第十八話

 馬上である。

 夜陰に紛れた恒常子雲が視る南の対岸には、迂回してきた碧納の姿があった。

 その川を遡上して東の本流を進めば、そのまま藩王国の陣にたどり着く。


 おそらくは最大級の警戒を見せる帝国の近衛兵たちは、子雲がこれ以上進もうものなら、たちまちに銃弾を放ってくるだろう。


 またがっている馬は、討竜馬ではない。

 だがこの場合はこれで良かった。彼らの臆病さが、言い換えれば竜種に対する過剰な警戒心が、騎手を救うことになるだろう。


 彼は懐から遺髪を取り出した。

 それをじっと見つめながら、耳を澄ませて周囲の気配の有無を確認した。肌で、風の流れの上下を感じ取った。


 影は、自分を含めふたつ。


 そのうえで、彼はその髪束を、ぞんざいに投げ捨てた。


「良いのですか?」

「どうせ誰ぞの骸から適当に引っこ抜いたもんですよ。繁久のものじゃない」


 夏山星舟や『同胞』とは名ばかりの捨て駒らに向けた恭しさは、上部から取り払われた。

 紳士然とした様子はもはやその背格好だけ。皮肉げな笑みを浮かべて、下馬して背後の客を出迎えた。


「良いのですかはこちらの言いたい台詞ですな。よもや宰相ともあろうお方が、陣を離れ渡河までして、しかも最前線でお一人とは」

「新たなる州都を物見遊山に来たしがない楽師ですよ」

「ご冗談を」

「まぁ事あるごとに都内にあってわたくしどもが口出しすると、それがかえって不協和音になります。それに今後の対応方法、貴方がたの言葉で言うところの建白書はすでに上奏済み。それをお取り上げになるかは女王陛下次第です」

「ははぁ、なるほど。カミンレイ閣下はすぐれた演奏家であると同時に作曲家でありましたか」


 彼女の国の文化に理解を示しながら、子雲は肩をすくめた。

 目の前の年齢不詳の女は、異国の人形を想わせる神秘的な風貌も相まって、現実味というものに乏しかった。あるいは自分が見ているものは秘伝の幻術で、実物の彼女は今も秦桃あたりで筆を執っているのではないかとも思えた。


「で、如何でした? 東方領内の様子は」

「当然のことながら、大半の芽は潰れました。が、先走るような輩も今回で軒並み消えましたので、もう少し手綱を握れるようになりましょう」


 それと、と声の調子を落とす。


「シャロン・トゥーチの暴走を、目にしました」

「ほう?」

「彼女を怒らせるような真似は、避けるべきでしょう。あれは流石に、今の人類の技術力では手に余ります。霜月公とて、太刀打ちできるかどうか。仔細はこれに」


 そう言って報告書を献じたあと、子雲は「あぁ」と、意図的に、ついでのように付け足した。


「あと、夏山星舟に接触しました。紆余曲折ありまして、以後は彼の下で行動したいと思います」


 行動は制限されるが、竜に近しい彼の側近くにあれば、得られる情報はより多いし、ともすれば彼らの行動もある程度は操作することとてできるはずだった。


「では、星舟自身はどうですか」

「あぁ、あれ」


 子雲は鼻を鳴らして即答した。


「貴方はやたら目をかけておられたが、てんで駄目ですな。そりゃあ多少目鼻は利きましょうが、それだけです。あとは大言壮語と過ぎた野心だけが持ち味の男です。にも関わらず情を捨てるだけの気概もない。もっとも彼の展望は計画性がないながらも発想は面白い。酒のツマミ程度に聞くぶんには楽しかったですよ。たしかに愛玩物として見る程度には興味がある人物ではありますが、それだけの男ですよ。きっとどこへも行けず、放っておいてもいずれ身を滅ぼすことでしょう。あえて心を砕く必要もありますまい」


 その雇い主、カミンレイ・ソーリンクルは口許を緩めず、だが睫毛の長い目だけを細めた。

 怒っているのか笑っているのか。異人の表情がどちらの側の感情に起因しているものか、子雲は計りかねていた。


「下らぬ男だと断じておきながら」

 ややあって、口を開いた。

「ずいぶんと熱心に彼を評するではありませんか、子雲殿」


 指摘されて、初めて彼はおのれが饒舌にあの隻眼を語っていたことを自覚した。


「まぁ、精緻であることばかりが作品の良し悪しとも限らない。駄作なれども、不完全であればこそ語りたくなるようなものもあります。そういう下手物の類ですよ、あれは」


 彼女なりの感性を織り交ぜて、警告する。


「これ以上、彼への深入りはしないように」

「心得ておりますとも」

「貴方がこれからも我々と良き友人でいたいのであれば、ですけどね」

「……承知」

「では、引き続き内偵と種蒔きの中継は貴方に一任します」


 言うだけ言って否も応も聞かず、楽師は手渡された手綱を掴んで馬に乗り、そのまま慣れた手捌きでもって馬首を自陣へと翻して駆け去った。


 ようやく自分ひとりとなって、ふぅと息をつく。

 馬を奪われたのは心許ないが、それでも息つくことさえ至難な彼女に近くから離れられたのは、彼にとっては救われた心地だった。

 この地は見渡す限りに自然の豊かな野原だが、あの高楼から見た竜の街の方が、よっぽど広く感じて落ち着けた。


 危険な思考を打ち切って、足下を俯きがちに見る。

 打ち捨てたはずの黒髪は、名もなき雑草にしがみついて、とどまっていた。

 揺れ動くその隙間の奥底に、子雲は霊魂を視た。


 斉場繁久のものだったのか、この髪の本来の持ち主だったのか。あるいは夏山星舟の生き霊か。


 それは子雲自身にさえ分からない。

 あまりに多くを偽りすぎた彼には、おのれの感情の所在は、すでに無意味なものとなっていた。星舟を嗤えはしまい。


「……そうきつい眼をしなさんな」


 ただその中でも、ひとつ確かなことがある。こうと迎えたい末路がある。至上ではないにせよ、就いておきたい席がある。


「あんたらに呪詛をかけられるまでもなく、どうせいつかは使い潰される。だがせめて、こんな面白い時代をできるだけ良い席で観覧して、せめて冥府の土産としたいのさ」


 そう、ただ駒として扱われるのではなく、せめてそういう人を人たらしめる部分は、変わらず自分の内に納めておきたい。

 そのうえで、最期の一瞬まで見届けさせてもらう。


「さてそうなれば、勝つのは藩王国か竜か。あるいは、もしかしたら……」


 子雲はあらためて藩王国の陣を遠望した。竜の碧納要塞を視た。そして星を仰ぎ見た。

 澄んだ空の中に点在する輝きの中の多くは、幾千年もその座標を変えていない。

 だが、その貌は少しずつ色を変えつつあるような気がした。


 二心の士は目を細めながらも肩をそびやかした。

 そして軽やかな足取りで、二律背反の人に参じるべく身を翻した。


第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~ ……閉幕

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