第十三話
目にも留まらぬ速足でもって息つくこともなく長駆しする。屋敷の裏口へと回り、一気に歩哨の首を絞め上げる。そして一気に飛び上がり、あるいは木と壁を伝って音もなく納屋の小窓から侵入する。
それは、一級の資質を持つ獣竜種や、その上位種たる真竜種であれば容易なことだった。
梁から移動したシャロン、グエンギィ、ジオグゥの三人は、目下に保護対象と敵を同時に捕捉した。
だが、その中心には、謀反人とも人質ともまったく質の異なる人物が立っていた。
気品にあふれた色白の青年。分厚い外套で薄い肌をくるんだその立ち姿は、あたかも聖者の誕生もしくは復活にも似ている。
「謹んで言葉を賜るが良い。斉場家が後裔、斉場繁久様であらせられる」
老人のひとりが彼の名を告げた。シャロンたちは、その頭上の『隘路』で互いの顔を見合わせた。
この六ッ矢における旧支配者層に冠していた一族。彼はその血縁者だという。
「本物ですかね?」
グエンギィは領姫へと耳語した。ひょっとしたら一瞬でも面識があったのではないか、と考えての問いであった。
「わからない」
シャロンは首を振った。
「だけどその真偽に、意味はないと思います」
グエンギィはそう続けられた彼女の言葉に、へぇと内心で感じ入る。
やはり腐っても統治者であるということか、馬鹿とさえ言いたくなるほどの純朴さだが、その辺りの感覚は備わっていると見える。
そう、それが本物かどうかなど、詮のないことで、対外的にそれがどう見えるかのほうが重要なのだ。
おそらくは、彼は藩王国が送り出した、あるいは仕立て上げた刺客だ。
竜は人を支配するにあたり、やはり人の知識をあてにしている。
そうでなくとも、戸籍情報などを握っているのは彼らだから、自然帰順した者たちへの処置は甘くなる。結果、この国は前線に埋め火を抱いて戦っているというのが実情だった。
もっとも、それは今まで土の深くに埋もれていたものだ。その上に、圧倒的な力がのしかかり、暴発の危険など毛ほどさえなかった。
だが、先の敗戦が竜土を大いに揺らした。その結果、地盤に亀裂が生じて導火線はむき出しになった。あとは、藩王国がそこに旧権力者の『
そこまで読んでの、シャロンの発言だった。
――良かった。
グエンギィはひそかに安堵した。
星舟の姿を見た瞬間激発するかと思ったが、その程度の分別を持てる程度には、彼女は冷静だった。
そう、慎重に、隙をうかがう。
星舟を救ったあとは、可能な限りこれから起こりうる『悲劇』を軽減させる。
今は、忍耐の二字のみがある。
「彼の縄を、外しなさい」
弦楽のような純度の高い声で、斉場繁久は命じた。
老人たちが、軽い動揺を見せた。
「お待ちくだされッ」
「この者の今にも噛みつきそうな目を見なされ! 縄を解いた瞬間、噛みついてくるやもしれませぬ」
まるで猛獣扱いだと、グエンギィは笑いを忍ばせることに苦心する。
一瞬、視線のようなものを感じて彼女は気配を消した。
「だからといって将来我らの同志となる者を、いつまでもひどい扱いをしているわけにもいかないよ。それに恒常どのもおられるさ。丸腰の者相手に、決して遅れをとるようなへまはしない」
「恐れ入ります」
我がことのように誇る盟主に、その配下たる長身の男性は恭しくも美しい礼を捧げた。直前に自分たちの気配を察しかけたのは、あの男らしかった。
――先生の言っていた『腕の立つ奴』か。
人の身でありながら、柔と剛、攻と守、いずれにも隙というものが見受けられない、完成度の高い肉体だった。グエンギィが対等の条件で戦っても、十のうち三、いや四は負けるかもしれない。残る六分の勝ちにしても、容易に得ることは適うまい。
恒常と呼ばれたその男が、星舟の背後に回ってその縛めをあっという間に解いた。が、捕縄の心得もあるようだ。さっと解けるということは、その逆も然りと考えるのが筋だ。
「すまなかったね、手荒なことを真似して」
少年のねぎらいの言葉に、星舟が口を開く気配はない。だが気にした様子もなく、繁久はつづけた。
「だが、どうか察してほしい。こうしてでも、君を仲間に引き入れたかったのだ」
声にも、卑しさというものがない。老人たちに刷り込まれているのではなく、あくまで自分で思考したものだというたしかな言霊だった。
「たとえ、潰えると知れた計画であったとしてもね」
星舟は貝のように押し黙っていた。だが、その右眼にはかすかな変化があった。
「若!」
「今日に至るまで確信が持てなかったから言うまいと思っていた。だがどうやら本国は我々を棄てにかかっているらしい。でなければ、増援がとうに送られてきていてもいいはずじゃないか」
ことのほか冷静な判断力に、グエンギィは意外の念にかられた。目を見開くシャロン、星舟も同様だろう。
「けど、君さえ加わってもらえればその状況も好転する」
痛ましい縄の痕跡をいたわるように、星舟はおのが手首を仏頂面で撫でさすっている。
「君のことは恒常殿から聞いている。生還は望み薄と思われていた過日の撤退戦における智勇の駆使、まるで毛色の違う混成軍をとりまとめて、被害を最小限にとどめた。その手腕があれば、いま少し上手に領内を立ち回れるはずだ。そうだろう?」
星舟は否定しなかった。まんざらでもない表情をした。
「もし東方領の懐で持ちこたえているとなれば、藩王国も考えを改めるかもしれない」
これは少々楽観に過ぎるのではないか、とグエンギィは思った。
事は軍事行動だ。この彼らがそうであるように、また自分たちがほぼ第一連隊のみで動かざるを得なかったように、集団というものは動き出すまでに一朝一夕でその令を改めることはできない。厄介な手続きや連携が必要となる。ましてや複数の思惑渦巻く連立政権、合議制ではなおのこと。
だが星舟はそれを口にして否定することはしなかった。ただ苦笑じみた表情で立つのみだ。
「だが、そんな君の現状は、決して恵まれたものとは言えまい」
その星舟の表情から笑みが消えたのは、この時だった。
「そもそもはそのような殿軍を任せられていること自体、君の命は軽んじられているとは思わないのか。そしてそれを成し遂げたところで、特別何かが報いられたわけではなく、さらなる難題を押し付けられる。そんな良いように扱われ、用済みになれば捨てられる」
「自己紹介か?」
星舟が皮肉を言った。だが、みずからの境遇それ自体を否定しなかった。ゆえにその挑発はふだんの切れ味に欠け、敵は余裕たっぷりにそれを受け流した。
「だからこそ、君の気持ちも理解できるというものだ」
「理解……?」
「そうさ。語らうまでもなく、僕らは同士。六ッ矢が落ちたあの地獄に居合わせ、今日に至るまでに竜どもに押さえつけられ忍従を強いられ、忸怩たる想いを抱えて生きてきた」
シャロンが奥歯に力を込める音が聞こえる。
この鈍重ならざるともお気楽な姫様は、今になって気づいたのかもしれない。人質以外に意識を傾ける気になったのかもしれない。
自分たちはそもそも守護者ではなく侵略者で、支配者ではあっても統治者ではないということを。
そして最後は、夏山星舟へと帰結する。
たしかに自分たち竜のために多くの苦役を背負わされてきた『セイちゃん』は、温情と道理ある繁久の説得に靡いてしまうのではないか、と。
「けどその暗黒の時代ももう終わりだ。竜の中にいては力づくで押さえつけられるだけだが、人の中にあればいずれは身を立てることができる。僕たちならば、星舟にふさわしい地位も名誉もいずれは与えられる。……人の世に戻ってきなさい、星舟」
そう言って斉場の御曹司は手を差し伸べた。
星舟は、否定しない。その手を払いのけることも面と向かって拒むこともしない。
飛び出そうとするジオグゥの、肩を押さえて押し留める。
――頼むから、迂闊なことは言わないでくれよ、星舟。
乞い願うように、あるいは祈るように、グエンギィは思う。
もし彼が敵方に与するならば、そのそぶりを見せるのならば、ジオグゥは即この場で、シャロンの制止も聞かずこれ幸いと二心の者として彼を処断するだろう。よしんば脱しても、サガラは嬉々として彼を伐つだろう。
そうなればサガラが次に疑いを向けるのは星舟に昵懇なグエンギィだ。もしくはそれを口実にすり潰すか。
であればこそ、彼女は誰よりも早く星舟を攻撃しなければならない。
ただ、保身のためだけでもない。
星舟に分不相応なまでの野心があることなど、とうに知っている。だが彼女はそれを止めることはしない。愉しみとさえ感じている。
だからこそ。
たとえその場しのぎであったとしても、自分よりも先にこんなつまらない連中に披瀝してしまえる程度の望みであれば。
――私が、お前ごと殺してやるよ。
そう心に決めた矢先、声が、眼下で漏れた。
星舟が、吹き出し、肩を震わせ笑っていた。
果たしてそうかこの不忠者。
それを変心の兆しと断じて身を乗り出そうとしたジオグゥを、グエンギィは変わらず抑え込んでいた。
これは、違う。
この笑みは、同調のためのそれではない。
「いやー……」
不審がる周囲をよそに、星舟は彼らしからぬ、間延びした声をあげた。
「笑っちゃいけないんだけどさぁ」
口端を歪めたままに、紡ぐ。
「本当なら好き放題に喋らせてもっと情報を引き出すのが筋なんだろうけどさぁ……!」
語尾が揺れ動く感情に合わせて震える。
「けど、我慢しろってのが無理な話だよなぁッッ!」
ここまで寡黙を貫いていた男が、吼えた。
笑いながら、否、怒り狂いながら。
浮かぶ笑みは、愉悦のためではない。
くすぶり続け、堪えてきた感情、それが一線を超えて屈折したかたちで発露したものだった。
「与えられるだと……? ふざけんじゃねぇ! 搾取するばかりで何も与えてこなかったのがそもそものお前らだろうが!」
その場にいた誰もが知り得なかった、夏山星舟の貌だった。
「オレはお前らがふんぞり返っていた時分から、ここにいた。クソ溜めの中で、その日の飯どころか名前さえ与えられなかった……ただ存在しないものとして扱われ、誰にも見向きされなかった……!」
シャロンやジオグゥに対しては、表面上は忠良な従者であっただろう。またグエンギィに対しても、理不尽に対して不平をこぼす事はあっても、ここまで憤りを露わにすることはしなかった。
「……セイちゃん……」
その彼が押し隠していた烈しさが、外に弾き出た。それを目の当たりにした時、グエンギィは、そしておそらくシャロンも秘め事を共有するかのような、奇妙な感慨と法悦を得た。
「……そんな何者でもなかった餓鬼に、『夏山星舟』を与えてくれたのは、ヒトではない竜たちだった。……あの方たちだけだ! オレを、命と見てくれたのはッ!」
斉場繁久は気圧された。言葉に窮した。当たり前だ。彼らに浴びせられた怒りは、彼らのみならず、夏山星舟の半生を苛んだすべてに対するものだ。とうてい、二十にも満たない子どもや無能な敗北者たちが二つ返事で受け答えできるようなものではない。
だが、その心火は、彼のまったく預かり知らないところへ延焼した。
「セイちゃん」
隣で静かに呟く。何度も、まるで大切な本を同じ頁を読み返すように。その文字を指でなぞるように。
自身で否定しかけていたことを、本人は受け入れてくれていた。トゥーチ家を、心底慕ってくれていた。
「セイちゃん……!」
ふたたび、静かに呟く。情感の熱がこもる。
だが、その華奢な四肢から発せられる真竜の気は、両獣竜の心胆を寒からしめるに十分だった。
その圧を真近で受ければ、剽悍なグエンギィも剛毅なジオグゥも、ぶわりと額や背に冷汗と粟を浮かせた。
足場となった梁が、悲鳴をあげる。
その下にいた謀反人たちもまた、総身で危機を感じ取ったか。突然雹にでも降られたかのように、剥いた目を上げた。
中でも驚愕したのは星舟自身だった。
救援は、予想していたはずだ。
グエンギィたち以上にリィミィと付き合いが長い彼のことだ。彼女の短刀がここまで運ばれた以上、おっつけそれを嗅ぎつけてくると知っていたに違いない。
でもまさか、領主代理自ら出陣とは、思いもよらなかったようだ。
――おいおい星舟。
硬直する彼に、グエンギィは苦笑を傾けた。
隣からも重圧は加速度的に増していく。そこ慣れなどあろうはずもなく、冷汗は引かない。
シャロンにとって、そして星舟自身にとって、あの啖呵はこれ以上ない最適解だった。
自身の野心など頭から抜け落ちたように激情をぶちまけた結果、この姫様にはこの上ない忠誠心を見せかけ、かつ彼女の情愛を焚きつけてしまった。
感極まり、昂るシャロン・トゥーチと言う名の炉が今、どういう状態に陥っているか。誰よりも星舟が理解しているはずだ。
――そうだよ……いくらなんでも喜ばせすぎだ、お前!
凍りつく場に、美少女のかたちをした爆薬は、みずからを投下した。
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