第十四話

 それは、火山岩のような威容と勢いでもって落下した。

 形状そのものは女の肉体を保っていた。豊かさも、くびれも、服をまとっている時よりも肉感的に浮き彫りになっていた。


 だが、その『鱗』はそれ自体が刃物の集合体のようでもあり、鉄鉱石の鈍く黒い輝きを持ち、その中に、星のように黄金の点と、その奇跡を描くがごとく流線が刻まれている。


 細身の『牙』は彼女……シャロン・トゥーチ自身の変化に呼応するかのように、おぞましいまでに鋭利に、乱雑にその刀身に突起を増やし、まがまがしく反りが深くなっている。その鯉口にも似たには花弁のごときものが広がって、手の甲にまで至っていた。


「シャロン・トゥーチか。驚いたな、まさか子飼いの危機に、みずからお出ましか」

 繁久が言った。

 『鱗』をまとった真竜を前にして、あえてこの強気。この落ち着き払いよう。その胆力だけは、認めて良いと思った。


 ――だが、これは……まずい。


 一瞬目が合ったグエンギィを、再度、気取られぬよう睨み上げる。


 彼女の隣にいるジオグゥは、主君を追って飛び降りた。だがいまだ梁の上にいる彼女は、そのままおどけたようにブンブンと両の手を振っている。


 おどけた、ように。

 分かっている。内心で振り回され、本気で焦っているのは彼女自身だ。


「夏山星舟を解放しなさい。さすれば、今回の一件は内々に収めます」


 低く沈んだ声で、救いの主が言った。恫喝の響きであれ、圧はない。穏便に、事を終えようという譲歩が見られた。


「お優しいことだね。さすがは帝国内きっての穏健派、アルジュナ殿のご息女だ。人に対して今のように君の温情による美談も、しばしば耳にしているよ」


 まるでおのれが対等か、知己のように振舞う。むろん、それは幼稚さからくる無鉄砲というわけではなかろう。星舟を人質に取り、かつ竜たちが仕掛ける前に彼の喉首を搔き切ることができるという、子雲に対する信頼。それゆえの、強気であろう。


 あるいは自身が生命を惜しまず正義を為しているという、揺るぎない自負ゆえか。


「だがそれは、語弊を承知で言わせてもらうなら、いわば婦人の情というものだ。自覚があるかは知らないが、君にはとって人に向ける感情は、犬猫に向けられるものと同じではないのか。強大な力、無敵の甲冑を持つがゆえの優越に過ぎない。だが我々は畜生と同類ではない。知性があり、言葉があり文化があり、誇りがあり信念がある。我々は対等でなければならないはずだ。違うか?」


 堂々たるその啖呵は、星舟の考えにも通ずるところがあった。そして諸人が言わずとも腹のなかで思っていたことでもあった。

 常のシャロンであれば自分たちの抱える矛盾と合わせて沈思し、自己嫌悪とともに心の隙を生んだだろう。


 だが、


「夏山星舟を解放しなさい。さすれば、今回の一件は内々に収めます」


 鉄面の奥底から繰り出されたのは、一言一句違わない、反復の恫喝だった。

 ここまでの話の流れに一切触れず、ただ自分の要求を片道で突きつける。

 謀反人たちは、本来持ち合わせるシャロンの情の懐の深さと甘さにつけ込む心算を多分に持っていたはずだ。

 だが、見たこともないであろう強硬な姿勢に、面食らい、当惑し、また得体の知れない不気味さを覚えていたようだった。


 そも、彼らの言葉など一切耳に入っていないに違いない。個人個人の顔など、今の彼女の視界にさえ映らない。


 有り体に言えば、今の彼女は、忍耐の尾が切れていた。


「……今すぐ、オレを解放して裏口から逃げろ。お前だけなら逃げ切れる」


 星舟は小さくつぶやくようにみずからを捕まえている相手に忠告した。

 何を言っているのか。胡乱な視線が子雲より発信され、星舟のうなじに突き刺さる。

 今、竜たちに天地より取り囲まれている彼らが命を繋いでいるは、ひとえに星舟を質としているゆえだ。それを手放すことは、おのれらにとって命綱を手放すに等しい。

 この片目はおそらく助けを得たことで自分の力が増したごとく錯覚し、増長し、益体も無い脅しをかけているのだろう、とでも思っているのか。


 だが、シャロンを知る星舟に言わせれば、おのれを解放しないことは下策も下策だ。


 この偏愛の姫君は、おそらく彼が自由にならない限り地の果てまで追ってくる。そして、星舟の頸部に押し当てられた匕首が走るよりも、速く……


 べつに彼らが想像するように威を借りて言っているわけでも、温情をかけているわけでもない。

 ただその場にいることそれ自体が、自分やシャロン自身を含めたその場にいること全員の危機なのだ。


「……残念だよ、多少は話がわかる方だと聞いていたが……」


 不穏なものを本能的に感じ取ってはいつつも、斉場繁久は真の理解には至ってはいない。うろんげに睨み返し、おのれの背に隠れるような老人たちを伴って、身体を少しずつ出口へと傾けていく。それに、子雲と彼に捕らえられた星舟が従った。


「計は破れた。だが我々はまだ死ぬわけにはいかない。いつの日か、ふたたびこの地に斉場の旗を、人類回天の標べとして立ててみせる」


 そう息巻く少年に、シャロンが向けた反応は多くはなかった。


「警告は、した」


 どうやら相手に理解も諾否も求めない一方的な勧告は、今のシャロンにとっての、最大級の譲歩であったらしい。


 次の瞬間、『牙』を剥く右腕で異音が放った。地底に眠る何かが、彼女の腕を介して遠吠えを響かせるような、重低音。


 その音の波が、感覚を狭めていく、高低の幅が拡大していく。それが最高潮に達した瞬間、『牙』の先端が弾けるように、飛んだ。


 湾曲したそれは、短筒のようにも見える。浮遊し、ゆっくりと繁久の鼻先へ。

 彼は身じろぎしない。『牙』もまた宙に留まりそれ以上は動かず。直接少年の貌を潰そうとはしなかった。


「どれほど強がろうとも、斬れないと思ったよ」

 ふぅ、という落胆とも安堵ともとれる吐息とともに、顔を背けて出口へと向かう。


「結局のところ、それこそが君の甘」


 最後まで言うことはできなかった。

 そして未完のまま終わった繁久最後の弁は、大いに誤りだった。


 その『牙』の尖鋭が、光を発した。熱を吐いた。青白い輝きが、小年の側面で膨張し、彼の頭部を飲み込んだ。

 痛みはなかっただろう。無念を感じる暇さえも。

 

 少年の魂魄はその首とともに消し飛んだ。彼は自分たちは獣ではなく知性を誇りを持った人間だと称した。


 だがその知性を無くしてしまえば、残ったものは獣でさえなく、ただの肉と糞の塊だった。


 立ち尽くしたような異様な死体。一体何が起きたのか。首が消し飛んだ主君。それを前にした時、残された老人たちに、くすぶっていたという矜持も、不遇の中で持て余していたという経験も学識も、まるで役に立たなかった。ただ本能に従い、逃げた。


 だが、朽ちた肉体と直感よりも彼女の殺意のほうが、速かった。

 彼女の手の内で、『牙』が崩壊、いや分解した。


 柄頭当たる部分が老人の背に取り付いた。引きつった悲鳴とともにそれを除こうともがく彼は、それの正体を身をもって知った。いや、それが作動する瀬戸際に、知覚したか分からないが。


 柄頭が、老人の背へと触手めいたものを伸ばし、突き立てる。内側へと何かの液体を一定量注ぎ込むと、鉄の触手ごと離れて別の獲物を求めてさまよった。


 その時にはもう、老人の始末を終えていた。

 内側から肉体が膨張し、骨も肉も液体質に変化させていく。やがて原型をなくし、赤褐色の泥団子か葛餅のようになった彼は、主君の亡骸ごとに爆発した。


 その爆炎に皮膚を焼かれながら、ひとりが逃げ出した。肌が焦げ付くのも、衣服の飛び火も構わず這い出た彼は、表の歩哨に侵入者の存在を知らせ、保護を求めようとした。もっとも異変はとうに知られていようが。


 そう、総て、遅きに、失した。

 あるいは、端緒より、選択を誤っていた。


 彼らの頭上に、花弁の鞘が踊る。それは何かを招く儀式的に、法則的に、輪になって回転する。


 灰色がかった天上で、閃くものがあった。それは瞬く間に雲を食い破り、空気の壁を破壊して天地を震わせ、急転直下に落ちた。


 雷に似て非なる何物か。自然現象ではない。純粋に精製された、力と熱の柱。明らかに森羅万象の理から外れた、外つ神の射放った矢であった。

 それが、男たちを、いや彼らの立っていた地帯を根こそぎ焼き払った。


 屋敷が半壊する。地面を溶かす。中に眠っていた地層を赤熱させ、底の見えない空洞を穿つ。


 その場にいた全ての者に、言葉はなかった。

「や、やめ……たす、おゆるし」

 そんな声が漏れ聞こえた。星舟が止める間もなく、取り残された老人の喉は、頚椎は、シャロン自身によって、枯れ枝のように無言で手折られた。


 鉄面に覆われた頭が、内に燃え立つ視線が、今度は星舟を飛び越え、子雲へと向けられた。浮遊する矛先が、彼へと狙いを定めた。


「なんだ……なんなのだこれは!? 聞いていないぞっ!?」


 紳士然とした様子をかなぐり捨て、そう叫ぶ子雲は、星舟を解放して、身を低めて飛んだ。


 誰よりも長じた武芸と危機を判別する嗅覚が、間一髪で光の斉射より彼を救った。彼に代わって家屋の土壁がそれを負った。穴が開けられた。

 星舟は顔を覆った子雲の襟髪を掴んで引き立たせた。耳元で囁き、それから空いた壁へ背を蹴り込んだ。


 とは言え、星舟も安全であったわけではない。もはや、無差別だった。花弁や棘や剣先が狙う標的は、人のみならず竜たちにさえ及んでいた。


 みずからに伸びる触手を、ジオグゥは手刀で振り払った。虎の質を持った一薙ぎはその先端を切断するにいたったが、すぐにまた柄頭は、鉄の芽を生やして伸ばし、元の長さを取り戻した。


 梁で待機していたグエンギィは、足場を蹴って上司にためらいなく軍刀を落とさんとした。だが、彼女たちの間を、熱線すり抜けた。


「あっぶね!?」


 思わずそう口走りながら、グエンギィは空中で身をひねって軌道を変えた。が、そのために制動が間に合わず、柱にみずからを打ちつけた。


「おい、なんで連れてきた!?」

「仕方ないだろ! なんかついてきたんだから!」


 グエンギィを助け起こしながら、非はないこと承知で彼女を責める。八つ当たりも良いところだが、感情のぶつけどころがそこしかなかった。


 次の瞬間には、駆け出していた。彼らを二手に分かれて、棘が追った。


 これが、シャロン・トゥーチがめったに『牙』をを剥かない理由。

 彼女の初陣が遅くなり、過保護気味に育てられた要因。


 神祖よりの血を母方より引き継いだ彼女は、同時にその神にも等しき力も同時に継承していた。

 もし制御できれば、霜月信冬がいかに怪物であったにせよ、遅れを取るものでなく、それ以外の戦場でも彼女一騎在るだけですべてが覆るだろう。


 制御できれば、の話だ。


 だが分散したシャロンの『牙』は、直接的に彼女の心理と繋がっている。彼女の感情の赴くままに『牙』は荒ぶり、また『牙』が暴れるほどに彼女の感情も引きずられ、高ぶっていく。


 だから、シャロン・トゥーチは情深いその性格が安定するまで様々な感情がひしめく戦場には身を置くことができなかった。今なお前線に立てない。

 一旦暴走すれば、多くの味方をも巻き込むだろうから。彼女が大切にする者たちさえ殺すだろうから。


 あるいは、彼女を単身戦陣へと突っ込ませることが、戦力として最適な運用方法であるのかもしれない。

 だが、尊きその身を、神祖に連なるその血統を、従者つけず大量殺戮兵器のように投げ込めるだろうか。

 また、そういう扱われ方をして、未だ少女の如きその心が穏やかで居られるだろうか。


 圧迫された心はある日、平穏の中で、誰かの側で唐突に爆発するかもしれない。文字通りに。


 ――なんという……


 恐ろしい運命なのだろう。

 誰よりも優しく、自然の理に学び、万物を愛する女が、何者をも破壊し、万象の法を覆し、すべてに畏怖される力を持ってしまった。


 星舟は獣のようの吼える彼女を想う。あの星夜に見た、娘のほがらかで無邪気な好意を想う。

 泥のような色味しかない過去の中で、あれだけが彩を持っている。あれが、夏山星舟のすべての始まりだった。


 ――たとえ、星を落とす異形であっても構わない。オレは……!


 についての思索を、打ち切る。

 今の自分に時もなく、位もなく力もない。そんな自分にしかなし得ない一瞬のため、その非力を尽くす。


 グエンギィが自分を呼んだ。だが構わず突出した。乱舞する光線が腿をかすめることにも拘らず、束の触手が背を追うのも度外視し、頭上に展開する花弁をも、意識から外し、ただ影法師のような彼女の姿へ、手を伸ばす。


 次の瞬間、彼の肉体に、じゅうと焼ける音と異臭がした。

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