第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜
第一話
網草英悟の運命が大きく分岐したのは、十年前の村祭りだった。
「やぁ、私にこの村を案内してくれるか」
その日、村長の名代として見回りに参加していた彼に、赤みを含んだ髪を結わえた少女が無作法に語りかけた。
口ぶりこそ依頼あるいは要請という体を作っていたものの、それが承けられて当然という強い語気を含んでいた。
垢抜けた調子の、自分よりも頭一つ背丈と年頃が上の娘。紬で織られたその装いは、士族のそれだった。
だが、彼の家はこの土地においては下手な武家などよりよほど経済力や影響力を持っている。そんな命令を聞き入れる道理はなかった。
しかしながら、互いに素性を名乗っていない、供回り連れていない偶然の邂逅だった。となれば、この非礼も無理らしからぬことではあった。
そして身分の隔たりを超えた暗影の内の交流もまた、祭りの醍醐味ではあろうと思い直した。
「良いよ」
英悟は笑って快諾した。その腕を引いた。その大胆さは、娘にとっても意外だったのだろう。驚き、そして引かれるがままに従った。
袂を彩る蝶を、艶やかに舞わせながら。
〜〜〜
そしてふたりは、村のあちこちを巡った。
村の味噌とともに焼いた団子を駄賃で購い、分け合った。
社に詣でてそれぞれに願をかけ抱負を胸の内にて誓った。
その裏手で精気を有り余らせた若い男女の営みに出くわして心を乱しながら退散したり。
夜を駆け、人の合間をくぐり、互いの理解が及ぶ範疇で村の内外の事情や戦について存分に語り尽くした。
たしかにそれは、身分を超えたやりとりではあった。
英悟の予想と違ったのは、いずれが上で、いずれが下であったかということであった。
別れ際、どこからともなく現れた少女の警固は、素人目から見てもわかるほどにいずれも一流の剣士たちであった。そして自分に組み付いた父親は、必死に自分と、我が子の額を土へと打ちつけた。それは怒りというよりも、恐れに近い感情からであっただろう。
娘は、隣国の藩主の末裔であった。
「いや、愉快だった。この国を離れるにあたって、良い土産ができた」
娘はそう言って少年の非礼を赦した。
そしてまだ事情が呑み込めない彼に、自身の髪を留めていた簪を握らせた。
「いずれ私はこの国に帰還する。王者として」
髪を振りほどいた彼女は、その場にいた誰もが青ざめる言を発した。おそらくはその誰もが妄言だと忘れようとした宣誓ではあったろうが、英悟の胸には不思議なことに至極当然の将来だと受け入られた。
「我が名は赤国流花。私がその座に即いた時にまだ今日のことを憶えていたのならば、我が幕下に参じるが良い」
彼女はそう言い残し、この国を発った。
人の記憶に強く残るのは、痛みだという。だがそんなものは俗説だと、英悟は知っている。
あの祭りの後、父親にしこたま殴られた。だが、その折檻の痛みなど、とうに身体から抜け落ちている。
その後寺に忍び込んで兵法書を盗み出して軍学を学んだ。父親を説得して自衛のためと称して銃器を買った。私財をはたいて近代の兵書も取り寄せ、洋医学者たちを呼び寄せ言葉を学んだ。村のあぶれ者たちを一級の兵士として教練した。
その労苦さえも、彼女と再会を果たした瞬間に霧散した。
英悟の内にあるのは、それによって得た経験と、あの日の美しき想い出だけだ。
――ただ、僕は、彼女のために戦えればそれで良い。それ以上は何も求めない!
そう決意を新たに、彼は目を輝かせ、今日も今日とて与えられた騎兵の調練に当たっていた。
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