アルジュナ・トゥーチ

 多忙な、だがどことなく窮屈でどこか味気ない日々を送っている。

 渾身の改革策も霧散し、名ばかりの勲章と引き換えに信用は低迷し、新帝擁立のために奔走するサガラに代わって雑務に従事する奴隷。それが今の夏山星舟であった。


 まるで石を飴玉代わりに口に含んで、舌で延々と転がしているかのような心境で、星舟はいまいち情熱を欠かしたままに戦後の事務処理を続けていく。

 目眩がするような被害状況を算出し、そういう経済面、人員面でも壊滅的という現実を数字的に目の当たりにしていく。


 アルジュナ・トゥーチに呼び出されたのは、そんな折であった。

 政治的機能を完全に碧納へと移し終えた六ッ矢の居館は、アルジュナの隠宅となっており、かの老竜と最低限の世話役が寝泊まりするぐらいとなってしまっていた。


 かつてここで起こった爆破事件も、その前の栄華の宴も、もはや見る影も形もなく、虚無的なほどに広さが目立つようになっていた。


「失礼します」

 と断りを入れると、先にサガラに出し抜かれた時のことを思い出して、一瞬手が止まる。その心傷を振り切って、戸を開いた。


「来たか」

 星舟を迎えるべく声をあげた前当主は、腰を上げて出迎えることなく、私室に備え付けられていた外洋式の暖炉の前に腰を下ろし、背を向けていた。

 その背は、数月前よりもずっと痩せ衰えていて、代わりぐっと増した、名状しがたい雰囲気に息を呑む。


 年の瀬ではあるが、老君が薪を焚いているのは暖を取るためではないようだった。

 その周囲には、火にくべるべく積み重ねられた、無数の書簡があった。


「……先の暴動においては、こちらの手抜かりゆえに無用の傷を負わせてしまい、申し訳ありませんでした」

「気にすることはない」

 一端はそちらに気を取られかけながらも、いきなり踏み込むのは礼を失しているかと思い、まずは詫びから始まった。

 その後で、視線をその紙束へと振り向ける。


「諸々の機密よ」

 問われることを承知したうえで、それをあえて眼前にて火中に投じているのだろう。

 事もなげに言った。


「……意外です。公明正大であられた御隠居様でも、そのようなものをお持ちとは」

 かつての星舟であれば、野心の炎に燻られるがままに、その情報の一端なりとも掴もうと企んだであろう。しかし今となってはそれもむなしい。


「長く生きると、そういうことも多くなる」

 と細く尖った声音でアルジュナ老は言った。


「多くのことを隠匿かくしてきた。それがために、多くの者を傷つけてきた」


 そう述懐して我が身を漠然と振り返るその様は、まるで


「そしてそれらを抱えたままに、私は遠からず泉下へ旅立つこととなるだろう」

 死を待つのみであるかの、ようで……


「そう驚くことでもあるまい。今回の厄災で多くの年寄が逝った。私も、腹に風穴を開けられた。ならば、私だけが例外というわけにもいかん」

「それは、私が……っ」

「お前のせいではない」


 それはたしなめる、というよりも拒むがごとき強い口調であった。


「お前はとかく、過ぎた荷を頼みもせぬのに負い過ぎる。私がやらずとも、侍女長ジオグゥがやったであろう。あの娘がやれずとも、他の者が身を挺したであろう。私があえてそれをしたのは……まぁ、そうだな。あの時点で自身の命脈に見切りをつけておったがゆえ、最期に親らしいことでもしたくなったか」


 苦笑とともにそう締めくくり、ふたたび火中に文書を投じ始めた。

 ばちばちと音を爆ぜさせ黒く融けていくそれをじっとふたりで見つめていた。

 肝心の用向きというのも、聞く機を逸し続けたままに。


「星舟」

 だがそれは、老竜の方より言われた。

「余計なことにさえ首を突っ込みたがるお前にしてはずいぶん反応が薄いが、何かあったのか」


 言われぐっと息を詰まらせる。

 失意の原因は大別して二つ。だがいずれともトゥーチ家前当主に打ち明けられることではあるまい。

 黙秘を決め込まんとする星舟ではあったが、


「では質問を微妙に変えよう……お前の身に、何が起きた?」


 というさらに踏み込んだ問いかけに、思わず隻眼を開いてしまった。


 ――この方は……

 どこまで見抜いている? どこまで知っている?

 そういう想いを載せて見返す星舟に、宝石質の眼光が差し込まれ、その意を汲んだように言葉は発せられる。


「確信は持てぬ。だが今のお前には、他の者には感じ取れずとも、老いた真竜に感覚的に伝わる変化がある。そして推察するだけの状況と知識も持ち合わせている」


 だが、と巨木に空いた洞より抜け出るがごとき重い息遣いで語句を区切り、


「それを伝えるにあたっては、相応の真実を負うことになる」

「……」

「思いがけず踏み込んでしまった深淵は、その者にとって不幸な結果しか生まぬ」

「……ご隠居、アルジュナ様も同様ではありませんか」

「ん?」

「自分自身、今この体がどうなっているのかなど分かるべくもありません。ですが、アルジュナ様の知る『何か』と結びついた時、それは御身にとっても思いがけず深淵に踏み込んでしまう結果とはなりませぬか」

「私は良いのだ。冥途へ持っていく重荷がひとつ増えるだけのことだ」

「狡いですね」

「今更気づいたのか? 今までもさんざん、お前を利用して矢面に立たせてサガラに噛みつかせていただろう」


 諧謔半分自虐半分、と言った調子で老公は口端をわずかに吊り上げる。

 それによって星舟の肩もわずかながらに緊迫が解けた。代わり、肚も据わった。

 どのみち、すでに閉ざされた道だ。ならばせめて、どこで躓いたのかぐらいは知りたい。シェントゥと同じく。


 星舟はちらりと眼を脇へと移した。

 そこにはアルジュナの『牙』が無造作に置かれている。

 断りを入れれば拒まれるのは目に見えているがゆえに、おもむろに星舟はそれを握りしめた。

 瞬間、電流のようなものが総身を奔った。構わずに鞘の口に親指を当てて抜いた。


 抜いた右腕に黒鋼色の金属片が生じる。いや、不揃いな『鱗』が腕を喰らう。

 その現象そのものを、人間の部位が必死に否定する。その齟齬が、強烈な吐き気となってこみ上げてくる。

 慌てて『牙』を納め直し、元に戻りはすれど一瞬で汗みずくとなった腕を振り抜くようにしてそれを机上に返した。


 老竜の眼に驚きはあっても動揺はない。

「……なるほどな、やはりか」

 と、わずかながらに強張った声を吐き出したのみである。


「後からシャロンの『牙』が一時的に消えたと聞いて、と思っていた」

「……なぜ、そこでシャロン様の御名が出るのです?」


 たしかにシャロンの『牙』から、異常は表出したはずだ。

 だが、今アルジュナのものでも同じ反応が顕れた。とすれば原因は自分自身の中にしかないはずだった。


「……どこから話せば良いものやらな」

 一通りの焚書を終えると、アルジュナは時間をかけて、椅子に依りつつ立ち上がった。


「我々は、それぞれに『虫』を飼っているという」

 と、老竜は言った。


「虫? 寄生虫とか、そういったものですか」

 ほぼ手探りゆえに間の抜けた問いにならざるを得ない。アルジュナはそれに対してかぶりを振った。


「羽虫よりも、ボウフラよりも極小なもの。眼に見えぬほどのもの。糾える縄の如く絡み合うそれを、人であろうと竜であろうと、それこそ虫であろうと宿している。それが生物を形作っている……いわば、肉体の縄張りを、それが描いているのだ」


 まさか、と嗤って否定する材料を、星舟は持たなかった。

 彼の語るものは、すでに星舟の理解の範疇を越え、手に余る。


「彼らが種を千差万別し、その一個一個に特徴を色づけ、血統によって受け継がれていきつつもそれ自体も少しずつ変容していく。かつて我らの創造主はその虫の力を操る術を得たことで、彼らに似せた我々を既存の種を滅ぼした後にこの地に産み落とした」


 知らぬ神代の咄である。

 その出典や何れ、と問わんとしても、老竜の炯眼にはそこから先へは踏み込ませぬ冷たさを帯びていた。


 とはいえ、途方もないところから始まったものだ。

 ほぼ忘我、天寿を迎えつつある老人の恍惚のごとき心地で立ちすくむ星舟に、あえて理解を求めずアルジュナは続けた。


「そして我ら真竜の場合は、『牙』や『鱗』の管理者として獣竜や人よりも濃く神々の『縄張り』を受け継いでいる」


 多くを識るアルジュナの物言いに、麻痺した脳がわずかに反応する。

 その口ぶりはまるで、……


「そして中でもシャロンのように色濃くその適性を隔世的に受け継ぐ者が帝族の中に生まれることがある」


 机上を撫でさする指つきに、次第に弱まっていく語気に、わずかながらの逡巡が感じ取れた。

 それから少しの空が、対話の中に生じた。

「星舟」

 意を決するがごとく、下問された。


「お前は、そのシャロンの血を吸ったであろう? その中に、シャロンの『縄張り』があった。お前はそれを取り込んだのだ」


 そんなわけがない。

 真竜が血を流し、それを口に含むなど、そんな機会などあるはずもない。


 ……そう言い切れれば、あるいは忘却できていれば、どれほどに楽にこの場を受け入れることが出来たのか。


 その時は、忘れ得ぬ月夜にあった。

 最初の邂逅。運命の引き合わせ。

 名さえもなかった浮浪児が、その意味を贈られた瞬間。

 彼女から食物を与えられた。その拍子に、自分は、歯をその手に……


「そんなはずは、ない」

 自身の根幹と体幹がぐらつく。


「血は飲んだとしてたかが知れた量だ。それにこの十年間、何ともなかった。あの程度で竜になれるのなら今頃この世は真竜まみれだ。今更それがきっかけに、なるはずが」

 否定、否定、否定……だがそんな過去の行為に言論で反証したとして何の意味があるというのか。


「そうだな」

 一端は老竜はその事実を容認した。そのうえでさらに星舟の知らぬことをもって彼の精神を追い立てていく。それが覚悟ということだと、言わんばかりに。


「たとえ人竜ともに神を源とした近しい『縄張り』を持っていたとして、凡人がまかり間違って竜の血液を取り入れたところで、大半は受け入れられずに肉体を持ち崩すか、でなければ何事もなく体外に排出されていたであろうよ。だがお前個人の体質か、娘の血がそうさせたのか……お前の身体にシャロンの、神より受け継ぎしその絵図面は流れることなくお前の身に焼き付いてしまった。むろん、それとて普通は眠り続けたままであろうがな」


 しかし実際に因子とやらは覚醒した。己を竜と組み換えつつある。

 そこには何か引き金となる出来事があって、例外の上にさらに例外が生じた。

「……あくまでここからは漠然とした憶測でしかないが」

 その考察に至れば、もはや鈍磨した星舟の脳裏にも明確にして鮮烈な記憶が蘇った。


「……わかったか、あの雨だ。奔走するお前はあの赤い水を大量に摂取した。そしてお前の中の『虫』になんらかの変異をもたらした。これが原因のひとつと考えられる」

「まだ、何かあると」

「シャロン自身だ」


 もはや終わってくれと願うも、足が動かない。恐怖のあまりではなく、それを受け入れると自分で決意したがゆえの、せめてもの不退転であった。


「あの雨の影響で娘は衰弱しきっていた。それこそ、いつ死んだとしておかしくないほどにはな。その生死定かではない状態で、『牙』は主を見失った」

「見失った?」


 まるで自我を持つ生物のごとく言う。

 だがアルジュナ自身も知覚しえぬことであったのか、あるいは知ってても墓下まで抱えていくべき極秘事であったのか。

 まるごと無視して続ける。


「……そしてあの瞬間、自身に養分を供給する管理者を、同じ因子を持つお前とシャロンを誤認し、己のお前とを結び直した。言うまでもなく、あの娘の『牙』は特殊だ。神代の原初期に創られた五本のうちの一口」


 そう、言われるまでもなく知っている。

 浮遊する銃砲。人を融かす怪液。

 なによりも天に座すに雷矢のごときものを落とすよう命ぜられる権能。

 超人的な運動能力や、強固な鎧などから派生したもにではない、明らかに他とは隔絶した何か。


「それが、お前を主と認めたのだ。自身の都合の良いようにお前を『書き換える』ようお前自身の肉体に命じたとして、不思議ではない」

「……そんなの、ふつうじゃない……」

「そうだ、尋常ではない」


 アルジュナのすぐ横で、くすぶる火が燃え粕を舐めながら音を立てる。

 それが、続いた老竜の言葉が、星舟の中で、彼の意思を介在させずに大きく反響していた。


「いくつもの起こり得ぬ偶然が重なった結果、お前は埒外の手段で真竜となった。だが、それは神々が組み立てた摂理から大きく外れたものだ……ゆえに、その変容は完全なものではなく、いずれその齟齬と負荷の責任をお前自身が支払うことになることになるだろう。……一体いつまで生きていられるか、いやそもそも、ヒトの形を保っていられるかさえ」


 そう言いかけた時、アルジュナの細長い腕が伸びた。

 己では知らず、星舟の身体は骨子から大きく崩れようとしていたからだ。

 そして支えられる現状にさえ気づかず、星舟は、


「なんだ、それ……」

 と乾いた声で笑った。


 ――つまり、何だ?

 自分の目指したものは、夢は、端緒から詰んで、大きく道を外れていたものだったのか。

 その絶無の望み、見当違いの方角へ邁進するために、切り捨ててきたもの、すべてが報いることができない徒労であったというのか。

 そのうえで、何も果たせずに死ぬのか?


 ――生き方どころかその存在まで、どっちつかずの中途半端だったってわけか?


 否定したかった。何を言われようと、どれほど説得力を持つ仮説を打ち立てられようとも。


 だが、それを否定できる何かは、ないのだ。

 与えられた家名、教えられてきた学、養われてきた才。

 最初からおのれの内に在ったものなど、何一つとして……


 ――為すべきを為せ。

 ――在るように在れ。


 闇の中に沈みかけていた、頭、意識。

 その上より、声が降ってきた。


 それは眼前のアルジュナ・トゥーチの言であったのか。

 それともすでに去った何者かの言葉であったのか。


 アルジュナは顔を上げた星舟を支えたままに、その懐に書状を差し入れた。

 雑多に処分されようとしていたものとは体裁からして違う。

 公的な効力を持つようしつらわれ、丁寧な筆遣いで署名と捺印の施された、対外的な文書。

 星舟はその書面を検めて、隻眼を見開いた。


「ラグナグムス家への推薦状だ。対尾と今回の一件で当主以下多くの者を喪って家中

を差配する者がいなくなったと後家殿が泣きついて来られてな。そこで、お前を推挙しておいた……トゥーチ家を出ろ、星舟。ここではお前の望みはもはや叶うまい」

「しかしオレは……オレの、望みは」


 すべて、分かっている。

 その本意も、それが絶たれたことも。


 そう言いたげに重く頷いた老竜は、シャロンにも受け継がれた美しい輝きの眼を、陽光を浴びたがごとくに細めて言った。


「なるほど、人外のものへ化変した。いつ果てるやもしれぬ」

「……」

「だがそのすべてがお前ではないか。お前の苦悩が、それを超えた先にあった決断と行動が、その星巡りが、他者との縁が、良くも悪くも今のお前自身を形作った。……すべてが無駄になることなどあるまい。切り捨ててこられなかったからこそ今のお前がいるのだ」


 突き放すでもなく、寄り添うでもなく、ゆえにこそ聞こえ様によっては何よりも過酷に、アルジュナは予言めいた助言を星舟に与えた。


「そのすべてが、魂の縄張りとなって夏山星舟を生んだ。肉体が何者に成り果てようとも、今は前途が闇夜に沈もうとも、最後の瞬間までその天命を背負い続けて星舟にしか出来ぬ行動を取れ、選び続けろ。さすれば、やがて行き着くべき場所へと至るはずだ」


 それが、犠牲にしてきた者たちに報いることのできるだけの、満足のいくような答えであれ、あるいはつまらない徒死であろうとも。


 星舟は緩やかに下肢に力を取り戻しつつあった。それと合わせるようにして、するりと彼の身体から朽ちた老竜の手が滑りぬけて、代わり肩へと置かれる。


「……話し過ぎた。今まで、そして今も、お前に不相応の荷を負わせてしまったのはトゥーチ家われわれだ。辛い思いをさせてしまったな」


 それはおそらく今まで、為政者として、そして多くの秘密を抱えた者として肉親相手にさえ押し殺してきていた惻隠の情であったのだろう。そして彼は己がしたかったことを多くの愛した者たちに伏せたままに、死んでいくのだろう。

 その手の重みを感じ、その痛みを噛みしめながら星舟はかぶりを振った。


「……ご遺命、そしてご厚情、謹んでお受けします。……しかし、それでもせめて、貴方の最期の時までは、この家に居させてください」


 これから先、ラグナグムスに就いたとして何をすれば良いのか見えてこない。己が何者であるか、終生見定められないかもしれない。

 それでも、この目の前で厳しくも暖かな老爺が自分にとって、家中多くの者にどういう存在なのかぐらいは分かっているつもりだった。


 濡れた声を絞り、アルジュナ・トゥーチを、星舟は初めてこう呼んだ。




「父さん……っ」

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