第八話
「隊長の、バカァッ!」
かの連隊の駐屯地にしている、大嶋三佐神宮跡は、六ッ矢の、いわゆる三層目の区画にある。
人の言うところのこの世の創始者である軍神が眠るという鎮守の森と川が囲み、天然の要害の趣を持つそこは、守備隊の駐屯地というよりかは、さながら山賊の住居のようであった。
だがそれは、領主館を攻めんとする敵を挟撃するための出城ともなる、重要な拠点でもあちゃ
そんな中で、今日もポンプゥの嘆きがこだまする。
上官の手によってまさぐられた着衣は乱され、その羞恥で目元を熱くし、屈辱の涙で軍服の袖を濡らす。
女性同士の戯れの範疇とは相手の言い分だが、もし男性の手によって行われていたら、破廉恥漢の所業であったことは疑うべくもない。
「今日こそ辞めてやるぅ……辞めて、お上に訴え出て、あの痴女を獄門へと送ってやるゥ……」
しかし彼女が泣いて飛び出すのも、恨み言をこぼすのも、通算五度目のことだった。今年に入って。
「辞めるのは結構だが」
声が、横合いから聞こえてきた。
毎度痴話喧嘩じみたポンプゥと上官のやりとりに、口を挟む者は部下の中でも多くない。下手なことを言えば、かえって刺激して八つ当たりを食らうことになるからだ。
「その前に、頼みがある」
だが木々の合間から抜けて出てきた女の声は、ためらいもなく、そしてごく自然にポンプゥの足を止めた。
彼女にとっても、慣れ親しんだ姉弟子の声だった。
「あ、先輩! 聞いてくださ……」
その声があまりに平静そのものだったものだから、ポンプゥは振り返りがてら愚痴をこぼそうとした。だが先輩……リィミィの姿を目に入れた瞬間、固まった。
自分に負けず劣らず少女然とした彼女の姿は、自分以上に汚れ、荒んでいたのだから。
白衣は土に汚され、髪は好き放題に乱れている。おのれのことのみに関しては神経質なリィミィらしからぬ、立ち姿だった。
「ど、どうしたんですか……その姿」
動揺したのはポンプゥばかりだ。リィミィは淡々と……いやおそらくは後輩を落ち着かせるためあえて……常と変わらぬ物言いで、用向きを伝えた。
「グエンギィ隊長に助力を仰ぎたい。今、会えるか」
〜〜〜
カラカラと鳴るような豪快な笑い声が、狭い室内を揺さぶった。
自身がもたらした凶報とはまるで逆の反応に、リィミィは憮然とした顔つきでそれが収まるのを待っていた。
「帰って早々に誘拐! まったくあいつは平時においても退屈させてくれないな。あははは!」
前身は西院とおぼしき一角に、第一連隊長グエンギィの居室はある。
本来は神域と呼ぶに相応の清潔感のある板張りの部屋だったのだろうが、今は使い古した土瓶やらビィドロの球やら、はたまた飲みかけた蜜酒などが無秩序に散乱し、見る影もない。
そしてその中に公務に携わる書簡など、一切見当たらなかった。
それを冷ややかに脇見しながら、リィミィは咳を払った。信に値する星舟の盟友と見て頼った彼女だったが、早くも後悔し始めていた。
やはり、経堂あたりでも良い。第二連隊だけで対応すべきだったか。
そう思いながらも切り出した手前、退くわけにもいかずさらに並べ立てる。
「冗談と捉えられては困ります。公然と謀反人が現れたということは、さらに飛び火する可能性が高く、ひいては事がうちの夏山のみならず竜全体に」
「どれだけだ?」
「え?」
「敵の数は、どれほどいた?」
明るく軽やかな音調はそのままに、問うてくる。口も目も細まって常と変わらぬ笑みを称える。だが、笑声は消えていた。針金を通したように、場から弛緩が消えた。
「……相談役だった老人が三人。あと、やたらと腕の立つ護衛役が一人」
ふぅん、とグエンギィは鼻を鳴らした。
「ポンちゃん」
彼女は副官を愛称で呼んだ。
リィミィを案内したすぐ後にこの居室から退出していたポンプゥは、帳簿を持って足早に帰ってきた。
「はい。事前に先……リィミィ副隊長に伺っていた特徴から、その相談役は斉場の旧臣である笛末、濃田、久能手の三方だと思われます。彼らの禄高と普段の金遣いから、動員できる兵力はさほどの数ではないかと」
傍に歩み寄った副官の示す数字に目を向けたグエンギィは「まぁせいぜい合わせて三〇〇程度か」と一読しただけで目算を立てた。
彼女が問わんとしていたことが、当時の状況ではなく、彼らがこのまま挙兵に及んだ際の兵力だと、そこに至ってリィミィは気づいた。
「とは言え、相談役たちは一蓮托生。残る役員たちも今回の件に加担していると見て間違いはないでしょう」
「で、連中が『光夜』の残党を囲っているともなれば、また話は変わってくる」
『光夜騎士団』。先に領主館を爆破しようとした、人種絶対主義者たち。ついぞ、その名と存在を忘れていた。
「と言っても、兵力自体はたかが知れている。容易に潰せる。問題はそこじゃなく、時だ。そうだろう?」
「……時間をかければ、星舟の命数も危うくなる、と?」
ごく当たり前のことを口にしたリィミィに対し、グエンギィは目を丸くした。
「驚いたな」
と、彼女は言うほどには感情のこめずに返した。
「サガラ様のこと、忘れてない?」
そして続けた。
「サガラ様がこのことを知れば、どうなるかな」
「……まさか、見殺しにするよう手を回すとでも」
よもや不仲かつ潜在的政敵だとしても、そこまであからさまな謀殺をするだろうか。疑問視する彼女の前に、グエンギィは席を立って歩み寄った。
「逆だよ逆。サガラ様は救うよ。間違いなく、率先して。けど、それは星舟の命が惜しいからじゃない。奴に恩を売るためさ、あるいは弱みを握るとも言って良い。とにかく、それで父親の考えの出鼻をくじき、彼らの首に鈴をつけるために。そしてそれは星舟にとって死ぬほど耐え難いことなんじゃないのか」
それは、リィミィの中には聞くその寸前まで存在しなかった道理だった。
――こいつ、ただ戦ばかりできる酔いどれじゃない……。
とグエンギィを見直したのは、その時だった。
兵の進退だけで、第一連隊を務めているわけにあらず。政治的嗅覚と均衡感覚あってこそのこの見識なのだ。
グエンギィはすっと指をリィミィの白衣の上になぞらせた。
思わず身をすくませるリィミィだったが、その手に日頃の好色の気配はない。
「あーあー、こんなに汚しちゃって」
とぼやき、
「これでここまで走ってきたの?」
と尋ねる。
その指が、派手に土や木っ端で汚れた箇所で留まった。
彼女の獣の瞳が、
――誰かに見られるとは考えなかったのか?
と静かに問責した。
みずからの過失に顎を引く彼女に、グエンギィは薄く目を細めた。
「改めて言うよ、先生。……『驚いた』。まさかこの程度のこともわからん輩に連隊の副官が務まるとはな」
軽妙な表情にも、冗談めかしい声音にも、変化は見られない。
だが、獣竜種の敏感な感覚でのみ汲み取れるような領域で、東方領第一連隊長は冷たく譴責していた。
リィミィがグエンギィはの評価を改めるのとは対照的に、彼女は相手の不見識に対し失望と憤りを示したのだ。
「もういい。後は私に任せてくれな」
リィミィ自身の熱をも連れ去るように、グエンギィはその身を引きはがした。
冷えた肩を落として、リィミィは唇を薄く噛んだ。
もし自分に本物の獣の尾なり耳なり生えていたら、垂れてより一層の無様をさらしていただろう。
「あまり気にしないでください、先輩」
気落ちする彼女に、ポンプゥはそっと耳打ちするように慰めた。
「あの人、ふだんはだらしないけれども、声を出して笑うなんてことはめったにないんです。笑うとすればそれは……相当切羽詰まっているとき」
そういえば、とリィミィはぼんやりと思い出す。
絶望の撤退戦、その殿軍の与力として招かれた時もグエンギィは現れるなり高らかに声を響かせていた。
「かなりお気に入りなんですよ、貴方のところの隊長が」
含み笑いにかすかな強張りめいた緊張をにじませながらその副官は上官の真情を代弁した。
「あいつは相変わらず悪運がいい! 無駄になッ!」
耳語が聞こえているのか。照れ隠しゆえのあえての大音声か。憚りなく、両手を広げたグエンギィはそう褒めた。
「幸い、サガラ様は碧納を視察中だ。伝わるにはまだ時間がかかる。それに、我々はこれから教練を願い出ている。多少の兵を街中で動かしても、怪しまれない。まだ我々の内で収められるはずさ」
る、と続こうとした言葉が、彼女自身の息を呑む音で遮られる。
ややあって、「あー」と間延びした、カラスのような濁った鳴き声を発し、眉を下げて俯いた。手の置き場のない机、その縁を軽く拳を作って小突いた。
「先生、『彼女』に任務の報告したか?」
愚鈍と暗に揶揄されたリィミィだったが、グエンギィが誰のことを指したのか。そしてそれの何に難があるのか。それが察せられぬほどではない。
三者の気鬱げな眼差しが、遠く西へと注がれる。
「こりゃ、思った以上に血が流れるぞ……」
先にあるのは、領主館。
アルジュナが退いたその執務室で、おそらく誰よりも星舟の帰還を待っている真竜種の娘がいるはずだった。
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