第十五話
束の間に、星の夢を見た。
寒々とした黒い空間に、またたく無数の光を幻視した。
近くで見る。次第に近づくにつれ、正体が明らかになるにつれ、失望が大きくなった。
それはなんのことはない。ただ大きいばかりの、光を跳ね返すばかりの石塊だった。
だが、より遠きに目を移せば、失望はより強い期待へと変わった。はるかな先にやはり光明は点在していた。
無限に続く暗夜航路の中途に、銀を波うたせる、舳の折れた舟のような形状の巨体が漂っていた。あるいは、竜の躯か。
それは今この瞬間に火を吹いたかのように、前肢から突き出した爪をちりちりと赤熱させていた。
その先には、緑碧の巨大な星があった。
舟中に、意識が至る。
真っ白な部屋、廊下。体内か、あるいは胎内か。
その内部に、とうに朽ちて骨さえまともに残らない死骸が散乱していた。散乱といっても、床にではない。空中に浮かび上がっていた。
それをすり抜け、心臓部に迫らんとした瞬間、脳裏に怒涛の情報が、流入してきた。
未来も過去も関わりなく、経緯も結果もかき乱して。
『
意図も意義もまったく分からないまま、箱詰めのまま脳髄へと押し込まれる。苦悶の声をあげる。その筐体をみずからの脳内で開け、神秘の一端なりとも明らかにしようと努力はするが、それはいたずらに自身の脳に苦痛を与えるだけで、語句の咀嚼どころか記憶することさえ叶わない。
ややもすれば、それは彼が明晰さを自負する頭脳を破壊し、廃人とさせていただろう。
「セイちゃん……?」
あどけなさを含んだ、その呼び声さえなければ。
ふと正気に戻れば、そこはちっぽけな、庄屋敷の壁があった。心許なさげな、少女の面影を残すシャロンがいた。
『鱗』の解けた彼女の肩を押さえる夏山星舟の右腕は、光線を掠めて袖口を焼き、皮膚を焦がしていた。
あと一歩でも、その身がずれていたのであれば、右腕は肩ごと消し飛んでいただろう。
隻眼隻腕の将士など、笑うに笑えない。
自分が見たのは夢だったの幻だったのかは分からない。そも、何を見たかさえも判然としない。醒めては味の悪さだけが残る夢のようだった。だが費やした時は、それほど長くはないはずだった。
それでも、彼と彼女の、周囲の状況は一変していた。
見るも無残な死骸の放つ焦げた臭いは、香ばしさどころか鼻先をかすめるたびに強烈な嫌悪感となって襲いかかってくる。
かつてはそれなりの権勢を誇っていたような構えだった屋敷は見るも無残にその痕跡を消し飛ばした。
グエンギィ、ジオグゥの両女傑でさえ、『鱗』を解いたといえ今の不安定なシャロンに接近することにはためらいがあるようだった。
いわんや変事を察して近づいた、あるいは合流したリィミィ、ポンプゥ以下の救援部隊など、強張る表情を隠そうともしなかった。
そしてその惨状に怯えていたのは、他ならぬシャロン自身だった。
我に返ったのは良いものの、自覚なくおこなった虐殺を何の心構えもできないままに目の当たりにしたのだから、これに過ぎる酷い仕打ちもあるまい。
詫びようにも、相手はすでに冥府に送った。弁明をしようにも、その余地がないことを知っているのは他でもなくシャロン自身だ。
ならばせめて、怪我を負わせた星舟へと……などと思っていたのだろう。だが、差し出そうとしたその腕は、今の今まで老人をひねり殺してそのままだったために、脂の浮いた血で汚れていた。
睫毛を伏せて、目をそらす。
手を引こうとする。その指先を、星舟は反射的に掴んでいた。
「え、セイちゃん……え?」
羞恥よりも困惑が勝っているが、身体は反射的に抗おうとしていた。無意識で発揮した力である。渾身の力で踏ん張り、星舟は彼女引き寄せる。それが難しいなると、今度はみずからの身を寄せる。
千切れかけた上着の袖を裂いて、汚れるのも構わず、シャロンの指先を拭った。
「だ、だめだよセイちゃん。汚れちゃうから……!」
そう言って腕を振りほどこうとするが、思う様に力が働かなくてなっていった。次第に力は抜けていった。肩をすとんと落とし、顔もぼうっと緊張を無くしていく。
自身の手を、身体を、星舟へと委ねた。
意識をしないように爪から指の間まで、丹念に慈しんでいた星舟だったが、鮮血を拭ったあとの親指の付け根を、そこに残った桃色の傷跡を見た瞬間は、流石に虚心でいられず、つい目を逸らしてしまう。
それは今ここで負ったものでも、戦傷でもない。指輪のように残るそれは、星舟自身がつけたものだ。彼女との出逢いと繋がりの証でもあり、罪の象徴。
などと表現すれば多少は格好がつくが、実際は人生の汚点以外の何物でもない。
あてどなく彷徨っていた名もなき子が、差し出された食物を取り込もうとして、勢い余ってそれを持っていた竜姫の指まで噛んだ。
今でこそこうして熟視しまければわからないほど塞がったが、後で聞いた話によれば血の出るほどに、針で縫わねばならないほどに深く歯を立てていたらしい。
今にして思い返せば餓鬼の執着恐るべしというか、呆れるほどの身の程知らずというべきか。
散々血を浴びてきた彼だが、傷跡を見るたびに、その時の血の味が、今でも蘇るようだった。
「やっぱり気になるんだ、それ」
他人事のように、シャロンは自分の傷について星舟に問う。
「……償いようのない、大罪でありますれば」
低く沈んだ声ともに、何か言い訳のように星舟は返した。
「私と距離を置くのは、これのせい?」
「……臣下としての、分です」
「私は、そうは思わない。これ罪だなんて」
そう言って、真竜の姫は首を振った。
「そしてあなたを、自分の愛玩物だと思ったこともない。出逢ってから、ただの一度も」
星舟は、宝珠の瞳を見返した。こうして視線を間近で交わす機会など、まして触れ合う機会など、滅多にないだろう。これ以前も、以降も。
手の動きが、意図せずして速度を緩めた。
「セイちゃん、私は」
「オレにとってのあなたは」
彼女が継ごうとした言葉を、星舟は自身の声でもって塞いだ。慕情の告白や、逆に別れ話を口付けで誤魔化すような最低の男のように。そう思われるのも、覚悟の上で。
「星です。星なのです、シャロン様。ただオレの手の届かない天頂で、変わらず輝き続けてくれればそれで良い。それだけで十分なのです」
手をすり抜けて、星舟は自身からその身を離した。肌が触れ合う感触が消えていくのを意識したのは、彼も彼女も同じだっただろう。
「……なのでお助けいただいたことは感謝いたしますが、かくのごとき些事で、今後は御心を乱されぬよう」
ふたたび視線が合う。合ってしまった。
シャロン・トゥーチの瞳には、様々な感情が渦巻いているようだった。
期待。落胆。不安。羞恥。喜び。悲嘆。甘え。切なさ。怒り。混乱。諦め。抵抗。理性。本能。欲望……
自分が野心のために切り捨ててきたものが、絶えず流動していく。
それらが文字通りの虹となり彩となり、織り交ざっていく。ひとつの銀河を双眸の中に描いていく。
決して口にはしないが、美しいと本心から思える。
たとえそれが、星舟や、彼女自身を苦しめる宿業であったとしても。
一礼とともに、星舟はその身を翻した。
自然、退出するその先々では自分を助けに来た女たちの目があった。
グエンギィはさっきまでの怯えはどこへやら。ニヨニヨとしつつどう見てもこの状況ややりとりを堪能しており、その横でジオグゥが「こいつ気持ち悪」とでも言いたげに、星舟の胡乱そうに睨んでいた。
ポンプゥは肝心の人質であった自分のことなどまるで興味などないようで、てきぱきと撤収準備の指示を飛ばしていた。そして主要な顔ぶれの中では最後に、リィミィへと行き当たった。
ジオグゥさえも差し置いて、この小柄な副官ほどに今の星舟に鋭い感情を向けてくる者はいなかった。
まるでこちらの心底を突きえぐるかのような視線が、何を意味しているのか。自分のどういう態度が、彼女の不審と不興を買ったのか。
星舟には分かっていたが、あえて言葉にはしなかった。
――いったいお前は何のために、誰のために戦っているのか?
などと、あえて口にするまえでもないことだった。
何が悪かったのか、自分で考えて反省を促される子どものようなバツの悪さで顔を伏せ、垂らした前髪の奥に隻眼を隠す。
「……今日はもう休め」
露骨なため息。だがそれを吐き出すとともに、顔の険は取れていた。
呆れたように、その中で精一杯気遣われるかのように、肩を小突かれる。
あるいは、真正面から頬を強烈にぶたれるよりも、その痛みは尾を引いたかもしれなかった。
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