番外編:侍女の一身は重き荷を背負うて遠き道を以下略

「シャロン様はお会いになられません」


 ――せめて取り次ぐそぶりぐらいは見せろ。

 初夏も終わりに差し掛かった頃であった。新政庁への諸々の引き継ぎ中の、執務室の前であった。

 眼前に立ちはだかる侍女長に夏山星舟は毒づいたが、悲しいかな強行突破できるほどの力量があるわけもなく、愛想笑いとともに立ち尽くすだけだった。


「いや、別段用というわけでもないが」

「では訳もなく貴き御身に接近したというわけですか」

「そう揚げ足を取ってくれるな。いやなに、饅頭をこしらえたから過日の礼も兼ねて差し入れに来たのだが」


 そう言って四つの白い宝珠のごときそれを差し出した。

 じろりと獣の目でそれを見下ろすや、ジオグゥはおもむろにそれを引っ掴んだ。


 食われた。四つとも。

 それほど大口は開いていないはずだった。

 あまりに唐突にそんな暴挙に出られたものだから、我に返った瞬間には盆の上の菓子は欠片さえ残っていなかった。


「これにて用はなくなりましたね。ではお引き取りを」


 二の句も継げず星舟は固まった。

 だがことの是非はともかくとして、この傲慢な獣竜の言の通り、大義名分は物理的に消滅した。

 抗議しようにも、多忙を極めるシャロンの耳に口論の様子を届けたくはない。


 言葉もなく、ただ踵を返すことが合理的かつ最善手だった。


 その夜星舟は枕を悔し涙で濡らしたとか、なんとか。


 〜〜〜


 あくる日。

 いつものように扉の前で警固に当たっていたジオグゥの前に、片目の不埒者は再度現れた。


 大皿の上に置かれた、山のように巨大な、黄色く焼き上げた食物を手に。


「鍋で……卵を焼いたら、殊の外上手くいってな……っ! 夜食にと思って、持参した……!」


 苦悶の顔はその焼き菓子で隠され、息も絶え絶えで支える両手はプルプルと震えている。

 当然、彼自身とてかの姫君がこれを丸ごと完食できるとは露ほども考えてはいないだろう。


 シャロンの夜食という名目で運ばれてきたこれは、その実ジオグゥに対する報復であり、挑戦だった。


「食えるものなら食ってみろ」と。


 ――いや、仕事しろよ。

 ジオグゥはそう思ったが指摘するには至らなかった。

 どうせこの小賢しい男のことだ。そうケチをつけられることも見越して、公務にて一定の成果を挙げているに違いない。


 かといって、喧嘩を売られっぱなしというのも癪である。

 重量感あるそれを、ジオグゥは正眼で睨んだ。


 深呼吸。

 そして手づかみ。開く口は小さくとも、そこから吸引力でもってゾロリと麺を啜るがごとく、口にしまい、すべての歯を使って細断し、喉に通して、胃の腑に収めていく。


 右眼を剥いた敵の眼前で食べていく。否、呑んでいく。

 彼女にとって幸いだったのは、とりあえず口に入れたよく分からない代物の味は良かったことだ。

 基本的に味噌と塩が効いてさえいればなんでも食えるというジオグゥをして、このよく分からない卵黄と砂糖の混合物は美味いと思う。

 だが、蠱惑的でもあると同時に暴力的な甘さでもある。もし自分が本当にこれをシャロンに食べさせていたらどうしていたのか。


 ともあれそれも過去のことだ。

 その悪魔の甘味はすでに皿の上から消えていた。


 唖然として固まる星舟の間抜け面を見て、溜飲を下げる。この苦難も、報われた心地がした。


「それでは、お引き取りを」


 そんな彼に勝ち誇るようにジオグゥは言った。


 〜〜〜


 もはや、退くに退けなくなったのか。

「見よう見まねでパンケーキなるものを作ってみた!」

 あくる朝もそんな風に何層にも重ねた円盤状焼き菓子をひったくって平らげた。


「いやー鼈甲飴たくさん作っちゃってさぁ!」

 バリバリと食べた。


「みんなで季節外れの餅つき大会したんだ! 良かったらシャロン様に」

 ひょいパクと食べた。


「部下が結婚したんだ。海外では祝いの席ケーキなるものを用意すると聞いて作ったんだけどなんとまぁ突然の婚約破棄で」

 モリモリと食べた。


 食べた。

 食べた。

 連日、食べるに食べた。




 そしてガシャンと、針は振り切れた。




「莫迦な……!」

 ある日の入浴前。脱衣所。何気なく乗った体重計。

 ジオグゥの視線の先、その目盛りは見たことのない数値を示していた。


 例のごとく、数寄者のシャロンが海の外より取り寄せた計測器であった。両足をそろえて台座を踏めば、それに応じて針が動く。構造のことはよくわからないが、おそらくは秤と同様の原理であるとは思われた。

 ふだんは見向きもしないような代物だったが、気まぐれに使ってみた。結果、彼女の心胆を寒からしめるに至った。


 服のせいだと言い訳しようにも、全裸である。

 体調による誤差だとするには大きすぎる。何か悪いものが憑いたのだと風呂場であえて水風呂に浸かりその身を清め、引き締めた。

 だがあらためて乗ってみても、結果は寸分たがわず。針は勢いよく右に展開した。憑いていたのは贅肉である。


 礼法は修めているが、あまり美容というものに頓着しない彼女……だったが、さすがに衝撃を受けた。

 ふだんはさほど意識しないはずの檜の板張りが、この日ばかりはやけに大きく軋む音を立てた気がした。


 ~~~


 一体の獣竜が眠れぬ夜を過ごそうとも、朝は明ける。

 気鬱になっていたところに、ともに朝食を摂っていたシャロンが

「なんか最近血色いいねぇ」

 と二杯目の白米をおかわりしながら言った。それが決定打となり、女従者の気分を底にまで落とした。


 とはいえ、坐して肥ゆるを待つのはジオグゥの性分には合わない。

 努力はすべきである。そして同時に、そもそもの要因を探るべきである。

 番人として廊下に屹立し、誰もいないところで爪先立ち。少しでも我が身の弛緩を是正すべく奮闘している。


「……何をしている?」

 そこに現れた人間の男。

「まぁいいが……ずっと甘いものばっかりだったしな。たまには塩辛なものも良かろうと思って、馬鈴薯を揚げて塩をまぶしてみた。良ければ食」

「やっぱりテメェの企みかッッッ!」

「ぶへぇっ!?」


 そして差し出された菓子を目にした瞬間、ジオグゥを暗雲のごとく覆っていた盲は拓いた。かの君側の奸の陰謀を悟らせるに至った。

 鉄拳は不意打ちぎみに右頬に見舞い、彼を壁へと叩きつけた。我が身を長らく冒していた毒物は、その転倒にしたがって地面に散らばった。


「かつての雷王ジオグゥも堕ちたもんさね! まさかこんな男の罠にかかるなんてね!」

「ちょっと待てなんの話だ!? というか素が出てるぞ!」

「おとぼけになんじゃないよっ! 将を射んとすればなんとやらってことだろ!? あたしを肥え太らせて身動きがとれなくなったところに、姐さんを害そうってハラだってことはとうにお見通しさっ!」

「お前の想像上のオレすげぇ頭悪いな!?」

「お前?」


 つい、互いに地が露わになった。そのことで多少気まずくなり、妙な空気が流れた。だがそのことにより、激した感情が多少収まりはした。


「……まぁ、なんだ?」

 星舟は大儀そうに溜息をこぼしながら言った。


「もういっそのことぶっちゃけるが、この機に互いに好ましからず思ってんのは今更だし、オレも大人げなかったことは認めるよ? けど、んな非効率的な方法とるわけないだろ。どう見ても自業自得だ自業自得」


 彼の言葉を額面どおりに受け止めれば、正論にもほどがあるだろう。

 しかし、と彼女は食い下がる。


「貴方の悪意が自分を堕落させた。でなければ、あんな数値など」

「数値? 体重計にでも乗ったってのか?」


 聞き返され、言い過ぎた、とジオグゥは後悔した。

 一度滑った口は、どうにも緩くなっているらしい。よりにも最も知られたくない相手に、迂闊に恥部をさらしてしまった。

 もしこれを出汁に恫喝あるいは嘲笑などしようものなら、相打ちもしくは破滅を覚悟で相手の頚を折ろう。そう決心したジオグゥだったが、彼女の意に反して、星舟はなにやら思案するように、口元に指をあてていた。

 だがやがて、露骨にため息を吐くや、屈んで散らばった残骸を手で片づけながら言った。


「正直なところ、理不尽きわまりない仕打ちは受けたけど、ただオレにも悪いとこはあったし、この間さらわれた時もシャロン様にもあんたにも面倒をかけちまったわけだからな。その罪滅ぼしと言ったらなんだが……まぁ事情がわかったからどうにかしてやるよ」


 面倒もなにも、流れ的にそうなっただけでジオグゥ自身は見殺しにしたい急先鋒だったわけだが、ここであえて言うのも無粋だ。ただ、どうにかするというのはいかにも眉唾物だ。


「どうするというのです? 鬼道でも用いて痩せさせるとでも?」

 すっかり口調も迂遠な悪意も取り戻した侍女に、片づけを終えた星舟もまた、不敵な笑みをいつものように浮かべて返した。


「そんなとこだ」


 ~~~


 星舟がジオグゥをともなって向かったのは、件の脱衣場だった。

 男女の区切りがあるその岐路において、迷わず女性の方へと足を向けた彼に、ジオグゥは白眼を投げかけた。


「なるほど、同輩の不幸にかこつけて、禁断の花園を荒らさんとする匪賊の魂胆でしたか」

「んなわけないだろ。だいたい釜に火が入ってさえいないこの時間帯に、いったいどんなご令嬢が入るってんだ」


 一挙一動を疑ってかかるジオグゥに対し、星舟はいちいち道理でもっていなす。


「ではなんのためにここに」

「んなもんわかり切ってるだろ。いくら食い過ぎったって座ってる時間よりも立ったり走ったりしてる方が長いお前が、急激に太るわけないだろ。針が振り切るほどの増量なんて、それこそ見た目で分かるが、見た限りではさほど変化はない。となれば前提が間違ってんだよ」


 そう吹いた星舟は、柱時計のような体重計、その首を掴むや前後に揺らした。傾くたびに、鈴のごとく鉄の異音が内部から響く。計測部分の針が、無軌道に左右に揺れた。

 それを見た星舟はあーあーと得心がいったような声をあげた。


「やっぱりどっかがいかれてやがるな。まぁ顛末としちゃそんな具合だ。まぁ食べ過ぎには違いないがあまり気にし……なんだよ、その目は」

「ずいぶんと察しがよろしいことで。さては貴方が自分を憔悴させるために、前もって忍び込んで」

「……お前、生きてて疲れない?」


 星舟は呆れながら言った。その口調には、心配するような響きさえ感じられた。

「あらいやだ。冗談ですわ」

 この男に気遣われるのは癪なので、不本意ながら撤回した。

かつ改めて問う。


「であれば、何が原因で?」

「さぁてね。あえてざっくり言うのなら、日常的に想定外の負荷がかかり続けていたか」

「何が?」

「……」


 渋い顔で、と言うより驚く様子をひた隠す結果ひどい顔になった、という塩梅で、星舟は立ち上がって声のほうを振り返る。


「シャロン様、ここで何を?」

「へへへ、朝から暑くて身が入らなくて行水に……セイちゃんこそこんなとこで何してんの?」


 政務に当たっているはずのシャロン・トゥーチが、桶を抱えて立っていた。


「不埒にも覗きをしていたところを自分が見咎めまして」

「違います。姫様の愛玩の品が破損したと、そこな侍女長殿に泣きつかれまして」


 お互いにくるぶしや膝裏を小突き合いながら、ジオグゥと星舟の目はまさに体重計へと注がれた。


「あぁ、それね」


 訳知り顔で頷いたシャロンは、重苦しく自身もその器具を見つめた。


「いやー、それ壊れちゃったんだよ。ふつうに使ってただけなのに、ふだんから使ってたからちょっと残念」

「ふつうに」

「ふだんから」


 上司の愚痴めいた説明から、それぞれ別の単語を拾い上げる。だが、先の星舟の推測を前提とした時、彼らの思い描いた可能性はほぼ同一のものであったに違いない。


「ほらほら、着替えるから出てって。あ、ジオグゥも修理の手配お願いね」


 そう言ってシャロンがグイグイと部下たちの背を押し、半強制的に退出させる。


 ピシャリと閉ざされた戸を背に、武官と侍女は並列した。


 やがて星舟の右目は控えめに、だが確実に何かを訴えたそうにジオグゥの横顔を眺めていた。


「別に何も言ってないだろォ!?」

 そしてジオグゥは、そんな星舟を一顧だにせず全力でひっぱたいた。

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