第十六話

 月琴を爪弾くと、ピンと張り詰めた、透き通った音が鳴った。

 それが法則性を持ち、一定の間隔を開けて連続したものとなると、音曲らしきものになろうかという萌芽を感じさせた。


 そこに変調が加わると、その巧拙はともかくとして、四畳半の密室に、風雅が加わった。銀葉に乗せられた白檀の香と相まって、腸さえも蕩かすような甘美さを生じさせていた。


 その余韻は、灯火が盛る夜の六ッ矢に、蜜のように溶けて拡がり、浸透していく。


 またしても負傷療養中となった夏山星舟がみずからの琴曲で無聊を慰めているのは、昴玉楼こうぎょくろう


 この城下町で、今となっては唯一無二の、高級妓楼。

 闇の浅深を問わず客の入る、不夜の城閣。


「お連れ様、いらっしゃいました」

 欄干に半身を預けて琴曲を弾いていた星舟は、室外よりの声と足音に反応して身をもたげた。


 障子を開けて現れた長身の紳士は、男でも見惚れるぐらいの切れるような所作で一礼し、そして膝をそろえて星舟の傍らに坐した。


 自身から誘うまでもなく女が放っておかないだろう色気を持っていた。だが、ふだんはいざ知らず今回ばかりはそれを行使する気はないようだった。


 酒を注ごうとする女に遠慮し、星舟もまたその特権でもって彼女らを退かせた。


「つくづく、矛盾の塊だ。貴殿は」

 開口一番、淡々と客人は言った。


「密室を規制し、密談を糾弾する立場にありながら、その貴殿自身が偽名でもってこのような場を運営している」

「アルジュナ様に許可はもらっているさ。諜報機関、情報源の一環としてな」

「だが、それはつまり人間の女を竜に売っている言うことだ。隷属させるということだ」

「人を女衒みたく言うな。直接的な干渉なし、希望するなら身請けも足抜けも快諾する優良店だよォ、ウチは」

「だが彼女たちにも苦界に身を落とすより他の生き方があったはずだ」

「その生き方ってのは、ドブネズミみてぇな暮らしのことか? それとも蕎麦や饅頭同然に身を切り売りして、梅毒で頭をやることか?」

「……」


 男は答えなかった。


「手に職がない。学もなけりゃ礼儀作法も知らん。そんな女の末路なんてたかが知れてる。それでも人は歌うことができる」

「情緒的な表現だ」


 誰がどう聞いても感情のない声で、白々しく男は言った。

 なんとまぁ会って早々剣呑な、と星舟は思った。だがそもそもはこの紳士、恒常子雲は今の今まで敵だった。無理らしからぬ態度だと考えを改める。


「なぜ、拙者を助けた? ここへ招いた?」

「もったいない、と思ってな」

「もったいない?」


 節がある程度区切りのよいところまで奏でてから、星舟は月琴を傍らに置いた。子雲へと向き直った。


「お前さん、投擲は得意だし格闘の心得もある。……銃の心得は?」

「対尾の決死隊の中で鉄砲隊を指揮していた」

「結構。じゃあ小隊程度であれば、指揮能力もあるというわけだ。オレが投降した時も、胡乱気な目で睨んでいたな」

「何を言いたい?」


 その時と同じ目を、子雲は向けた。

 望みの通りに食いついた彼にまっすぐに、本題を切り出した。


「では手短に言う。オレの部下にならないか?」

「断る」

「即答かよ」


 拒絶の一刀のもとに両断される。

 与する理由がないこととは言え、こうもはっきりと言われるといくばくか心が傷つくものだった。


「言ったはずだ。自分は、人類解放を目指してこの武を磨き、士道を貫いている。今単身生き残り、逃げ場に窮しているとはいえ、何故竜に降らなければならないのか?」

「けどオレには興味がある。だから教えてやったここに、正直に来た。だろ?」

「……たいした自惚れだ」


 笑いもせず、子雲は皮肉を言った。


「同志を失い、潜伏していた者たちも貴殿らに制圧された。他に当てがなかっただけだ。ここの妓女のごとく、竜に媚を売ることなど」

「おいおい、オレの方こそたった今言ったぞ。部下にならないかと」


 仏頂面でい続けた子雲は、そこで初めて反応を示した。

 あの無謀と無能の集団の中で、唯一見どころとある程度の知見を備えていたこの男は、それだけ言えば


「……つまり貴殿は、自身が埋伏の毒たらんと、あえて裏切り者を汚名を被って雌伏していると? いずれ蜂起するその日まで」

「藩王国に味方する気はない」


 一度は晴れた怪訝の眼差しは、ふたたび星舟へと向けられた。


「……なぁ子雲」

 呼吸を知ったる知己のような気軽さで、星舟は敵だった男を呼ばわった。


「そもそも、赤国王の唱える竜種殲滅が、本気で成ると思うか?」

「歴代でも稀有なまでに大器で英邁な陛下であらせられる。十分に信じられる気宇をお持ちだ。その幕下にも一代の英傑が揃い踏み、霜月公は現に真竜種を撫で斬りとした。それは貴殿も知るところであろう」

「そうか。では質問を変えよう。あの出征、汐津藩だけでもいくら使った?」


 加熱しかけていた議論は、星舟の問いをきっかけとして一気に凍りついた。


「少なくとも、追撃の失敗を名目にお前ほどの士を手放さなきゃあならないほどだ。相当の戦費が投入されたはずだ」


 子雲は押し黙った。

 むろん、台所事情まで踏みこめるほどの立場にはなかったはずだが、それでも戦地に動員され、購入した銃器を扱うにあたり、財政への圧迫は肌で感じ取っていたはずだ。


「なるほど確かに、人は竜を殺せる。だがその一勝一殺のために必要なものは数知れん。兵力の大量動員はもちろんのこと、稀代の用兵家、鬼神、外国の助力、最新の銃器、軍艦。多くの条件を満たす必要がある。……続けられるのか? そんなことが。次代に続くのが稀であればこそ、彼らは稀代の傑物たりえる」

「局地戦にまでその全てを投入する必要はない。先の戦のように、機動戦と策でもって決戦に誘引し、大幅に戦力を削り、集団的な抵抗を出来なくさせる。東方領を突破して一挙に帝都を突くことさえ夢想ではなくなる」


 冷ややかな眼光が、揺らぐ。だが弁はその鋭さを保っていた。


「なるほど、じゃあその理想的展開の先のあるものを、帝都を占拠し人の世となったこの国で何が起こるか、予言してやろうか」


星舟はあえて大仰に言ってみせた。


「竜の殲滅なんてどだい無理な話だ。取りこぼしは必ず存在する。彼らは必ず自分たちの棲家を奪還しに来る。そして蜂起の瞬間矢面に立たされるのは、傑物でも鬼神でも金持ちでもない。無辜の民や駐屯兵たちだ」

「……それは、立場が逆でも起こりうることだ」

「それでも、竜の勁さは一世一代のものじゃない。生物としての頑強さだ。一時的に無茶をして優位を得るよりも、上から下に、天から地に、強者から弱者に、という構造にしたほうがよっぽど自然の理に叶っているんじゃないかね」

「だから、隷属するというのか。隷属しろというのかッ」


 声を荒げ、子雲は席を蹴った。


「彼らが天下を取れば、それこそ永劫に人は竜に頭が上がらなくなる! 犬猫と同等の扱いを受けることになる! 貴殿はそれを是とされるのか!? それで父祖に顔向けができるのか!? 支配される子孫たちに、面目が立つとでも!」


 正論でもって星舟を制さんとする彼を、今度はその『裏切り者』が冷ややかに睨み返す番だった。


「……あいにくと、誇りに思える父祖なんざいなくてな。そもそも見てみろよ。外を」


 見るまでもない、と言わんばかりに首を背けた。

 見るまでもなく……外には、抑圧でも苛政でもなく、正常な人間の営みがあった。

 それは男も認めるところであるがゆえに、彼は黙殺したのだろう。


「そう、人間が不当に支配されているなんてお題目は、お前たちの敬愛すべきご先祖様が過剰に喧伝してるに過ぎない。そしてそんな中で不平を言うようなヤツはいやしない。いつしか、それが常識だと思うようになる」

「飼い慣らされることに、変わりはない」

「飼い慣らされる? 逆だよ子雲。オレはな」


 星舟は息を吸う。

 どこかで仕損じる自分を省みて、いつも以上に細心の注意を払って、気配を探る。自分たちが耳目に触れる位置に他者がいないことを確かめる。


 だが、彼の挙動は大ぶりかつ大胆なものだった。

 両腕を大きく広げて夜景を背に立ち上がり、そしてみずからに改めて誓うように、戒めるように強く宣言した。


「オレは、竜に天下を取らせる。、その営みの下に人の機構を作る。そしてその組織でもって、竜たちの生活を内部から支配する。これこそが、人々が生き残り、果てのない報復戦争の連鎖を終わらせる唯一の方法だ」

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