第九話

 かの領主館の執務室は、かつて寸時訪れた時とさほど変化はなかった。

 かの変わり者の領主代行殿であれば、もっと奇怪な生物の標本だとか、おどろおどろしい模様の壁に塗り替えられていてもよさそうなものだが、意外にも白亜の居城の様相はそのままだ。せいぜい、自筆とおぼしき走り書きや地図の断片が増えた程度か。

 いかにシャロン・トゥーチとは言え、それなりに嗜好の節制は心がけているらしい。


 ただ、完全に無欲には徹せられないようだ。

 地図といっても戦略構想を練るためのものとは思えない。

 そこに描かれているのは動物の分布図や、発見した日時等で、その生活の様や群れの構成などが付箋とともに記されている。

 あるいは雲の形、星の並び、そしてそれに前後する天候の動きや月の齢など、多岐に及ぶ。

 机の書類にそれとなく伏せられているのは、動植物の描写された絵。それも風景画のようなものではなく、事細かな角度から色をつけて描写され、それについての独自の解釈が添え書きされている。


 ――数寄も極まれば、学となるか。


 リィミィにしてみれば門外のものだが、それでも学術的に大いに意義のあるものだという強い共感はおぼえた。


 とはいえ、今はそれを観賞しにきたわけではなく、この偏愛のお嬢様をどう出し抜くか、という一点が問題なのだ。


「……セ……夏山殿が来られないということは、どういうことでしょうか」


 言葉遣いこそ統治者として振る舞いながらも、領主代行の表情には焦燥や心配が隠しきれないでいる。光の加減もあってか、かすかに影が差している。


「いや、ちょっと自分の馬に乗ってる最中に噛まれて転げ落ちましてね。なに、明日になれば寄越しますよ」


 騙す気が本当にあるのか、「自分に任せろ」と事前の打ち合わせで息巻いたグエンギィの説明は、すさまじく雑な嘘だった。

 あきらかに疑わし気に眉をひそめたシャロンは、

「私はライデンを知っています。気性は荒く悪戯もしますが、主人を落馬させるような駄馬ではありません」

 と鋭く言い切った。


「そもそも、領内に入る時点では彼は徒歩であったという報が子分ど……友人たちから報告を受けております。それと、奇妙な『馬車』を目撃したとも」


 シャロンの背後から口を差し挟んだのは、侍女長ジオグゥだった。

 名実ともに彼女の側近となったこの女は、護衛兼諜報担当として、遠近に目を光らせている。


 ――さすがに、単純で近視眼の野蛮竜というわけでもないか。


 初手で明確な矛盾を突きつけられて、リィミィたちは奥歯を噛んだ。

 見間違いでしょう、と白を切るのはさほど難しい演技でもなかったが、


「何かあったのですね。彼に」


 と断定じみた物言いとともに、宝珠の眼差しは両獣竜に定められては、かえって疑念と怒りを強めるばかりだ。

 リィミィは、これでいけると太鼓判を捺した発案者に、咎めの眼を向ける。

 当のジオグゥはどこ吹く風。空とぼけたふうに首筋をかきながら、ふぅと息を蚕の糸のように、細く長く吐いた。


「なに、本当に大したことじゃあないんです。ただちょっと、『相談役』にかどわかされた程度で」

「出動します! 兵の準備をッ!」


 ジオグゥの白状を、詳細どころか最後まで聞くことをせず遮り、若き女竜は席を蹴って立ち上がった。


「これは東方領ならびに竜全体に対する明確な謀反です! すぐさま兄上のもとへ早竜でんれいを飛ばし、このことを報告! 総力を以て事態に対処しますっ」


 矢次早にそう号令を飛ばすシャロンを、リィミィは慌てて制しようとした。

 爆発した怒りが謀った自分たちに向けられることはさすがになかったが、むしろそのほうが良かったかもしれない。

 彼女の判断は、あくまで堅実で合理的だった。領内の膝下で起こった反乱であれば、兄サガラにこのことを報告するのも、間違いではなかろう。ただ、そうなると困るのが星舟やアルジュナであるだけで。


 とは言っても、甘やかされて育ってきたお嬢様のことである。この判断から察するに、夏山星舟、サガラ・トゥーチの表面上の付き合いを、額面通りに受け取っている可能性が高い。


「あなたの兄上とお父上は政治的な理由で反目していますよ。あと、兄上と星舟は互いに憎み合ってるんです。仲が良いとか信じてるのは貴方ぐらいです」


 とは、今更説明もできまい。

 そしてリィミィの物憂げな視線は、ふたたびグエンギィへと向けられる。

 どこまでが本気か容易に悟らせないこと女は、どこから諦めたように目尻を下げて、へらへらと笑っている。出陣の準備をすべく、足早にシャロンは退室しようとしていた。

 ……もうダメだろ、これとリィミィが諦めかけた、その瞬間だった。


「猫かわいがりも、大概になさいな」


 時節は、夏も盛りのころであった。

 にも関わらず、グエンギィの口から嘲笑交じりの言葉が漏れた瞬間、氷の塊を部屋に投げ込まれたような、あるいは自分たちの意識だけが氷室に飛ばされたかのような、そんな空気が生じた。

 荒く音を立てていた、シャロンの沓が、止まった。


「溺愛も程度を過ぎれば、その猫に鬱陶しがられますよ」


 ジオグゥでさえ固まり、シャロン自身もまた怒りよりも驚きが勝ったようなその状況下で、第一連隊長はさらに追い打ちをかけた。


「……なにが言いたいの、貴方」

 振り向いたシャロンの声は、今まで聞いたこともないほどに低かった。


「言葉どおりの意味ですけどね」

 前門の獣竜種、後門に真竜種を抱えながら、ジオグゥはなお態度を改めることをしない。

「あまり大仰に身構えれば、それがかえって星舟の寿命を縮めますよ」


 氷の怒気は、星舟の寿命、という言葉と同時に収縮を始めた。


「考えてもご覧なさい。現状、連中は知れ渡るのを承知で兵を挙げようとしています。ただそれは、こちらが容易に対応できないと踏んでのことです。真竜種各家が大量に死亡者を出したことにより宙に浮いた利権、指揮系統。そのゴタツキの隙なら突けると、タカをくくってるんです。そしてそれは事実でしょう」


 グエンギィの言葉に、偽りはない。もしシャロンの方法で実際に万全に兵を集めて対処しようとした場合、それに時を費やして敵も地固めを完成させることだろう。そして、おそらくは藩王国も呼応して攻め来る。


「連中が夏山を生かしているのは、指揮官が不足しているから、あくまで篭絡せんとしているのでしょう。人間としてまともな実戦経験があるのは奴ぐらいですから。ただ、あの老人たちにしても、その説得に時間をかかている余裕はない。我らが本腰を入れて攻めかかってくると判断されれば、奴の説得を諦めて殺すでしょう。そして、兵備に時間をかければかけるほど、その怖れは強まっていく」


 ――上手い。

 滔々とつづられていくグエンギィの弁明に、リィミィは舌を巻いた。

 挑発的な一撃をくれてやって冷静な思考力を奪いつつ、もっともらしい道理を説いて主導権を自分の手元に引き寄せながら、彼女にとって大本命であるはずの星舟の安否をちらつかせる。


 やはりグエンギィは、何もかもがデタラメな所作に反し、本質的にどういう行動が求められているのか、その本質の把握に長けた将だった。

 直言ばかりの自分にはできない芸当だった。


 ――まぁ、ただこいつら、普通に仲が悪いだけかもしれないが。

 片や未だ睨み、片やそんな薄笑いとともに見返すような心洗われる上下関係を目の当たりにして、リィミィは鼻を鳴らした。


「お嬢様、自分としても、大軍での出兵には不承知です」

 意外な助け舟が出た。侍女長ジオグゥだった。

「今のところ、犠牲となったのは連隊の一指揮官です。カタギが虐殺されてるのならいざ知らず、たかだかその程度で兵を動かせば鼎の軽重が問われます」

「その程度、という言い方はないでしょう」

「申し訳ありません」


 主竜あるじに咎められて、ジオグゥは頭を垂れた。


「ですが、夏山殿は忠義の士です。敵に質として捕らわれようとも、命を惜しむような方ではありません」

 抑揚もなく、臆面もなく、眉ひとつ動かさずジオグゥはシャロンに伝えた。


 そう、夏山星舟をひそかに評価し、信服を置いていたのは何を隠そう、ふだんはいがみ合っていたジオグゥだった……はずがなかろう。

 この女はグエンギィの道理に賛意を示したわけではなく、単純に憎き男に心を砕く主の様子が面白くなく、「死ぬならさっさとひとり野垂れ死ね」といった心境に違いない。


 ただ、それでも陰湿な根回しや妨害に出なかったのは、いかにもジオグゥらしい性分といったところか。

 何はともあれ、その場にいた全員の総意を汲んで、トゥーチ家の令嬢はみずからの焦りを認め、令を改めた。


「では、少数精鋭によって事態を処します。指揮は貴方に一任します。責任一切は、私が負いましょう。……それで良いのですね、第一連隊長?」

「もとよりそのつもりですよ」

「それと、私も出ます」

「お嬢様」


 ジオグゥがたしなめる。だが、それに対して

「ちょっと散歩に出かけるだけ。……というかジオグゥ? 私が、遅れをとるとでも?」

 事もなげに目を細めた彼女の主は返した。

 これは過剰な自信でもなんでもなく、基本的に争い事を控えがちな彼女をしてごく自然に言わしめるだけの、歴然たる事実なのだろう。


「……まぁ、とらないでしょうね。貴方」


 グエンギィは苦みが多分に混じった笑みで、そうお墨付きを与えた。そしてこうなった時のシャロンの意固地さは、誰よりもジオグゥが承知しているはずだった。


「ではせめて、自分もお連れください」

 と侍女は名乗り出て、「ありがとう」とシャロンは彼女を容れた。


 この場にいないポンプゥを加えれば女ばかり。はたから見れば大層鮮やかな五輪の華となろうが。その実情はそれぞれが毒気が強く、しかし質も違えば、別の方向を向いている。……ただひとりの、男を中心として。


 ――私が言えた立場ではないが星舟。どうしてお前の周りの女はこう……


 思いかけたことを、喉に流し込み、胃の腑の奥底までぐっと押し込める。

 そのまま消化するのも、愚痴として吐き出すのも、すべてはあの半端者を救い出してからだ。


 かくして、過日「あんまりにもあんまりすぎる女ども」と評されたリィミィとグエンギィは、さらに厄介すぎる爆弾をふたつ抱え、捕らわれの男を救うべく動き始めた。

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