第二十六話

「勝った……?」

 竜軍が去った対尾港に陣する藩王国総軍。その陣中で不気味なほど長く続いた静寂。

 それを破り、最初に口にしたのは、誰だったのか。


 だが確実にそれは伝播を始めて広がり、やがては歓喜の色を増して、大地さえ揺らすどよめきへと変わり、山々を震わせる喚声と化した。


 兵士たちは武器を投げ捨て両手を突き上げ、あるいは上空へと祝砲を放ち、傍らの所属も身分も違う者同士が抱き合った。

 本来は彼らの暴走をたしなめなければならない立場の者たちもまた、熱くなった目頭を押さえていた。


 無理らしらかぬことであろう。

 それは、今までのような多大な被害を出したうえでの辛勝ではない。

 これは、野ネズミのように巣穴から這い出るようにして得た功ではない。


 まぎれもなく自分たちは、正面から彼らを打ち破ったのだ。


「そうだ。我々は勝った。いや連中を、狩ったのだ」


 その声に、劣らぬ声量の声が響き渡った。

 戦場とは不似合いな、凛と鳴る女性のもの。喜んでいた兵士たちの身体に、緊張がはしり、誰が戒めたまでもなく、場は静けさを取り戻した。


 巨艦より現れた軍服の女王。颯爽たるその姿を認めた者から、膝を突いて彼女を出迎えた。

 船上より彼女に侍っていた海軍司令官、それに地上で待っていた異人の女を伴って、赤国流花新王は国土を踏んだ。


「諸君。まずは落着、祝着。大儀であった。よくぞ、若輩新参たる我らの指揮に、惑うことなく従ってくれた」


 そうねぎらいの声をかけた時には、すでに低頭しない者はなく、畏敬の眼差しでもってこの戦女神に拝していた。


「だがどうだ? 彼らは決して無敵などではない。神ではない。技術を極め、英知を尽くせば、彼らの怪力を無力化できる。そういう時代が訪れたのだ。諸君らが何よりその証人ではないか!」


 姿勢は屈したまま。だが彼女の弁はそんな兵士たちが静かに発する熱を高めていく。


「今日この日より! 虐げられてきた日々は終わる! 彼らの傲慢をくじき、我らの領土と矜持を取り戻す戦いが始まる! 彼らの占領する地で圧政に苦しむ同胞たちにこの報を届かせろッ、それが偽りでないことをさらに示せ! そして追い落とせ! この地をあるべき形へと戻すのだッ」


 喝采が沸く。新王を称える音声が響く。

 照れもせず、また奢りもせず、当然の賛美と受け止めた流花の背後から船員たちが酒が運ばれていき、各陣中へと供された。


「まぁ今日のところはだ。勝ちだろうと負けだろうとすべて忘れて、飲めッ」


 先ほどとは多少毛色の違う喚呼と賛美が、一帯を振動させた。



 この戦の立役者たちが戻ってきたのは、そんな折だった。

 着到を報せられた流花はただちに彼らを眼前へと迎え入れた。


 七尾藩主霜月信冬はともかく、本来手足を視界におさめることさえ憚れる身分差であった。義勇兵は弥平以下、委縮しきって震えながら平伏していた。

 今まで死地に身を置いていたはずだろうに。

 その長たる少年は、その光景を滑稽に感じた。


 ――でも……


 少年は少年でまた、それとは別の理由で身を硬くしていた。

 赤国流花を盗み見、感動に打ち震えた。


 ――お綺麗だ。あの時と……いやそれ以上に。


 だが数年前の面影を持つ彼女は、彼ではなくその隣に進み出た大頭巾の男へと身を寄せた。


「霜月殿。危険な役回りをよくお引き受けくださった。感謝します。今後ともその武勇と精兵には活躍していただきますぞ」


 と、固く手を握りしめて、下にも置かぬ破格の遇し方だ。だが、この母親の胎の中に感情を置き忘れたかのような男は、ぼそぼそと陰気な声で、


「すべては、国のためなれば」


 と、短く答えたきりだった。


 そして流花は、今度は少年たちのほうへと目を向けた。


「貴様らも、雄藩にさえ勝る八面六臂の活躍であったと聞いている。いずれ、それに見合った褒賞をとらす。望みは金品か、取り立てか、領地か。あるいは年貢の免除か」

「も、勿体ねぇお言葉で! そのような望みは思いもよらず。ただおれらの村を、いえ国を守らんがために立ち上がっただけで」


 惚けている少年に代わり、弥平が代わりに答えた。一生懸命に練習していた口上を、つまずきながら額を土に擦り付け述べていく。

 本来は権勢にへり下るような肝の細い男ではないのだが、それを差し引いても、彼女が放つ威が彼を身分相応の卑屈さにさせてしまうのだった。


「まぁ、細かい話は秦桃に帰ってからだな。何しろ前例というものがない大勝だ。その論功賞もまた、類を見ないものとなろう」


 そう言い置いて、自身は艦へと戻っていこうとする。


 ――やっぱり、覚えていないか。

 誰にも理解されない軽い落胆と、寂寥を少年は俯いたままに噛み締めた。


「おい」


 思い焦がれていた声が降ってきたのはその時だった。


「私がくれてやった簪は、まだ持っているか」


 その声がまるで天啓か雷のように、少年の体躯を貫き、起き上がらせた。


 本来は目通りさえ許されない身分差。そんなことさえ忘れて、彼は女王の背を凝視する。


 振り返った横顔が、涼やかに眼を細め、口端が悪童のように吊り上がる。


「忘れて良いような約束を果たしに来るとは、律儀なヤツだな。……網草あみくさ英悟えいご


 生まれ出でし時から決められていた、おのれの名。そのはずなのに、今その瞬間に自分がそう名付けられたように楽信は錯覚した。

 否、自分の生命は今この瞬間より本当の意味で得たのだと思った。


「はい……っ、はい! まだ、この懐に!」


 竜に勝利した瞬間でさえ流さなかった涙を、英悟は一筋、二筋とこぼした。

「まぁ、そこな大頭巾殿に合わせようとはあまり思うなよ。命が惜しければな」

 とぼけたように肩をすくめさせ、流花はふたたび背を向け、歩き出した。

 また、離れてしまう。なまじ心を通わせてしまったがゆえに、未練はいっそう強くなる。

 何か話題をと模索する義兵の少年は、膝で土を擦りながら大声を発した。


「そう……そうなんです! 霜月公はまさに鬼神の働き! 数多の竜を殺傷し、あまつさえ明らかに精強な巨竜でさえ討ち取りました! サガラ・トゥーチも、あるいは討ち取れたかとッ」


 女王に反応はない。

 だが、意外な人物が、彼女に追従しようとしたその足を止めた。


「……今、なんと言った……?」


 そう反応を示したのは、異国の女楽師。たしか名をカミンレイとか言ったか。

 年齢不詳な彼女はそれ自体が楽器であるかのような美しく、硬質な声色で、彼に問うてきた。


 意外な人物の思いもよらない食いつきに、英悟は言葉を詰まらせた。

 代わり、霜月信冬がそれに答を返した。


「サガラ・トゥーチは本陣にはいなかった。あの男が指揮を執っていれば、いま少し苦労をしたかと」


 ~~~


 外では、夜を徹して酒盛りが催されていた。

 優雅さとは無縁だが、陰気など微塵も感じさせない、活気と陽気にあふれた宴だった。


 対して、竜軍が本陣として使っていた台場では、陰鬱な面々が顔を突き合わせていた。否、それぞれが床に視線を落したまま、自身の鬱屈や後悔と対峙していた。


「長範殿」


 そのうちのひとり、この勝ち戦において唯一勝ち星を得られなかった男に、カミンレイは静かに声をかけた。


「……ははァ!」


 やや妬ましげに外を横目で睨んでいた家老は、ハッとしてように視線をふたたび伏せた。


「あなたはわたくしの密命に従い、よく敵をここまで誘い込んでくれました。その後も信じて耐え忍んでくれた。その奮戦の甲斐あって勝利も飾れたことですし、わたくし自身はしがない演奏家。将兵に対する処罰の権限は持ち合わせてはいません」


 残念ながら、と内心で付け足した。


「よって、今回の一件は不問に処します。部下にも落ち度はあった」


 傍らのヴェイチェルが、その巨体を隆起させようとした。それを、ダローガが脇から押しとどめた。

 この男の短い忍耐が焼ききれる前にそう裁きを終えたカミンレイは、委縮する現地人の肩を叩いた。

 感謝の言葉を述べようとする彼よりも先に、その耳元で囁きかける。


「ただこれ以上我ら相手に余計なことを画策すれば、それこそ本当にを引くことになりますよ?」


 とたん、男の額から汗がどっと吹き出し、額や首筋を伝って、顎から床へと滴り落ちていく。

 だんだんと所在をなくしていく視線が「何故それを!?」という混乱を隠せなくなっていくのが、滑稽だった。


「話はここまでです。もう行ってよろしい」


 その汗が引かないうちに、女楽師は家老を退出させた。

 多少溜飲が下がった、といった調子のヴェイチェルは腹に落着きを取り戻したようで、腰を深く落としていた。


「お前たちも、よく分かったでしょう。この大陸に住まうのは、かつて我らの先祖が滅ぼした知性なき野人や飛竜たちとは訳が違う。私たちに通じる価値観や思想を持ち、中には国内外の知識を積極的に取り入れようとする賢者もいる。陛下やお前たちはあくまで彼らを獣とみなしているようですが、彼らが他の国……たとえば『三花』などと国交を結べば、かなり厄介な位置づけになる。それをさせぬために、来ているのです。認識を改めなさい」

「……まぁ、今回一杯食わされたのは、人間の小僧でしたがね」

「そのようですね」


 それは先に報告を受けている。

 指揮官の名まではまだ教えられてはいないが、東方領本領、第二連隊長は人間の身でありながら正攻法と奇策を織り交ぜ、今回の殿を忠実に務めおおせたという。

 こと、ヴェイチェルにおいてはいたく誇りを踏みにじられたらしい。今も忌々しげに舌打ちしながら、だが見えない敵に張り合うように不敵さを見せていた。


「だが奴ら、よほど慌てていたらしい。せっかく奪ったトルバの多くを道中に逃がしていたわ」

「……で?」

「四方に散っていたし、話を聞きつけた他のサルどもも必死で探しておったが、なに。今部下に回収に当たらせている。ほとんどは接収できるさ」

「…………そのせっかく鹵獲した希少も希少の軍馬を、何故敵が道中で手放したのか。何故散らして解放したのか。何故それを他の隊が知り得たのか。そこには頭が及ばないわけですか」


 カミンレイのわずかな声色の変化で、ダローガもまた察したようだった。だが、珍しく雄弁をふるうヴェイチェルに、直接説明をしようとはしない。やや苦みのある愛想笑いでごまかすだけだった。

 そしてカミンレイもまた、執事の意図を汲んだ。


 ――たしかに、過ぎたことをいちいち粗探しする意味はない……


 もはや演奏は終わり、多くの観客は興奮と感動を味わっている。

 たとえそれが演者自身の満足のいくものでなくとも、もはやできることは幕の裏で渋面を作ることぐらいだ。


 それ以上は何も言わず、部下のふたりを退かせた。


 それから数日ほど後。

 各藩の隊が自領に撤収していくなか、残って事後処理をしていたところに、偵察が戻ってきた。

 突如降ってわいた気配に、振り返りもせずカミンレイは藪から棒に尋ねた。


「で、様子は?」

「貴女の予測されていたとおりですよ」


 と、それなりに年季の入った男の声が影を伸ばすとともに答えた。


「和浦から続く野浄やじょう平入ひらいり。西に続くめぼしい竜軍の港湾は焼け落とされてます。政庁や代官所からは人員から戸籍、航路図。はては走り書きに到るまですべて回収のうえ。さらに東西の橋が落とされていて、対岸の碧納へきのうには防塁がこしらえられている。あれは事前に準備していたとしか思えません。ですが、撤収自体の指揮を執っていたのは」

「サガラ・トゥーチ」


 やられた。

 表情には柔和さを保たせたまま、臓腑を自身の迂闊さに対する怒りで焼く。

 恐らくはある程度までは撤退の総指揮を執っていたはずだ。だが、安全圏まで至った直後に自身は少数の兵とともに戦場を離脱。事前に配備していた軍勢と合流し、各港湾を廃棄した。自分たちに、使わせないために。


「おまけにただの自落というわけでもないようで」

「と言いますと?」

「やれ『分良藩の部隊が略奪したのだ』とか、『異人が襲ってきた』とか『七尾が焼き討ちをした』とか、そういう埒もない風聞が流れています。事実、ウクジット隊の腕章が襲撃された村で発見されたようで」

「……何名かの死体が見当たらないと思ったら」

「まして竜たちは有史以来、略奪をした事例は皆無に等しい。それに自領を焼くなど、一般的な感性からすればありえない。自然、近隣を焼いたのは勝ちに奢った我らというのが、もっぱらの説で、我らの評判はガタ落ちです。被害を覚悟で総軍で攻めればあるいは碧納は落とせるかもしれませんが、その後の統治、守備……そして開港、入植ともなると」


 カミンレイは振り返り、眼力でもってその男の口を封じた。


 ある程度の妨害は予想していた。だが、それをはるかに上回る周到さと悪辣さで、サガラは今後の構想を打ち砕いてきた。


 ――おそらくはあの男は、気づいている。

 いくら勝利を重ねようとも、領土を切り取り資源を確保しようとも、本国と自分たちをつなぐ『海』を取らねばたちまちに補給は限界に達して立ち枯れるということを。

 ただでさえ、皇帝とその側近たちはこの軍事的介入をただの軍資の浪費、元帥令嬢のお遊びと見なしているフシがある。流花と先王、父からの進言で今回の出陣か叶ったとはいえ、あちらから補給路を拡張することはまずありえない。


 せめて土地勘のある汐津やら分良やらに余力があれば。

 あるいはヴェイチェルらがトルバの回収などにかまけずさっさと帰陣してきていれば。いやそもそも、トルバ自体をむざむざと奪われていなければ。

 彼らを威力偵察として差し向けて、奪取まではいかずとも妨害ぐらいはできたものを。


 おのれのとりとめのない悔恨に、彼女は首を振った。

 相手に完璧さを求めるのは、自分の悪癖だ。何より、他ならぬ自分自身が、最後の最後、指揮杖の振りが一拍子遅れたのだ。口では油断を禁じながらも実際は竜を安く見積もり過ぎていた。


 そう自覚を持つと、怒りは収まり、確たる道理となってカミンレイの腑に落ちた。


 ――しかし、まさか全軍の撤退それ自体を囮とするとは……


 件の殿軍の将はその策を知っていたのか。いや、それはありえない。

 ブラジオ・ガールィエが死んでいる。注意を引くためだけに、戦没者の碑銘に書き連ねて良い男ではない。


 ――なのに、何故……

 何故、その男の小手先の戦術と、サガラの戦略はかくも噛み合っている?


 まったくの偶然か。あるいはサガラが一方的にそれを利用したのか。

 そもそも、その男には自分が敗残の将ではなく、竜軍の一挙瓦解を防ぎとめた陰の功労者だという自覚はあるのだろうか。


 ダローガの人物評では「小才が利くものの、感情的かつ衝動的で詰めの甘い小者」とのことだがどうにもそれだけではない予感がある。


「なんと言いましたか?」

「はい?」

「例の第二連隊長です」

「あぁ、夏山星舟ですか」

「せいしゅう」


 この国では多くの耳慣れぬ言語を聞いてきたが、その中でもとりわけ発音しづらい名であった。


「戻ってきたばかりですが、もう一度貴方には彼らの領内に潜り込んでもらいます」

「次の楽章に進むわけですか」


 彼女の流儀に合わせた物言いで、影は答えた。

 彼に軽く頷き返し、「それと」と、一本の指を立てた。


「ことのついでに、頼みたい用事があります」

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