第二十五話

「そこがもう矛盾しちまってる」


 わかっている。


「今藩王国あちらさんにはこの上ない戦の天才がいて、竜よりも強い狂人がいて、あんたらが飛んだり走ったりするより速い船を駆る水軍がある。それをまとめ上げた最高の王様が座ってる。そんな連中に、自分らは負かされ、追い出された。いったいどこに、庇護すべき弱者がいるんです」


 そんなことは、言われるまでもなくわかっている。いや、分かっていたはずだった。


 自分たちの道理が、大義名分は、とうに破綻していることになど、だいぶ前から気づいていた。


 それでも、認めたくはなかった。

 たとえ全能の神たりえないにせよ、生命として上位種であるはずの自分たちよりも、運命が卑小で、多分に過ちを犯す憐れなる者たちが上回ることを。


 認めるのが、恐ろしかった。

 保護し統括していた彼らが自分に向けていた笑みや信頼が、表面だけのまやかしであったなどと。

 そんな彼らに公明正大に接しつつも、歪んだ優越感を抱いていたことが。

 逆に思い通りにならぬからこそ、そして自分とは真逆の生き方をしながらも信望を下々より得ているかの隻眼の孺子を、嫉妬によって憎んでいたことを。


 あぁ、そしてその孺子。

 天の差配とは、なんと皮肉なことか。


 この小賢しい男が、今の自分の行動を予期していなかったことは、大きく見開かれた単眼が証明している。


 おのれとて、知らずその身体が動いていたのだから彼自身にとっても驚きだ。


 ブラジオ・ガールィエは、我が腕と引き換えに夏山星舟とその小姓を、彼方へ投げ飛ばしていた。


「ぬ、うぅぅぅ……!」


 鉄柱にも似た鈍器が、肘から下の腕骨を砕いた。素体といえ、今まで食らったことのない激痛が、この男を苛んだ。

 だがそれはもっと早くに、体感しておくべき痛みだったのだ。自分を信じ、代わりに死んだ者たちに、とって代わって受け止めるべき罰だったのだ。


 ひしゃげた腕を、ブラジオは容易に引っ込めなかった。逆にみずからを叱咤してさらにその腕を押し伸ばし、かの魔人の鉄塊を抱き込んだ。


 さすがの怪力でもってしても、ブラジオ渾身の抵抗には苦戦を見せた。表情には出さないにせよ。いやこの男にそんな感情は存在するのだろうか。

 恐ろしいほど、思考の切り替えが速い男だった。鉄が引き抜けぬと判断するや、刀をブラジオの脇腹に突き入れた。


 だが、それが狙いだった。それゆえに、今まで変身をせずにいたのだ。

 その刺突が肺腑に達する間際、彼は自身の『牙』を剥いた。

 祖神、父祖より受け継ぎし『鱗』が彼を覆い包む。刀身を、我が身に取り込んだままに。

 これで、この男の武器を奪うことに成功した。だがそれは、自身の生存のための退路を断ったにひとしい行為だった。


「ブラジオ殿!」


 そこにいたって、ようやくその目論見を汲んだらしい。部下の獣竜二名に抱え起こされた星舟が、声を張り上げた。


 その右目が、まるで我が父でも案ずるかのようにもの悲しげに歪んでいた。


 ――散々に迷惑をかけられた、毛嫌いしていた相手だろうに。


 それらの遺恨一切をかなぐり捨てて、この人間は竜を本心で案じていた。


 そのことを、ブラジオはおかしがり、口腔に広がる血潮とともに面の中で笑みをこぼした。


「離れてくれ! 狙いが定まらん!」


 あの人間の銃士が銃口を彷徨わせながら言い放った。

 だが、一瞬たりともこの大頭巾を自由にさせてはならないことを、我が身でもってブラジオは知っていた。わずかでも腕の力を緩めれば、こいつは鉄棒一本でもって、周囲の夏山勢を撲殺して回るだろう。


 その銃士の背に、七尾藩兵が突っ切ってきた。主人が苦境にあるにも関わらず、その死んだような視線は目の前に立っている障害……すなわちこの銃士の排除しか念頭にないようだった。


 取っ組み合ったまま、その上背でもってブラジオは銃士を突き飛ばした。かろうじて彼は迫る凶刃の軌道線から逸れた。彼に代わり、ブラジオの背が数太刀を浴びた。が、それは鉄音を弾くのみであった。


「どうだ。貴様の業物、いかな魔力があるかは知らぬが台無しにしてやったぞ」


 ブラジオは、そう声を大に『牙』を、七尾藩主の脳天に叩き込もうとした。

 だが対する信冬は、一片の悔しさも滲ませなかった。


「?」

 ただ、やや厚みに欠ける眉の根をかすかに、訝しげに歪め、


数打やすもの、買い直せば良いだけだが?」


 と言った。


 信冬の両手が、武器を放した。腰を深く沈めてひねった。

 すぼめた指先が、神速で突き出された。


 の右手は、『鱗』を貫通した。ブラジオの巨大をそのまま浮き上がらせた。

 もう一方の手が、さらにその傷穴を穿ち拡げる。


 そしてあろうことか……素手のままに、彼は真竜の肉体を、上下ふたつに引き裂いた。




「迷った」

 なぜ戻ってきたのか、という青年の問いに、自分はそう返答した。

 だがそれは、決して冗談のつもりでもおためごかしでもない。


 あの時、真実自分は迷っていた。


 かれらとは何か。おのれとは何か。

 自分たちが掲げる前提が覆った時から、それを見失いながら、そして次なる何かを求めてこの死地に到った。


 その夜、彼に逆に問うた。お前こそ、何故そこにいるのかと。

 決して届かぬ星のまたたきに手を伸ばす愚か者。そいつは、いっそ清々しさまで感じさせるほどの厚顔さで、恥もせず答えた。


「自分の信条に、人も竜も関係がありません」


「人にせよ竜にせよ、その個々には使命や運命というものがあります。そしてそれは天よりゆだねられたものではなく、おのれの才気とここまでの積み重ねによる結果でしかない」


「余力才覚がありながら座して諦めて、何もせぬもの。それをこそ自分は憎みます。そうならぬためにこそ、この夏山星舟は戦うのです」


 まるで生命の真実を語るがごとき、途方もない言。果たして奴自身がそれを本当の意味で理解しているのかはともかく。本心より紡がれた言葉は、まちがいなくブラジオの目をふたたび開かせた。


 自分は、何者か。

 ブラジオ・ガールィエである。

 真なる竜の亀鑑にして、人類の庇護者である。

 そこに、人の変化も竜の盛衰も関係はない。

 ただ己は己として、そうあらんとすれば良い。

 自分を信奉して散った部下たちのためにも。自分を慕った民草のためにも。そう生き方を示した妻子のためにも。


 ――その結末が、これか。


 思考を続けたまま、ブラジオの上半身は、落下していく。

 あふれ出る臓物も、血液も、霜月信冬は浴びなかった。


 すでに興味の失せたように、七尾藩主は鉄棒を拾いなおして悠然と走り去っていく。兵たちが、それに続く


「見事! 信冬公! 見事!」

 そう言ってはしゃぐ少年の声は聞こえたが、自分の首を取りに来る様子もない。

 もはや首を獲って殊勲の証とする時代が、人間たちの中で終わったのだと思った。


 どちゃり、と音を立ててブラジオの半身は自身の血と臓物の中に沈む。

 通常ではありえない視界の角度、同じように落下した自身の半身が見えた。


 なるほど一部とはいえ自分の脚の裏などはこう見えていたのかと、奇妙な感慨をおぼえながらも意識が薄れゆく。


 その先に、あの青年がいた。

 敵の退路からずれた位置にいる。彼の読んだ通り、敵は退く先にいる相手には容赦はしないが、脇道に武功を求めようとはしなかった。


 異様な光景ではあった。

 中央突破を許したすえの乱戦ではあったが、互いに隣り合った敵にこれ以上は拘泥せず、それぞれの本隊に合流するべくすれ違っていく。


 だが、夏山星舟は、今の彼の手に余る地獄を脱した。敵が避けて通っていく。


 まるでブラジオを含めた他を犠牲にしてでも、彼を何処かの果てへと引っ張っていく、超常の意思が働いているかのように。

 彼自身の増長のとおりに、ともすればそれ以上の運命が彼に割り振られているかのように。


 それは、果たしてこの片目の青年にとって幸か、不幸か。


 だが、最期に庇ったのがあの連中で良かったと思う。

 それは、実は好意的に感じたからではない。力量こそ認めざるを得ない部分はあったが、死に際においても虫の好かぬ男であることは変わりはない。相手にとってもそうだろう。


 だがしかし、いやだからこそだ。

 互いに嫌悪する相手だからこそ、みずからが掲げた信念を選り好みした偽善ではなく、本当の意味で貫徹できたというたしかな実感があった。


 無念ではある。だが、充実も感じている。


 これ以上己の生に付け加えるべきものは何もなく、前時代の象徴はその変遷とともに去る。痛でもあり、快でもある。


 忌々しくも、今は極小卑弱であろうとも、だがたしかに新しき風を感じる人間たちへ。


 そして今は遠く離れていようとも、自分のすべてを受け継ぐであろう我が子へ。


 伝わるかどうかは知らず、遺す。




「為すべきを為せ、在るように在れ」

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