第十七話

 両手を持ち上げたまま、しばしその場に星舟は佇んでいた。だが、びっくりするほどに無反応でい続けた紳士を前に、いつしか興は陶酔とともに覚めた。


「画餅だ、それは」


 すごすごと、自分の席に膝を揃えて戻っていったあたりで、ようやく子雲は言葉を発した。


「画餅かね?」

「結局奴らが上に立つ限り、滅多なことできん。内から支配すると嘯いたところで、生き物としてすべてにおいて勝る奴らにその上権限も明け渡せば、取り込むどころか歯向かうことさえ許されまい」


 だが、彼の語調には、先ほどまでの明確な拒絶がなく、むしろ話を推し進めるだけの材料を、提供している風にさえ感じられた。


「能力は知恵は個々にもよるが、全体を見渡せば人は竜に優っている点がただひとつある」

「それは?」

「数だ」

「……結局、そこに立ち戻られるおつもりか」


 呆れたように、子雲は言った。

 手酌で酒を注ぎ、おのが内の忸怩たる思いを押し流すように、一息に清酒を煽る。


「だから、数の優位あればこそ、その利を活かし竜を攻め切ることもできるというのだ」

「だが、攻められれば崩れる。そういう事をくり返した結果が百年続く土地を取った取られたのイタチごっこだ。このまま長引けば、急激に技術を発展させ始めた諸外国よりもずっと国力は遅れをとることになる。本格的な内政への介入が始まる。現時点でもお前のとこの親分はみずからそれを招いちまったじゃないか」


 二口目を、注いで呷る。

 この男でも、酒に溺れることがあるのだろうか。興味本位で彼の蠕動する喉を観察しつつ、星舟は続けた。


「……良いか? 真竜種は少ない。獣竜種は人に次いで数が多いが、学問や算盤はおおよそ苦手だ」


 まぁ例外はいるが。自身の副官を頭の後ろに浮かべながら、内心で苦笑する。


「鳥竜は分類こそされているが、大本は獣竜と同じだと言われている。ここから先は細かく挙げれはキリがないが、つまりはもし統一国家が成立した場合、肥大化した国の生産や事務を担うのは……人だ。竜は胃袋を自分たちより弱い奴らに握られることとなる」


 かと言って、今更裸で洞窟に引きこもって暮らすことは決してないだろう。穴倉を出た竜は、陽光を浴び、人間の知に触れた。文明の甘美を、官能を、彼らは一度味わってしまった。

 その贅肉をそぎ落とすことは、不可能であろう。


「……画餅だ」

 子雲はくり返し言った。実現性の乏しさ。ただ彼の意に染まぬ部分が、今となってはその一点しかないように。


「そうだな。今は絵空事だとも」

 そしてそれは、星舟の認めるところでもある。

 なればこそ、なのだ。


「だがそれを言ったら、赤国流花の描くものだって、所詮は画餅だ。しかも、あの女の中で紛い物のまま完結してしまっている。それ以上は広がりようもなく、オレたちにとっても旨みがない。それをカミンレイが知らんわけもないけど、あいつはあいつで自国の益のために動いている。いつまでも藩王国に肩入れするとも思えないがな」

「……」

「もちろん、オレの展望にもまだ多くの課題が残されている。とりわけ足りないのは『人手』だ。だが、誰でもいいというわけでもない。特にお前が組んでたような、あんな共謀はかるに足らん小者なんてのは論外だ」


 なればこそお前だ、と重ねて星舟は説得した。

 即妙の武勇があり智慧があり、そして……


 そこまで言わんとして、星舟はその愚を悟って慎んだ。その直後に、子雲は起立した。早足で、障子まで向かった。部屋を出ようとしたところで、呼び止めるまでもなくその足が止まる。


「……しばし、考える時を頂きたい」

「語った以上、多くは待てねぇよ」

「承知しております。……これをしかるべきところへ届け、ここへ帰ってくるまでの四日間。それでまでには考えをまとめておきます」


 心なしか言葉遣いを柔らかくして、子雲は言った。

 その懐から、一束の黒い絹のようなものを引っ張り出し、星舟へと披露する。


「それは?」

 星舟は問う。

「繁久様の遺髪です。状況が状況ゆえに、死を覚悟おられた。そのため万が一何かあった場合はこれを形見とせよ、と……そして汝は生きよ……と」


 寸刻、子雲は、一瞬顔を丸めた紙細工のようにしかめた。その顔を覆い隠すように、指先を目に押し当てた。

 顔を上げた時には、温和ながらも油断のない武人の貌に戻っていた。


「たしかにあの方は、おのが理想や生き様を追い求めすぎて下々の心としばしば乖離することがありました。しかし、その志は疑いようもなく高潔であられた。貴殿はあの方を悪しざまに罵られたが、これより人を信任し、抜擢しようという方が、人の欠点ばかりを見て美点を見出し、伸ばそうとしないのは如何なものかと」


 それは痛烈な批判だった。だが星舟の理念を解さなければ成し得ぬ忠告でもあった。


「……痛み入る」

「しかし意外でしたな」

 素直に非を認め軽く頭を下げる星舟に、身繕いをしながら子雲はさらに言葉をかぶでた。


「あの時の啖呵。貴殿は心底、竜を、トゥーチ家を敬愛しておられるように見えた」


 星舟は息を呑み、唇を引き結んだ。

 彼の沈黙が破られるのを待たずして、男は今度こそ退出した。

 足袋が畳を擦る音。板張りを踏み鳴らし、階を降りていく音。

 それらが止まるまで、隻眼の青年はぐっと奥歯を噛みしめたまま、硬直していた。


 ~~~


 恒常子雲が完全に去った後でも、昴玉楼の主はそのまま居座った。

 かといって女はずっと近づけないまま、ただ無言で独り、酒を飲みつづけたが、酔いとは無縁の心境だった。


 こういうところをあらためて顧みると、やはり自分はあまり人間というものが好きではないのかもしれない。と言って、竜が来てほしいというわけでもないが。特にシャロンには、こういう醜態は見られたくもない。


 今はとにかく、ありとあらゆるぬくもりから離れて、自身の心音だけを聞いていたかった。

 だがそう決めたにも関わらず半刻ほど後には酒にも倦んで、月琴を取り出し弦を弾くこと数節、それにさえも飽いて、とうとう手持無沙汰となった。


 ただ所在ないその腕を、欄干の傍にあって手を伸ばす。

 群青を帯びた天の星海は、光輝を放ちながらもなお、この手の中には落ちてはこない。


 ――あれは、一体なんだったのか。


 そもそも『あれ』とは何を指していたのかさえ、記憶の中にはすでにない。

 全身を貫くような体験を間違いなくしたはずなのに、もどかしいほどに思い出せない。


 それでも今は、あれらが何物であっても良いと思った。ただ、落ちることなく、身を寄すことなく、頭上で輝いてさえくれれば。


 シャロンの影が重なる。十年前の彼女と星空を想う。

 彼女を突っぱねた時の自身やその直前の、子どもじみた恥ずべき振る舞いも思い出す。なぜあんな軽率に。感情を吐露してしまったのか。

 そもそも、なぜ餓えた何者でもない少年は、彼女の血を吸ってしまったのか。


 それでも今は、手を伸ばす。

 いまだ何者でさえ自分と大いなる天をつなげる、一筋の紙縒こよりのように。


 ――この夢と想いは、矛盾していないはずだ。……絶対に。

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