠は越え、いよいよ視界までそろそろどうにかなってきたらしく、自分が歩む先に亡者の行が見える気がした。

 自分もまた、その列に並ぶというのか。


 だがその幻惑も、玉座の前で側女に囲まれるようにして倒れ伏した貴人を見た瞬間、ハッと醒めた。


「陛下ッ」

 駆け寄ったサガラが助け起こすと、息も絶え絶えに彼は臣を見上げた。

 父と同じく、神の血に近いとされる龍帝である。ゆえにここまで延命しえたのだろうが、いかんせん自身が病弱にして不摂生であった。この疾病がなくとも、いずれは破滅していたとは思う。


「しっかりなされませっ、今我らが玉体を喪うことがあってはならぬのです」


 今でなければ良いのか。

 我ながらそんな意地の悪いことを考えていると、助け起こされた帝は自身の身柄よりも、サガラよりも、めくれ上がった御簾と玉座の後ろに視線を投げた。

 そこから、わずかながらに風を感じた。


 ――なんだ、何があるという?

 風聞によらば、神々の霊廟が宮殿のいずこかにあるというが、もしやそれではあるまいか。

 この奥にあるものが何物であるにせよ、秘中の秘であることに違いはない。

 帝のその眼がその証明をするかのようだった。


「自分の代わりに行ってくれ」

 とも伝えるようでいて、

「其方だけは決して立ち入るな」

 という牽制であるかのようだった。


 その本音を帝に質すようなことはしなかった。だが予感はあった。早鐘を打つ心臓は、何も病状のためだけではないはずだ。


 踏み入れて、この雨の、病の、いやそれ以上の存在にまつわる真実の一端に触れたが最後、決して後戻りはできなくなるであろう、という。


 だがその歩みに、躊躇はなかった。

 惜しむような命ではない。惜しむような世界ではなかった。

 ただ弱く悪しき物が世を統べる未来、その理不尽に対する怒りだけが彼を突き動かしていた。


 そっと玉体を寝かせたサガラは、やや埃っぽい、鉄の匂いを孕んだ風に誘われるままに、その奥へと、薄闇の中へと入っていった。


 ――やっと、雨が上がった。

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