第十四話
退却することに、星舟としても異論はなかった。現状と、これまでのサガラの動向を観察していてなんとなく予感はしていた。
そもそも本来の目的である連合軍討伐は、緒戦の時点で達成、いや破綻していると言って良い。それ自体がすでに人間たちの誘いの一手であり、まんまと竜たちはそれに乗って過剰な追撃をしてしまったのだから。
こうして誘きこまれた死地に、もはや見出せる価値などありはしない。サガラにしてみても、すでに敵の力量は測り終えたわけだから、何の未練もないわけだ。
それに会見の平野であれば、十分に軍を展開することができるし、艦砲も届かない。もし敵全軍が追ってきたとして、十分に応戦できるはずだ。
だからこそ、サガラは少数精鋭で駆けつけた。もし全軍をあげて援護に来ていれば、この狭い戦地は、より不自由にならざるをえなかった。
「では、退却をあえて明言なされなかったのは?」
「抗戦の意気だけは見せかけとかないと、敵に感づかれるからねー。方針を公表するのは撤退開始の三日前だ。だがそれより先行し、それぞれの副官を通じて根回しをしつつ、最後には直々に俺が各々を説得する。一種の調略だな、これは」
竜たちの座とは逆向きになって、机に背を力なく倒し陣幕の中に吐息をひとつ。やはり、口で言うのは簡単だとしても、実際に説得するのは骨が折れることなのだろう。この男には珍しい、悔恨と憔悴の色が見えた。
「しかしながら、敵味方ともにこれだけの大軍です。確実に背を撃たれます」
希少な弱音につけ込むように、星舟は維持の悪い問い方をした。
「すでに退却路は想定済み。軍の規模、開始時期、経路に応じてその編成も決定している。道中の村々にはシャロンより渡りをつけて物資を配備させている」
それに対し、サガラはすんなりと、よどみなく解答を出した。
「まぁそれでも、急な撤退になるから、ある程度の資材は捨てざるをえない。その損害はある程度トゥーチ家が補償する。……と言っても、一昔前の武器弾薬を鹵獲したところで、敵さん喜ぶかねぇ」
個々の武勇はともかく技術的な遅れをとっている自軍の愚痴めいたことを、彼は嗤って独語した。
その目が、あらためて星舟へと向けられた。視線が、蛇のごとく絡みつく。
「さて問題は、その撤退に際しての殿だが」
「……」
「どうしたら良いと思う? 今回の敗戦、トゥーチ家にも少なからず責任がある。となれば、自然俺らのうちから誰か出すべきだろう」
「……」
「かと言って、当然俺には撤退軍すべてをまとめる義務があるし、シャロンは葵口を固めて動けない。他の者では荷が勝つ」
「……」
「ここは、前後の事情や敵勢に精通し、被害が少なく寡兵での戦闘に長け、大局が見られてそれで……万が一死んでも相続や家名にあまり影響の出ない者が良いんだけどなー?」
「…………」
かくも露骨に言われては、ここに呼び止められた意図も、言われようとしていることも明らかだった。
「……自分の第二連隊にも、被害は出ています」
「だが他と比べたら軽微だ」
「しかしあの大軍相手では支えきれますまい」
「それに当然各軍から兵員も供出させるさ。そうだな、千もあれば、まぁお前なら十日ほどは保たせられるだろう?」
「殿は、真竜種の方々が受け持つという取り決めがあるでしょう」
「けど今の今までその撤退という行動自体がなかった。そんな段になって軍法もへったくれもあるもんか」
「それでも真竜種が、特にブラジオ殿のような剛の者が、人間風情に背を守られることを承服しましょうか?」
「……なに? やりたくないの? 常日頃滅私奉公の精神で竜に仕えると称してはばからない、お前が?」
「むろん、命をなげうつ覚悟はあります。それでも『鱗』であれば、七尾の、それも藩主霜月に気をつければ良いだけの話で、並みの弾であれば容易に跳ね返します。それ故に、無用な被害も避けられるかと」
命をなげうつ云々は当然本音ではない。捨て駒にする気しか感じられない殿軍など、誰が進んでやりたがるものか。
だが、そのための建前には、道理を通した。
真竜種は未だ無双の盾ではないか。列を成して立つだけで、それはたちまち不落の城塞となるではないか。
サガラは上体を起こした。
作った握り拳で、何度か机を叩いた。彼が思慮するときの、クセのようなものだ。だが、その碧眼に逡巡の揺れはない。自分を捨て石にすることは、この男の中で確定事項なのだ。
ただ、それとは別の思案とは、何か。
「……いい機会だ。というよりも、今生の別れともなるかもしれないから教えてやるよ」
ややあって、拳の上下運動がぴたりと止んだ。総大将は口を開いた。
「『鱗』は、持続させられない」
もったいぶることもせず、まるで頼んだお使いの注意点を言い添えるかのような気軽さで、彼は真竜種の秘密を暴露したのだった。
自他ともに認める面の皮の厚さを誇る星舟も、さすがに
「……は?」
聞き返すほかなかった。
「俺が異国に留学した頃、体調管理は向こうの医師に頼んでいた。彼は俺たちの体質に並々ならぬ興味を持っていてな。そして俺自身、そこまで深く追究したことがなかったから、彼と研究を重ねていた。得られたものは多くはなかったが、ひとつ気になる結果が出た」
「……それは?」
「まず聞いておきたいけど、お前って血の中に目に見えない程度の塩や鉄が混ざってるって、知ってる?」
「まぁ、向こうの学説などでたまに目にしますが」
「『鱗』を展開させると、どうやらその塩と鉄とを消耗するらしい」
「それは、通常の運動でも同じでは?」
「その倍以上の速度でな。そして欠乏すれば、当然『鱗』の維持どころか体内の機能に支障をきたす。兆候は末端に見られる。軍議の席での奴らの落ち着きのなさを見ただろう」
そう言えばと思い返す。
小刻みな痙攣。割れたり欠けたりした爪。塩や鉄が体内で不足がちな証左だという。あの見るからに頑丈そうなブラジオでさえそうだったのだから、直接確かめていないが他の真竜種はいかばかりか。
「……そんな秘密が」
思わず口にしてしまった独眼のヒトに、黒竜はいわくありげな、皮肉そうな笑みを浮かべていた。
「秘密、ねぇ」
「何か?」
「いや、秘密というよりかは、竜のほとんどが、その事実を知らんのだろうさ。何せ今までは、あの殻をまとって突っ込めば、たいがいの敵が崩れた」
ここまで連戦と長陣を強いられたことがないからこそ、露呈した弱点か。
「……すでに真竜種が限界に近いことは理解しました。しかしながら、未だに余力を残す方も多くいるでしょうし、その理屈を説いたところで彼らが納得をするとも」
「星舟」
サガラの笑みは、形はそのままに質が変わっていた。まとう空気が反転していた。
「話は変わるけど、こういう噂が陣中に流れているのを知ってるか?」
「なんです?」
「俺が駆けつける前、とある部隊が無断で持ち場を離れた。そのためにせっかく包囲していた敵の脱出を許し、被害をもたらしたという。さらに口さがない者にいたっては、その指揮官の人間は、敵に内通していたとも言っている」
おのれのことを言われているのだと悟った瞬間、星舟の頭は真っ白になった。
しかし、虚勢でも演技でもなく、自然と笑みがこぼれる。
ただしそれは、怒りと呆れの感情の先にあるものだった。
「サガラ様ともあろうお方が、まさかそんな雑言をお信じになられるとは」
「いやぁ? もちろんそんなものは信じてないけど? ただ、お前の立場は今、かなり危ういと思うんだけど」
サガラは、肩をそびやかして答えた。
「お言葉を返すようですが、オレはあの場で出来るかぎりの最善を尽くしましたよ」
本営の隙間から流れ込む風が、内部の灯火をなぶり、ゆらめかせる。
横を向いたサガラの顔の陰影を、より濃く浮き彫りにさせるなかで、彼は
「最善、ね?」
と、冷たく聞き返した。
「けどお前さ、なんで正面から騎馬受け止めちゃったわけ?」
そう半笑いで言い添えて。
「え?」
「たかだか一隊二隊、適当にやり過ごせばよかったんだよ。ふもとに死角なんていくらでもあっただろう。そのうえで俺たちを狙うようなら間道で待ち構えてその出鼻をくじくも良いし、反転して包囲された奴らを叩くようならさらにその側背を襲えばよかった。なにもわざわざ真正面から挑まなくてもいいもんじゃない」
あ……と思わず声が漏れる。
ラグナグムス艦隊が沈んでこの方、膨大にもたらされる情報と一刻ごとに変移していく状況に対応しきりで、今の今までその可能性に思い至らなかった。……自分は、的確な判断と行動をしてきたと、信じ切っていた。
「……まぁ、あの乱戦でそこまで求めるのも酷な話か」
サガラは露骨にため息をついた。
「でもさっきも言ったよな。この敗戦は俺もふくめた全員の過失だ。とくに軍監でもあったお前に与えられた役割と責任は、大きかった。なのに自分だけは例外だと思うのは、少し虫が良すぎるんじゃない?」
だがその視線は失望と非難の冷たさを帯びて、星舟をえぐった。
「……面目次第も、ありません」
下唇を浅く噛んで、星舟はうなだれた。背に、氷水のごとき汗がつたう。
なのに、胸は炉にくべられたかのように熱く、早鐘を鳴らしている。
「なぁ、星舟」
理性と感情がないまぜになって、一語も出せずに声を詰まらせる彼の肩を、一転やさしくサガラが抱いた。
「俺は、お前の実力がこんなものでもないと知っている。その忠誠心を誰よりも、種族や年齢、身分を超えた友として信頼している」
「サガラ様」
「その実力や心根が竜たちに疑われているのは、俺としても辛いんだ。それらを証明するためにも、どうか受けてもらえないだろうか」
ありとあらゆる状況が、お前がやるしかないと責めてくる。だが腹立たしいのが、そういう風に操作されたという自覚があることで、それ以上に怒りをおぼえるのは、自分自身がそうあるべきだと思いはじめていることだ。
「…………わかりました。お引き受けしましょう」
サガラの手が肩に回ってから、長い沈黙のあとで星舟も覚悟を決めた。
「そうか! やってくれるか!」
『垣根を超えた友人とやら』は、心底嬉しそうに顔をほころばせた。これ以上はこの十年間で一度も見たことないぐらいの満面の笑みで、手を差し伸べた。
星舟もまた、最上の表情でもってそれに応じ、固く強く手厚く、握り返したのだった。
――いつか、絶対ぇ殺してやる。
と、決意をあらたに。
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