第十六話

 敵陣深くより少年の声が聞こえる。

 幾度となく聞き覚えのある声。

 その都度彼の発する感情の色は異なったが、それらすべてが幼稚さの抜けない、甲高い声であった。


 今回の場合は、ほぼ狂乱に近い怒声であって、衝動のままにまくしたてるものだから話の内容を汲み取るに容易ではないが、察するに自分に宛てられたものらしい。

 断片的に拾い上げて曰く、


「お前にさえ負けなければ」

「お前とさえ戦わなければ」

「お前さえいなければ」


 と来たものだ。


「え、なんで」

 星舟にしてみれば訳がわからなかった。この時ばかりは完全に素で問い返してしまった。

 たしかに彼、おそらく網草英悟とは一度戦闘し、さんざんに打ち負かした。

 だが勝敗は兵家の常であって、軍人である以上いずれは敗北を喫さずにはいられないはずだ。そのことを覚悟して戦場に立っているのではないか。

 ゆえに、ここまで過剰に恨まれる憶えは彼にはなかった。


「なんのこっちゃ」

 思わずぼやいた星舟に、南部の戦線が安定したことで報告に来ていた子雲がいわくありげな眼差しを送っていた。

 どうやら心当たりがありげな彼に尋ねる。

「なんかすごい恨まれてるんだが、何か知ってるか?」

「さぁ」

 あからさまにこの男はすっとぼけて肩をすくめた。


「……まぁ良い。それよりも連中、いよいよ本攻めに入る」

「あぁ、そのようですな」


 気の抜けたような調子言った後、しかしその踵の切り返しは鋭かった。


「おそらくはそれと連動し、討竜馬の別動隊を後背に回そうとするでしょう。グエンギィ殿が来られたことで、南には余裕があります。……迎撃に行きましょうか?」


 星舟はじっと隻眼でもってこの面従腹背の男を見た。

 だが、打算のできる男でもあった。いまさら戦略的にも戦術的にも絶望的、人としても終わっている少年に、先を見出して鞍替えすることはあるまい。


 今更にすぎる気もする判断とともに、星舟は首肯した。


 ~~~


 果たして子雲の予言は現実のものとなり、その働きは首尾良く運んだ。


 起死回生の奇手であったであろうその迂回攻撃は、北東の防備を厚くした子雲の部隊に阻まれ、死に体と化した。死兵に非ず、死に体である。

 士気はすでになく、進退ままならず、骸のごとき停滞を続ける。


 その奇襲と同時に、敵本隊が動き出す。

 様子を遠望していた星舟に抜かりはない。それも織り込み済みでカルラディオの供出した少数精鋭部隊に下知をあらかじめ飛ばしている。


 葛藤があるとすれば、それは己自身の気質だろう、とリィミィは傍らで青年の横顔を見つめた。


 この見栄坊は、常時、潜在的に視線を恐れている。自分が他者にどう見られているかを無意識化に気にしている。それは根の部分に定着した、成長してもなお拭い難い本質であろう。それが軍事における慎重さ、竜中の人という微妙な立場における政治感覚の土壌となっている面もあるが、逆にそれを極端に恐れ、単身細い橋を渡る危うさと隣り合わせでもある。


 単純に、お人よしの世話焼きということでもあろうが。


 とかく、常の彼であれば陣頭指揮を執っていただろうが、それをリィミィが諫めた。おそらくは星舟が考えている以上に、この戦いは今後の人竜の在り方を決定づける転換点であろう。その場において万一のことがあってはならず、星舟にとっても自身のその危うさと訣別し、大将として殻を打ち破れるかの瀬戸際であろう。


 手柵にかける指が、過度に張り詰めている。

 常より安全な場に陣取る彼に、臨死の恐怖などあるまい。彼が恐れ、そして嘆いているのは、坐したままの自分の差配によって、命が奪われることへの嫌悪感からでもあるだろう。

 リィミィは、その指先を解いたやりたくなった。いや、むしろ、分不相応な野望などかなぐり捨て、今からでもどこか安泰な場所へ突き放してさえやりたくなった。


 だがその腕を伸ばすより先、その無用の気遣いを天を拒むがごとく、情勢が動じ始めた。

 これが最後ぞと決死の覚悟を伴った敵集団が、一つ塊となって正面突破を図る。

 狂える網草英悟自身に率いられた彼らは、さすがに精悍である。生半の獣竜でさえかくやという勢いがあった。


 生半の、獣竜であれば。


 そこで星舟が大手を振った。それを見て中継の使い番が旗をもって合図を送る。

 塹壕伝いに敵本隊の脇をすり抜け、背後に回ったのは例のカルラディオの部隊であった。

 彼らはようやく得たその機と、そして敵を逃すまいと、すでに突破されていた高所を再奪取する。その退路の口を閉じた。

 むろん、それはともすれば孤立の危うさを伴っていた。現に、そのことを気づいた本隊の一部が、それこそ死に物狂いで突破せんとする。


 が、ブラジオの形見たる彼らの勇猛さは言うにおよばず、死を期する、という点では彼らとて負けぬ、劣らぬ。

 時間遅れの『殉死』を求めていた彼らは勇躍し、危地へと飛び込んでいく。


 それに合わせて星舟は二度目の断を下した。

 前面の塹壕に伏せていた獣竜種が、人間が、別なく跳ね起き、敵正面を火砲で穿った。


 網草英悟は、それでも一定にこちらを目指すべきであったのかもしれない。ともすれば、肉薄できたかもしれない。望みの極薄な、仮定の話ではあるが。


 だが、分かれた。おそらくは彼が命じたことではない。もはや統率を欠いたその兵士たちは、生死にかかわりなく味方を見捨て、散り散りに逃げていた。


 しかしそこに副将とおぼしき、例の常道にして堅実を行っていた兵士が、それらをかなぐり捨てて飛び込んできたため、英悟自身は取り逃がした。


 だが、もはや勝敗と優劣はここに完全に決した。

 それまで、星舟が櫓から下りることは一度もなかった。


 ~~~


 この日の攻勢も、失敗に終わった。

 いや、この失敗がおそらくは最後のものとなるだろう。あるいは無断出兵の時点で、夏山に敗けた時点で、すでにこの少年の武運は断たれていたのか。


 着崩した軍服。そこから除く裂傷に手ぬぐいの当てたりして止血しながら、鵜飼弥平は頭を抱えたままの英悟を冷ややかに見下ろし、それは令料寺長範も同様であった。


 もはや、無茶攻めを強いる気力さえ残っていない。

 ぶつぶつと繰り言を続ける。甲が悪い、丙のせいだと自身に連なる無数の関係者に責任を擦り付け、髪をかきむしっていた。散々に硝煙と土煙を浴びたその髪色は真っ白になって、朽ち果てた老人のようでもある。


「英悟、各地の反ら……義挙も鎮圧されつつある。数日もすれば完全に俺らは包囲される。もはや、これまでだ」

 これよりどうすべきかは、進言した弥平のみならず一兵卒でさえ明らかであったろう。

 撤退する。どれほど生き残れるかは定かではないが、各地の敗残兵を収容しつつ帰国し、女王の下に出頭して沙汰を仰ぐ。

 まず間違いなく首脳陣の生命はあるまい。だがせめてこんな愚かな行為に従ってくれた残兵の命ぐらいは、一人でも多く救わねばならぬ。

 せめて星舟の首を獲れれば、と思っていたが、ついにそれも叶わなかった。

 間違いなく、義弟の仇は今この先にいるというのに。


「いやだ」

 駄々をこねた、と長範は視た。

 ――誰の、指揮のまずさのせいでこうなった? 義弟の時も、そうだ。

 朱色に変じた彼の横顔を見て、弥平は止めようとした。だが止まらない。長範自身にも。軍刀の口に指をかけ、ぎらりと鉄光が夕陽に煌めく。


 だが、がしがしと頭をかきむしる英悟の言わんとしていたことと、長範の見解とでは齟齬があった。いや、現実逃避には違いないが、この戯言が


「いやだいやだいやだ……どうして僕ばかりがこんな目に遭うんだ……っ、どうして、僕ばかりが貧乏くじを引かされるんだ」


 と続いた時……貧乏くじという単語が耳に届いた時、長範の手は停止した。

 それ以上は誰も、何も言わなかった。ただ、英悟のすすり泣く声だけが響いていた。


 長範は怒気を収めてじっと彼を見下した。敵要塞を睨み上げた。

 次いで、はらはらとした様子で落ち着かない弥平を見、そして陣幕の内に彼を手招きした。


 当惑しながらも自分に追従してきた彼に対し、長範は説明の手間を惜しんで切り出した。


「もはや一刻の猶予もなく、司令官殿があの様子では指揮もままならない。よって、各藩の、生存している最高位の指揮官の判断をもって撤退してもらう。そして其方の上官は我が手勢が責任をもって国元へ送り届ける」

「え、でも……」

「分かっている。別にこれは温情などではない。しかるべき手順を踏んであの小僧には罪を贖ってもらう」


 だが、と完全に副官の方へと向き直り、長範は言った。


「私には、もはや帰ったところで居場所などない。貧乏くじ。もはやそれも引き飽きた。私は唯一残った方法で、我らにそのくじを掴ませた男に清算をさせてやる」


 それは、と問いかけて弥平は黙った。目の前に立った家老の眼光に、尋常ならざる妖気が帯びていたからだ。


「鵜飼弥平」

 長範は彼を士としての名で呼んだ。


「其方には、友のため、あんな廃人大逆人となった愚者のために、義理を果たす腹積もりはあるか」


 浴びせられた気迫と、具体性を伴わない問いかけ。その両者でもって、弥平は彼の思惑を察した。

 一度は目に見えて動揺しつつも、やがてはふっと脱力し、一歩進み出た。

 はにかみながら、答えた。


「そうだなぁ……ふつうじゃ、こんな時代じゃ、あいつと一緒に村を飛び出さなきゃ、考えもしなかっただろうなぁ」

「……」

「ぜったい勝てるわけねぇって思ってた竜ども相手に一矢報いるばかりか、一度は大勝ちしてさ。その功で侍になって白い米食って、綿の衣なんざ着て、上等の女買って抱いて……まぁあんなだけどさ……そんでもお釣りがくるぐらい、良い夢見させてもらった、のかな」


 どこか寂し気な様子で、名残惜し気に息を吐く。さらに一歩分、長範の間合いに進み出る。

 そうか、と長範が口内で呟くのと、強く踏み出すのは、ほぼ同時であった。


 一度は納めた刀。それが鞘走り、鵜飼弥平の心臓に突き立てられた。

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