第二十二話

 気づく要素はいくらでもあった。

 状況が状況と言え、夏山星舟の、あまりにあっさりとした投降。

 竜を捕虜にした時の、疑わしい根拠と動機。

 消耗もしくは逃亡のためと思っていたが、投降者の少なさ。


 だが夏山の一挙一動に注視していたあまり、彼から離れた分隊の存在には気づけなかった。

 彼らがひそかに自分たちを取り囲みつつ、後方に退避させた軍馬までかすめ取ることを許してしまった。


 その夏山の動きにさえ気を配れていない汐津の愚かさを嗤っていたが、これではそれ以上の道化だ。


「我々を、騙したのか」

 汐津方の長範が、つまらない人間性のにじみ出た調子で問うた。

「悪いとは思うがね。けど、お互い様なのは現状を見りゃあわかるだろ」

 対する夏山星舟は、それとは対照的に、主に悪い方面で情緒的に笑って見せた。


「あんたらはそこな異人を追っ払おうとして、オレの口を封じようとした。一方でそこのデカブツどもはオレごとあんたを潰そうとした。そんな連中を騙くらかして、オレが独り勝ちしたっつーだけの話だ」


 それだけの話だ、と言わんばかりに大仰に肩をすくめてみせる。

 そしてそれは、ダローガの同僚のもっとも嫌悪する仕草だった。


「ふざけるなよ、片目の猿めが……」


 ヴェイチェルがハルバードを握り固めながら、呻くように言った。が、普段は意識せずとも飛び出るような暴言は、この段になってまるで子ども口喧嘩の行き詰まりのような拙いものとなっていた。

 それによって得られたのは、島猿の嘲りだけだった。


「いかにも? あんたの国に比すれば、国土においても技術においても遙かに劣る島国の、そのまた末端に巣を作る猿だろうよ。けどあんたらはそんな劣等種の猿知恵に出し抜かれたんだよバァーカ! 島の猿とやらにお気に入りのオモチャ取られてベソかきながら逃げ帰るんだよお前たちは! カミンレイお母さんマーチのお胸にそのゴッツイ顔擦りつけて慰めてもらうんだなぁ!! ハーハハハハ!」


 聞くに耐えない暴言に、敵のみならず味方までも若干引いた目で見ていた。


「こいついよいよ性根腐ってんなぁ」

「まぁ、この撤退戦で一番溜め込んでたのはあの男でしょうから」


 捕らえていたはずの獣人の女ふたりが、自分たちの指揮官たちに容赦ない呆れ声を発した。

 ……では、的確に埋め火じらいを踏んだような罵詈雑言を、直接浴びせかけられたほうはどういう反応か。

 問うまでもない。傍らから伝わってくる感情の圧と熱は、遠く離れた祖国の凍土さえも割って溶かすかというほどだった。


「殺す。殺す、殺す殺す殺す!」


 地響きとともに単身進み出ようとするヴェイチェルを、ダローガは懸命に押しとどめた。

 余裕を見せる馬上の青年の後ろで、彼の味方が撤兵を始めていた。

 これ見よがしな退き方は、見せかけか真実か。見定めることは容易ではない。だがいずれだったにせよ、追うつもりはない。


 ――追撃? 疑心暗鬼に満ちたこの軍を率いて?


 今まで殺し合いをしていた二集団だ。追撃を仕掛ければもう一方に裏切られて背を撃たれるのではないか。あるいは先に本陣に駆けこまれ、自分たちに有利な言い訳を藩王やカミンレイなどに訴えるのではないか。そういう懸念が、彼らに迂闊な進退を許さなかった。


「……まだだ!」


 北国の巨人に代わって進み出たのは、汐津藩家老だった。


「まだこちらには質がいるッ! あの真竜種がこちらの手中にある限り、おめおめと竜軍には戻れない! そう言ったのは貴様自身だぞ!?」


 長範に首を向けた夏山に、動揺や失念の表情は見受けられない。かわりに傲岸不遜なその面に浮かんだのは、冷えた憐憫だけだった。

 曲がりなりにも同じ旗下にいなければ、ダローガとて同じ表情を返したことだろう。


「……まさかあんた、この期に及んで渡した『牙』が本物だと信じてんのか?」


 彼の言葉によって、気づくと同時に、憐れなる男の背後で、光の柱が立った。血のしぶきが舞い上がった。その中から、異形の生物が躍り出た。

 常識をはるかに超える跳躍力でもってそれは長範たちの頭を乗り越え、獣のものとも鉄で編まれたものとも思えるような硬質の毛髪をなびかせて、夏山のかたわらに降り立った。

 その手には、夏山が彼に渡したであろう宝刀が握られていた。


「まっ、こういうこと。あれは贋作、本物は部下に持たせてこっそり返した。とは言っても生半な代物じゃあ騙せないから、自前の愛刀でね。貸しといて申し訳ないがこうして返してもら」


 ぱりん、と。

 星舟がにこやかに手を差し出した刹那、その真竜の手で刀が砕けた。

 

 鞘や刀の破片が四方に飛び散り、そのうちのひとつが、微笑をたたえる青年の頬を薄く裂いた。


 ぽいっとその残骸が放り投げられた。

 あらぬ方向と遠慮知らずの飛距離で飛んだそれは何人もの視線に追われながら横を流れる川へと落下した。

 完全に破砕したそれらは川底にそのまま沈み、一部はどんぶらっこっこと流れていった。


「……………………」

 夏山は顔に笑みをへばりつかせたままその顛末を見守っていたが、やがて愛刀の姿が見えなくなると、何か言いたげにその笑顔をそのまま相手へと向けた。


「こたびの不愉快な策の代償、これにて手打ちとしてやろう」


 真竜は、悪びれる様子は一切見せず、目上の立場から強制的に落着させた。

 まだ居残っている獣竜二名が、憐れむような呆れるような目で、そのやりとりを眺めていた。


「やっぱまだお怒りだよねー」

「お百度並みに頭下げてたんですがね」


 そして彼らは何事もなかったかのように撤退しました。


 ~~~


 彼らの姿が見えなくなるまで、全員がその場で立ち尽くしていた。

 だが、いち早く動いた男が、ひとり。ヴェイチェル・ウダアシア。かの巨漢は振るう相手を喪ったハルバードを肩に担ぐと


「兵を再編しろ、追う」


 と短く、だが激情を忍ばせたような声で命じた。


「追ってどうする?」

「殺す」

「追ったところで、どうなる?」

「殲滅する」

「追えると思うのか?」

「追う」


 ダローガはどうにか留められないか、慎重に態度を選びながら問い続けた。

 だが相棒は完全に頭に血が上っていて、落としどころの見つけられない会話が続く。

 そうか、と老将は乾いた声とともに男に背を向けた。


 次の瞬間、ダローガは彼の死角ですばやく弾を装填した。

 身をひるがえし銃の口を、ヴェイチェルのこめかみへと向けた。

 だが老人の細首には、それよりも速くハルバードの刃が突きつけられていた。


 ようやく混乱も収拾がついたというのに、またも諍いか。

 周囲の兵士たちの士気は、もはや最底辺まで落ちていた。

 ふたりの身を案じるよりも

 ――勘弁してくれ。

 と言わんばかりの眼差しで、膠着する両者を見つめていた。


「……なんのマネだ、ジジイ」

「マネもなにも」


 銃をポトリと乾いた地面に落とし、両手を掲げて見せてダローガは苦く笑った。


「殺気のひとつでもぶつけんことには止まらんだろ、お前さんは」


 ヴェイチェルは応答しない。

 だが、彼の言と思惑のとおり、膨張していた殺気は、彼の剛体の内へとしぼんでいくが見て取れた。


 未だ強張りの残るヴェイチェルの肩に、ダローガは掌を落とした。


「まァ、そんなに気負いなさんな。けっきょく、俺たちは地ならしなのさ。……いずれこの国に、『紅天殿』だの『温楽宮』だのを建てるための」


 ヴェイチェルはやや間を置いてから、重くうなずいた。


「それに、奴らがいくら吼えようともすでに我らの勝ちは揺るがない。あの『鬼人』どもを、会見平原へと進ませた時点でな」


 ヴェイチェルのおおきな目が、置かれたその手に注がれる。

 老人の手は、ぎりぎりと、浅布でも絞るように強く握りしめていた。


 ……そうだ。主君を口ぎたなく冒涜されて、笑っていられるには、まだ自分は枯れてはいない。

 それをごまかすように、はにかみながらダローガは指をほどいた。


「主役は壇上に上がった。前座は、袖に引っ込むだけだ」

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