第二十四話
「やぁ、どうやら、間に合ったようだな」
グエンギィが手を目元に当てながら声を弾ませた。
「……違う。手遅れだ」
星舟は彼女に聞かせるでもなく呟いた。
開けた平野。とうに逃散はしているだろうが、この戦地にも、視認できる範囲で民家は確実に点在している。
ここに至るまでも、遠巻きに人の目はあった。兵のものにしては気配を消しきれていない。
おそらくは怖いもの見たさの見物人か、あるいは時代錯誤の落ち武者狩りか。
それが意味するところを、あえて星舟は周囲に伏せた。
とっさの機転で相手の真意をくじいた、という筋書きでこの場はぬか喜びをさせておかなければ、士気に関わる。
敵に斉射を浴びせた銃士隊が転身してきた。
先駆けて大将に一発くれてやったのは、もちろん経堂であった。
「仕留められなかったか」
もとよりそこまで過度な期待はしていなかったから、落胆はなかった。
だが、この陰気な男にしてはめずらしく、苦さを隠さず経堂は答えた。
「その片っぽの目でご覧になってたでしょう。風向きも読んだ。直前まで悟られていた気配はなかった。よしんば避けられたとしても、偏差を読んで二発目で仕留められる。そのはずだった。にも関わらずあの野郎、ろくすっぽこっちを見もせず捌きやがった」
星舟は無言でいた。自分とは別の方向で、経堂はこの状況を危ぶんでいた。
「あれと、今から衝突するんですかね」
と。
隣には、ブラジオの目があった。
さしもの剛竜も、一度敗北を喫した相手には慎重なようで、とりあえずその場では口を出すことはしなかった。
彼の様子を確認してから、あらためて星舟は経堂を含めたその場の全員に命じた。
「西南に移動しつつ、敵の退路を塞げ。決して正面から挑むな。一対一で戦うな」
〜〜〜
後背を扼した敵部隊が、その五芒の星旗が、西に推移していくのが、義勇の兵を率いる少年からも見て取れた。
おそらくは自分たちが来た道、七尾天神沿いの山道を塞ぐハラだろう。
「霜月公! これ以上は無理だ! 大敵を目前に無念だろうけど」
退こう、と声を大にして促すまでもなく、かの若き七尾藩主は周囲を護衛で固めた敵総大将の前より離れ、すでにその身を翻していた。少年とのすれ違いざま、
「用は済んだ、帰る」
と、抑揚なく言い残して。
その男、霜月信冬が何かを指示した様子はない。軍鼓のような合図で示し合わせたわけでもない。
だが彼が駆ける後を、兵たちは声もあげずに追従していく。彼らを狙う銃剣にも弾丸にも構わず、ただ退却という行動に専念する。
流れ弾で隣の兵士の頭部が撃ち抜かれようとも悲壮さひとつ浮かべず進み、眼前に軍勢を遮るモノあれば、個々人を犠牲にしてでも排除する。
それはもはや呼吸が合っているというよりかは、虚飾や比喩もなく一個の生物だった。
頼もしくはあるが、近代の武装、合理的な戦術でその身を固めた義勇兵たちにとっては理外の存在だった。
一手遅れた義勇兵たちが、自然その露払いを務めることとなった。
さしもの彼らも、三方に敵を抱え、移動じながらの防御陣形の形成は、困難を極めるというものだが。
いや、違う。
手応えのなさと違和感を覚えた民兵の長は、すぐに悟った。むしろ露払いをしてくれているのは、彼らだ。
彼らの異様さに圧されるかたちで、竜たちは必要以上に距離をとっている。それで、自分たちの安全が確保されているのだ。
だがしかし、いやだからこそ……
「彼らを死なせるな!」
少年は軍剣を突きつけ喚呼する。
そこに甘えるわけにはいかない。
自分がすべきことをするのだ。正しいと信じられることを為すのだ。
「でもよォ、良いのかよ」
援護体制を整えつつも、副将の役割を買って出てくれている同郷同年代の弥平が口を尖らせた。
やや鳥嘴に似た鼻を突き出した先に、道を阻む敵多くを殺傷する七尾藩兵の姿があった。
「奴らに全部かっさらわちまって、手柄がねぇってのに」
「構わないさ。彼だけが唯一、竜と少数でぶつかって対抗しえる存在だ。僕たちでも、そこまではいかない。今後も彼らとの連携は不可欠だ」
それに、と一度語を留めてから、その白皙に薄く朱を差して目を細めて見せた。
「
怪訝そうな弥平の視線を振り払うかのようにあえて少年は声を張り上げ、弧を描いた剣先で前方を指し示す。
「さぁっ! あれなる敵を打ち破り、英雄として凱旋しようじゃないかッ」
その先には戦風になぶられ流される、星の旗があった。
そこに直線で突っ込む、大頭巾の大将の姿があった。
総量で重さ二〇基蔵はありそうな棍棒と刀を手に、平野を疾駆する。
横列に並んだ銃口が、彼を十字に狙っていた。そして装填を終えたそれらが、一斉に火を吹いた。
だが霜月信冬は……、宙に、飛んだ。
二階建ての高さに相当するほどに浮き上がり、並みの十歩にも劣らぬ先の地点に降り立つ。
それはもはや跳躍の域を超えて飛翔と言うほかなかった。
忘我していた小隊長があわてて自意識を取り戻し、再度の斉射を兵に命じたがもう遅い。
左右に蛇行をし始めた信冬は、それらの着弾よりも速く動き、間合いを詰めつつあった。
もとより、十字砲火は集団に打撃を与える時にこそ最大の効果を発揮する。絶えず移動する個に当てることは想定に入っていないだろう。
むろん、中には腕の立つ射手もいて、彼を狙撃せんと付け狙っていたようだが、むしろ彼が警戒する必要があったのはその一点のみだった。むなしくその一射は金棒に弾かれた。
そしてそうやって翻弄されている間に、後続の七尾藩兵もまた、いくつかの縦列に分かれて敵への突入を開始した。それこそ、彼らが旗印に刻む多頭の蛇のように。
射線を超えて斬りこんだ信冬の一閃が、敵の銃士隊を潰した。
鮮血おどるその有様を、その刹那を、敵も義勇兵たちも、呆然と見ているほかなかった。その一瞬を注視していた彼らには、そこだけ時間の流れが止まっているかのように感じたことだろう。
だが実際それは、目にも止まらぬ進撃であったはずだ。
――勁い。
義勇兵とその主将は、あらためて感じ入った。
真なる美食に例える言葉が見つからないように、比較のしようのない桁外れの暴威は、ただそうとしか表しようがなかった。
~~~
星舟は鼻先に血袋でも突きつけられたかのような心地で、顔をしかめた。
久しく嗅いだことのない、味方が流した血の臭いの濃さだった。
頭が痛くなる。その悪臭が、鼻腔から入って精神をかき乱した。
「あらためて厳命をくり返せ! 正面衝突は避けろッ! 適当に前を開けてやりゃあ、敵も積極的には仕掛けてこない」
副将のリィミィにそう通達し、彼女も異論なくそれを承諾した。
「いや」
だが、別の男の胴間声が、低く重く、拒絶を示した。
「たとえ甚大な被害を出そうとも、奴らはここで仕留めろ!」
そう雷声を飛ばしたのは、誰であろう、ブラジオだった。
「藩兵どもさえ食い止められれば、あの大頭巾は我が仕留める」
「ブラジオ様」
「あの恐れ知らずの供回りさえいなければ、一騎打ちで、身体能力で遅れをとろうはずもない。そして頭さえ打ち砕けば」
「ブラジオ様ッ!」
星舟は声を荒げた。真竜相手にらしからぬ態度だと我ながら思うが、目の前で味方の一部が潰走させられた。穏やかな気分でいられないのは自明の理だった。
「指揮官である私の頭越しに令を下される理由は、あの化物への復讐心ですか」
「そんなわけが、なかろう」
あくまでもブラジオは進み出ようとする。
それに内心で舌打ちしつつ、それでも懸命に己を律して、一定の礼儀は保っていた。
もっともそれは、ブラジオ自身とて同じであろうが。
「貴様もひとかどの将であるならば、いや一個の命であるならば、うすうすは気づいているはずだ。あんなものどもはこの世に在ってはならぬ。今討てるときに奴らめを討たねばこの先、竜……いやこの天下自体に如何な厄災をもたらすか知れたものではない、と。そしてたとえここで奴らと相打ちになろうとも、それは遂行すべきなのだ、と」
このような瀬戸際にも関わらず、周囲の兵には動揺がはしっていた。
それは、命令系統が分裂したからではない。ブラジオの語る言葉に、一定の道理があると考えていたからだった。
目の前に迫りくる異質な兵の在り様が、その殺戮が、心をそうざわめかせるのだと。
星舟とてそれが例外ではない。
――だが。
隻眼の将校は、踏みとどまる。
「それは、我々の役割ではない。ここまで活路を求めて死線をくぐってきた兵たちに、最終的に自分の生命を盾にしろと命じよとでもいうのですか……?」
「星舟」
ブラジオがおのれの名を呼ぶ。今まで聞いたこともない、すがる児童のような調子で。
――なんて声、出しやがる。
ふしぎと泣きたい気分になった。思えばはじめて名を呼ばれたかもしれなかった。
肩を掴もうとしたその手を、星舟は振り払った。
「貴殿には助けられた。ここまでの道中、我ら単独では、より苦労も犠牲も増えたでしょう。偽りなく感謝と尊敬をおぼえています。ですが、あえて諫言をお許しください。……引っ込んでろ。これはオレたちの戦だ。アレ相手におめおめ逃げ帰ったあんたが、そんなこと言えた義理か」
星舟の言葉には、常の慇懃さも虚飾もなかった。向後のための打算、次の瞬間までの自分の生命の保障。それら一切をかなぐり捨てた暴言だった。……いろいろな意味で、限界だった。
そして一度でいい、そうした本音をぶつけなければと思っていた。ふとこの瞬間に思い立ち、直後にそれを口にした。何故そうなのか。今頭が沸騰し、自暴自棄に近い状態にあった星舟には、その思考をまとめて結論づけるだけの余裕はなかった。
「……いや、大将。この方が退いたのは俺が」
自分の部隊に甚大な被害をこうむって引き下がった経堂が、何かを言わんとした。だがその胸板を突くようにして続きを妨げたのは、他ならぬブラジオ本人だった。
多分に幻滅と嘲りの意を、橙果色の瞳に込めて。
「ならば、卑怯で卑小な人の将よ。せいぜいおのが責務をまっとうするが良い。……
とのみ言い置いて。
ひっ、という引きつった悲鳴が起こった。
その方角を首を向けた瞬間、総身が硬直するのが分かった。
数歩先に、霜月信冬がいた。
血を絡めた二振りの得物を怪鳥のごとくに拡げ、強く大地を踏みしめていた。
ほんの数秒間の指揮の乱れ、集中力の欠如。そこに消極的対応という方針が重なって、あろうことかこの男の陣深くへの介入を許していしまった。いや、それさえも見透かす超人的な戦術眼か、あるいは神通力でもあるのではないか、この怪人には。
――まだ疲れも見せず、単騎で斬り込むか……!
いや、斬り込むというよりかは、もはやそれは爆弾の投下に近い。その一段がひとたび自陣で爆発すれば、計り知れない被害をこうむる。
外側からのとっさの援護は期待できない。何しろ、向こうも七尾藩兵と義勇兵の対応でかかりきりだ。
その人間爆弾の進路に、小柄な影が震えている。
シェントゥ。伝令役にそば近くに置いていたのがかえって災いしたらしい。
本来の彼の逃げ足であれば脇に逸れて回避もできただろうが、完全に威に呑まれてしまって思考を放棄している。
その様相は、象に無関心に踏みつぶされる野兎といったところか。
今までの例に漏れず、そのまま信冬の前方に立ちくしていれば待っているのは……
星舟は舌打ちして打って出た。
一歩遅れて制止の声が左右からかかり、何本もの手が袖を引こうとする。
だがそれよりも速く伸びた星舟の両腕がシェントゥの細腰をかっさらって、草地へと我が身ごと引き倒した。
股に、焼き鏝でも押されたような激痛と熱が襲った。
確かめるまでもなく、斬られた。かわしきれなかった。
先に大刀を潰されてさえいなければ一太刀浴びせるとはいかずとも、防御のひとつもできたのだが。
「ご、ごめんなさい……ッッ、おれ、なんかのために」
自分を取り戻したシェントゥが、涙を浮かべて謝る。
泣きたいのはこっちだ。そう言いたくなるのをこらえて、立ち上がろうとするもままならない。その苛立ちに声を震わせながら、星舟は毒づいた。
「勘違いするんじゃねぇ……! お前にはまだまだやってもらわなきゃならねぇことが多くあるんだよ……ッ」
それに、部下を守るのが第一とブラジオを突っぱねた手前、その部下をむざむざ眼前で見殺しにはできない。そうした意地に縛られたうえでの、暴挙だった。
当然、その無茶には代償が伴う。
赤い血潮にまみれた軍靴が、起こしかけた視界にちらつく。
「ついでだ。その首級、もらっていくぞ」
横暴極まりない科白が目上から落ちてきた次の瞬間、頭を衝撃が襲った。全身が揺らされた。
そして、星舟とシェントゥの身体は、虚空へと放り出されたのだった。
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