第九話

 戦場に長く身を置き、弾に向かいて我が身を天運に差し出すことしばしば。

 そんな星舟だが、その新築の部屋の前に行くと、物怖じしてしまう。緊張がはしり、肉体が本能的な忌避感と拒絶を示す。


 別にその中にいる相手が嫌いなわけではない。現にその兄であるサガラ・トゥーチには「なにくそ」という気分でむしろ負けん気が生じて竜であることさえ忘れてしまう。他の竜にしても、大概は分かりやすい好悪を見せてくるので付き合い方は分かる。


 だが、無償の慈悲を見せる『彼女』は、自分でもどういうわけか人や竜を超えて少しとっつきにくい相手ではある。ふだんの饒舌が、彼女を前にすると彼方へと吹っ飛んでいく。

 理由は、自分でも分からない。それについて考えないように必死に逃避することに決めている。


 まぁそれも今更の話ではある。

「シャロン様、よろしいですか」

 竜の聴覚をもってしても様式を整え、戸を拳で叩く。


 その内側より、けたたましい物音が聞こえてきた時、星舟の背筋が凍った。

 思えば、こうるさい侍女長の姿がどこにもない。どうして今少し早くその違和感に気が付くことができなかったのか。

 この非常事態にあの女が主の許を離れるなど、自分の接触を許すなど、どう考えても不自然な状況ではないか。

 元より、領内いたるところに不穏分子が乱入し、加えて領主代行たる彼女は本調子ではない。さらなる混沌に陥れんがため、よからぬ輩がその生命を狙うことは十分にありうる。


「失礼っ!」


 一言にて詫びを入れ、戸を蹴り破る。

 破砕音と共に、戸板が倒れ、その拍子に埃の幕が立つ。

 そしてその先に、シャロン・トゥーチが立っていた。顔を紅くし、瞳は丸まり、背筋には汗。

 なぜ背の様子まで分かったかと言えば、要するに背をこちらに向けているからだ。そしてほぼ裸であるからだ。


 上下一体型の寝間着を裾から脱ぎ掛けて、もはや腕に引っかかるのみの状態で、見返り真竜はその間抜けな『不穏分子』の前で凝固していた。


「あ、ほんとに失礼しました」


 星舟は蹴破った右脚を下げないまま片足立ち。シャロンはほぼ痴女じみた格好で。

 お互いに奇妙な体勢のまま数秒見つめ合った後、すべてを察した星舟が言えたのは、せいぜいそんな詫び言ぐらいであった。


 ~~~


「ごめんねごめんねっ、汗拭こうとしててその……御見苦しいところをばお見せしました」

「いやいや、自分の方こそ、とんだ醜態を……」


 未だ拭い去れない狼狽のため、シャロンは奇妙な言葉遣いとなり、自分の迂闊さを呪い続ける星舟は、視線を娘の裸体より外しつつ底まで気落ちしていた。

 この非常時に何をしているのかと自身の心身が情けなくなってくる。


 やはりどうにも、相性が悪い。

 相手にとって良かれと思って行動すればするほどに、歯車のズレたような成果となって、馬鹿を見るのはいつも自分だ。


 それは分かっているのに、だからできるだけ遠ざかろうとしているのに、この御仁の方こそがぐいぐいと踏み込んでくる。


「セイちゃん」

「はい」

「背中、代わりに拭いてくれない?」


 ……そう、今のように。

 衣擦れの音が止んだ。それを背越しに耳が捉えていた。


 沈黙、思考、そして観念。

 溜息とともに踵を返した星舟は、シーツをかき抱くようにして前の半身を隠すシャロンに「お望みとあれば」と苦く請け負った。


 かくして背を清水と布とで磨く。

 きめ細やかな肌地に背を丸めることで浮き出した欠陥や背骨や肩甲骨の造形。ともすれば白磁の大名物、一種の美術品と見まごうほどだが、それに陶然としたり神聖視するよりも、指に触れるその温度の高さに驚く。


「星を掴んだ気分はどう?」

 冗談めかしく言われたが、それに対する返答は差し控えた。口にすれば、その感慨は現実のものとなる。なった瞬間、ただの石くれに変じてしまうのではないか。そう恐れた。

 シャロンも、それ以上の追及はしなかった。


「……手慣れてる」

 代わり、どことなく恨めしげな様子で呟いた。「はい?」と動揺を隠しきれずに問い返すと、「何でもないでーす」と口を尖らせる。


 自身の不調を隠す健気さに、苦み走った笑みが星舟の口からこぼれた。


「ところでセイちゃん、わざわざ乙女の寝所に夜這いに来たってことは、なんかあった?」

「夜でもないし這ってもないです。……実はこの度綸旨を頂戴いたしまして、サガラ様やシャロン様に代わって討伐軍の指揮を執ることとなりました。不貞なる賊ども、背信の凶徒どもを余さず誅する所存です。お見舞いがてらその報告をと」


 そう言うと、シャロンの見せる横顔は、浮かぬ表情である。まぁいつもの数奇者根性博愛主義が発動したのだろうが、浅慮な愚民や俗物どもに温情をかける余地などあろうはずもない。


「セイちゃん。私ね、人間が好き」


 そりゃあ知ってますよ。でも情けをかけるつもりはないですからね。

 そう言いたくなるも躊躇われるような、儚い面持ちで、深い息遣いとともに語る。


「そりゃ確かに、色々と食い違いもあって、どうしても傷つけあわなきゃいけない時もあるけど……それでも、知恵を持ち合って新しい者を生み出せる力は、竜には遠く及ばない。竜は結局、その模倣をしているだけで何かを生み出したことがないかもしれない」


 この時勢がそうさせるのか。病がそんなことを言わせるのか。

 竜種そのものへの自虐ともとれる呟きを、星舟は背をぬぐいながら聞いていた。


「……大それた話なのでオレには答えられませんが、それでもシャロン様のことは知っています」


 手を止めないままに、星舟は言った。


「貴女はオレに、名をくれた。すなわち夏山星舟。ホシのフネ。とても気に入っています」

「……ありがとう」

「つまり名を与えられた瞬間、オレはこの世にようやく生を見出しました。竜がどうかは知りません。しかしトゥーチ家は、オレという人間を生み出してくれたのです。何人が、貴女自身がそれを否定しようとも、オレの中でその事実だけは確かです」


 シャロンは一つ礼を言ったきり、何も言わずに肩で呼吸をしていた。

 星舟も別に残念がりなどしなかった。元より、見返りを求めての返答ではなかった。


「ねぇ、セイちゃん」

 シャロンは茫洋とした口調で、もう一度だけ問うた。


「じゃあセイちゃんは……人間が嫌い?」


 ……瞬間、全身の経穴を突かれたかのように痺れがはしった。

 息を詰まらせ、見えざる何者かによって唇が軽く空気を吸い取る。


 シャロンは、それ以上何も言わずに、星舟にかかる重みがぐっと増す。

 自分自身を支えていた彼女の力が、抜け落ちたのだ。眠った、というよりも失神したと言ったほうが正しい。

 反射的に腕を取って分かったことだが、だいぶ痩せている。もはやその肉体は、限界の最高頂に達していた。


 星舟はそっと寝かせてやり、あらためて仰向けにして体の前半分も押し拭う。清めた身体を、着替えを整える。

 シャロン自身が揶揄したとおり、今彼は自分が手に届かぬ星と思い定めたはずの肢体に、誰に咎められるでもなく触れている。きっと思いのままなのだろう。


 だがそれでも星舟はただの一度も言葉を発さず、事務的に手を動かし続ける。

 その表情は最後に問いを向けられ瞬間のまま、凍り付いていた。眉の一本さえ、動かすことができずにいた。

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