第二十一話
「この愚か者がぁっっっ!!」
霜月信冬と合流し、敗兵をまとめて帰国した網草英悟を待っていたのは、藩王赤国流花の面罵だった。
気遣われると思った。傷の塩梅を尋ねられ、ねんごろに労わられるものと。
だが彼に向けられたのはそれとは遠くかけ離れた、険しい叱責だった。
公的な場ではなく、出陣を願い出たのと同じく彼女の私室であったことが、まだマシと思うべきか。それともこの怒りが体面を気にしてのあえての怒りでなく、抜き身の感情そのものであることを嘆くべきか。
「あれだけ注意を促したと言うに、大言を吐いたにも関わらずッ、見え透いた罠にかかり、討竜馬を貸し与えた分も含めほぼ全滅させただと!? 貴様は何ということをしてくれたのだ!」
「お、お言葉ですが」
その言葉を平伏しながらも、英悟は遮った。
「ひとえにこの失策は恒常子雲が敵に寝返ったために起こったものです。僕に間違いはなかった! そうでなければ僕があの敵を虜にしていた!」
荒げる息を整えることなく、女王は背後に控える楽師を、その裏切者の雇い主を睨みつけた。彼女は常と変わらぬ氷の表情のまま、女王と視線を交わさず書面を見つめていた。
「その子雲からの報告によらば、『こちらも英悟殿の作戦を危ぶみ、中止を提案したが彼は自説を曲げず敢行した。そして実際、危惧したごとく星舟の術中に嵌りつつあった部隊を救うべく、敵中にあってそうと知られぬよう何度も中止の合図を送ったがついに気づかれなかった』と」
「……で、その子雲は何故戻って来ぬ!」
「引き続き、敵の内部に在って埋伏の毒たらんとのことです」
「ば、馬鹿な!? そんなのでっちあげだ!! 保身のための讒言だ!」
たまらず敗将は声を上ずらせ、顔を浮かばせた。
「では、弥平殿からのこの調書も虚偽であると?」
少年の怒りにも眉一本とて動かさず、カミンレイは問うた。
「たしかに恒常子雲の弁明には多々疑わしき点もありますが、それでも一部はまぎれもない事実。それはそこな七尾藩公の報告よりも明らか」
完全に影となり、あるいは一本の柱のごとく、かの陰気な剛将は部屋の片隅に直立していた。にわかに浮き出たその気配に圧されるように、英悟は口をつぐんだ。
「貴様は功を焦り、カミンとの事前の約束をことごとく破り、国家に多大な損失を出した。……実情を詳らかにしたうえで、あらためて沙汰する。それまで謹慎をしておれ」
流花はそう言って額に手を遣った。
彼の肉体の欠損には言葉さえ一切触れることなく、今まで傷ひとつ負ったことがないのではないかという、美肌を五本満足なおのれの指でなぞっていた。
――貴女のために頑張ったのに。
――貴女がそうしろと言うから励んだのに。
――貴女が、約束したからすべてを、捨てて……
「聞こえなかったのか、下がれッ! ここは本来ならばお前のごとき者が入れる場ではない!!」
浮かび上がった諸々の言葉は、悲憤は、その一喝でのって泡のごとく弾けて消えた。
英悟はこれ以上どうすることもできずに、一度大きく低頭して退出したのだった。
「もう少し、出来る奴だと思ったんだがな」
と、自身の見立てを悔いるかのような女王の独語を、背に受けながら。
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英悟が退出した部屋の中に、数年分とさえ思える深く大きい息が落とされた。
言わずもがな、ただの小競り合いだったはずの戦に自身の裁定が必要となった、赤国流花のものであった。
「……すまなかったな、霜月殿。貴殿には要らぬ苦労をかけてしまった」
「さほど苦ではありませぬ。すべては我が国のためなれば」
我が国、という語を強調して彼は答えた。
迷いのない彼の返事に女王はいくばくか機嫌を改めたようではあったが、カミンレイは氷の座に腰掛けるがごとき姿勢を取り続けていた。
「しかしながら、無断による出撃はいただけません。向こう数年は棲めぬ焼け野とされた近隣の住民からも訴えが来ています」
「そう言うな。逐一許可を乞うていれば、それこそ間に合わず拠点を築かれていた。住民と藩には十分な補償を開悦に命じて届けさせよ。どのみちそれ自体は惜しむような土地でもあるまい」
「……かしこまりました」
無表情でかしずいた彼女の肩に、特に感慨もなさそうに手を置いた。
「お前や開悦、そして霜月殿。これとめぼしい人材を、私が見出した。そして来るべき時に集結せんと誓い、その証を与えてきた」
カミンレイの上衣の表層を、流花の指がなぞっていく。
肩から首筋へ。そして頬へ。
裏を隠す髪をめくり上げて、耳へ。
そこには淡く儚げな光沢を放つ、楓の葉を模した耳飾りが取り付けられていた。
「開悦には向日葵の小箱を、霜月殿には桃の花の
……その話を網草英語は盗み見、一部始終を聞いていた。
そうすることは臣として、男として、人としての倫に外れるという自覚は保っていたが、内心で期待をしていたゆえに彼は立っていた。
彼女が、許してくれると。
赤国流花が落ち着きを取り戻し、謹慎など間違いであったと、やはりお前に非などなかったと、自分が悪かったと頭を下げることを。
だが現実とは、えてして期すれば期するほど逆を向くものである。
女王によりもたらされたちょっとした事実はしかし、彼の心を絶望の深淵へ突き落すには十分な威力を有していた。
「もらったのは、僕だけじゃなかったのか……!?」
村の子であった頃、いや少なくとも滅私奉公につとめていたかつての彼であれば、将来の能臣と嘱目されて彼女の名になぞらえた品を下賜されるという栄誉を喜び、より一層の忠勤を誓っただろう。
だが今の彼は。
一段飛ばしで立身し、位階に見合わぬ寵遇を得た彼は。
与え、与えられた本人たちの無自覚なうちにその欲求や英悟自身の期待を肥大化させていた。
少年が感じたのは、嫉妬と憎悪だった。いや、今まで彼なりに抑えてきたものが一気に噴出したのだ。
そのタガとなっていたものこそが、過去の、何者にも立ち入ることのできない、少女であった流花との逢瀬。思い出の品。蘭蕉の簪。自分だけが彼女の特別であることの、証。
だが彼の根底を支えていたその意識は、突きつけられた事実によって毀された。
女王は、あの女は最初から自分を利用する気だったのだ。
そして自分の役に立たぬと判れば、どれだけ尽くそうとも冷酷に切り捨てる。そういう女だったと知った。
震える手で、懐より簪を抜き出した。
平素何よりも大切にしていたそれが、にわかにくすんで、汚らわしいもののように感じた。
「あの、
反転した愛憎に突き動かされるまま、網草英悟は残った指でその花簪を手折った。
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