第六話

 国境の関所の口にリィミィの姿が見えた時、星舟はほっと息をついた。

 ようやく、想念渦巻く魔境から脱したという心地さえする。いや、本来の自分たちからすれば背に拡張される領域こそ在るべき場所なのだろうが。


「嬉しいね、そんな出張ってくるまでオレに会いたかったか」

 自身の安堵を押し隠すように、あえて軽口を叩く。

 

「人間たちの発展の様子をいち早く聞きたかっただけだ。あんたの安否はその次」


 対する副官の反応は、にべもないものだった。

 いわゆる「好意を持つ相手につい意地悪なことを言っちゃう」乙女的なものではなく、徹頭徹尾、本心からそう思っている冷淡な眼差しだった。


 そんな彼女の塩っ辛な対応でさえ、今この時には郷愁じみた感傷をおぼえた。


 星舟は、かつての自身では考えられないほどの丹念さでもって、警備隊へ帰国の手続きと近隣を治める小領主たちへの挨拶回りを終えた。

 迎えに来た動機はともかくとして、リィミィが同伴と事前の根回しをしていなければ、それらはもう少し剣呑な、尋問めいたものとなって手間取っていただろう。そこは素直に、感謝した。


 その彼女の要求に、星舟は答えることにした。


「……という塩梅で、竜に大勝して国中は大浮かれの好景気。銭も物もばんばか回り、秦桃の港にも国内外の船が溢れてた。反射炉も作ってた。郊外に完成済みのものが一基、建設中のものが三基。これはあくまで目視出来ただけの数だ」


 出来るかぎり客観的な言い方をした。だが、客観的であろうとすればするほどに、説明はより踏み込んだものとなる。


 藩王国は、急速な革新を遂げようとしている。その事実を、現場から離れて初めて痛感する。


「そっちの方はどうだった? オレが留守の間に何か変化はあったか」

 そのことを自覚した星舟は、それとなく話題を切り替えた。


「別段何も。強いて言うなら、サガラ様は絶好調。その強権は日増しに強まる一方だ」

 六ツ矢に直通する街道筋に、ささやかな風が絶えず吹いていた。そろそろ、蝉の声が植樹の合間にから聞こえてくるようになっていた。


 途上の駅舎に預けていた雷電に乗る星舟に、馬丁か徒士のように付き添いながら、リィミィは「ただ」と平たく続けた。


「まだ風聞の域だが、政庁としての機能を碧納に移すのではないか、と囁かれている」

「は? 六ツ矢はどうなる?」

「風聞、と言っただろう。まぁその場合は、おそらく最低限の守備を残し、そのままアルジュナ様の住居となるはずだ。……あのご隠居の発言力は、さらに削られる」


 アルジュナの力を削がんとするのは予測していた動きだ。

 だが、その場合の移転先が碧納というのはどうか。下手をすれば、敵兵の動きが目視できるのではないかという最前線ではないか。


 だが、怨敵の動向に危惧や嫌悪を抱くよりも、その意図を模索したい。


「再決戦の気運を高め、士気を高揚させるのが目的なのかもな」


 リィミィはそう見解を述べたが、もし真実ならばそれだけを理由に周囲の反対を覚悟で断行するとも思えない。


 今後の命運を鍵を握るのは海路と判断した、ともとれる。


 あるいは真竜種さえ殺す藩主霜月を、避けるべき鋭鋒と捉えたのかもしれない。

 ――六ツ矢と七尾藩の所領では、近すぎる。

 一方碧納であれば、彼らの間には諸藩の領がある。いかにそこがかつての七尾の旧領といえ、素通りとはいくまい。

 皮肉にも、敵の勢力が自分たちの壁となってくれるのだ。


 あぁ、と思わずくたびれた声が漏れる。

 国内外で、大いなる流れの転換期となっている。その潮目に、自分は立っている。にも関わらず、両者の動向に怯えるように右往左往し、振り回されているしかない。


 ――ええい、やめだやめだ。なんでオレがいちいち不愉快な連中に煩わせられなきゃならんのだ。


 東を見ても西を見ても頭が痛いことばかりであれば、今この時の自分のすべきことを見つめ直そう。


「で、遺産の整理の方は?」

「アルジュナ様の口添えもあって、あとお前が及ばずまでも女王を引きずり出してケチをつけたことも漏れ聞こえてきたおかげもあって、気持ち悪いぐらい上手く行ってるよ。あんたの屋敷の半分ぐらい、資料で埋まっている。一通りは取りまとめてやってるから、家に帰ったら決済にかかれ」

「……そいつは重畳」


 皮肉げに頰を引きつらせ、星舟は下馬した。

 しばらくは手綱みずから引いて進み、夏山の牧に至ると、老いた下男に雷電を預け、トゥーチ家本領に帰参した。


 それから、星舟はためらいがちに尋ねたら。


「カルガル君は、どうしている?」

「は?」

「カルラディオ・ガールィエは、どうなった?」


 それとなく、冗談めかしく尋ねる腹づもりだった。だが、結局踏み込んでしまった。その表情には、強張りがある。


 結果、余計にリィミィの不審を招いたようだった。

 かすかに眉根を寄せて、だが彼女は律儀に答えた。


「教職に就いた学友によれば、家督を継承するため、退学したそうだ。サガラ様以来の麒麟児と称されていただけに、そいつも残念がっていた。もうそろそろ、こちらに帰ってくる頃合いだろう」

「…………そうか」


 ごく自然な相槌を打ったつもりだった。だが、口の中で石を舐めているかのように、舌の動きは鈍かった。


「これだけは、言っておくぞ」

 ため息混じりに、リィミィは星舟の前に我が身を割り込ませ、漫然とした彼の歩みを止めさせた。


「私があんたに協力しているのは、ひとえに自分が培ってきた知識と理論の証明のためだ。だからもしあんたが、いやが、つまらん感情移入をして目的を見失うようなことがあれば、見限る」

 冷ややかな宣告とともに、リィミィは見上げるように星舟を睨み据えた。

「そしてブラジオ・ガールィエの死に対し夏山星舟に責任を求めることは、彼への冒涜に他ならない。お前のお姫様の言っていたとおりにな。例えそれが夏山星舟自身であってもだ」


 それは叱咤と呼べる温情を持ち合わせてはいなかった。

 もし彼女が言ったとおりのザマに夏山星舟が成り果てたとしたら、リィミィは間違いなく切り捨てるだろう。


「オレが、ガールィエ家に不必要に同情しているとでも?」


 バカも休み休み言え。星舟はそう笑い飛ばした。

 生前言えなかった悪口でも付け足そうかとも考えたが、とっさには思いつかなかった。


 韜晦するのは止めた。

 リィミィに視線の矢を射返し、答えた。


「後悔なんてとうに通り過ぎた。今あるのは純粋な反省だ」


 どこが違う? そう問いたげに唇を開きかけた彼女に、続ける。


「対尾で敗けたあの時、オレに足りなかったのは兵でもなけりゃ武器やトルバでもない。竜からの信頼だ」


 「奴らがオレの言葉に耳を傾けていれば」と、敗戦の前後にはそう恨んでいた。だがそうではなかった。

 互いに生命を託し合う関係を、そこに至るまでに築けなかったおのれに責任があるのだ。

 アルジュナは、それをこそ知っていたからこそ自分に信を稼げと暗に助言し、今回の事業を任せたのではなかったか。


「だからオレはここから始める。まずは自分の周囲から地固めする。その間にサガラにも赤国流花にも、大きく水をあけられるだろう。というか、最初から立つ地点が違う。けど、それがどうした」


 そもそも、自分の究極とするところの目的は、目先の他者と争う類のものではない。要は、自分がその地点に到達すれば良いものだ。

 いくつもの敗戦と失策を経て、星舟はその境地に至った。


「為すべきを為せ、在るように在れ、か」

 誰ぞが遺した言葉を、星舟は強く噛み締め、胸に納めた。


 リィミィは、ますます呆れたように眉間の溝を深くさせた。


「今さらそんな大前提の初歩的な条件の話をさせられてもな」

「……気づいてたなら言ってくれない?」

「気づいてないなら気づいてないとちゃんと言え」

「言えるかっ」


 そんなとりとめもない会話の合間に、笑い声が横から挟まれた。


「これはこれは、いつもながら賑やかことですな」


 粘りを帯びたその声の主に、ふたりは振り返った。

 人でも竜でもない、大きく長く、鼻を突き出した異形の顔が、そこにはあった。


 だが、決して初めて見る造形ではない。似たものも、これと同じ獣も、星舟は間近で触れたことだってあった。

 だが、竜の国領で、ましてトゥーチの本領で、それ……トルバの牽く馬車など目にするとは、ついぞ想わなかった。


 車に繋がれた黒馬は、不機嫌そうに生臭い息を吹きかけた。深編笠をかぶる御者は、脇へ逸れるよう手で合図を送ってきた。

 胸糞は悪くなったが、他でもない。大路で言い合いをして彼らを妨害していたのは自分たちだ。


「これはこれは……しばらく見ないと思えば、ずいぶんと羽振りが良くなったご様子で。『相談役』の皆々様……」


 咳き込みながら、星舟は車の右隣へと回り込んだ。中から現れた老人たちは、馬の唾液のごとく、悪臭さえ漂う粘っこい笑みを浮かべていた。


「夏山殿こそ、都から都へ、文字通りの東奔西走。さぞ大変であったことでしょう。……今からその復命を?」

「まぁ、そんなところです」


 無役にして無益な彼らが、顔を突き合わせるたびにみせる嫉妬や、そこから目をそらす為の侮蔑は、この時ばかりは見受けられない。


「よろしければ、ご一緒しませんかな? この馬についても、ちと話をしておきたい」


 普段は浅薄な人間たちが、この時ばかりは言い知れない圧力を持っていた。

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