第十七話
敵が退いていく。担当地域を鎮圧したとおぼしき味方が増援を寄越してくる。
すなわち、勝利であった。
無敵の装甲と強靭な膂力を持つ真竜の力ではない。その威に頼らぬ、確かな手ごたえがあった。
安堵とともに萎えそうになる我が身を柵に寄りかかって支える。
逃げ散る敵を、味方が追撃していく。大義は元よりなく、勝機も完全に消失した今、もはや伏兵も反撃もあるまい。
そう判断すると同時に、またぞろ肉体を倦怠感が襲った。髄鞘にも不純物が混ざり、視界と思考とが、紙に染み込む墨汁がごとく黒く鈍く滲んでぼやける。
だが今倒れるわけにはいくまい。自身を叱咤した星舟が立ち上がった。
「……あんたはしばし休んでおけ。後始末は私がやっておくから、せめて勝鬨を上げる体力気力は回復させておくことだ」
「でも何にもしてないだろ、今回オレは」
「十分だよ」
それを見届けたうえで、様子を見守っていたリィミィは言った。いつになく優しげな語調ながらも、有無を言わせない圧力があった。
仕方ないのでそのまま櫓の上でへたり込んでいると、シェントゥが階下より顔の上半分を覗かせた。
「あの、投降者が面会を求めていますが」
「投降者だぁ?」
連絡要員として塹壕中を駆けずり回っていた彼もとい彼女は、おずおずとその名を告げた。
令料寺長範。
言わずもがな、汐津の家老である。
すでに幾度となくやり込めた相手であり、それ以上の感情は、鈍った頭では抱けない。
「敵副頭目の首級を手土産に、身の安泰を求めているとのことです。すでに腰のものはお預かりしておりますけども……」
「分かった。こちらに来るよう言ってくれ」
もはや勝敗は決したうえで、しかも味方を手にかけてまでの寝返りである。その首級が偽者でないのなら、まして兵も伴わずに単身やってきたと言うのならば、偽装であるとは思いがたい。そもそもこの状況で何の策を講じられるというのか。講じて、今更人の側に回天などあるものか。
だがこの時、彼は肉体の不調もあって著しく認識を欠いていた。
かつて彼を欺いた時も、相手に自分がそう思われていたという、その一事を。
〜〜〜
「長範にござる」
刀を預けて櫓にやってきた男はみずからと立場や矜持同様の、底まで落ちた低い声で改めて名乗った。
――こんな顔だったか?
と星舟がぼんやりと追憶したのは、無理らしからぬことであっただろう。
それほどに、かつて見た切れ者の家老の姿とこの『卑怯者』との姿は乖離していた。
なるほど儀礼は故実に従った、折り目正しい所作であった。
だが表情はどんよりと、暗澹としている。にも関わらず、目だけは獣のごとく炯々と光を湛えているものだから、なお一層のこと不気味だ。
最初は影武者かとさえも疑ったが、それでも面影はきちんと残していたので、狼狽もそこそこに星舟は不調を隠すべく居住まいを直した。
その彼の膝下に、濡れ音とともに手ぬぐいにくるまれた球体を差し出した。
結び目を解けば、少年の生首がそこにはあった。
「網草が腹心、鵜飼弥平の首にございます」
星舟は隻眼をもってそれを凝視した。
あまりにも鮮やかな不意打ちであったのか。その鵜飼なる少年の死相には、悔恨や無念の様子は見受けられない。殺されたこそさえ気づいておらず、今も意識はつながれているのではないかと思えるほどだった。
「今日にいたるまでに散々に打ち負かされ、赤国やカミンレイ、あるいはこの者らに酷使され、ようやくおのが不明を悟り申した。貴殿さえも持て余す藩王国です。竜に勝てる道理などございませんでした。このうえは星舟殿の下、愚かなるその者らを誅することで、我が罪を雪ぎたく存じます」
と、おのれの心情の推移を長範は語った。
なるほど筋は通っている。だが、気にかかる点がないでもない。
「何故、網草本人の首級じゃない?」
「討ち漏らしました」
彼は平然とみずからの不首尾を認めた。
「されどあの小僧めは既に廃人。国に運良く戻れたとして、待っているのは打首でしょう。しかし鵜飼はその残兵をまとめてその後継となるでしょう。この少年は実務に長け、手堅い戦をします。この戦においても彼は、高所を取ることに成功しています。後日、竜の災いとなることは目に見えることゆえに実を取り、その芽を摘んだこと、聡明な夏山殿にはお分かりいただけるはずですが」
これもまた理にかなっている。
だがその弁が用意されていたかのごとく流暢であるあたりが、星舟の猜疑心をわずかながらに刺激した。
「……分かった。トゥーチ家には自分より取り計らっておこう。以後、忠勤に励め」
が、微細な己が直感に逐一律儀に応じていられるほどに、今の星舟に余裕はない。
それを勝者の奢りと捉えて責められようが、どうしようもないことだった。
注意と顔をわずかに逸らした転瞬の出来事だった。
弥平の首をつかみ上げた長範が、やおら立ち上がった。その首の後ろに手を差しいれると、血濡れの小刀が露わとなった。おそらくは、頸骨の一部を差し替えていたものであろう。無惨にして非業の死を遂げた死体をさらに辱めるがごとき真似までして、シェントゥらは検めることをしなかったのだろう。
星舟の対応が一瞬遅れたのは、不調のせいもあったが、何より隻眼の死角を突かれたからでもあった。ふだんは己の不具を補う立ち振る舞いをしている彼が、完全に油断しきっていた。いや、久方ぶりに、思わぬところで足をすくわれる、その悪癖が出たというべきか。
そして動揺した彼は、思わず刀の柄に手をかけた。かけたつもりで、最悪手を踏んでいた。
何しろそれは決して抜くことの出来ない刃。シャロン・トゥーチの『牙』であったのだから。
「人奸、覚悟ぉぁっ!!」
瞠るその隻眼の寸前に、夕陽を照り返した刃が迫りつつあった。
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